2010年4月11日 (日)

あの頃のまま

実はこの春、我が家の長女は高校受験を迎えておりました。

結果は、当初の志望校に無事合格。

親としては、また一つ関門を越えることが出来て、ほっと一安心というところです。

そして、今週8日(木)には入学式があり、嫁さんと参加してきました。

長女は「来なくっていい」と申しておりましたが、
私としては、少々嫌がられても是非とも参加したい理由がありました。

実はこの度、娘が入学した学校は私が卒業した学校。

久しぶりに覗いて見たくなり、娘が合格したら一度行ってみようと以前から思っておりました。

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【桜①】

大学在学中に教育実習でお世話になって以来、27年ぶりに訪れた母校は、
少々の老朽化は否めないものの、校舎や校庭の姿はほとんどが在学当時のままで、
懐かしい記憶がどんどんと蘇ってきました。

私がこの学校の門を初めてくぐったのは昭和54年(1979)のこと。

以下は私の入学式での思い出話です。

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【桜②】

当時の1学年のクラス数は15、定員は550人で、
現在の9クラス360人の1.5倍以上もの生徒が在籍しておりました。

私が卒業した中学校は、繁華街の真ん中の1学年90人足らずの小規模校だったので、
入学式では、あまりの人の多さに、どこか場違いな場所に放り出されたような気分になったことを、
今もよく覚えています。

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【母校校庭】

入学式が終了した後、配属先(?)の1年8組に集合。

そこで、早速、担任からクラス委員を選任するとの話がありました。

通常は選挙で決めるが、今回は担任の独断で指名するとのこと。

入学したばかりでお互いの事をまだよく知らないだろうからというのがその理由でした。

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【馬酔木】

そして指名されたのが、なぜだか私。

私はクラス委員というような柄ではなく、最初は「けっ!何でや!」と思いましたが、
もう一名、女子の代表が指名されると、担任に抗議することもせず喜んで引き受けることに。

理由はお察しの通り、女子代表に指名された女の子を一目で気に入ってしまったからでした。

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【菜の花】

担任指名のクラス委員の任期は一学期で終了。

しかしながら、その間に彼女との距離を「元クラス委員同士」以上に縮めることは出来ず、
たまたま、同じクラスとなった2年次もあっという間に終わってしまいました。

そして、3年次はクラスが別々になり、話す機会も減る一方・・・

悩める少年は、このままではイカンと一念発起。

初夏の日差しが眩しい校舎の渡り廊下で、死んだつもりの告白タイムとなりました。

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【母校:校長室前廊下】

彼女の返事は・・・意外とあっさりOK。

その後、二人は無事に高校を卒業し、私は地元の大学、彼女も同じ沿線の短大に進学。

以降も二人の間に大きな波風は立たず、月日は流れ、
運命のクラス委員指名から10年後の平成元年(1989)、25歳の彼女は私と同じ姓になりました。

そして現在、可憐な(に見えた?)少女は、今では我が家の司令塔となり、
そろそろ足が縺れ気味の私に、容赦なく厳しいパスを供給し続けています。

きっと嫁さんも、あの日の貴男はどこに行ってしまったの?と思っていることでしょう。

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【母校:懐かしの道場】

わが娘は、父親のみならず、母親の後輩にもなったという訳ですが、
どんなOB・OGが身近にいようと、今後、長女がどのような高校生活を送るかは娘次第。

父親の身勝手と承知はしているものの、もうしばらくの間は、
娘の前に私のような輩が現れないコトを祈るばかりです。

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2010年4月 5日 (月)

佐保川の桜

先週、4月2日(金)のお話です。

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桑名から所要で帰阪の折、奈良市内の佐保川堤防に桜を撮りに行ってきました。

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【佐保川】

『佐保河の小石ふみ渡りぬばたまの 黒馬の来る夜は年にもあらぬか』

と万葉集にも詠われている佐保川の堤防には、沢山の桜の木が植えられています。

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【佐保川堤防】

江戸時代末期に奈良奉行であった川路聖謨(かわじ としあきら)が植樹させたのが始まりだそう。

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【佐保川の桜】

当時の桜は殆どが姿を消し、現存する樹は4本だけになってしまいますが、
その後の地域の方々の植樹で、堤防沿いに約3kmにわたって、
1000本もの立派な桜並木を見ることが出来ます。

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【撮影中】

ここの桜は地元の方以外にはあまり知られていないので、
満開に近いこの時期でも驚くほど人が少ないのでお勧めです。

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【堤防散歩】

私は見たことが無いのですが、義母曰く、夜間のライトアップも素晴らしいとのこと。
お近くの方は、一度行って見られてはいかがでしょうか。

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【佐保川の流れ】

この日は、嫁さんと長女が一緒。

普段は私の撮影に付き合うのを嫌がる二人ですが、この日は珍しく同行してきたので、
お天気がいまひとつだったこともあり、桜写真より家族スナップがメインになってしまいました。

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【奈良市街・三条通】

そして、桜見物の後は・・・

近鉄奈良駅近辺で、長々と洋服の買い物につき合わされ、
彼女達の同行の真の意図を知らされることになりました。

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2010年3月 7日 (日)

梅の花

久しぶりの更新。

前回更新から3ヶ月以上!!

開設以来、ぶっちぎりのブランク最長記録となってしまいました。

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先週の2日(火)、四日市にある南部丘陵公園に梅撮りに行ってきました。

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【日永の梅①】

南部丘陵公園は里山を利用した四日市市最大の総合公園で、
東端に造られた「日永梅林」では、「白加賀」「玉牡丹」など、約2000本の梅が楽しめます。

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【日永の梅②】

現在の梅林はまだ歴史は浅く、地域のボランティアの方々によって、
約十年ほど前に植林が始められたばかり。

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【日永の梅③】

かつて、この地には立派な梅林があり、江戸時代には景勝地として知られていたようで、
安藤広重の浮世絵「狂歌入り東海道」の「采女・内部川」の項に記された、

「梅の香に袖ふりあふて泊り村、つえつき坂をのぼる旅人」

という狂歌は、この地の梅を詠んだものだそうです。

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【日永の梅④】

ボランテイア団体の方々はその梅林の復活を目指しておられるとのこと。

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【日永の梅⑤】

この日、梅はもう最終章。

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【日永の梅⑥】

先に咲き始めた紅梅は殆ど終わっておりました。

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【日永の梅⑦】

今春は多忙続きで、例年になく梅撮りの機会が少なかったので、
なんだか名残惜しく、沢山写真を撮って帰りました。

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2009年11月30日 (月)

木曽の宿場町

(前回からの続き・・・)

●「女道」と呼ばれた中山道

翌17日(火)、お天気は生憎の雨模様でしたが、「雨に霞む宿場町もいいかも♪」と思い直し、
中山道・木曽路の風情を今に伝える街として人気の高い妻籠(つまご)~馬籠(まごめ)に向かいました。

