2009年6月28日 (日)

紫陽花の苑

6月24日(水)に、大阪から家人やって来たので、
かねてから行きたいと思っていた「なばなの里」を訪ねてみました。

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【水辺のチャペル】

「なばなの里」は、「ナガシマスパーランド」を経営する長島観光開発㈱が手がけた、花と緑のテーマパーク。

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【あじさい・花しょうぶ園】

約230,000㎡の広大な敷地を活かして、花壇や大温室は勿論のこと、
展望台・飲食施設・花市場・温泉入浴場など、多彩な施設が設けられています。

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【足湯】

大変評判の良い施設なので行かれた方も多いと思いますが、我われ2人は初めての訪問。

平日ではありましたが結構な人出で、お年寄りや家族連れ、若いカップルから外国人観光客まで、
様々な人たちで賑っていました。

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【お二人で】

入場料は、園内で使えるクーポン券\1,000分が付いて\1,500ナリ。
このクーポン券は金券として、園内の各施設で使えます。

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【お独りで】

ちなみに私達はコレを使って、昼食を頂きました。
園内に飲食店は8店舗ありましたが、パスタ好きの私の希望でイタリアンレストラン「麦」をチョイス。

前菜とパスタのSETで\1,300だったので、2人分の現金支払いは\600のみ。

薄めの味付けで家庭料理の様な感じでしたが、結構イケました。

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【野菜たっぷりのパスタ】

5月下旬~6月下旬までは、「あじさい・花しょうぶ祭り」が開催中で、
花菖蒲は見ごろを過ぎていましたが、紫陽花はなんとかまだ綺麗。

間に合った~という感じでした。

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【アカタテハ】

ここの紫陽花園はおそらく日本最大であろうかと思われますが、敷地面積はなんと8,000坪!
その広大な敷地に50種70,000株の紫陽花が植えられています。

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【緑色の紫陽花】

また、全長200mの「あじさいロード」には70種300鉢の珍しい紫陽花が並んでいます。

いつもの事ながら、品種の名前を控えていないので、
どれが何やら、写真を見てもさっぱり思い出せませんが、とりあえず綺麗でした。

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【 Purple and Green】

広い園内ですが、何処に行っても清潔で快適。
園内の飲食施設なども本格的で充実していました。

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【ピンクの八重咲き?】

そして、何と言ってもメインテーマである花自体の手入れが素晴らしい。

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【シオカラトンボ】

以前の記事で、「ナガシマスパーランドは純国産レジャーランドの雄」と書いたことがありますが、
ここでも、「やりますなぁ~長島観光開発!」と改めて思った一日でした。

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2009年6月 7日 (日)

頑張る商店街

桑名市の中心市街地にある寺町通り商店街を訪ねてみました。

寺町通り商店街は、JR・近鉄桑名駅から東へ約800mのところにある歴史ある商店街。

中心市街地を南北に走る寺町通りに架けられた、
約200mのアーケードの下に48店舗が軒を並べています。

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【寺町通り商店街①】

16世紀後半に建てられたといわれる真宗大谷派別院(通称・桑名御坊)をはじめ、
近隣には10ヶ所以上の寺院があるところから、門前町商店街として発展してきました。

第2次世界大戦の空襲で一時は焼け野原となりましたが、
戦後急速に近代化が進み、昭和32年(1958)にはアーケードが完成。

その後は、桑名市の中心商店街としての役割を果たしてきました。

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【寺町通り商店街②】

時代が平成に入ると、他の都市の商店街同様、相次ぐ大型SCの出店や、
顧客の高齢化、消費ニーズの多様化などの波に呑まれ、集客減・空床増などの問題を抱えることに。

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【寺町通り商店街③】

しかし、此処の商店主さん達は様々な振興策を打ち出し、この難局を乗り切ることに成功しました。

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【寺町通り商店街④】

桑名の歴史的な町並みにマッチしたアーケードの整備などのハード面の整備、
チャレンジショップの展開や定期市の開催などのソフト面側の努力によって、
現在は地方の「元気のある商店街」「復興の好事例」として知られる程になっています。

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【寺町通り商店街⑤】

多くの地方商店街が苦悩する中、この商店街が復活できたのは、
商店主さんの熱意、振興組合の高い組織力、行政等による支援体制の充実は勿論のこと、
半径2Km以内といわれる足元のお客さんの「わが商店街」に対する思いがあってこそだと思います。

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【花菖蒲:九華公園】

最新のファッションや高級ブランドは揃っていません。
安さでも大手チェーン店には勝てないでしょう。
しかしながら、なじみのお店で話をしながら、ゆったり安心して買い物ができる。
そんな雰囲気に満ちた商店街でした。

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2009年6月 1日 (月)

西美濃の水都

5月29日に、岐阜県の大垣市を訪ねました。

大垣市が位置する西美濃地方は、都が置かれた京畿地方に近く、
岐阜県では最も古くから栄えた地域で、東海道・東山道の重要な回廊でもあり、
東西の文化の接触地帯となってきました。

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【船町港跡】

特に関ケ原付近は古くから東西交通の要衝で、軍事上からも重要な位置を占めており、
東山道方面に対する京畿の守りとして、古代律令制下の三関の一つ、不破関が設けられたことや、
天下を二分した壬申の乱や関ケ原の役が当地付近で戦われたことはよく知られています。

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【船町港の住吉灯台】

大垣の開発は奈良時代、東大寺領大井荘となったのが始まりとされています。
大垣の名が文献に登場するのは暦応3年(1340)の東大寺文書に「大柿」とあるのが初見で、
当初、漢字による表記は大垣と大柿が併用されていたようです。

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【水門川】

文安の頃(1444~49)、大垣氏が砦を構えて東大寺城と称しましたが、
後に大垣城と呼ばれるようになりました。

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【大垣城天守①】

天文4年(1535)、美濃の守護土岐氏が城郭を増強。

永禄6年(1563)には、氏家直元がそれまで本の丸と二の丸だけであった城郭を拡張し、
その後、池田恒興・羽柴秀次・羽柴秀長・加藤光泰・一柳直末・羽柴秀勝らが相次いで入城しました。

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【大垣城天守②】

慶長元年(1596)に城主となった伊藤祐盛が天守を造営、
当地が城下町としての形を整え始めたのも、この頃からだと思われます。

慶長5年(1600)の関ヶ原の役では、石田三成率いる西軍の拠点となりましたが、
東軍が当城を無視して進軍したことにより、
急遽、戦場が北方の関ヶ原へと移ったため、城郭は無傷で残ることに。

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【大垣城内柳口門】

関ヶ原以後も、石川氏・松平氏・岡部氏・再び松平氏と、
大垣城には徳川譜代の大名が相次いで入城しました。

寛永12年(1635)、戸田氏鉄が攝津尼崎から10万石で移封してからは、
幕末までの約200年間、戸田氏が11代続けて城主となりました。

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【戸田氏鉄騎馬像】

明治6年(1873)に発布された廃城令により廃城となりましたが、
天守などの城郭群は解体を免れ、昭和11年(1936)には旧国宝の指定を受けます。

しかしながら、昭和20年(1945)の7月29日、米軍による空襲で焼失。

現在の天守は昭和34年(1959)、乾櫓は昭和42年(1967)に鉄筋コンクリートによって復元されたものです。

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【大垣城西門】

江戸期の大垣は、戸田氏の安定した治世の下で、
美濃国最大の城下町に発展してゆきます。

もともと大垣城下は水陸の交通の便がよい土地柄。

中山道・垂井宿と東海道・熱田宿を結ぶ美濃路の宿場町、
また、揖斐川水運の湊町としての機能を併せ持っていました。

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【水門川】

美濃路の終点となる大垣宿は、天保期の「宿村大概帳」によれば、
戸数903、人口5,136、旅籠11、本陣1、脇本陣2、問屋場1、助郷村22を擁する大宿場町。

また、戸田氏鉄により大垣城の外堀として築かれた水門川は、
揖斐川を介して大垣船町と桑名宿を結ぶ船運の運河の役割も持っていました。

松尾芭蕉の奥の細道のむすびの地は大垣船町にあり、
芭蕉は船町から水門川を船で下り、桑名宿経由で江戸に戻っています。

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【奥の細道結びの地案内板】

現在でも水門川の一部を大垣運河と呼ぶ場合があり、
川湊であった船町港には住吉灯台が今も残っています。

大垣市船町と桑名市を結ぶ水運は明治以降も盛んで、
明治16年(1883)には蒸気船による定期航路も開設され、
名古屋(熱田)~桑名~大垣が結ばれていました。

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【大垣市郷土館】

大正8年(1919)4月27日、養老鉄道(現在の養老鉄道とは別会社)により、
この航路に並行して桑名駅~揖斐駅(現在の養老鉄道養老線)が開通すると、
蒸気船の利用客は激減しますが、それ以外の川舟の利用はまだ多く、
昭和初期には年間1万隻の川舟が行き来していました。

蒸気船の定期航路は昭和26年(1951)頃で廃止となり、
盛んだった川舟もモータリゼーションの波に呑まれ、やがて廃れてゆきました。

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【郷土館の庭園】

明治期になると、県庁誘致の失敗、度重なる大水害や濃尾大震災により人口は激減。

大垣にとっては低迷の時期とななりましたが、
明治33年(1900)の木曽三川分流工事以降は水害も減り、
紡績会社が進出するなど近代工業都市へと変貌。

大正7年(1918)には市制が施行されるに至りました。

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【大垣城二の丸跡に鎮座する濃飛護国神社】

太平洋戦争末期の昭和20年(1945)7月29日の空襲で、
大垣城天守とともに市街地の大半を焼失しますが、
戦後も、主な産業を軽工業から重工業、情報産業へと移行させながらも、
引き続き工業都市として発展、現在に至っています。

平成21年(2009)現在では、人口は16.5万人。
岐阜県下第2の都市となっています。

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【郭町自噴水公園「大手いこいの泉」】

近年は、揖斐川の豊富な伏流水がもたらす自噴水がマスコミ等で紹介されるようになり、
大垣が「水の都」であることが全国的に知られるようになりました。

大垣市内には10ヶ所程に自噴水井戸が設けられており、
おいしい水を求めて岐阜県内は勿論、名古屋や遠く関西方面から、
沢山の人々が水を汲みに来られるそうです。

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【大垣駅郭町商店街】

大垣市。

正直言うと、こちらに転勤してくる前は、全く印象の薄い街でした。
今回訪れて、水と緑が豊富な美しい街だということが解り、
「日本には良い所が沢山あるなぁ」と改めて実感した次第です。

長い歴史に培われた街並みや文化財、豊富な水資源など、
観光資源には恵まれているので、もっと行政が広報に力を入れれば、
閑古鳥鳴く市内中心部も活性化するのではと思いました。

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2009年5月18日 (月)

天まで駆けよ!