中山道は言わずと知れた江戸時代の5街道の一つで、全行程132里に及ぶ当時の大動脈。

江戸の板橋宿を起点として、武州路(10宿)~上州路(7宿)~信濃路(15宿)~
木曽路(11宿)~美濃路(16宿)~近江路(10宿)を経て、近江の守山宿まで69の宿場がありました。

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【晩秋の木曽路】

なかでも贄川宿(にえかわじゅく)から馬籠宿までの木曽路は、
江戸期の安藤広重と渓斎英泉の浮世絵が「木曽街道六拾九次」と題されているように、
中山道の代名詞となっており、この街道筋を象徴する風土と景観が広がっています。

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【木曽の山々】

馬籠出身の明治の文豪・島崎藤村は、小説「夜明け前」の書き出しで、

『木曾路はすべて山の中である。
 あるところは岨づたいに行く崖の道であり、
 あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、
 あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。
 一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。』   
 
と書いているように、文字通り「山中の道」でありました。

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【雨の妻籠宿①】

こんな山の中にどれほど人々の往来があったの?と不思議に思いますが、
近江商人・尾張商人をはじめ、伊勢や善光寺参りの旅人、信州産の牛馬などなど、
結構な往来があったようです。

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【妻籠宿:旅籠「大吉」看板】

また、中山道は別名「女道」とも呼ばれていました。

同じ京都~江戸間を結んでいた126里53宿の東海道に比べても、距離が長く、宿場の規模は小さく、
その上、碓氷峠をはじめ和田峠・鳥居峠など峠が多く、道のり自体も険しかった中山道が、
なぜ「女道」なのか?

それは、大河が無く、渡河のための天気待ちや渡し待ちの渋滞がなかった為、
「滞る」のを嫌う婚礼の通行に盛んに利用された為だそうです。

江戸時代末期の皇女和宮降嫁に使われたのも中山道でありました。

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【妻籠宿:熊谷家住宅】

そんな中山道も、明治以降は主要街道としての役目を終えることになります。

特に、太平洋戦争以降は、輸送の主役が鉄道やトラックに移り、
空襲の焼け跡開発や急速な人口流入により沿道の姿が急速に変貌した東海道とは異なり、
中山道の沿道には、取り残された形で、江戸期以来の街道の佇まいが色濃く残ることになりました。

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【妻籠宿本陣:島崎家跡(島崎藤村の母方の実家)】
 
その後、昭和40年代には、これらを積極的に保存しようという気運が住民を中心に持ち上がります。

その先陣をきったのが、今回訪れた妻籠宿でありました。

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【雨の妻籠宿②】

●街並み保存のパイオニア・妻籠宿

昭和43年(1968)頃、妻籠の街並みを維持・保存しようという運動が全国に先駆けて起こります。

街並み保存は博物館的な凍結保存ではなく、
そこに人の生活が無ければ意義がないという住民の意思のもとに、
住民自らが保存事業の推進をはかるという運動がなされました。

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【雨の妻籠宿③】

妻籠地区の全住民が参加する「妻籠を愛する会」(現在は財団法人)が結成され、
昭和46年(1971)には、故郷の街並みは自らが守るという観点から「妻籠宿を守る住民憲章」を制定。

その中で、保存をすべてに優先させる「売らない」「貸さない」「壊さない」の三原則を打ち出しました。

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【妻籠宿:旅籠「松代屋」看板】

行政(長野県南木曽町)も「住民憲章」を尊重する「妻籠宿保存条例」を制定すると共に、
周辺整備を積極的に展開。

昭和46年(1971)に「信濃路自然歩道」(県補助事業)、
続いて昭和53年度に「歴史の道」(国庫補助事業)を整備しました。

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【妻籠宿:木賃宿「下嵯峨屋」跡】

昭和50年(1975)には、官民一体となった妻籠宿の街並み保存運動が契機となり、
文化財保護法が改正されます。

伝統的建造物群に関しては、重要伝統的建造物群保存地区の制度が創設され、
建造物群によって形作られる伝統的景観が文化財として位置付けられました。

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【雨の妻籠宿④】

また、重要文化財等は、国の指定によるとされているのに対し、
市町村が条例で伝統的建造物群保存地区を規定し、国がそれを選定するという形に。

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【雨の妻籠宿⑤】

妻籠宿はその結果、文化財保護法改正の翌・昭和51年(1976)、
重要伝統的建造物群保存地区の栄えある認定第一号に。

地元の方々の郷土愛から始められた街並み保存事業は、宿場景観の保全・整備、宿内施設の充実度、
あるいは年間80万人にのぼる観光客の数字だけを見ても、
一応の成功を治めた事業モデルと言えるのではないかと思います。

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【雨の妻籠宿⑥】

ただ、全てが万歳と言う状況ではないようで、
ここでも宿場内の施設経営者の高齢化と後継者問題は深刻。

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【雨の妻籠宿⑦】

妻籠宿観光案内所によると、最盛期には57軒もあった民宿が現在は12軒となり、
旅館の廃業も目立ち、現在は2軒あるだけだそう。

土産物・地域物産店も同様に、後継者がままならない。

年間80万人という集客はたいへん大きな数ですが、
観光によって経済的自立がなされているとは言い難いのが現状です。

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【雨の妻籠宿⑧】

埼玉県の「蔵の町」・川越市では年間400万人を集客していますが、
それでようやく後継者が戻ってきはじめたというようなことを考えると、
街並み保存の理念を継承しながら更なる経済的付加価値をどう見いだすか。

今後の大きな課題であります。

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【妻籠から馬籠への途上:乙姫橋より】

●妻籠宿を後にして馬籠宿へ

中山道六十九次42番目の宿・妻籠から、3番目の宿・馬籠へは約7kmの道のり。

家族連れでも無理なく歩ける手軽なハイキングルートとなっていますが、
今回は時間の問題と家人の機嫌の兼ね合いもあり、車での移動となりました。

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【馬籠宿の街並み①】

馬籠の宿は明治28年と大正4年の大火災により、
江戸時代からの街並みは石畳と枡形以外は残念ながら全て消失し、
現在の街並みはその後復元されてたものです。

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【馬籠宿の街並み②】

その為か、妻籠に比べて街並み自体はすっきりとした印象。

石畳の坂道の両側にお土産物屋や飲食店が並び、
生活の場というより「観光」が前面に出ている感じを受けました。

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【馬籠宿の街並み③】

全長600mの石畳のほぼ中央には、この街出身の文豪、島崎藤村の生家であり、
旧宿場の本陣でもあった「島崎藤村記念館」があります。

前述したように、ここは名作「夜明け前」の舞台にもなっており、
街道情緒を楽しむ歴史ファンと共に、文学ファンが多数訪れています。

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【馬籠宿本陣:島崎藤村記念館(「島崎家」跡=島崎藤村の生家)】

それと、宿場自体が尾根伝いに造られている為、
周囲の自然景観と街並みが融合していることも大きな魅力の一つです。

この日は生憎の雨模様でしたが、霧にむせぶ山々が美しく、印象に残りました。

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【馬籠宿の街並み④】

馬籠宿は「信州・馬籠」といわれるように、行政区分としては長野県山口村に属していましたが、
平成17年(2005)、山口村が岐阜県中津川市と日本初の越県合併したことで話題となりました。

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【馬籠宿の街並み⑤】

もともと山口村の通勤、通学者の半数近くが岐阜県内に通っていたり、
TVは中京圏の放送しか映らなかったり、生活圏自体は「美濃」であったので、
便利になることの方が多かったようです。

合併以前は、運転免許証を更新するのにも、長野県警の出先機関まで車で約2時間。

それが今では20分程で済み、救急車や消防車の到着も10分程短縮されたそうです。

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【馬籠宿の街並み⑥】

便利になる反面、長く親しんできた信州への郷愁も。

地元紙によると、山口村の閉村式で当時の村長は、
「言葉で言い尽くせない寂しさがこみ上げてくる・・・有難う長野県、さようなら山口村」
としんみりと語ったそうです。

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【馬籠宿の街並み⑦】

早足での見学で、開放されている建物や資料館をつぶさに見ることが出来なかったのは残念ですが、
美しい街並みについては、十分堪能することが出来ました。

妻籠~馬籠を訪れて、改めて感じたことは、地元の方々のご苦労はいかばかりかということ。

それと同時に、今後の街並み保存の難しさも垣間見たような気がします。

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【馬籠で食べた「おやき」】

過度な観光地化は、逆に客離れを引き起こしかねませんが、
食えなくては後継者が現れるはずも無く、街並み保存の理念の担い手が居なくなってしまいます。

伝統的な景観はある程度、昔のままの姿を維持する事が出来ても、
そこでの暮らしも昔のままという訳にはゆきませんから。

<追記>
現在、長野県・岐阜県・南木曽町・中津川市の4者は、
『妻籠宿・馬籠宿と中山道』の世界遺産登録に向け、
文化庁に提案書を出しています。

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2009年11月24日 (火)

飛騨路の名湯

先週の月曜日、11月16日(月)のお話です。

温泉の宝庫、群馬県を離れてはや半年。

「長いこと温泉に入ってないわぁ」という家人のつぶやきを聞く頻度が高くなってきたので、
円滑な単身赴任生活を維持するため、会社に連休を頂き、温泉小旅行に出かけてきました。

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【下呂への途上:岐阜県中津川市付知峡付近】

向かった先は、岐阜県の下呂温泉。

下呂といえば、いわずと知れた岐阜県下最大の温泉街で、
兵庫県の有馬温泉、群馬県の草津温泉と共に「日本三名泉」と称される天下の名湯です。

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【下呂への途上:付知峡】

現在、温泉街には70を超える旅館やホテル、保養施設が営業しており、
その他、日帰りで楽しめる公共の露天風呂や、足湯などの施設も多くあります。

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【付知渓谷のお猿】

泉温は84度と高温で、泉質はアルカリ性単純泉(低張性アルカリ性高温泉)だそう。
効能としては、リウマチ性疾患・運動器障害・神経痛・神経麻痺・病後回復などが挙げられています。

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【下呂温泉街①】

温泉の歴史は古く、その起源は1千年以上前だと伝えられています。

元々の下呂の温泉は、今の温泉街から約4km東の湯ヶ峰(1,067m)の山頂付近で、
天暦年間(947~957 平安中期)に発見されました。

その後、文永2年(1265)には、山頂上付近に湧き出していた温泉が突然出なくなりますが、
翌年には、現在の源泉地、温泉街の中央を流れる飛騨川の河原で再び発見されることになります。

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【下呂温泉発祥の地】

この温泉再発見にまつわるお話が、「白鷺伝説」として今に伝えられています。

 「むかし、下呂を流れる飛騨川の川原に足の骨を折った白鷺がおりたちました。
 川原にうずくまった白鷺は、翌日、すっかり傷がなおり、西の空をめざしてとびたっていきました。
 このありさまを見ていた村人たちは、不思議に思って、白鷺のうずくまっていた川原へ行ってみると、
 そこにはもうもうと湯けむりをあげて、湯がわきでていたのです。
 村人たちは、『これは、お薬師様のお告げにちがいない。』といって、ていねいにおまつりしたそうです。」
 ~岐阜児童文学研究会編「岐阜の伝説」より~

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【下呂温泉街:雨情公園】

温泉と白鷺にまつわるお話としては、四国の道後温泉でも見聞きした記憶があったので、
ネットで調べてみると、熊本の玉名温泉・天草下田温泉、石川の和倉温泉・山中温泉・湯涌温泉、
佐賀の武雄温泉、島根の鷺ノ湯温泉、鳥取の浜村温泉、広島の湯来温泉、岡山の湯郷温泉、
愛知の白鷺温泉、和歌山の椿温泉、山形の湯田川温泉などなど、全国各地に多数残っているようです。