少々古いお話になりますが、どうか御容赦を。

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5月5日はGW中唯一のお休みの日だったので、
毎年4・5日の両日に行われている多度大社の例祭に行ってきました。

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【御厨「小山」地区の方々】

期間中、大社の内外で数々の神事がとり行われますが、
中でも「上げ馬神事」は祭りの花形。

全国から多数の観光客と報道陣が押し寄せ、
境内は人で埋め尽くされると聞き、
人ごみは苦手なのですが、観覧場所を確保すべく、
養老鉄道に揺られて早めに現地入りしました。

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【花武者姿の乗り子】

桑名市の北西、多度町に鎮座する多度大社は、
五世紀後半、雄略天皇の御代に社殿が創建されたと伝えられる古社で、
「延喜式」神名帳にも、桑名郡十五座の中に「多度神社名神大」とあり、
いわゆる延喜名神大社の社格を誇る神社です。

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【弓取りの少年】

奈良時代末期の天平宝字7年(763)には、多度の神のご託宣を受けた満願禅師が、
多度菩薩を中心とした三重塔二基・法堂・僧房からなる神宮寺を建立、
後に国分寺に準ずる扱いをうけ、寺院70房・僧侶300余を数える大寺院となりました。

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【道化役】

しかし、元亀2年(1571)に織田信長の兵火により、
社殿・宝物殿をはじめ神宮寺の伽藍も焼失。

一時は荒れるに任せた状態となっていました。

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【境内に向う】

南北朝時代の暦応年間に始まったと伝えられる「上げ馬神事」も、
これ以降、約30年余り中断されることに。

その後、徳川家が天下を取り、太平の世を迎えると、
桑名藩主本多忠勝・忠政の支援により社殿も徐々に復興され、
中断されていた「上げ馬神事」も、この頃再開となったようです。

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【酒で馬具を清める馬喰役】

桑名藩主が松平家に替わった後も、多度大社は桑名の守護神として厚く崇敬され、
社殿の造営・社領の寄進が度々行なわれました。

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【緊張:馬場乗り(試走)前】

また、伊勢参宮の人々が、併せて此処にも参詣したために、
別名を北伊勢大神宮とも呼ばれるようになり、
「お伊勢参らば お多度もかけよ お多度かけねば片参り」と、
俗謡に歌われるほどに賑わったようです

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【精悍】

そもそも「上げ馬神事」は、武家・豪族が取り仕切る祭事でしたが、
信長の兵火による中断以降は、御厨(神饌を供える地区)の人々が奉納する行事となり、
以来、今日に至るまで連綿と続けられています。

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【多度大社境内】

現在、神事を奉納する御厨は7地区で、、
占いによって各地区から、神児1名・乗り子(騎手)6名が選ばれます。

騎手を出す6地区からは、祭馬が各地区3頭、合計18頭が準備され、
毎年入れ替わる花馬(その年最初に上げ馬を行う地区)の指示により、
祭りが進められて行きます。

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【馬場乗り①】

今年の花馬は戸津で、
その後は北猪飼・猪飼・力尾・多度・小山の順に上げ馬が行われました。

ちなみに、乗り子の衣裳は4日が陣笠裃姿、5日は花笠武者姿でした。

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【馬場乗り②】

「上げ馬神事」は、人馬が一体となって3mあまりの絶壁を駆け上がる勇壮な神事。

大変な危険を伴うことから、祭の奉仕者は神の御加護が得られるように、
昔ながらの精進・潔斎に努めなければならないのだそうです。

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【馬場乗り③】

乗り子を努めるのは16歳前後の少年達。

毎年、4月1日に神占いが行われ、
その結果選ばれた6名の乗り子は、すぐさま乗馬の練習を開始します。

たった3週間で馬を全力疾走させれるように乗りこなさなければならず、
朝の4時には起きて、毎日1時間以上の練習を続けるそうです。

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【神馬と神児】

その後、4月26日からは更に厳しい精進が待っています。

肉や加工した食べ物は駄目、そもそも、他人が作った物は駄目。

その為、食事は家族とは別に自分で作らなければならず、
米、魚、野菜が中心の食事で、学生の場合は弁当も自作です。

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【急勾配の果てに待ち構える絶壁】

寝具まで新調され、一切の穢れがつかないようにと精進しながら、
上げ馬までの約一ヶ月を過ごし、気持ちを高めてゆきます。

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【本番前①】

そして迎えた本番。

前日4日は、6地区が各2回、計12回上げ馬を行い、
その結果は、成功が力尾の2回と多度・小山の各1回。

成功の確立は4/12でありました。

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【本番前②】

そして、この日は6地区が各1回のみの挑戦となります。

乗り子と馬は一体となり、100m余りの馬場(助走路)を猛烈な勢いで駆け抜け、
境内に作られた急勾配を駆け上がり、最後は絶壁の上めがけてジャンプ!!

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【上げ馬①:えいっ!!】

花馬の戸津、見事成功しました。

境内は割れんばかりの拍手と喝采。

私はその雄姿を間近に見て、思わず泣きそうになってしまいました。

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【上げ馬②:失敗!!】

その後の4地区は続けて失敗。

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【上げ馬④:大丈夫か!?】

そして、最後の小山が成功し、今年の上げ馬が全て終了しました。

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【上げ馬⑤:どうか!?】

余りの迫力に、手ぶれ、ピンボケを連発。

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【上げ馬⑥:成功!!】

写真の成果はイマイチでしたが、
祭りの熱気で、心地よい高揚感に浸ることが出来ました。

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【神輿①】

上げ馬が終わると、境内では「楠廻り」という行事が執り行われ、
その後、神社より担ぎ出された神輿とともに、
乗り子と馬、御厨の人々は須賀の馬場(2.5km南東の御旅所)向かいます。

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【神輿②】

行列が須賀の馬場に到着後、そこで流鏑馬等の神事が行なわれ、
終了後、再び神輿が神社に戻れば例祭は全て終了となります。

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【結束】

残念ながらタイムリミットで須賀の馬場までは行けず、
途中の多度駅から帰路に着きました。

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【神輿渡御の稚児行列】

多度の「上げ馬神事」では、古くは農作の時期や豊凶、
最近では景気の好不況などが占われています。

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【馬を労う:多度大社宮司】

馬が上がるか、上がらないか。
それは、きっと時の運。

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【ご苦労さん♪】

そんな事より、御厨の人々が大変な労力でこの祭りを支え、
地域が一丸となり伝統を守っていることこそ、
価値ある事なのだと思いました。

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2009年5月 8日 (金)

勢州の城下町

今回は松阪のお話。

松阪市は三重県のほぼ中央に位置し、
東は伊勢湾、西は台高山脈と高見山地を境に奈良県に、
南は多気郡、北は雲出川を隔てて津市に接しています。

平成17年の国勢調査によると、松阪市の総人口は168,973人で、
県下では4番目の人口規模。

特産品の松阪牛は、日本国内は勿論、世界中にその名が知られています。

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【創業明治35年・松阪牛の「牛銀」本店】

しかし、なにぶん単独でのブラブラ散歩。

下戸のおっさんが一人ぽつんと、
ビールも飲まず、すき焼きを黙々と食っている図は、
なんだか格好悪くて気が引けたので、今回は体験記はナシ。

松坂牛は又の機会、家族と来たときにでもレポートしたいと思います。

ということで、今回も相変わらずの歴史散策にお付き合い下さい。

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【松阪城址石垣①】

松阪市の中心市街の歴史は400年以上前の、
蒲生氏郷(がもううじさと)による松阪城築城に始まります。

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【松阪城址石垣②】

天正12年(1584)、氏郷が豊臣秀吉の命を受け最初に入城したのは、
現在の市街地の北方にあった平城・松ヶ島城でした。

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【松阪城址石垣③】

しかし、城下が手狭だった松ヶ島城を嫌った氏郷は、
飯高郡矢川庄(当時)にあった独立丘陵に目をつけ、その地に新城の建設を計画。

突貫工事で天正16年(1588)に完成させた平山城が現在の松阪城です。

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【松阪城址石垣④】

本丸、二の丸、三の丸、きたい丸、隠居丸、出丸といった郭の構成で、
本丸、二の丸、きたい丸、隠居丸は高い石垣、三の丸には土塁が築かれました。

天守台は中央よりやや西寄りあり、此処に三層の天守がそびえ、
それをとり巻いてそれぞれの郭に敵見、金の間、月見等の櫓が配されていました。

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【石垣上の緑】

氏郷が会津若松に移封になった後は、
天正19年(1591)に服部一忠、文禄4年(1595)には古田重勝が城主となりました。

その後、元和5年(1619)に松阪藩は廃藩となり、
以降、領地は紀州藩領に組み入れられ、
松阪城には勢州領18万5千石を統轄する城代が置かれました。

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【天守閣跡】

紀州藩領下の松阪城に関しては、江戸時代前期の史料に、
正保元年(1644)の台風のため、天守が倒壊という記述が残っています。

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【武家長屋「御城番屋敷」】

高い石垣と三層の天守を持つ築城当時の姿は、
さぞ壮観であっただろうと思われますが、
台風で天守は崩れ、その後の失火で郭群が消失、
残った城門なども明治初めに取り壊されてしまいました。

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【松阪城址の藤】

そして、明治14年(1881)には、現在へとつながる城跡公園として整備され、
往時の姿を留めるのは、壮大な石垣のみとなっています。

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【松阪城址より市内を望む】

その城址公園の一角にあるのが、松阪出身の偉大なる学者・本居宣長の記念館。

隣地には旧宅も移築され、一般に公開されています。

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【本居宣長旧宅】

本居宣長(幼名・小津富之助)は享保15年(1730)、
父・小津三四右衛門定利と母・勝の間に生まれました。

小津家は宣長から4代前の七右衛門の頃に江戸店もちの木綿商となった、
松阪・小津党の中でも最も有力な商家の一つでした。

松阪は江戸時代、「松阪商人」を輩出した商業の町でもあったのです。

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【土間:本居宣長旧宅】

しかし、宣長が家督を継ぐころには店も窮地に陥り破産寸前。
このため、宣長の将来を案じた母・勝は宣長を医師にする決心をします。

母の志を受けた宣長は23歳のとき京都へ上り、
28歳までの5年半の間に医学を修めるかたわら、
日本の古典文学についても勉強しました。

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【座敷:本居宣長旧宅】

姓を本居、名を宣長、字を春庵と改めたのもこのころで、
後年の業績の基礎はこの時期に築かれたといわれています。

宣長の業績については、「古事記伝」に代表される古事記研究や、
「源氏物語玉の小櫛」などの古典文学研究が有名ですが、
かく云う私自身は、敷居が高過ぎて解説書すら読んだ事がありません・・・。

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【「鈴屋」(2F書斎):本居宣長旧宅】

本居宣長旧宅は、彼が12歳から72歳で没するまで60年間を暮らした屋敷で、
明治42年(1909)に魚町(松阪市内中心部)から、保存のため現在地に移築されました。

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【魚町の本居宣長宅跡】

宣長が生まれ育った小津家のような「松阪商人」の始まりも、
蒲生氏郷の松阪城築城に遡る事が出来ます。

氏郷は築城と同時進行で、城下町の建設も積極的に取り組み、
城付近の大手町には松ヶ島城下の家蔵方を移住させ、
町の中央には近江日野の商人を、湊町には伊勢大湊の豪商を呼び寄せました。

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【資料館「松阪商人の館」】

これらの商人が商ったのが「松阪木綿」と呼ばれる綿織物。

松阪近郊を流れる櫛田川下流のデルタ地帯では、
古代より伊勢神宮奉納の神御衣を織る技術が伝承されており、
その織物技術の基盤の上に中世末以降はに綿花栽培が普及し、
当地は綿布の産地となっていました。

色褪せせず丈夫であった松阪木綿は、伊勢神宮参宮客によって全国に宣伝され、
また紀州藩の財源として保護奨励を受け、大ヒット商品となりました。

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【縁側:松阪商人の館】

その松阪木綿を江戸で売りさばいていたのが「松阪商人」です。

宣長の小津家や長谷川家など数々の豪商がいましたが、
その出世頭といえるのは、丸に井桁の三井家ではないでしょうか。

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【土間:松阪商人の館】

創業者・三井高利は寛文13年(1673)に江戸に初進出。(屋号は越後屋、現在の三越)

現金掛け値なし、反物切り売りなど、当時としてはモダンな商い手法を導入して繁盛し、
その資金で京都で両替商も開業、これが後世の三井家の事業の柱となってゆきます。

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【箱階段:松阪商人の館】

初代高利の死後、その遺産は子供たちの共有とされ、
三井一族の統括機関である「三井大元方」が設立されます。

三井家は「三井家憲」の下に固い結束を誇り、
この体制は幕末の激流をも乗り越え明治以降も連綿と続いてゆきます。

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【座敷:松阪商人の館】

太平洋戦争後の昭和22年(1947)の財閥解体を契機に、
同族支配による多角経営を特徴とする形態は解消となり、
現在の企業連合体としての三井グループが形作られました。

松阪城の東、市内中心部を流れる阪内川の南方に「三井家発祥の地」が今も残っていますが、
残念ながら内部は公開されていませんでした。

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【庭:松阪商人の館】

その代わりという訳ではないのでしょうが、「三井家発祥の地」から100m程のところに、
資料館「松阪商人の館」として、小津清左衛門の屋敷が公開されています。

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【凧:資料館「まどいのやかた見庵」】

太い柱と梁に支えられた広大な屋敷は風格十分。

三井家と当時の富豪番付で争ったと云われる小津家の繁栄を、
肌で感じられる施設でした。

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【資料館「まどいのやかた見庵」】

初めて訪れた松阪。

今でも城下町の面影を色濃く残した街並みは風情たっぷりで、
一人ブラブラ散歩しているだけで、本当に落ち着いた気分になれました。

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【松阪市内・松名瀬海岸付近】

また、街ぐるみで観光には力を入れているようで、
近鉄松阪駅前にある観光案内所には、市内マップや資料が充実していて、
訪れる人に大変親切な街であるという印象を受けました。

歴史があり、見所がいっぱいの松阪。
また、ふらっと行きたくなる、そんな街でした。

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2009年5月 3日 (日)

47番目の宿場

ご無沙汰しています。

更新の頻度が月イチと悪くなっておりますが、
よろしければお付き合い下さい。

**************************************************************************

先月28日のお話。
三重県亀山市に行ってきました。

現在の亀山市は、某家電メーカーの「亀山モデル」が全国に知られているように、
どちらかというと新興工業地域というイメージですが、
元来は宿場町として大いに栄えた地域でした。

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【東海道47番目の宿駅「関宿」】

江戸期、現在の亀山市域には東海道46番目の宿場・亀山宿と、
47番目の宿場・関宿が置かれていました。

中でも関宿は東海道と伊勢別街道の分岐点にあたり、
参勤交代の大名行列やお伊勢参りの旅人で大変賑わいました。

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【関宿:中町付近】

東海道の宿場町の殆どが旧態をとどめていない中にあって、
関宿は江戸時代から明治初期に建てられた古い町屋が200軒以上現存しており、
往時の姿を色濃く残す地域として、毎年多くの歴史ファンが訪れています。

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【関宿:「旅人宿 石垣屋」】

関宿の範囲は東追分(ひがしのおいわけ)から西追分(にしのおいわけ)までの約1.8kmの区間。

この区間は、昭和59年(1984)には旧文部省から「重要伝統的建造物群保存地域」に、
また、昭和61年(1986)には旧建設省から「日本の道百選」にそれぞれ選定されており、
歴史的景観保護に力点を置いた町づくりが官民一体となって行われています。

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【関宿:木崎の町並み】

鈴鹿山脈の南山麓に位置する「関」が歴史に登場するのは、
7世紀に「鈴鹿の関」がこの地に置かれて以来のことです。

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【関宿:中町付近】

「鈴鹿の関」は、岐阜県の「不破関」(ふわのせき)、
福井県の「愛発関」(あらちのせき)とともに、
古代律令制で定められた「律令三関」(りつりょうさんげん)の1つで、
「関」という地名もそこから来たものだと思われます。

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【関まちなみ資料館】

「鈴鹿関」の設置年代は不明ですが、「日本書紀」にもその記述が認められ、
古代から畿内防衛の要衝として、重要な地域であったようです。

その後、慶長6年(1601)に徳川幕府が宿駅の制度を定めてからは、
先述したように、東海道屈指の宿場として大いに賑わいました。

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【関まちなみ資料館:土間】

天保14年(1843)の記録には、屋敷が632軒、本陣2軒、脇本陣2軒、
その他にも、旅籠が42軒、酒食店は99軒あったと記されています。

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【関まちなみ資料館:明治初期の自転車】

関宿の東口は東追分と呼ばれ、ここから東海道と伊勢別街道が分岐していました。

写真の鳥居は伊勢神宮を遙拝するためのもので、
20年に1度の伊勢神宮式年遷宮の際には、
内宮の宇治橋南詰の鳥居を移設するのが習わしとなっています。

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【東追分の鳥居】

鳥居の近くには、「これよりいせへ」「外宮まで15里」と刻まれた石の道標、
また、その脇にはお伊勢参りの旅人や大名行列を照らした常夜灯があり、
当時のままの姿で現代の旅人を迎えてくれます。

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【関神社】

東追分から街道を西へ進み、北へ少し入ったところには関神社があります。

7月下旬の二日間に執り行われる関神社の祭礼では、
絢爛豪華な曳山が町内を練り歩きます。

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【関まちなみ資料館:関神社曳山の見送り幕】

曳山は江戸期には16台あったそうですが、今でも4台が現役で活躍しています。

現在使われている「これ以上望めない」という意味の「関の山」という言葉は、
当地の曳山が余りに立派であったことから生まれた言葉だそうです。

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【関宿旅籠玉屋歴史資料館:講札】

関神社から街道へ戻り西へ進むと、
関宿屈指の旅籠であった「玉屋」の建物があります。

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【関宿旅籠玉屋歴史資料館:離れの座敷】

建物自体は亀山市の重要文化財として修復・保存され、
内部は日本初の旅籠資料館「関宿旅籠玉屋歴史資料館」として公開されています。

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【関宿旅籠玉屋歴史資料館:客室】

旅籠で使われていた調度品や道具の数々、庶民の旅に関係する歴史資料、
歌川広重の浮世絵などが豊富に展示されていました。

当時のままの貴重な資料から、江戸期の旅の様子を覗い知る事が出来ました。

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【関宿旅籠玉屋歴史資料館:店の間から見た旧東海道】

宿場のほぼ中央には、親しみを込めて「関の地蔵さん」と呼ばれる、
西国愛染十七霊場第10番札所「地蔵院」があります。

行基上人が、天平13年(741)に諸国に流行した天然痘から人々を救うため、
当地にお地蔵様を刻んで安置されたのが開基だと伝えられています。

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【地蔵院本堂】

日本最古と言われる地蔵菩薩坐像は、
「関の地蔵に振袖着せて 奈良の大仏婿に取ろ」
と歌われたほど、地元の人々から愛されているお地藏様です。

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【地蔵院本堂の額】

東追分から入ると、宿場の終点は西追分。
ここからは、東海道と大和・伊賀街道が分岐していました。

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【西追分】

大和・伊賀街道は鈴鹿峠を越え、伊賀上野を通り奈良に至る道。
奈良に向かう旅人は、西追分から鈴鹿峠を見上げ、
この先の道の険しさを想い、当地で身体を休めたことでしょう。

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【燕】

今回紹介したスポットの他にも、宿場内には見所がいっぱい。

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【和菓子の老舗「深川屋」】

資料好きの方には、先程紹介した「関宿旅籠玉屋歴史資料館」の他にも、
伝統的な町屋を保存公開している「関まちなみ資料館」があります。

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【ナガオ薬局跡「ギャラリー綾羽」】

また、その他にも創業370年を数える和菓子の老舗「深川屋」や、
築195年の薬局を改造したカフェ&アンティークの「ギャラリー綾羽」など、
女性に人気のスポットも多数。

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【関のお婆さん】

テーマパーク的な「町並み保存」ではなく、そこに人の暮らしを残しながら、
歴史的景観を維持してゆくのは、さぞや大変だろうと思います。

地元の方々の見識とご苦労に敬意を表したいと思います。

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2009年4月 6日 (月)

新天地より

ご無沙汰しております。

今春の人事異動でまたまた転勤になり、
旧任地高崎から、3月21日より新たな任地に移り住んでおります。

いつもの事ながら、自室のネット環境を整えるのに時間を要し、
引越し後15日目にして、やっと更新が出来るようになりました。

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【揖斐川河口付近】

今回の任地は桑名市。

中京地方の中心地・名古屋市から25km圏に位置し、
近年はベッドタウンとして宅地開発が進められている三重県北部の都市です。

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【揖斐長良大橋】

明治22年(1890)の市町村制導入以降、
三重県北部の幾多の町村の合併を経て、桑名市・多度町・長島町が成立。

現在の桑名市は、平成16年(2004)にはこの1市2町が合併し誕生しました。

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【ナガシマスパーランド】

世帯数53,423、総人口142,157は三重県下では5番目の規模(※1)。

金属・機械工業が盛んで、古くからの鋳物の産地として知られているほか、
純国産レジャーランドの雄「ナガシマスパーランド」や「なばなの里」など、
優れた観光資源を擁する観光都市の側面も併せ持っています。

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【絶叫マシン「ホワイトサイクロン」】

「くわな」の呼称は古く、漢字以前に遡ると言われており、
仮名では「久波奈」の字が当てられていました。

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【長島沖干潟】

由来は諸説あるようですが、
この地の開発の祖・桑名首(くわなのおびと)から来ているという説が有力です。

ちなみに、桑名首の祖神である天津彦根命は、
今でも桑名の鎮守として春日神社に祭られています。

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【蛤捕り】

「桑名」の文字が見られる1番古い文献は「日本書紀」。

天武元年(672)に起こった壬申の乱の際に、
大海人皇子が吉野から不破の関に向かう途上、
桑名郡に立ち寄ったと記されています。

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【長島沖を行く漁船】

その際、同行していた妃の菟野皇女は、
乱が終わるまでの約1月間を桑名で過ごしました。

そして、乱は終結。

勝利した大海人皇子は即位して天武天皇、
菟野皇女は皇后となります。

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【揖斐川岸:浜地蔵堂の常燈明台】

天武天皇は、壬申の乱で功績を上げた地方に寺院建立の許可を出したので、
桑名にも浄蓮寺(現在は廃寺:桑名市額田笹貝)が建てられました。

また、天平12年(740)には、聖武天皇が藤原広嗣の乱から逃れる途上で桑名に入り、
「石占の頓宮(いしうらのとんぐう)」に滞在されたという記録も残っています。

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【長良川河口堰】

室町期になると、桑名神社(現:春日神社)を中心に「十楽の津」と呼ばれる楽市が開かれるようになり、
桑名は堺・博多・大湊と並ぶ日本屈指の貿易都市として賑わいます。

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【九華公園(桑名城跡)の本多忠勝像】

その後、江戸期の慶長6年(1601)には、
57度もの合戦に出陣し、一度も傷を受けることなく戦い抜き、
後に徳川四天王と称されることになる本多忠勝が桑名城に入城。

桑名藩11万石の城下町としても更に発展してゆきます。

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【桑名城堀跡:06年5月撮影】

この当時桑名は、木曾・揖斐・長良の三川が合流する水運の要衝、
また、陸運では東海道42番目の宿駅として、
全国から物資が集まる流通の一大拠点となり、繁栄の極に達しました。

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【桑名城堀跡】

しかし、その後の桑名は度重なる不幸により、歴史の表舞台から姿を消します。

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【鈴鹿山脈に沈む夕日】

まずは、元禄14年(1701)と享保4年(1719)の2度の大火で城下町の殆どを消失。

更に幕末には、佐幕派一会桑体制(一橋慶喜・会津藩・桑名藩)の拠点と見なされ、
桑名城は明治政府によって徹底的に破壊されてしまいます。

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【揖斐川岸:住吉神社】

維新後は、廃藩置県によって桑名藩は桑名県となりましたが、
その後、近隣の県との合併によって安濃津県(現:三重県)となり、
桑名の町はその一部に加えられます。

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【揖斐川岸:ジョギングの女性】

その後、近代に入っても、昭和20年(1945)の太平洋戦争の戦火、
昭和34年(1959)の伊勢湾台風などで大被害を受け、
現在の桑名市街には昔日の面影はありません。

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【JR揖斐長良鉄橋】

この様に、近世以降の桑名の歴史は決して平穏なものではありませんでしたが、
前述のように、近年は名古屋のベットタウンとして賑わいを取り戻しつつあるようです。

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【揖斐川岸:桜】

今回は、桑名の町の成り立ちをざっと紹介しましたが、
着任して約2週間、ちょっと調べただけでも訪れたいスポットが目白押し。

近県の愛知や岐阜を併せると、何ぼ時間があっても足りまへん。
今回の転勤生活も退屈しないで済みそうです。

(※1) 三重県下で人口が最大の都市は四日市市で約30万人。
    続いて津市約29万人、鈴鹿市約19万人、松坂市約17万人となっています。

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2009年3月16日 (月)

さらば、上毛の国!

息子の大学合格発表があった10日に、実はもう一つ大きな事件がありました。

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【草津白根山・湯釜】

嫁さんと息子と私、3人で肩叩き合って、
「やったね!」「良かったね~」と喜び合っているところへ、
私の携帯に一本の電話がかかってきました。

液晶を見ると、勤める会社の人事部から。

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【草津温泉・湯棚】

「何やろ?休みの日に・・・」と思いながら電話に出ると、

担当者:「yufukiさん、今、大阪ですよね? 明日本社に来てもらえますか?」
私:「何で? 明日も休みを取ってるので、用件を言ってよ。」
担当者:「電話ではお伝えできないことです・・・」
私:「エーッ!それってひょっとして~~て・ん・き・ん~~」

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【八幡塚古墳】

次の日、本社に行ってみると、案の定、転勤の内示がありました。

前任地の岡山から、現任地の群馬に来てまだ1年半。
我が社の転勤サイクルの標準は2~3年。

あと半年は無いと思っていたので、不意を突かれてしまいました。

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【白衣大観音】

もうすぐ、春の真っ盛り。

昨春行けなかった、北関東の桜の名所をリストアップして、
「春よ来い♪早く来い♪」と、心待ちにしていたのに。

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【伊香保神社】

とはいえ、社命には逆らえないのがサラリーマンでございます。

少々心残りではありますが、次なる任地でも桜の名所は必ずあるはず。
そこで、撮りまくるしかありません。

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【雪を戴く浅間山】

これから少しの間は、転勤・転居のドタバタが続きますが、
単身赴任にも馴れましたので、早く落ち着けると思います。

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【桜咲く赤城山】

また、新天地で撮った写真は追々アップしてゆきますので、
その時はよろしくお願いします。

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【青葉繁る妙義山】

本当に短い間でしたが、群馬でもイイ思い出が沢山できました。

雄々しく聳える赤城・榛名・妙義の上毛三山。
滾々と湧き続ける草津・伊香保・四万のお湯。
古の暮らしを今に伝える旧跡・遺跡・古墳の数々。

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【紅葉の榛名湖】

岡山を去るときも、同じように思いましたが、
住めば都とはよく言ったもので、来る前の印象以上に素晴らしい所でした。

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【晩秋の四万川】

お仕舞に、当地に来て出逢った沢山の方々に感謝の意を表して、
次なる任地へ向いたいと思います。

さらば上毛の国!思い出を有り難う!