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【下呂発祥の地に建つ外湯施設「白鷺の湯」】

白鷺説話が開湯伝説の定番だったとは。

長いくちばしと長い脚をもった優雅な姿の水鳥。
日本画や日本舞踊などに好んで取り上げられる美しさとはかなさの象徴。

しかし、どうして温泉には白鷺なんでしょうか?
調べたけど解りませんでした。

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【下呂温泉街②】

下呂温泉が名湯であることを初めて天下に紹介したのは、
室町時代の京都五山の僧・万里集九(ばんりしゅうく)でした。

その詩文集『梅花無尽蔵』には、

 「本邦六十余州ごとに霊湯あり。その最たるものは、
 上州の草津、津陽の有馬、飛州の湯島(下呂)、この三か所なり。」

と記されています。

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【下呂温泉街:林羅山像】

また、江戸時代には儒学者・林羅山も同様の評価をしており、『林羅山詩集第三西南行日録』には、

 「我が国は諸州に温泉を多く有す。その最も著しいものは、
 摂津の有馬、上州の草津、飛騨の湯島(下呂)、この三か所なり」

とあり、更に、

 「今、有馬、草津は広く世の知るところとなり。
 湯島は古来の霊湯たること、遠く知るもの少なしといえども、
 入湯する人はその験を得ざることなし」

と続き、下呂温泉が名湯であることを伝えています。

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【下呂温泉街:醫王霊山温泉寺ライトアップ①】

あと、この地に関して、予てから気になっていたことがありました。

それはズバリ、「下呂」という地名。

子供の頃は、TV番組などで紹介される度に「ゲロって・・・・」と思っていました。

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【下呂温泉街:醫王霊山温泉寺ライトアップ②】

このインパクトのある地名の起源についても調べてみました。

「下呂」の起源は、遠く8世紀にまで遡ります。

日本書紀に続く勅撰書『続日本紀(しょくにほんぎ)』の宝亀7年(776)10月の条には、

 「美濃国菅田駅と飛騨国大野郡伴有駅と相去る七十四里、
 岩谷険深にして行程殊に遠し。其の中間に一駅を置て下留と名つく」

と記されており、飛騨街道に「下留(しものとまり)」という宿駅が置かれていた事がわかります。

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【下呂温泉街:醫王霊山温泉寺ライトアップ③】

中央集権体制の確立を急ぐ律令政府にとって、交通網の整備は緊急な課題でありました。

そこで、都と諸国とを結ぶ主要な官道には、概ね4里ごとに駅家(うまや)が設けられ、
そこには馬が常置されており、公用者の行き来や文書の伝達に用いらました。

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【下呂温泉街:醫王霊山温泉寺ライトアップ④】

この「下留」が後に音読され「げる」となり、長い年月の間に「げろ」へと転化し、現在に至っています。。

ちなみに、下呂の近隣には上呂(じょうろ:JR高山線上呂駅付近)も、
中呂(ちゅうろ:JR高山線禅昌寺駅付近)も、地名として残っておりました。

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【下呂温泉合掌村①】

下呂温泉街には、多くの飲食店や文化施設、娯楽施設がありますが、
その中で私がお目当てにしていたのは、「下呂温泉合掌村」。

ここには白川郷などから移築した10棟の合掌家屋が移築されており、
合掌造りを見たことが無い私は、結構、楽しみにしていました。

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【下呂温泉合掌村②】

しかし、訪れた後の感想はやや期待はずれ。

私が期待したのは、飛騨の生活文化を紹介する民俗博物館的な施設でした。

ここを紹介する地元の観光サイトでもそのような表現があったのですが・・・・
やっぱり、入場料800円の観光施設でした。

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【下呂温泉合掌村③】

移築民家の目玉、国指定重要文化財に指定された旧大戸家住宅には、
民具や資料の展示が少々ありましたが、ただのお飾り程度。

展示品もこんなんでいいの?と思えるほどに雑な扱い。

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【下呂温泉合掌村④:国重要文化財「旧大戸家住宅」】

この施設のメインは、他の合掌建築で営業されている、
茶屋などの飲食店や特産物販売店だという印象を受けました。

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【下呂温泉合掌村⑤:旧大戸家囲炉裏】

当日のお宿は「富岳」さん。

下呂温泉街に数ある旅館・ホテルの中にあって、
旅行サイトの人気ランキングでは、常に上位に食い込む人気のお宿です。

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【旅館「富岳」玄関】

人気の秘密はそのリーズナブルな価格設定。

中部地方随一の温泉街とあって、高級・高額の老舗が多い中、
お手軽な価格で泊めていただけます。

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【富岳の夕食】

仲居さんの応対もフレンドリーで親切。

飛騨牛の朴葉味噌焼きに松茸の土瓶蒸しが付いた夕食もかなりの美味で、
もちろん、源泉掛け流しのお風呂も清潔感いっぱいで大満足でした。

旅行サイトの口コミ情報にあったように、「また行きたくなる宿」でした。

※次回は下呂温泉の帰路に立ち寄った「妻籠宿・馬籠宿」をレポします。

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2009年11月 5日 (木)

昭和の残像~大阪市西成区山王

11月2日はお休みで、所用の為、大阪へ帰っていました。

所要と言っても夕方の1時間ほどで片付く用件で、朝からは全くのヒマ。

しかしながら、平日なので子供達は学校、嫁さんは何処かへお出かけで、相手をしてくれる家族はナシ。

コレでは桑名にいるのと同じではないかと思いつつ、
家でゴロゴロしていても仕方が無いので、大好きな街・天王寺に独りで出かけてみました。

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【新世界:街は俺のステージだ!!】

目的地は、長らく訪ねていない天王寺動物園。

最寄駅から、JR天王寺駅までは約40分。
JRを乗り継いで到着してみたら、なんと、月曜日は休園日。

計画性皆無、休園日があるなどと言うことすら考えていませんでした。

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【ジャンジャン横丁:「かずが娯楽場」(ゲームセンター)】

仕方が無いので、動物園のお隣にある新世界から、ジャンジャン横丁を抜けて南へ向い、
大阪の下町中の下町・山王(さんのう)方面に行ってみることにしました。

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【動物園前一番街(飛田本通商店街)】

西成区の北東部にあたる山王は、殆どが商業地で、
「動物園前一番街」「新開筋商店街」「山王市場商店街」などの多くの商店街があり、
アーケードが縦横無尽に張り巡らされています。

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【山王市場通商店街】

山王の西側には労働者の街である通称・愛隣地区(釜ヶ崎)が広がっている為か、
この商店街はすっかり観光地化した新世界界隈とはまったく趣が違います。

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【新開筋商店街:西成区に本拠がある激安の「スーパー玉出」】

たとえば、大抵の商店街では客と言えば「オバハン」が主流ですが、ここでは圧倒的に「オッサン」。

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【新開筋商店街】

ビールと日本酒の自販機もやたらとあります。

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【スーパーとよしまや】

アーケードもかなり年季が入っており、並んでいるお店もどこか懐かしい感じが漂っています。

まるで、「昭和」で時間の流れが止まってしまったような商店街でした。

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【大衆演劇「オーエス劇場」ポスター】

新開筋商店街を抜けると、そこには「飛田新地」が広がっています。

知る人ぞ知る、大正5年(1916)に築かれた日本最大級の遊廓街です。

昭和33年(1958)の売春防止法施行以後、遊郭は「料亭」に衣替えとなりました。

しかしながら、ほとんどの「料亭」の営業内容は、
ここでは多くは語れませんが、大正以来何ら変わっていない様子です。

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鯛よし百番

この街ではカメラは御法度。

もし見つかれば、その筋のお兄さんがダッシュでやって来るそうなので、残念ながら「料亭」の写真はナシ。

唯一コンデジで撮影出来たのが、「鯛よし百番」の外観です。

「鯛よし百番」は、大正初期に遊廓として建てられた建物を、現在も使用している料理店。
(ちなみに、ここは本当の料理店です。)

遊郭建築を今に伝える建物として、平成11年(2000)には文化庁登録有形文化財に指定されています。

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【路地】

たくさんの「お声がけ」をいただきながら、飛田新地を抜け阿倍野の再開発地区へ。

ここでは行政主導の巨大なビル群が建設中です。

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【山王を見下ろすビル群】

山王地区を威圧するように見下ろすビル群。
味気ないコンクリートの塊が、今後もどんどん広がるのかと思うと「なんだかなぁ」と思ってしまいます。

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【憩いの場「日の出温泉」】

大阪人の間でも、しばしば山王は危険な街だと言われることがありますが、
節度を守って歩いている分には何の問題もありません。

お世辞にも美しいとはいえませんが、過剰に恐れる必要もなく、
当たり前の話ですが、多くの普通の家族が普通に暮らし、普通に幼稚園や学校だってあるのです。

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【郷愁漂う山王の街】

難波利三氏の直木賞作品「てんのじ村」や、はるき悦巳氏の漫画「じゃりン子チエ」舞台であり、
ミヤコ蝶々さんや平和ラッパさん、人生幸朗さんなど、多くの芸人を育てた古い大阪の下町。

人情味あふれるこの地域が、様変わりしないように願うのは、部外者の無責任な感傷でしょうか。

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2009年10月31日 (土)

神の御座す山

ご無沙汰しています。

これが10月初めての更新になります。

元々が不定期更新で、誰からか咎められる訳でも無いのですが、
更新が月一度も無いのは宜しくないと思い、最終日の滑り込み更新となりました。

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今週の29日(木)、三重県と滋賀県の県境に位置する秀峰・御在所岳に行ってきました。

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【御在所ロープウェイ】

目的は今年初の紅葉見物。

御在所岳の紅葉は10月中旬から11月初旬にかけて、山頂付近から順に山麓に降りてくるのですが、
HPによると、山頂付近は終わりに近く、山腹は見頃となっていたので、手遅れにならないうちに出かけました。

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【車窓から見下ろす①:御在所中腹付近】

御在所岳は標高1,212m。

南北60kmにおよぶ鈴鹿山脈のほぼ中央に位置する主峰で、
山名の「御在所」とは、「神の御座(おわ)す所」という意味だそうです。

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【車窓から見下ろす②:御在所中腹付近】

その昔、記紀神話の時代に、垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が、
大和国笠縫邑に祀られていた天照大神の神霊を奉じ、新しい鎮座地を求めて伊賀~近江~美濃を巡行した際に、
桑名の野代から亀山へと向かわれる途中、菰野のあたりで仮の屯宮を設けられたました。

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【御在所ロープウェイ:山頂駅付近】

その後、倭姫命は天照大神の鎮座地を伊勢の五十鈴川の上流(現在の伊勢神宮)に定めますが、
この時の仮の屯宮が「御在所」と呼ばれたことが、山名の由来となりました。

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【三角点:御在所岳山頂】

現在の御在所岳は「神の御座す山」から、「観光の山」へと様変わりしています。

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【紅葉も終わり:山頂付近】

変化に富んだ登山道が4ルートあり、初心者から上級者まで、各人の技術と体力に応じて楽しむことができ、
巨岩・奇岩と新緑・紅葉・雪模様などの自然が織り成す、四季折々の景観が素晴らしく、多くの登山客を集めています。

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【山頂付近から中腹を望む】

また、自力で登山せずとも、山上までロープウェイが開通しており、
麓の湯の山温泉駅から山頂駅まで約12分で登ることができます。

昭和39年(1964)のロープウェイの開業以来、山上一帯は公園化が進められ、
麓に湯の山温泉街を抱えていることも相乗して、毎年200万人近い観光客で賑わっています。

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【奇岩:左「天狗岩」と右「ゆるぎ岩」】

ちなみに、一般的には「御在所岳」と呼ばれることが多いので、
私もそれに習って書いていますが、実は「御在所山」が正式な名称だそう。

国土地理院はでは、山脈や連峰の主峰には「山」と付けるらしく、
実際に国土地理院発行の地図には「御在所山」となっているようです。

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【御在所中腹の巨岩「?」】

登山が全くダメな私は、この日もロープウェイを利用することに。

始発の湯の山温泉駅に到着したのは、AM10:00頃でした。

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【展望ズポット「望湖台」:晴れた日には琵琶湖が見える(らしい)】

終日\800の駐車場に車を入れ、往復\2,100のチケットを買って乗り場に向かうと、
そこには既に短い列が出来ていました。

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【奇岩「大黒岩」】

しかし、驚いたのはその後。

10分もしない内に私の後ろには大行列が!
観光バスがドンドコやってきて、団体さんが次々並ぶ並ぶ!

幸い待ち時間10分程でゴンドラに乗ることが出来ましたが、
あと少し遅れていたら、1時間は待たなければならないところでした。

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【一休み:山頂付近】

定員10名の小さなゴンドラで、山頂駅までの所要時間は約12分。

正直、乗る前は「\2,100は高いなぁ」と思っていましたが、
眼下に広がる紅葉の大パノラマを眼にしたとたん、
そんな思いは吹っ飛び、夢中でシャッターを押していました。

ガラス越しの撮影だったので、反射が写りこんでしまったモノが多く、
写真的には失敗作のオンパレードでしたが、御代の価値は十分にあったと思います。

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【湯の山温泉街を流れる三滝川】

その後、山頂付近に点在する展望スポットを数箇所回りましたが、
冒頭に書いたように、山上付近では紅葉も終わりに近く、
また、この日は遠景に靄がかかっていたこともあり、眺望は今ひとつでした。

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【色づく葉っぱ】

よって今回の御在所岳の紅葉のハイライトは、ロープウェイの車窓。

一般の観光パンフの写真も、殆どがロープウェイから撮ったもの。
自分の足は使わずに楽して登る限りは、これを越す眺めに出会うのは難しいかなぁ。

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2009年9月16日 (水)

港と偉人とコンビナート

本日ご紹介するのは、三重県随一の商工業都市として知られる四日市です。
訪問してから日が経ってしまい、少々季節外れな写真もありますが、宜しければお付き合い下さい。

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四日市市は、南北に長い三重県の中央よりやや北側に位置し、
北は桑名市、南は津市に接し、東は伊勢湾、西は鈴鹿山系を経て奈良県境に接しています。

総人口の307,486人は三重県最大で、県内初の中核市移行を目指し、準備を進めています。

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【四日市港第三埠頭付近】

当市の歴史は古く、すでに旧石器時代から人々が暮らしていたと見られており、
縄文~弥生期にかけての遺跡も数多く残っています。

「古事記」によると、日本武尊が東征の帰途、伊吹山の神との戦いの最中に負傷され、
四日市の足洗池(現:市内御館付近)に差し掛かったときに、
「吾が足三重の勾(まがり)の如くして、いと疲れたり」と嘆かれたとあります。