※ちなみに、次に赴く先は中京地方で、今月の末には着任します。
 ホームタウン大阪に少しは近づきますが、単身赴任は継続です。

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2009年3月13日 (金)

親バカの記

本日は親バカ日記です。

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【長男1歳半頃(と思う):大阪市旭区の淀川河川敷で。】

3月10日(火)は、国立大学の合格発表の日。

我が家の長男が、昨年は涙を飲んだ京都大学の入試に再挑戦していたので、
この日は仕事はお休みして、帰阪しておりました。

結果は見事に合格!

京都の発表会場には行かず、自宅PCでのネット確認であったのですが、
息子の番号を発見した瞬間は、モニターの前で奇声をあげて喜びに浸りました。

思えば、学習塾に通う事もなく、小・中・高と公立学校で過ごした息子に、
親が掛けた教育投資といえば、一年の浪人期間に払った予備校費用ぐらいのもの。

また、全くと言って良いほどの病気知らずで、
小学校6年間の欠席日数は1日だけで、中・高は皆勤賞、
歯医者にすら通った事がない程の健康体でありました。

何とも安上がりで、手のかからなかった息子に、
親バカとは思いますが、「よくやった!」と目一杯の称賛を送り、
今後の彼の大学生活が実りあるものとなるよう、心から祈りたいと思います。

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2009年3月 6日 (金)

花三昧

先月の27日(金)の事。
写真サークル「お散歩ネット」のお仲間のT氏から、
突然、携帯にメールがありました。

内容は「節分草を撮りに行きませんか?」とのお誘いで、
予定日は4日後の3月2日(月)。

幸いにも仕事の方は大した予定が無かったので、
急遽お休みを振り替えて御一緒させていただきました。

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【春の妖精・節分草②】

JR八高線の寄居駅までT氏に迎えに来ていただき、
向った先は埼玉県秩父郡小鹿野町両神の堂上地区。

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【春の妖精・節分草②】

節分草なるものの知識が全く無かったのですが、
ネットの植物図鑑で調べたところ、

『キンポウゲ科の球根植物で、本州の関東地方以西に分布。
高さ10センチほどの小さな多年生草本で、
2月から3月初ごろ直径1cmほどの花を咲かせる。
山地のブナ林など、落葉広葉樹林の林床に生え、
石灰岩地を好む傾向がある。』

とあり、図鑑の写真を見てみると、なんとも愛くるしい白い花。

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【春の妖精・節分草③】

小鹿野町は「町の花」として節分草の自生保護に力を入れているらしく、
堂上地区の自生地は日本一の規模だそうで、初めて見る「春の妖精」に期待は膨らむばかりでした。

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【春の妖精・節分草④】

寄居駅から1時間弱、9:30過ぎに堂上地区自生地「節分草園地」に到着しましたが、
もう、駐車スペースには車がイッパイ。

入園料300円を支払って園地の中に入ると、多くの方々が既に撮影をされていました。

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【春の妖精・節分草⑤】

結構な人出で、「世はやはり、写真ブームやなぁ」と妙に納得してしまいました。

節分草の方はというとほぼ満開状態で、ちょうど見頃の時期だったと思います。
お天気もよく、2時間程の間、たっぷり春の妖精と遊んでいただきました。

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【宝登山ロープウエイ山頂駅】

次なる目的地は、長瀞町の宝登山(標高497m)にある梅園「梅百花園」。

途中、道の駅「龍勢会館」で食事を済ませた後、
13:00前に宝登山ロープウエィの山麓駅に到着しました。

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【宝登山頂付近からの眺望】

秩父鉄道㈱が運営するこのロープウエイは、山頂駅までの距離832m(標高差236m)を約5分で結んでおり、
「もんきー号」と「ばんび号」という2台のゴンドラが、つるべ式に山麓駅と山頂駅を交互に行き交っています。

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【梅百花園の梅①】

「梅百花園」は、山頂駅のすぐ目の前。

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【梅百花園の梅②】

ここには、約170種・約470本の梅の木が植えられていて、
日本一品種数が多い梅園だそうです。

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【梅百花園の梅③】

梅の木のそれぞれには、品種の名前が書かれた札が下げられていましたが、
いつながら、写真を撮りながら品種名を控えておくということが出来ないので、
どの写真が何という品種かはサッパリわかりません。

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【梅百花園の梅④】

ここでは、約1半時間ほど撮影。
見頃というには少し早すぎたようですが、山頂からの眺望と早春の陽光を十分楽しみました。

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【梅百花園の梅⑤】

ロープウエイを降りT氏の車に戻ったのが、未だ14:00を回ったところ。

まだ時間があるということで、
皆野町にあるムクゲ自然公園に連れて行って頂く事になりました。

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【秩父紅①】

ムクゲ自然公園は、一つの小山をすっぽりと植物園にしたような自然公園で、
その名のとおり、夏には10万本のムクゲの花が咲くことで知られているとの事。

また、ムクゲの他にもツツジやアジサイ、
南山スミレなどが四季折々に楽しめるそうです。

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【秩父紅②】

この日のお目当ては、幻の福寿草といわれる「秩父紅(ちちぶべに)」。

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【秩父紅③】

従来種よりも赤みが強いこの品種は秩父地方の特産で、
約100年前に発見された突然変異株を増やしていったものだそうです。

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【福寿草・在来種①】

入園料500円はちょいと高めですが、帰りにはお茶や甘酒のサービスもあり、
これからの季節、また訪れたい公園でありました。

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【福寿草・在来種②】

撮影終了後、T氏に寄居駅まで送っていただき、
帰路に着いたのが17:00頃。

花撮り三昧の一日でした。

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【JR寄居駅】

丸一日、運転と案内役をしていただいたT氏、本当に有り難うございました。
また、誘っていただければ嬉しいです。

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2009年1月13日 (火)

福を招く笑顔♪

ご無沙汰しています。

そして、今更ながらではございますが、
あけましておめでとうございます。

年を追うごとに、新年最初の更新が遅くなってしまっていますが、
本年も宜しくお願いします。

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【えべっさん】 

昨年末から今年にかけては例年以上に忙しく、本当に参りました。

景気が良い忙しさなら勢いで乗り切れますが、
モノが売れず、後追い対策の連続は精神的にもきついものがありました。

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【商談中】

わが国は今、米国のサブプライムローン問題に端を発した、
100年に1度?と称される経済危機の真っ直中。

金融・不動産業界は勿論の事、自動車や家電といった実体経済の主役である製造業も、
折からの円高にも打たれて、急速な業績悪化をたどっています。

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【年の初めのえべっさん♪】

おそらくは、各企業の決算が出揃う今春には不況の第1次の底がやって来ます。

そして、その後も第2・第3の底が相次いで待ち構えていると思われ、
現時点では、その時期と底の深さは全く見当がつきません。

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【商売繁盛で♪】

私が従事する流通業界もこの年末年始商戦は「みぞゆう」の大不振。
想像の範囲を遥かに超えた悪さで、全くモノが売れません。

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【笹もって♪】

言うまでもなく、個人消費は心理に大きく左右されます。

とりわけ、モノやサービスが既に十分に行き渡り、
尚且つ少子高齢化の進んだ日本のような成熟消費社会ではその傾向は強まるばかり。

従って、今回のような株安などによる逆資産効果がもたらす心理的悪影響は、
かつて無いほど甚大なものとなっています。

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【来い♪】

小売・流通業は、この10数年で明らかにオーバーストアとなりました。

平成3~19年(1991~2007)の商業統計を比べてみますと、
この期間で小売業の店舗面積は約1.5倍に膨れあがっています。

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【えびす娘さん①】

しかしながら、同期間の販売額は逆に5%弱のマイナス成長。

甘い需要予測に基づいた商業施設の量産によって、
流通業界は今回の不況を待たずして、既に不毛な消耗戦に突入していました。

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【えびす男さん?①】

こうした「過剰」は、間違いなく社会から「調整」されます。

今後も、商業施設間の生き残りをかけた戦いがますます加速してゆくでしょう。

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【えびす男さん?②】

「不況」と「成熟」という二重苦的市場で勝利するには?

難問であります。

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【えびす顔】

無い知恵を絞っても、事が大きすぎて対応不能。
こういう時は神頼みしかありません。

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【福娘さんのOG)】

今年のお正月休みは4日間で、6~9日にかけて帰阪していたので、
今宮戎神社にお参りに行ってきました。

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【えびす娘さん②】

今宮戎神社では、毎年1月の10日には「十日えびす」の祭礼が盛大に行なわれ、
9日の「宵えびす」、11日の「のこり福」と合わせ、3日間で約100万人の参詣者が訪れるそうです。

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【国際交流】

私自身、自営業の家で育ったので、「十日えびす」前後にほぼ毎年お参りしており、
一昨年にはこのブログにも「浪速の神様」という記事を書きました。

しかし、昨年は帰阪の日程が合わずで、お参りしたのは2月になってから。

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【えびす娘さん③】

2年ぶりの「えべっさん」は不況を反映してか、
例年にも増して人出が多いように感じられました。

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【福娘さん①】

参詣客は、境内で配られている福笹(無料)を頂き、
それに「吉兆」と呼ばれる鯛や小判・米俵などの形をした縁起物(有料)を、
その場で福娘さんに結んで頂くのですが、商売繁盛や家内安全など、
かける願によって付ける「吉兆」の優先順位が変わります。

中には福笹がしなって折れそうなほど沢山つけておられる方も。

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【福娘さん②】

福娘さん達は毎年コンテスト形式で選ばれており、
今年は3000人近い応募の中から45名が選出されました。

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【福娘さん③】

選考基準は「健康で笑顔の美しい女性」であること。

昭和55年(1980)に始まった「福娘発表会」の様子は、
近年ではテレビ放映(ABC)もされており、
かつては「福娘に選ばれれば良縁に恵まれる」と言われていましたが、
今や女子アナウンサーや芸能界への登竜門となっています。

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【福娘さん④】

何といっても高い倍率を勝ち抜いて福を射止めた彼女達が、
金色の烏帽子と白い千早姿で微笑めば、財布の紐も緩もうというもの。

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【福娘さん⑤】

自分の好みの…いや福が貰えそうな福娘さんのところに並んで、
会話をしながら一つ一つ吉兆を結んで頂く…

実によく考えられたシステムで、さすが商売の神様!!