これが三重郡の名前の由来となり、後の県名となったと云われています。

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【太平洋セメントの埠頭(第三埠頭付近)】

このように歴史の早い段階から開けていた四日市ですが、
大きく発展するのは安土桃山期以降。

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【石油プラント(第三埠頭付近)】

元々、四日市沖の伊勢湾は水深があり、また、沿岸部には波静かな入り江があったので、
いわゆる「天然の良港」としての条件は揃っていました。

天然の良港に、15世紀中頃には商業港としての姿が整い始め、
その後の回船業の発展に伴って、全国各地の物資が集まるようになります。

港の近郊には大きな「市」が立ち始め、その「市」は「四」の付く日に開かれたため、
これが「四日市」という地名の由来となりました。

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【港務艇(第三埠頭付近)】

また、天正10年(1582)の本能寺の変の際には、
四日市の回船問屋達は、堺から苦難の末に当地に逃れてきた徳川家康を手助けし、
舟をしつらえて三河岡崎まで一行を送り届けました。

その後、天下を取った家康は、その時の恩に報いる為、
当地を幕府の天領としたと云われています。

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【重要文化財:末広橋梁(跳開式可動鉄道橋)】

天領となった四日市は、北勢地方の行政・商業の中心地となり、
また、東海道の43番目の主要宿場として、その名を全国に知られるようになってゆきました。

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【四日市旧港の灯台】

ところが、四日市が繁栄の極みに達した江戸末期、安政元年(1854)に巨大地震が発生します。
いわゆる「安政の大地震」です。

遠州灘を震源地としたこの地震で、四日市周辺で被災した家屋は2000軒以上にのぼり、
「人死凡そ七百人余,怪我人は数知れず」という甚大な被害がもたらされました。

その後も大地震による影響で、「天然の良港」に次第に土砂が流入。
港口が徐々に浅くなり、船の入港が困難な程になってしまいました。

その結果、廻船業は次第に衰退し、以降、幕末から明治にかけては、
港町から菜種油や肥料の町へと変遷してゆきました。

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【稲葉三右衛門顕彰碑(末広町)】

そんな時、或る人物が登場します。
港町四日市の現状を憂いていた、廻船問屋・稲葉三右衛門です。

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【稲葉三右衛門銅像(JR四日市駅前)】

彼は、四日市が更に発展するには、港の拡張・再整備が不可欠と考えていました。

そして、明治6年(1873)、三右衛門は私財を投じて港の改修工事に着手します。

工事は難航を極めたものの、11年後の明治17年(1884)、
波止場の長さ400m、造成地面積46,000㎡という港が完成しました。

三右衛門念願の港は、その後の四日市の商工業躍進の起爆剤となります。

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【旧港改築記念碑(末広町)】

明治32年(1899)、四日市港は政府指定の開港場(国際貿易港)となり、
大正時代には、後背地(岐阜県一宮・尾西)に毛織物業が発達したこともあり、
我が国の羊毛の代表的な輸入港となってゆきました。

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【万博から移設したオーストラリアパビリオン(霞ヶ浦地区)】

ちなみに、昭和43年(1968)以来、四日市港とシドニー港は姉妹港の関係にあります。

シドニー港は世界的な羊毛の輸出港であり、四日市港はその羊毛の主要な輸入港で、
羊毛の輸入は年々減少傾向にありますが、現在も対豪貿易高は四日市港が日本一です。

その縁で、四日市市は官民一体となってオーストラリアとの親善交流活動を続けています。

そのシンボルとして、四日市港の霞ヶ浦緑地公園には、
日本万国博覧会のオーストラリア・パビリオンが移設され、現在も当時のまま保存されています。

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【かもめ】

現在の四日市港は、霞ヶ浦地区の埠頭が中心拠点となっていますが、
稲葉三右衛門によって基礎が作られた旧港には、彼の業績を称える「稲葉翁記念公園」が整備されています。

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【煙突(霞ヶ浦地区)】

この公園からは、全国的にも例を見ない「潮吹き防波堤」(※1)を見ることができます。

国の重要文化財に指定されているこの堤防、波が当ると潮吹き穴から海水が吹き出ることから、
このような名前で呼ばれるようになりました。

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【旧港に残る潮吹き防波堤の跡】

四日市港の改修後は、紡績を中心とした繊維工業、さらに機械や化学工業の工場進出が相次ぎ、
日本の近代工業化への歩みを踏襲するかのように四日市地域は発展してゆきました。

戦後になると四日市港の重要性は更に増し、政府から特定重要港湾に指定され、
工業港としての性格を強めながらその規模を拡大してゆきます。

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【石油プラント(霞ヶ浦地区)】

昭和32年~35年(1957~1960)にかけては、塩浜地区に三菱化成・日本合成ゴム・味の素・松下電工など、
昭和36年(1961)には、午起地区に大協石油・中部電力火力発電所・協和油化などが相次いで進出し、
いわゆる石油コンビナートが形成され、わが国屈指の石油化学工業都市に躍進しました。

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【ガスタンク(霞ヶ浦地区)】

昭和40年代に入ると、霞ヶ浦沖の広大な海面を埋め立てた霞ヶ浦埠頭が誕生し、
ここを拠点として本格的なコンテナ貨物の取り扱いが可能となりました。

これによって、国際海上輸送のコンテナ化に対応するとともに、
現在の四日市港の輸出の主力となっている自動車輸出も始まりました。

しかし、コンビナートの本格的操業と同時に、負の影響も深刻化してゆきます。
大気汚染その他の公害の発生が大きな社会問題になりました。

私をはじめ、多くの同世代の人が当地を知ったきっかけは、
「四日市ぜんそく」ではなかったでしょうか。

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【煙突(末広町付近)】

昭和40年代には「四日市=公害の街」として全国にその名を馳せましたが、
その後、法整備や汚染防止技術向上などの対策が格段に進み、
現在では「公害を克服した街」という評価を得つつあるようです。

今回、稲葉三右衛門の功績を追って、四日市周辺をうろうろしましたが、
少し郊外に車を走らせれば、田んぼや茶畑が広がる豊かな自然がいっぱいで、
都市機能と田舎の長所を併せ持った住み易い街という印象を持ちました。

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【四日市ドーム(霞ヶ浦地区)】

平成11年(1999)8月に開港100年を迎えた近代四日市港は、
名古屋港と同様に、日本最大のモノづくり圏を後背地に抱えています。

しかし、伊勢湾岸2港のライバルは、日本国内の港湾だけではありません。
世界中の港湾を相手にしなければならない「港湾大競争時代」が到来しています。

アジア諸国の近年の港湾機能の巨大化や、日本の港湾の国際競争力の低下、
さらには、将来的な港湾ニーズの世界的な高まりもあって、国内港湾の機能充実が急務となっています。

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【マリーナ(霞ヶ浦地区)】

平成16年(2004)、政府はその対応策として、国内に23港ある特定重要港湾のうち、
国際競争力の強化が特に重要な6港湾をスーパー中枢港湾(指定特定重要港湾)に指定しました。