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【福娘さん⑥】

福娘さんをはじめ、境内に溢れる沢山の笑顔に癒され
家路につく頃には、「世の中なるようにしかならんわな~」と、
気分は一気に楽観ムードとなっておりました。

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【お帰り道】

嘆いてみても仕方が無いので、「明けない夜はない」と考え、
前向きにやって行きたいと思います。

★今年の「えべっさん」で出会った笑顔です↓

「えびす顔」編 http://yufuki.cocolog-nifty.com/photos/egao/
「福娘」編    http://yufuki.cocolog-nifty.com/photos/hukumusume/

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2008年11月26日 (水)

世のちり洗う四万温泉

先週の19日(水)~20日(木)に、久しぶりに温泉に出かけました。

訪れたのは、群馬県の北西部、吾妻郡中之条町にある四万(しま)温泉郷。

草津・伊香保と並んで上州三名湯と称される温泉地で、
群馬県の誉れを集めた「上毛かるた」にも、「世のちり洗う四万温泉」と詠まれています。

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【四万温泉郷:ゆずりは地区付近】

群馬・新潟県境、三国山脈に源を発する四万川の両岸3kmの間に、
5つの地区、温泉口・山口・あらゆ・ゆずりは・日向見に分かれて広がる四万の街並みには、
歓楽的な雰囲気は一切無く、湯治場の風情を色濃く残す温泉郷として高い支持を得ています。

平成17年(2005)には、NHKで放映された朝の連ドラ「ファイト」(主演:本仮屋ユイカ)の舞台となり、
全国的にもその名が知れれるようになりました。

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【国宝:日向見薬師堂】

開湯の伝説は古く1,000年以上前にまで遡ります。

時は延暦年間(782~806)。

大江山の鬼退治で有名な源頼光の家臣で、
渡辺綱・坂田金時・卜部季武と共に四天王として名を馳せた日向守・碓氷貞光が、
越後から上野国に向う途中でこの四万の地を訪れました。

山の佇まいや谷川の響きに心を澄まし、貞光が一心に読経していると、
夢うつつとなった夜半の頃に童子が現れ、神託を授けました。

「汝が読経の誠心に感じて四万(よんまん)の病悩を治する霊泉を授ける。我はこの山の神霊なり」

目が覚めてみると、神託通りにお湯が湧き出していました。

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【四万温泉発祥の地「御夢想之湯」①】

そのお湯が四万最奥にある「御夢想之湯」と伝えられており、
今もこんこんと湧き続けています。

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【四万温泉発祥の地「御夢想之湯」②】

四万の源泉は全部で43ヶ所。

湧出形態は、3ヶ所が堀削源泉で、その他40ヶ所はすべて自然湧出となっており、
全体の湧出量も毎分約3,500ℓあり、強い温泉力を誇っています。

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【県重要文化財「湯宿」:積善館本館】

泉質は重炭酸土類泉と呼ばれるもので、平均pHは7.7。
最近の調査では、60年以上もの時をかけて地表にわき出ていることが分かっています。

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【塩の湯飲泉所】

長い年月をかけて湧き出たお湯には、カルシウム・ナトリウム・マグネシウムなどの土類イオンが豊富に含まれ、
効用としては、鎮静作用や炎症を抑える働きがあるそうです。

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【奥四万湖】

また、たっぷりミネラルを含んだお湯には、フルーツ酸の含有も認められています。

フルーツ酸は、老廃物を取り除き、肌に透明感を与えると言われている成分で、
美容業界で最も注目されている成分の1つだそうです。

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【四万温泉口の碑】

環境省は、温泉利用の効果が充分期待され、かつ健全な温泉地としての条件を備えている温泉地を、
温泉法14条に基づいて、国民保養温泉地(全国89ヶ所)と定めていますが、
ここ四万温泉は、昭和29年(1954)に酸ヶ湯温泉(青森県)、日光湯元温泉(栃木県)とともに、
当時の管轄官庁であった厚生省から国民保養温泉地第1号の指定を受けています。

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【清流・四万川】

国民保養温泉地に指定される条件は、以下のとおり。

・温泉の効能が顕著であること
・湧出量が豊富であること
・利用上適当な温度を有すること
・環境衛生的条件が良好であること
・付近一帯の景観が優れていること
・適切な医療施設及び休養施設を有するか将来施設し得ること
・医学的立場から適正な温泉利用、健康管理について指導を行う顧問医が設置されていること
・交通が比較的便利であるか又は便利になる可能性のあること
・災害に対し安全であること

これらをクリアしなければ、指定を受ける事が出来ず、
環境省の指定温泉一覧を見ると、
全国的な知名度があっても、観光温泉は入っていないようです。

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【県指定天然記念物:四万の甌穴①】

また、健康と温泉フォーラム(NPO法人)が「温泉療法医がすすめる温泉」として選定した温泉一覧、
名湯百選」にも選ばれており、四万のお湯の効能は各界でお墨付きを受けています。

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【県指定天然記念物:四万の甌穴②】

去年の9月に群馬県に赴任して以来、北関東の温泉地としては、
草津伊香保磯部鬼怒川に続いて、今回の四万温泉で5ヶ所を巡りました。

私の個人的な感想としては、
温泉街としての充実度や楽しさは草津温泉が一番でしたが、
事、「お湯」という点ではこの四万温泉が一番気に入りました。

熱いお湯が好みの私にはぴったりの温泉。
源泉の温度は平均して50~60℃程度、高いところでは90℃にもなるそうです。

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【お猿】

今回、お世話になったお宿は、ゆずりは地区の中ほどにある旅館「やまの」さん。
清流・四万川に面した全5室のこじんまりした湯治宿です。

明るくはきはきとお話される若女将さんの気持ちの良い接客と、
手作り感あふれるお料理には、家人ともども大満足。

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【やまの旅館】

また、ご主人は元・写真屋さんだったようで、
館内には四万付近の動植物や風景を写した美しい作品や、
歴史を感じる写真機材が飾れており、写真好きの私にはぴったりのお宿でした。

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【共同浴場「上之湯」①】

宿のお湯の他にも、四万温泉郷には寸志で入浴可能な共同浴場があります。

四万発祥のお湯である日向見地区の御夢想の湯、あらゆ地区の河原の湯、山口地区の上の湯、
そして、今回は入れませんでしたが、四万川の河原にある山口露天風呂の4施設で、
小規模ですが、それぞれ特徴のある共同浴場を巡るのも楽しみの一つだと思います。

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【共同浴場「上之湯」②】

周囲にはこれといった見所もなく、有るのはただ山と川、そしてお湯だけ。
しかし、それ以外のものは何もいらないと思わせる温泉郷でありました。

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2008年11月22日 (土)

日本一の商店街

先日、社用で帰阪した際に、久しぶりに天神橋筋商店街を訪れてみました。

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天神橋筋商店街は、名実共に大阪を代表する商店街。

北は淀川にかかる長柄橋付近から、南は中之島にかかる天神橋付近まで、
総延長約2.6kmにわたり、ほぼ直線に延々と続く日本一長い商店街です。

その歴史は古く、300年ほど前の江戸時代中期にはすでに、
大阪天満宮の門前町として栄えていました。

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【天神橋二丁目商店街】

大阪天満宮の創始は天暦3年(949)。

以来、門前に自然発生的に形づくられた商店街は、
承応2年(1635)の「天満青物市場」の開設によって大きく発展することとなりました。

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【参道提灯:天神橋二丁目商店街】

その後、天保8年(1837)の大塩平八郎の乱や昭和20年(1945)の大阪大空襲など、
幾度の苦難に見舞われながらも、当地の商人(あきんど)は力を合わせて難局を乗り切ってきました。

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【天神橋三丁目商店街】

そして、今日も古き良き大阪の下町情緒を色濃く残した商店街として、
府下はおろか、近畿一円から大勢の買い物客を集めています。

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【天神橋三丁目商店街】

天神橋筋商店街とは、実は9つの商店街を総じた通称。

南から北へ、天神橋一丁目商店街、天神橋二丁目商店街、
天神橋三丁目商店街、天満南街商店会、天神橋筋四番街、天四北商店会、
天神橋五丁目商店街、天五中央商店会、天六商店街と続いており、
その間に衣料品・食料品・飲食店など、大小800店舗以上の多種多様なお店が立ち並んでいます。

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【天神橋五丁目商店街】

その中でも飲食店はとりわけ有名で、行列が出来る人気店が目白押しです。

私のお勧めは、天神橋五丁目界隈にある寿司屋さん。

人気店の「春駒」「奴寿し」「すし政」などは、
寿司好きが集まると「何処が一番安くて旨いか?」で論争が起り、派閥が出来るほど。

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【すし政】

私はどちらかと言うと「奴派」ですが、実際は甲乙付けがたいというのが正直なところ。

酒を飲めない私と家人二人だと、3店の何処に入っても\5,000もあれば、
新鮮でおいしい寿司が腹いっぱい食べられます。

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【春駒】

この日も、久しぶりに「奴」で寿司を食べたかったのですが、
一人で食べたことが家人に知れるとマジに怒られるので、お店の写真だけで我慢しました。

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【奴寿し】

人気の寿司屋がひしめく天神橋五丁目商店街から東に少し入ったところに、
かつては「天満青物市場」が置かれていました。

「天満青物市場」は当初、石山本願寺(現・大阪城公園)付近にありましたが、
承応2年(1635)頃に当地へ移転したと伝えられており、
その後は、堂島の米市場(大阪市中央区)、雑喉場の魚市場(同西区)と並び、
大阪三大市場の一角として、青果物の取り扱いを長年一手に独占してきました。

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【路地:天神橋筋四番街付近】

その後、明治・大正になっても大阪随一の青物市場として栄えていましたが、
大正6年(1931)に東洋一の規模を誇る大阪市中央卸売市場(福島区)が設立されると、
「天満青物市場」は雑喉場の魚市場と共に、そこに統合されることとなりました。

統合後も跡地は「天満卸売市場」として残り、30年程前までは賑わいが続いていましたが、
食品の流通経路と消費者の買物スタイルの変化で、近年の客足は減少の一途だったようです。

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【現天満卸売市場】

その後、平成14年(2002)には、老朽化した旧市場を取り壊して高層化する再開発工事が始まり、
3年後の平成17年(2005)、新生天満市場「ぷららてんま」(再開発ビル)がオープンしました。
(撮り忘れの為、写真なし)

「ぷららてんま」には、旧市場権利者により運営されている店舗・業務用スーパー、
市場外部からの食料品以外の医療、サービスなどの幅広い新店舗が出店しており、
上層階(6~28F)には都市再生機構の賃貸住宅294戸が入居しています。

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【旧天満市場界隈①】

実は十数年前まで、私の父親もこの地で青果卸業を営んでいました。

その関係で、幼い頃から何度も訪れたことのある馴染み深い場所のはずなのですが、
再開発以降は知らない場所に来たようで、一抹の寂しさは拭えません。

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【旧天満市場界隈②】

しかしながら、再開発ビル周辺の一部にはかろうじて昔の雰囲気が残る区画もあり、
威勢の良い呼び込みの声と値段の安さは昔のまま。

その姿は変われども、大阪の台所を支える心意気は感じられました。

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【天神橋筋五丁目の人気串カツ店「七福神」:生ビール一杯目\100】

天満市場から国道2号線を超えて南へ下ると、この界隈の繁栄の基となった大阪天満宮が鎮座しています。

大宰府天満宮・北野天満宮とともに日本三天神として全国にその名を知られており、
毎年7月24日から25日にかけて行われる天神祭には、毎年13万人以上の観光客が押し寄せます。

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【天六商店街】

大阪天満宮は、江戸時代の記録に残るだけでも7度の火災に遭い、
なかでも大阪市中を焼き尽くした享保9年(1724)の妙知焼け(※1)や、
大塩平八郎の乱による天保8年(1837)の大火では全焼しています。

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【大阪天満宮拝殿】

現在の本殿は、氏子衆や崇敬者の献身的な奉仕によって、
大塩の乱の6年後、天保14年(1843)に再建されたものです。

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【祈願】

先の大戦の大阪大空襲の際には、この付近は一面の焦土と化しましたが、
この本殿は焼けずに残りました。

それは、氏子の方々が自分の家が焼けるのを横目に見ながら、
「天神さんを焼いたらあかん」と懸命に消火活動をされたおかげだそうです。

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【天満宮神職】

この日の境内には、老若男女・多種多様な人たちが曳きも切らさずお参りされ、
また、七五三のご家族連れも多数見受けられました。

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【七五三参り】

社殿は質素で、あの天神祭りのお宮さんかと思うと地味な感じさえしますが、
天満の天神さんは、大阪人の心にしっかりと根付いているようでした。

(※1)
享保9年3月21日正午、堀江橋通り3丁目から出た火は、
強風にあおられて燃え広がり、翌22日夕方まで鎮まらず、
当時の大阪三郷(北組・天満組・南組)の7割を焼きつくしました。
焼けた家屋1万1千戸、死者約300人。
火元の女性の名が妙知だったので「妙知焼け」と呼ばれています。

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2008年11月14日 (金)

紅葉の榛名山

先日(11月7日)に、榛名山に紅葉見物に行ってきました。

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榛名山は赤城山、妙義山と共に、上毛三山と称される群馬県を代表する山です。

那須火山帯に属する二重式火山で、広い裾野の外輪山を多数持つその山容は貫禄十分。

最高峰である掃部岳(1448m)をはじめ、相馬山(1411m)、水沢山(1194m)、杏ヶ岳(1292m)、
鏡台山(1079m)、天狗山(1179m)、鐘原ヶ岳(1225m)、音羽山(1015m)、鷹巣山(956m)、
氷室山(1240m)、三ツ峰山(1315m)、臥牛山(1232m)、烏帽子ヶ岳(1363m)、鬢櫛山(1350m)、
天目山(1303m)、吾妻山(831m)、蛇ヶ岳(1229m)、二ツ岳(1343m)など、
外輪の峰々が中央に位置する榛名富士(1391m)と榛名湖を取り囲んでいます。

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【紅葉の榛名富士①】

火山噴火予知連絡会は平成15年(2003)に、
「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動がある火山」として、
Aランク(13山)・Bランク(36山)・Cランク(36山)・ランク外(23山)の合計108山を指定しましたが、
榛名山はその中ではランクB。

火山活動の活発さから言えば、今も噴煙を上げる桜島や阿蘇山などのAランク13山に次ぐ、
二番目のランクとなっています。

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【紅葉の榛名富士②】

しかしながら、榛名山最後に噴火したのは1400年以上前。
外輪山の二ツ岳が、5世紀末~6世紀中にかけて大噴火を起こしました。

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【紅葉の榛名富士③】

最初の噴火口は現在の伊香保温泉街のすぐ上あたりで、
この噴火では大規模な熱雲が発生し、吾妻川~子持山麓付近までを焼き尽くしたそうです。

その20~30年後には、最初の噴火口の南西隣に火口がもうひとつ開いて、軽石を空高く噴き上げました。
南西の風に吹かれて、遠く仙台まで達した事が確認されているそうです。

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【烏帽子ヶ岳】

現在の渋川市周辺では、この噴火で埋まった集落の遺構、黒井峯遺跡や中筋遺跡などが発見されており、
当時の人々の生活や火山災害を今に伝える貴重な資料として研究が進められています。

噴火により瞬時に埋没したため、竪穴住居・平地建物・畑・垣根・祭祀など、
古墳時代後期の集落遺構がほぼ完全な形で保存されていたことから、
これらの遺跡は「日本のポンペイ」と呼ばれています。

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【湖畔の休息】

最初の噴火で熱雲が焼き尽くした土地の上に、現在は30万もの人々が生活を営んでいると思うと、
榛名山が再び、目覚めないように祈るばかりです。

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【群馬県立榛名公園碑】

外輪山の内側には中央火口丘の榛名富士とカルデラ湖である榛名湖があり、
この一帯は群馬県立榛名公園として、公園整備されています。

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【わかさぎ釣り】

榛名湖は、群馬県下屈指のアウトドアレジャースポット。
夏にはキャンプやバスフィッシィング、花火大会、
湖面が凍結する冬には、ワカサギ釣りやスケートなどが楽しめます。

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【ススキ①】

また、榛名湖はあの「湖畔の宿」のモデルとなった湖としても知られています。

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【ススキ②】

山の寂しい湖に ひとり来たのも 悲しい心♪

昭和15年(1940)に発表され、一世を風靡した名曲「湖畔の宿」。

作詞は佐藤惣之助、作曲は服部良一。
そして、歌うは松竹のスター高峰三枝子。

気品のある美しいメロディーは、今なお聴く人の胸に響きます。

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【湖畔の紅葉①】

昭和15年といえば、戦争真っ直中の時代。

ラジオからは戦意高揚をねらった軍国歌謡がさかんに流されており、
そんな中で発表された「湖畔の宿」は、感傷的な歌詞やメロディーが戦時下には相応しくないと、
当局から発売禁止の処分を受けてしまいます。

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【湖畔の紅葉②】

その後、高峰三枝子は前線にいる兵隊の慰問のため、度々中国大陸を訪れることになりますが、
前線の兵士達は国内では発売禁止の「湖畔の宿」をおおっぴらに歌い、
また彼女自身にも多くのリクエストがあったといいます。

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【湖畔の紅葉③】

こうして、戦中~戦後も歌い継がれてることとなった「湖畔の宿」ですが、
今度は「この湖ってどこなの?」というモデル探しが始まりました 。

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【湖畔の紅葉④】

諏訪湖?山中湖?など、色々な説がある中、ついに真相が判明。

榛名湖畔で旅館「湖畔亭」を営む門倉博さんが、
かつての従業員から佐藤惣之助の手紙を託されていることが判り、
そこには「湖畔の宿は全く榛名湖のことであるが、あの中のことは全く夢だよ。」とありました。

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【夕焼けに染まる榛名山:高崎市内より望む】

平成元年(1989)には「湖畔の宿記念公園」がオープン、人が近づくとセンサーが感知し、
オルゴールが作動する歌碑が立てられました。

今では榛名でも有数の名所となっており、大型バスが止められる駐車場も隣接。
ひっきりなしに訪れる観光客によって、あの美しいメロディーが何時でも湖畔に流れています。

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2008年11月 5日 (水)

信仰の山~生駒山

今回も地元から。

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わが故地である東大阪市は大阪平野の東端にあり、奈良県生駒市と市境を接しています。

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【東大阪市側から見た生駒連峰】

その両市の間に横たわっているのが生駒山地と呼ばれている山塊で、
北端は、大阪府枚方市と京都府八幡市の市境付近。

そこから南へ、主峰である生駒山(標高642m)、高安山(標高488m)、信貴山(標高437m)を経て、
大阪府柏原市と奈良県香芝市の市境あたりまで、細長く連なっています。

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【生駒山中腹から望む生駒市街】

主峰の生駒山は、東大阪市民にとっては最も馴染みの深い山。

市内にある殆どの学校の校歌に謳われているので、
「山といえば生駒」のイメージが、小さい頃から出来あがっています。

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【生駒聖天参道】

たとえば、私が卒業した学校の校歌は、

小学校が、生駒の緑 鮮やかに♪
中学校が、生駒の峰を仰ぎてここに♪
そして高校は、伸び行く梢天を指し 生駒の山と競いたり♪

というような具合です。

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【宝山寺惣門】

また、生駒山は親しみのある山という他にもう一つ、
信仰の山・霊山という側面を持っています。

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【本堂と聖天堂(奥)】

日本書紀によると、

大空の中に龍に乗れる者あり、かたち唐人に似たり。
青き油笠を着て葛城の嶺より馳せて胆駒山(いこまやま)に隠る。
午の時にいたりて住吉の松のいただきの上より西に向い馳せ去りぬ。

とあり、古来より生駒山は神霊の宿る山として崇められてきました。

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【聖天堂】

現在にいたっても、山腹・山麓には滝の修行場や祠など、
有名無名、大小さまざまな宗教団体の施設があり、
これらの中には宗教法人として届けられていないものも多く、
その総数は現在も把握されていません。

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【観音堂と般若窟】

そんな数ある寺社や宗教施設の中でも、
関西一円から広く参拝客を集めているのが、
真言律宗大本山宝山寺、通称「生駒の聖天さん」。

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【本堂脇・牛の像】

現在の堂宇が建つ一帯は古来からの霊地で、
山肌から突き出た奇怪な岩山・般若窟(有史以前の火山跡)に、
役小角が般若心経を納めた事が開基と伝えられています。

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【祈り①】

その後は、都史陀山大聖無動寺と称していたようですが、荒廃がひどく、
延宝年(1678)になって、宝山湛海(ほうざんたんかい)律師が再興し、
寺号を宝山寺と改め、鎮守として大聖歓喜天(聖天さん)を勧請されました。

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【祈り②】

現在も本尊は湛海律師の手による不動明王像ですが、大聖歓喜天への信仰が厚く、
宝山寺と言えば商売繁盛の「生駒の聖天さん」で通っています。

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【地蔵①】

私の実家は、父が青果卸業、母が飲食業を営んでいたので、
小学生の頃、姉と弟と一緒に、幾度となく商売繁盛のお参りに同行しました。

幼少の私達がどうして退屈なお参りにくっつい行ったかと言うと、
それは、道中に大きな楽しみがあったからです。

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【地蔵②】

その楽しみとは、ケーブルカー。

近鉄生駒駅の西隣には生駒ケーブルの麓側の始発駅「鳥居前」駅があり、
そこから、中間駅の「宝山寺」駅まで約10分。

車両の最後尾に乗り込み、ゆっくりと高度を上げてゆく車窓から、
生駒市街を眺めるのが大好きでした。

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【庫裏縁側の猫】

そして、ケーブル線の終点「生駒山上」駅には近鉄生駒山遊園地があり、
あわよくば、そこに連れて行ってもらおうという魂胆でした。

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【生駒山ケーブル車両】

ちなみに、この生駒ケーブルは日本最古のケーブル路線。

大正7年(1918)の8月29日に生駒鋼索鉄道株式会社(※1)が、
鳥居前~宝山寺間で日本で初めてケーブル路線を開業しました。

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【ケーブル車窓から】

久しぶりに乗った生駒ケーブルですが、
まず、その車両のあまりの変貌振りに驚愕。

系列の遊園地へ子供を運ぶ為の人気策とはいえ、
由緒あるケーブルの車両がこれではと泣きたくなりました。

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【参道に咲くホトトギス】

しかしながら、車窓から見る生駒市街は昔と変わらず長閑で、
40年近く前の家族との思い出が瞬時にして蘇り、
しばしの間、子供に還ることができました。

(※1) 大正11年1月25日に近畿日本鉄道㈱の前身・大阪電気軌道㈱と合併。
        始発の鳥居前駅から生駒山上駅へは、中間の宝山寺駅で乗り換えが必要です。

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2008年11月 1日 (土)

だんじりパレード

ご無沙汰しております。

ここ数ヶ月はさぼり気味で更新頻度が悪く、
2~3度/月間というような状態が続いておりましたが、
遂に、10月度は0となってしまいました。

コレには立派な言い訳があります。

9月28日に突然、ブログにアクセス出来なくなってしまったのです。

どうしてそうなったのか、今も正直解からないのですが、
@niftyさん曰く、「ブログアカウント自体が削除された」そうです。

自分で削除した覚えは無いのですが、
「誤操作の可能性はないですか?」などと聞かれると、
PC音痴の私は途端に自信がなくなってしまいます。

原因はどうであれ「復活してもらわなければ困る」と、
何度も@niftyさんと電話とメールで遣り取りを繰り返し、
やっと10月23日に再びアクセスが可能になりました。

そのような訳で長らく更新が滞っていましたが、今回が復活第一弾です。

10月19日に行なわれた、地元のだんじり(地車)祭りに見に行ってきました。

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私の生まれ育った河内地方は、泉州・摂津地方と並んでだんじりが盛んなところ。

岸和田のだんじり祭りのように、全国的にメジャーなお祭りはありませんが、
わが町・東大阪市にも多くのだんじり保存会があり、市内各地でだんじりの曳行が行なわれています。

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【だんじり曳行①】

ちなみに、神戸市から岸和田市までの摂・河・泉地方一帯には、約800台のだんじりがあるそうですが、
台数の1位はやはり岸和田市で約80台、2位が大阪市の75台、3位が堺市の69台。

そして4位が東大阪市の55台、続いて5位が神戸市の43台となっています。

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【だんじり曳行②】

現在の自宅がある地区の秋のだんじり祭りは、元は別々に行なわれていた9つの神社のお祭りを、
15年程前に日程を合わせて合同だんじりパレードというに形式にしたもの。

小学校三校区にまたがる11自治会から、10台のだんじりと1台のふとん太鼓が出張ります。

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【だんじり曳行③】

わが息子は青年団の末席に名を連ね、祭りの参加者となっていますが、
私自身は、同じ東大阪市でも違う地区の出身なので、移り住んでまだ15年の新参者です。

おまけに単身赴任で普段は不在の身の上。
よって、この祭りに関しては観客でしかないため、以下はあくまで外野の感想です。

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【だんじり曳行④】

だんじりの曳行は各自治会の青年団が中心となって行われますが、その考え方は色々。

見た目だけで言えば、今どきの若者軍団が大盛り上がりする地区と、
きりりと短髪のお兄さん方が厳粛に取り仕切る地区に分けることができます。

前者を軟派系、後者を硬派系と概ね分類するならば、
軟派7地区、硬派3地区という割合でしょうか。

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【だんじり曳行⑤】

軟派系のだんじりは祭りを楽しむことが一番。

だんじりに乗った男の子たちが威勢良く掛け声を発すると、
正面に陣取る女の子達が跳ね踊りながら、黄色い声で呼応します。

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【だんじり曳行⑥】

一方、硬派系は緊張感がいっぱい。

狭い路では「だんじり囃子」を奏でながら勇壮に曳行し、
メインストリートでは高速で駆け、大屋根の大工方の指揮の下、
コーナーで直角に曲がる「やり回し」を披露します。

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【掛け声①】

だんじりの形式は大きく分けて2系統、
大阪市中心部~河内に多い上地車(重心が高い低速型)と、
岸和田~泉州に多い下地車(重心が低い高速型)に分類されますが、
その両方を一度に見ることが出来るもこのパレードの面白いところです。