指定を受けたのは京浜港(東京港・横浜港)、阪神港(大阪港・神戸港)、
伊勢湾(名古屋港・四日市港)の3港湾。

四日市港も生き残りを賭けて、アジアの主要港を凌ぐ「港湾コスト・サービス水準の実現」を目指し、
スーパー中枢港湾への国の重点的予算配分を受けながら、官民協働で港湾機能充実に取り組んでいます。

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【HONDAの貨物船】

私達が学んだ頃の小学校の教科書では、中京地区は何でも国内3位。
しかし、今や商工業のあらゆる分野で国内1位となり、国内最大の工業地帯となりました。

トヨタやホンダ、三菱やシャープなどの主力工場が地域を活性化、
昨秋のリーマンショックまでは空前の好景気でした。

日本が元気になるには、中京地区の復活が不可欠。
四日市の港に活気が戻ると、未曾有の大不況の出口も見えてくるのですが・・・

※1「潮吹き防波堤」

この防波堤の構造は、大堤・小堤の二重の堤防から成っており、
2つの堤防の間には溝が作られ、溝から港内へ抜ける排水口が大堤に作られています。

港外から来た波を、まず小堤で受けて勢いを弱め、
それを大堤で受け止め、海水を中間にある溝に貯めます。
その海水は、排水口を通って港内に吐き出される仕組みになっています。

昭和30年(1955)には埋立てられ、現在ではコスモ石油のタンクが写真のように建っており、
「潮吹き防波堤」は単なる岸になっております。

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2009年8月21日 (金)

桑名の山林王 その2

(前回より続き・・・)

清六の篤志家としての業績の一つに、桑名の私設上水道事業があります。

もともと桑名一帯の井戸水は混入物が多く、飲用には適さなかったことから、
清六は上水道施設を私費で設置し、一般には無償で開放。

それとともに30ヵ所以上に消火栓を設けました。

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【「六華苑」:円筒塔屋内部】

このような設備は、当時の大都市を除いては稀なものであり、
全国で7番目の早さであったと云われています。

清六の死後、水道設備は遺志により桑名町(当時)に寄附され、
現在も煉瓦造の小野山貯水池などが、市指定文化財の指定を受け保存されています。

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【「六華苑」:洋館内部①】

また、清六は木曽三川河口地域の排水事業にも大きく貢献しました。

清六の生まれ故郷・加路戸新田は木曽三川の最下流部にあり、大河の寄洲を開発した農村地帯でした。

当時の加路戸新田は、農業用水を木曽川やその支流から引き込み、排水は自然排水に頼ってていましたが、
明治24年(1981)の濃尾大地震により地盤が陥没したため、自然排水が著しく困難となってしまいました。

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【「六華苑」:洋館内部②】

こうした窮状を打開するために、排水機の導入を提唱したのが清六です。

地震の影響で良田は冠水田と化し、そこで悪水を人力でかい出している村人達の苦労を見て、
清六は排水対策が急務であると感じとっていました。

そんな時、動力ポンプが用水にも悪水排除にも同じ効果を発揮するのだと聞き、
明治36年(1903)、早速、伊曽島村(現・長島町)に遠心動力の排水機を設置します。

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【「六華苑」:洋館内部③】

そこで動力ポンプの効果を実感した清六は、翌年から次々と排水機を導入。

明治37年(1904)には、木曽岬村(現・木曽岬町)・長島村(現・長島町)・七取村(現・多度町)
明治38年(1905)には、城南村(現・桑名市城南)に、2年間で4ヶ村が救われました。

明治38年(1905)の明治天皇行幸の際の桑名郡役所による調査報告「諸戸清六ノ経歴並びに事業譚」を見ると、
清六の地域貢献の第一には排水事業が挙げられ、それに続いて上水道事業、植林事業が挙げられています。

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【「六華苑」:洋館バルコニー】

この報告書を見れば、排水機導入による効果は甚大であったことが解ります。

排水機導入により二毛作が可能になったことから、収穫高は飛躍的な向上を遂げた記されており、
導入前は一反あたり60kg程度であった収穫高は、導入後はなんと5倍の300Kgに増加しています。

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【「六華苑」:和館座敷①】

明治天皇行幸の翌年、明治39年(1906)の11月、桑名の巨星・諸戸清六はこの世を去ります。

清六には四男六女の子供がいましたが、長男と三男がともに早世したため、
清六の没後、次男・精太が初代の家屋敷を継承し、清六の名は四男・清吾が襲名します。

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【「六華苑」:和館廊下】

現在、次男・精太の係累は諸戸宗家(西諸戸家)、四男・清吾改め清六の係累は諸戸本家(東諸戸家)と称され、
宗家は諸戸林業・諸戸商会・諸戸タオル・諸戸土地・日本みどり開発など、
本家は諸戸林産・諸戸緑化産業・諸戸産業・諸戸造林などの企業群を運営し、
林業や不動産業を中心とする「諸戸グループ」を形成しています。

諸戸宗家・本家の両家を合わせると、諸戸一族が所有する山林は今でも巻間一万町歩といわれ、
その財力や資産は数えることができない程の山持ちであります。

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【「六華苑」:和館座敷②】

平成19年(2007)、諸戸林産は、所有の森林約1600haをトヨタ自動車に売却しました。
トヨタ自動車の購入目的は、「社会貢献活動ならびに林業事業を通じた国内の森林再生モデルの構築」。

トヨタ自動車は日本の国益を守る日本の企業であると信じていますが、
水源地である日本の森林が外国資本に買い占められてしまうようなことがないよう、
偉人・諸戸清六の御子孫にはお願いしたいと思います。

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【「六華苑」:和館の壁面燈】

本日の写真の「六華苑」は二代目清六の別邸跡、「諸戸氏庭園」は次男・精太が受け継い初代清六の本宅跡。
敷地は隣接していますが施設の運営は別個で、入場料も別個に要ります(笑)

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【「六華苑」:表門】

まず、「六華苑」のほうですが、平成2年(1990)に諸戸家より桑名市が建物の寄贈を受けた後、
旧自治省の「地域づくり推進事業」によって修復・整備が施され、平成5年(1993)から一般公開されています。