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【掛け声②】

写真を見て、近隣の地区でこうも違うか!?と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、
個人的には、このおおらかさが良いなァと思っています。

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【雄叫び】

だんじりの起源については諸説あり、定かではありませんが、
京都の祇園祭の山・鉾にそのルーツがあるという説が有力です。

祇園祭自体の始まりは9世紀、貞観11年(869)といわれていますが、
山・鉾が登場するのは14世紀に入ってから。

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【晴れ姿】

当時は、堺の商人達の繁栄の絶頂期。

彼らは都の文化の数々を堺に持ち込みましたが、その中の一つに祭りの際の山・鉾があり、
それが後世に転じて、だんじりに発展したのではないかと考えられています。

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【交流】

他の地域でも、高山祭りで有名な岐阜の高山や滋賀の近江などには祇園祭から発展した山車があり、
福岡の「山笠」や青森の「ねぶた」なども祇園祭の流れにある山車だといわれています。

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【笑顔①】

祇園の山・鉾は、長い年月の中で、その土地にあった形や曳行方法に変化発展。

日本の各地で、山車・曳山・台楽・屋台・ふとん太鼓・矢倉太鼓などに形を変え、
摂・河・泉地方ではだんじりという形で定着しました。

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【笑顔②】

東京でも江戸時代までは、多くの山車が祭りの際には出されたそうですが、
震災と空襲で殆どが焼けてしまい、現在は御神輿のみが残っていると聞いています。

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【笑顔③】

だんじりと御神輿の違う点は、当たり前ですがだんじりは曳き、御神輿は担ぐという点。

御神輿は神様が一時的にお鎮まりになる神聖な場所であり、
氏子は担ぐだけでその上に乗ることは出来ません。

各地方で差異はあるかもしれませんが、基本的には神事の一環です。

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【寝顔】

一方、だんじり曳行は神社に関連した行事ではありますが、神事ではなく氏子衆の行事で、
氏子衆が楽しむことによって神様も喜んでくださるという考え方が基本となっています。

だんじりには神様がお鎮まりになられている訳ではないので、
大工方は大屋根に上がることが出来るのです。

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【笑顔④】

氏子衆が祭りを楽しむ為の装置、それがだんじりです。

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【夜間曳行①】

そういう意味では、当地区のだんじりパレードはお手本のようなもの。

各自治会・青年団が主体的に、地域の実情にあった形でだんじり曳行を行い、
老若男女、祭りに集った者全員が大いに楽しんでいました。

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【夜間曳行②】

9つの神社の神々にも、大いに喜んでいただけたのではないかと思います。

今回は地元ということで、沢山写真を撮りました。
宜しければ、別窓↓にありますのでご覧下さい。

男衆編 / 女衆編 / 子供編 

曳行編  / 夜間曳行編

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2008年9月24日 (水)

鎌倉倒幕の英雄 その2

(前回からの続き)

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「建武の新政」は表面上は復古的でしたが、
後醍醐天皇が目指したものは先進国・中国を模した天皇専制。

しかしながら、約150年も政権から離れていた天皇家がすぐさま舵を切れるほど、
国内の政治・経済の状況は単純ではありませんでした。

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【新田義重を追善供養する義重山新田寺大光院本堂:太田市金山町】

朝令暮改を繰り返す法令や政策、貴族・大寺社から武士にいたる広範な勢力の既得権の侵害、
もっぱら増税を財源とする大内裏建設計画や紙幣発行計画等の非現実的な経済政策など、
その施策の大半が政権批判へと繋がってゆきます。

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【新田寺大光院開山堂】

倒幕の論功行賞も出たら目で、皇族や側近の公家に厚く、
現場で血を流した武家には冷たいものでした。

武士勢力の不満が大きかっただけでなく、公家達の多くは政権に冷ややかな態度をとり、
また有名な「二条河原の落書」にみられるように、その無能ぶりは厳しく批判され、
瞬く間に後醍醐天皇の権威は失墜してしまいました。

不満を募らせた武士達は、鎌倉倒幕の立役者とも云える義貞ではなく、
その頃、建武政権とは距離を置き、東国・鎌倉にあった尊氏の方に集結してゆきます。

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【新田義貞を追善供養する太田山義貞院金龍寺の参道石段】

したたかな現実主義者が多い武将達は、
同じ清和源氏ならネームバリューがある足利家に付く方を選択したのでした。
 
当然、本来は嫡流である義貞としては面白いはずはなく、
次第に尊氏と対立を深めるようになり、
ついには敵として戦場で相まみえるようになります。

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【太田山義貞院金龍寺本堂:太田市金山町】

建武2年(1335)、尊氏は義貞を君側の奸であるとして、
後醍醐天皇にその討伐を上奏しますが、
天皇は逆に義貞に、武家政権樹立の意思を見せ始めた尊氏討伐を命じます。

新田軍と足利軍の戦いは、勝ったり負けたり。

三河では新田軍が足利軍を破り、そのまま関東に攻め入りますが、
箱根・竹の塚の戦いでは敗れ、京都に逃げ帰ります。

京都では、遠路駆けつけた北畠顕家らと共に、
攻め寄せる足利軍を京都市街に引き込みさんざんに打ち破り、
尊氏は九州に命からがら逃げ込んでいます。

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【太田山義貞院金龍寺本堂】

ここで、すぐさま足利軍掃討に出ればよいものを、
義貞は京都でぐずぐずしているうちに追撃の好機を逃すことになります。

その理由は、天皇の宮中に仕えていた勾当内侍という女性をもらい受け、
これを溺愛してしまったからだということです。

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【金龍寺本堂裏にある義貞供養五輪塔】

やっとこさ足利軍討伐に出た新田軍は、九州へ向かう途上、
赤松円心が篭城する赤穂・白旗城を攻めあぐね、またまた時間のロス。

その間に九州で勢力を立て直した足利軍は、再び京都に攻め上ってきます。

これを迎え撃ったのが名高い「湊川の合戦」です。

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【新田義貞以前の4代の墓が残る御室山円福寺:太田市別所町】

ここで新田軍は、足利軍の囮作戦にまんまとひっかかり退却→敗走。
孤立した楠木正成は最後まで勇戦し、討ち死にしています。

その後、義貞は北陸に逃げ落ち、再起を図りますが、
最後は北陸藤島(福井県)で、自ら先頭に立った偵察行動の中で敵の大軍と出くわし、
戦闘の末、泥田の中で討ち取られ37年の生涯を終えています。

生品神社の境内で、わずか150騎で鎌倉倒幕の兵を挙げてから、たった5年2ヶ月後のことでした。

義貞はその間、故郷の新田荘に一度も帰ることはありませんでした。

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【新田氏累代墓所の碑】

長々と新田義貞の足跡をたどってきましが、
その殆どが中世の軍記物語「太平記」が元となったもの。

義貞の評価が低い根本の原因は、この「太平記」の人物描写によるものだと思われます。

女に溺れて敵に復活の機会を与え、湊川の戦いでは楠正成を見捨ててトンズラ、
トップにあるまじき無茶な偵察行動であえなく命を落とすなど、
その記述は明らかに無能なイメージが強調されています。

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【東毛歴史資料館:太田市尾島町】

しかし、たった15日という短期間で鎌倉を陥落させ、
圧倒的な実力差があった尊氏を一時的にせよ撃破した実力は相当なもの。
決して愚将であっては成し遂げられない功績だと思えます。

知略に富んだゲリラ戦を駆使する名将として描かれる楠木正成や、
傘下の武将達に慕われる寛大な大人物として描かれる足利尊氏の引き立て役として、
太平記の作者によって意図的にキャラクター付けされたことが新田義貞の最大の悲劇でありました。

読み物としてはその方が面白いのでしょうが・・・

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【キバナコスモス:尾島町歴史公園】

また、戦前の一時期、皇国史観が幅を利かせていた時代には、
後醍醐天皇に弓を引いた足利尊氏は逆賊、
それとの対比で、新田義貞を英雄扱いする風潮がありました。

しかし、戦後、皇国史観が見直されるなかで尊氏の再評価が始まると、
反動として、義貞の評価が下がってしまったという事があったかもしれません。

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【新田義貞像:尾島町歴史公園】

新田義貞。法名:源光院殿義貞覺阿彌陀佛尊位。

不遇な名門に生まれ、存命中は武家・天皇家・公家、三つ巴の時代背景に翻弄され、
また、死後は一軍記物語に過ぎない「太平記」の記述に翻弄され、
また、戦前~戦後においては日本人の価値感の大転換に翻弄された悲運の武将。

なんとも、気の毒な人物といえるのではないでしょうか。

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2008年9月23日 (火)

鎌倉倒幕の英雄 その1

久方ぶりの更新です。

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群馬県太田市の尾島町~新田町周辺は、
12世紀中頃、源氏の嫡流である新田氏が開発した新田荘が基になり開けた街です。

現在も新田氏やその系譜にある武士達が残した足跡が数多く残っており、
新田荘園遺跡として平成12年に国の史跡に指定されています。

この史跡は太田市内に広く点在する中世の遺跡群を、
荘園遺跡として面で捕らえ国史指定している、全国的にも珍しい例となっています。

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【上毛かるた】

群馬県には昭和22年(1947)に作られた「上毛かるた」という、
小学生に郷土の歴史や物産を伝える教育カルタが普及しています。

現在でも冬になると、小学校を中心に子供の居住地域ごとにカルタ大会が行われ、
勝ち上がると、大々的に行なわれる県大会に出場することが出来ます。

その「上毛かるた」では、「れ」といえば「歴史に名高い新田義貞」と詠まれており、
このフレーズは群馬県育ちの人ならば、誇張ではなく、ホントに誰でも諳んじられるのです。

その甲斐あってか、新田義貞は鎌倉倒幕に尽力した名将として大変人気ががあり、
地元ののヒーローとなっています。

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【新田義貞誕生伝説地「台源氏館跡」 :太田市由良町字北庄】

しかし、正直言って地元以外でのこの武将の評価は高いとはいえません。
足利尊氏のライバルであったが、ついに尊氏に勝てなかった武将という印象が強いように思います。

私も正直、学校の歴史の教科書で習った記憶はありますが、
同じ南朝方の知将・楠正成の活躍に霞んで、地味な印象しか残っていませんでした。

しかし、実際に天然の要害都市・鎌倉を短期間で一気に攻め落としたのは新田義貞。

群馬の地に来る事がなければ、気にかけることもなかったと思いますが、
その故地を訪れてみると、なんだか気の毒になってきました。

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【新田氏総領の館跡に建つ総持寺:太田市尾島町】

新田氏の歴史は、八幡太郎源義家の子・源義国の長男・義重がこの地に移り、
新田姓を名乗ったことから始まります。

また、義国の次男の義康は、足利(栃木県足利市)に移り足利姓を名乗ります。

元をたどれば新田氏も足利氏も清和源氏の直系・源義国ということなのですが、
後の鎌倉政権下では、傍流の足利氏が有力御家人として重用されたのに対して、
本来嫡流である新田氏は、地方武士の扱いを受けることとなります。

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【総門から総持寺境内】

治承4年(1180)に「以仁王の令旨」を受け、源頼朝が平家討伐を果たそうと伊豆で挙兵しますが、
この時点ではまだ新田義重は平家に服属していました。

そのため、義重は頼朝を討つと称して領国に帰り兵を集めますが、
実際は頼朝と戦う意思はなく、かといって従属するでもなく、
立場を明確にせず情勢を窺っていました。

そして北関東での頼朝の優位が確立した同年の12月になって初めて鎌倉に参陣、
義重は、その日和見的姿勢を頼朝から叱責されることになります。

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【新田義重の子・徳川義季(徳川将軍家の遠祖)が創建した長楽寺】