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【「六華苑」:本邸】

本館建築物は、和洋の様式が調和した瀟洒な建物。
明治・大正期を代表する貴重な文化遺産であり、桑名市指定文化財となっています。

当時の洋風住宅に和館が併設される例は全国に数多く残っていますが、
和館と洋館は別棟として建てられるか、洋館の一部を和室とする場合が一般的です。

これに対して「六華苑」の旧諸戸邸は、広い敷地が有るにもかかわらず、
洋館と和館とが棟続きで併設されているという特徴をもっています。

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【「六華苑」:洋館円筒塔屋】

設計は鹿鳴館やニコライ堂で名高い英国人建築家ジョサイア・コンドル。

洋館部分は北東隅の四層の円筒状の塔屋と南側の庭園に面した大きなベランダが特徴。

明るく軽快なコロニアルスタイルのいかにも洋館らしい洋館に、
瓦葺の入母屋が続く姿は、他の和洋折衷建築とは一味違った美しさが感じられました。

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【「諸戸氏庭園」:庭園池からみた本邸】

もう一方の「諸戸氏庭園」は、平成14年(2002)に設立された財団法人諸戸会が修復・整備、
翌、平成15年(2003)春より一般公開されています。

「諸戸氏庭園」の歴史は古く、元々は尾張織田家の家臣だった矢部家の館跡。
室町時代には「江の奥殿」と呼ばれていました。

当時の様子は魯縞庵義道の「久波奈(くわな)名所絵図」 に詳しく描かれており、
書院や推敲亭がその当時からあった事が窺えます。

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【「諸戸氏庭園」:庭園の燈篭】

江戸中期、貞享3年(1686)には、桑名藩御用商人・山田彦左衛門が下屋敷としてこれを購入。
その後、明治17年(1884)になって、初代諸戸清六の手に移り、御殿と池庭が付け加えられました。

以降、次男精太の代に更に手が加えられ、今日に至っています。

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【「諸戸氏庭園」:煉瓦倉庫】

敷地内には、国の名勝に指定された庭園をはじめ、本邸・大門・御殿前玄関・御殿・洋館・玉突場など、
国の重要文化財6棟をはじめとする貴重な建築群が保存されています。

公開は春と秋の年2回。

平成21年(2009)春の一般公開は、6月30日で終了していますが、
秋には紅葉が見事だそうで、今から再訪が楽しみです。

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2009年8月19日 (水)

桑名の山林王 その1

急速に近代化・西洋化が進んだ明治~大正期には、
日本各地で時代をリードする多くの実業家達が活躍しました。

当地・三重でも地元の発展に貢献し、その歴史に名を刻んだ人物が数々います。
本日ご紹介する初代・諸戸清六(もろとせいろく)も、そんな地域の偉人の一人です。

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諸戸清六は江戸末期から徐々に頭角を現し、全国の田畑・山林を積極的に購入し始め、
明治中頃には日本一の土地面積を所有する「山林王」として、その名を全国に知らしめました。

また、実業家として巨万の富を得る一方で、
公共事業に私財を投じ、木曽三川の河口地帯の人々の生活改善に大きく貢献し、
今なお、地域の恩人として語り継がれています。

私の居室のすぐ近くには、諸戸清六とゆかりが深い旧跡「六華苑」と「諸戸氏庭園」があり、
諸戸家の栄華を今に伝える資料館として保存されています。

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【旧諸戸家邸「六華苑」】

諸戸家の祖は、長島の一向一揆の際に織田信長と激しく戦った一向宗門徒・丹羽定直(にわさだなお)。

定直は織田軍との交戦中、戸板を集めて矢や投石を防ぎながら縦横無尽の活躍をしたため、
証意上人より「諸戸」の姓と違鷹の羽紋とを賜わり、以降、諸戸定直と称したと伝えられています。

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【「六華苑」:庭園から見た本邸】

一向一揆が信長によって駆逐されると、定直は郷里の西外面村(現・長島町)に帰り、
それ以降、諸戸家は自ら開墾した加路戸新田(現・木曽岬町)で代々庄屋を勤めながら幕末を迎えます。

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【「六華苑」:本邸】

ところが、維新の世を迎える前に、時の当主・諸戸清九郎が塩の売買で大失敗。
2,000両もの負債を抱えて身代を潰してしまう事態に。

その諸戸家苦難の真っ只中の弘化3年(1846)の正月、
清六は清九郎の長子としてこの世に生を受けることとなります。

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【「六華苑」:本邸の洋館・和館の接合部】

借金苦にあった父・清九郎は、西外面村の土地家屋を全て手放し、
弘化4年(1847)に桑名へと移住しますが、この後、相次いで諸戸家を不幸が襲います。

安政7年(1860)に清九郎が、文久3年(1863)に後見人の義兄・清助が相次いで他界。

その後、家督を継ぐことになったのが、当時まだ18歳であった清六でした。
家財といえば僅かな布団と衣類、他には二十石積の船一隻のみが残るだけだったそうです。

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【「六華苑」:洋館】

ここで、清六が普通の若者なら、破綻寸前の家を継いでも持ちこたえられずに潰れてしまう処ですが、
彼には類稀なる商売の才能が備わっていました。

驚くべきことに、この若き当主は、ほんの短期間で諸戸家を見事に復興させて見せます。

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【「六華苑」:洋館の塔屋窓】

清六の母方の実家は、船宿と米の兼売で生計を立てていたのですが、
僅か80両の手元資金で、小さな家業を米問屋や廻船業と呼べるまでに育て上げ、
わずか3年で2,000両以上の負債を完済。

その当時の桑名は、陸運・海運・川運の要衝で、
中部・東海地方の物資を大阪や東京へ輸送する港湾・交易都市として栄えていました。

清六はこの地の利を生かし、時流にもうまく乗ったのです。

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【「六華苑」:洋館外灯】

維新後も、大隈重信・松方正義らの新政府高官の知遇を得て、
西南の役後の米相場で利潤を上げるなど、瞬く間に30万円を蓄財。

明治19年(1886)には海防費2万円を政府に献上し、
翌年には政府の特別な計らいにより従6位に叙せられています。

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【「六華苑」:和館屋根】

20才そこそこの清六が、短期間で巨額の富を得たのには2つの理由があると云われています。

1つ目は、清六はこの地方の翌年の天候をほぼ間違いなく予想できたということです。

清六は、ベテランの船頭から鳥羽への帆船の入港情報を入手。

また老農からは、寒中の琵琶湖の水量の増減情報を得て、
伊勢・美濃・尾張地の長期天候を高い精度で予測していました。

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【「六華苑」:庭園池】

2つ目は、大物政治家・大隈重信との蜜月関係です。

大隈重信側の文書によると、明治9年(1876)に初めて諸戸清六に会ったと記録されており、
それ以降、少なくとも二度、大隈は招かれて桑名の諸戸邸を訪ねています。

清六は、国家機密ともいうべき紙幣と正貨の等価通用法が発令される直前に、
それを察知して巨利を得ましたが、裏には大隈の影があったと云われています。

また、後に、鈴鹿山脈や丹沢山地の山林を数千町歩を購入しますが、
これも清六が大隈の勧めに応じたものでありました。

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【「諸戸氏庭園」:楓】

次々と廻船業で稼いだ富を田畑・山林に投資した清六は、いつしか「山林王」と呼ばれるようになり、
その晩年には、東京の恵比寿・渋谷・駒場などにも宅地30万坪を有する大地主となりました。

稀代の政商として、一代で富と名声を手に入れた清六。
しかし、その一方では公共事業に私財を注ぐことを惜しみませんでした。

(・・・・次回に続きます)

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