また、頼朝が義重の娘を側室にしようとした際には、
北条政子の怒りを恐れて応じず、またまた、頼朝の怒りを買うことに。

こうした経緯から、義重は頼朝から冷遇される破目になりました。

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【長楽寺:太田市尾島町】

一方、先祖を同じくする足利氏は、執権家の北条氏と代々縁戚関係を結びながら、
着実に勢力を伸ばし、鎌倉政権下でも有数の実力者となってゆきました。

T_imgp7859【新田氏居城・反町館の土塁跡:太田市新田反町町】

源氏の嫡流である新田氏は没落してしまい、
傍流の足利氏は北条氏と結びつくことによりますます栄える。

栄えた足利氏は全国にその一族の輪を広げ、
没落した新田氏は狭い範囲に一族が固まり土着する。

新田義重から数えて7代目の新田義貞と、同じく足利義康の7代目足利尊氏には、
その人生のスタートから一族の力の差というハンディキャップが存在していました。

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【反町館跡に建つ照明寺(反町薬師)本堂前】

そして、世は戦乱の時代に突入してゆきます。

元弘元年(1331)の「元弘の変」に敗れ、隠岐に流されていた後醍醐天皇は、
その2年後の元弘3年(1333)には隠岐を脱出し、再び幕府打倒の狼煙を上げます。

それに呼応した河内の悪党(反幕府勢力)・楠木正成は千早城に篭城しゲリラ戦を展開、
1000人足らずの兵で100日間に及ぶ篭城戦を戦い抜き、100万と云われる幕府軍を撤退させます。

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【新田義貞居挙兵の地・生品神社境内:太田市新田市野井町】

正成の奮戦により権威の失墜した幕府に対して、
京都では足利尊氏が、そして東国では新田義貞が次々に挙兵。

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【生品神社・新田義貞挙兵伝説地】

京都に攻め上った足利軍は六波羅探題を攻め落とし、
一方の新田軍も幕府軍と数次の合戦を繰り広げながら鎌倉に攻め寄せ、
たった15日で鎌倉を攻め落とし、執権・北条高時を自害に追いやります。

こうして武家政権は倒れ、新しい時代「建武の新政」が始まりました。

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【新田義貞が軍旗を掲げたと伝えられるクヌギ:生品神社境内】

鎌倉攻めの功により、新田義貞は建武政権から左兵衛督に任ぜられます。

この時、義貞34歳。
僅か150騎の手勢で、故郷の生品神社を発ってから1ヶ月後のことでした。

ついに武者所の長となった義貞は、人生の絶頂期を迎えますが
それはほんの束の間のことでした。

(次回に続く)

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2008年8月23日 (土)

光と影~「関東の奥座敷」

(前回からの続き)

さらば日光、また来るまでは。

時間もまだ早く、まだまだ見たい場所が山ほどありましたが、
娘達の厳しい視線に耐え切れず、当日の宿泊地である鬼怒川温泉街に車を走らせました。

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鬼怒川温泉は、栃木県の中央部を北から南に流れる鬼怒川の上流部にあり、
美しい渓谷の両岸沿いに大型の旅館・ホテルが立ち並んでいます。

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【鬼怒川温泉街:西岸側】

温泉の起源は意外と新しく、元禄4年(1691)。
地元の村人が鬼怒川の西岸にお湯が湧き出しているのを偶然に発見したのが始まりです。

ところが、当地は日光の寺社領であったため、日光奉行と村人の所有権争いの末、
宝暦元年(1751)、ついに日光奉行に没収されてしまいます。

そのため、一般庶民の入湯は制限されることになり、
日光詣帰りの諸大名や僧侶達のみが利用可能な温泉となっていました。

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【鬼怒川温泉街:東岸側】

一般庶民に再び解放されるようになるのは明治時代になってからですが、
まだ規模が小さく、当時の村の名前から「滝温泉」と呼ばれていました。

明治2年(1869)には、鬼怒川東岸にも「藤原温泉」が湧出し、温泉の規模が拡大。
その後の大正3年(1914)になると、上流に下滝発電所(現在の鬼怒川発電所)が完成します。

ダムの完成により鬼怒川の水位が低下すると、新しい源泉が川底から次々と発見され、
従来の滝温泉と藤原温泉とを合わせて鬼怒川温泉と呼ばれるようになりました。

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【温泉のマスコット・鬼怒太君の階段】

大正4年(1915)には、発電所工事の為に敷設された藤原軌道を基に下野軌道が開通。
これを期に、鬼怒川温泉は急速に発展してゆきます。

昭和4年(1929)になると、下野軌道と関係が深かった東武鉄道によって日光線が開通。
続いて昭和10年(1935)には、東武浅草駅から直通便の乗入れが開始されます。

こうして鬼怒川温泉は「関東の奥座敷」の地位を確立、一大歓楽温泉街へと変貌してゆきました。

戦後になると、旅館・ホテルの大型化が積極的に進められ、
関東一円はもとより、全国から多くの観光客が押し寄せるようになり、
平成5年(1993)のピーク時には宿泊客数が年間341万人に達しました。

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【鬼怒太君の像】

そして、バブル崩壊。

大型投資を続けてきた全国の大規模温泉旅館・ホテルはその影響をモロに受けることになり、
ここまで順調に発展してきた鬼怒川温泉街も例外ではありませんでした。

鬼怒川温泉の旅館・ホテルに経営支援を行ってきた地元・足利銀行の経営破綻により、
大多数の旅館・ホテルで資金繰りが悪化し、倒産・廃業に追い込まれるケースも多々発生しました。

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【ラフティング出発前】

また、顧客ニーズの面から見ても、旅館・ホテルの大型化はバブル以前は武器となりましたが、
今の温泉ファンが求めるものは「温泉街の風情」であり、大型化がかえって仇となってしまっています。

かつては鬼怒川温泉の旧温泉街地区には賑わいのある商店街が形成されていたようですが、
宿泊施設の大型化の過程で商店がインショップ化されたり、
温泉街自体の南北への拡大によって拡散してしまい、温泉街の風情は失われてしまったようです。

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【鬼怒川ラインくだり船頭さん】

その結果、「鬼怒川温泉の弱点は?」というアンケートに対する回答を見ると、
宿泊客と旅館・ホテルの経営者の間で一致しており、
「風情に欠ける」「活気が無い」がどちらも上位を占めています。

風光明媚だが、風情に欠ける温泉街では、興味をそそる被写体も少なく、
このブログの写真も選ぶのにも苦労しました。

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【鬼怒川ラインくだり】

暗いお話になってしまいましたが、名湯・鬼怒川の再生に向けて、明るい話題もあります。

平成18年(2006)、JRの新宿駅~池袋駅~大宮駅~鬼怒川温泉駅間で、
特急「きぬがわ」・「スペーシアきぬがわ」の直通運転が開始されました。

それまでは、同じ東京近郊立地の温泉地、ライバルの箱根温泉に比べると、
アクセスがやや不利で、集客にハンディがありましたが、
JR直通特急の乗り入れで一気に解消されました。

前述のアンケートへの回答を見ると、旅館・ホテルの経営者さん達も、
顧客が何を求めているかを十分理解されているようなので、
今後、新しい観光資源開発や「風情」復活への取り組みがなされてゆくことを期待します。

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【軽妙トークの船頭さん】

一方、同行の我が家の女性陣達は、そんなことはお構いなしの様子。

この日お世話になった「鬼怒川御苑」さんのお風呂と料理を満喫。

鬼怒川ライン下りの船上では、船頭さんの軽妙なガイドに大笑いし、
水しぶきが降りかかる急所では、屈託のない黄色い歓声を上げていました。

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【当日宿:鬼怒川御苑】

日光観光では少々お疲れ気味ではありましたが、
今回の小旅行、そこそこ楽しんでくれたのではないかと思っています。

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2008年8月19日 (火)

青葉若葉の日の光

少し前のお話になりますが、大阪から夏休み中の娘たちが家人とともにやって来たので、
世界遺産の街・日光と鬼怒川温泉に一泊二日で出かけてきました。

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「日光の社寺」が世界遺産に登録されたのは平成11年(1999)。
日光の山内にある「二社一寺」、二荒山神社・東照宮・輪王寺の103に及ぶ建造物と境内、
そして、それらを取り巻く自然環境が登録対象となっています。

今でこそ二荒山神社・東照宮・輪王寺を区別して「二社一寺」と呼ばれていますが、
近世まではこれらを総称して「日光山」あるいは「日光三所権現」と称され、
山岳信仰と神道、仏教の考え方が違和感なく同居していました。

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【二荒山神社(中祠)】

しかし、開山以来続いてきた神仏習合の信仰も、明治元年(1868)の神仏分離令によって一変。

神仏分離令は仏教排斥を目的とするものではありませんでしたが、
これを受け、第二次世界大戦の敗戦に至るまで一部の過激な神道家と、
檀家制度のもとで寺院に搾取されていたと感じていた一部の民衆が廃仏毀釈運動を展開しました。

廃仏毀釈の考え方は、一部地域を除き、一般には殆ど普及はしませんでしたが、
ここ日光でも影響が全くなかったわけではなく、数多くの寺が併合されるなどしながら現在の形と成りました.

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【奥宮への参道口】

日光山といえば東照宮。

そのイメージが強いので、江戸期以降に開かれた場所かと思われがちですが、
開山の歴史は古く、遥か以前の1200年前にまで遡ります。

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【中祠拝殿】

未開の地であった日光を切り開き、ここが後世に一大聖地となる基礎を築いたのは勝道上人。

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【二荒山神社大鳥居(新宮)】

開祖・勝道上人は、下野国芳賀郡(現在の栃木県真岡)の人で、天平7年(735)に生まれ。
7歳のある夜、明星天子(みょうじょうてんし)が夢に現れ、
「仏の道を学び、日光山を開け」というお告げを受けます。

お告げに導かれ、勝道上人と10人の弟子は天平神護2年(766)に大谷川を渡り、
多くの困難を克服しながら、応2年(782)、ついに二荒山(=男体山)山頂を極め、
その地に二荒山大神を拝し、祠(奥宮)を奉りました。

二荒山神社とは、この奥宮と中禅寺湖半に鎮座する中祠と東照宮に隣接する新宮の総称です。

日光を彩る伝説の多くは勝道上人の足跡や業績に由来しており、
この地を理解するうえで最も重要な人物といわれています。

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【二荒山神社(新宮)参道】

ところで、この日光(にっこう)という地名の由来ですが、
諸説あり定かではなく、次の3つが有力となっているようです。

①仏教では観音菩薩の浄土を補陀洛山(ふだらくさん)といいますが、
 その補陀洛山から二荒山(ふたらさん)の名がついたという説。

②日光の山には熊笹が多いので、アイヌ語の(ふとら)=熊笹が(ふたら)になり、
 (ふたら)が二荒になったという説。

③男体山(なんたいさん)、女峰山(にょほうさん)に男女の二神が現れたので、
 (ふたあらわれ)の山になったとという説。

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【二荒霊泉】

ちなみに、二荒が日光となったのは、弘法大師・空海が二荒山に登られたとき、
二荒の文字が感心しないといって、(ふたら)を(にこう)と音読し、
吉字をあてて日光にしたと伝えられています。

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【東照宮象上神庫:象の彫刻

その後、江戸時代になると日光は繁栄の極みに達します。

元和2年(1616)、75歳で徳川家康が逝去し、
家康の政治顧問・相談役であった天海僧正が、遺言にもとづき東照宮の造営を差配します。

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【東照宮陽明門:龍】

元和3年(1617)、東照宮は完成し、これを「元和の造営」といいますが、
後の家康二十一回忌の法要を機会に、天海は三代将軍家光とともに大改修を計画。

寛永13年(1636)3月には、現在の華麗なる社殿を造りあげました。

これを「寛永の大造替」といいます。

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【東照宮鼓楼】

陽明門(国宝)・唐門(国宝)・御本社(国宝)など55棟。
「日光山東照大権現様御造営御目録」によれば、その費用は金56万8千両、銀百貫匁、米千石を要し、
造営の総責任者には秋元但馬守泰朝、工事や大工の総責任者には大棟梁甲良豊後宗広があたり、
わずか1年5ヶ月の工期で完成させたと記されています。

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【東照宮神厩舎:三猿(みざる)

境内の特徴は、自然の地形を生かした参道や階段を用い、
バランス良く配置された社殿群が荘厳な宗教的空間をつくりだしていることにあります。

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【東照宮神厩舎:三猿(いわざる)

さらに建物には、漆や極彩色がほどこされ、柱などには数多くの彫刻が飾られていますが、
これらは単なるデザインではなく、信仰形態や学問・思想があらわされているそうです。
(東照宮HP)

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【東照宮神厩舎:三猿(きかざる)

天海の「寛永の大造替」は日光山に空前の繁栄をもたらし、
この頃の日光山は20院80坊、数百人の僧侶と社家、奉仕人で賑わっていたと伝えられています。

その功績をたたえ日光中興の祖と称されています。

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【東照宮坂下門:眠猫

天海とともに東照宮を大造替した三代将軍家光は、家康の孫。
輪王寺にある家光廟大猷院は、彼の霊廟です。

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【大猷院】

家光は家康を敬愛しており、死後も家康に仕えたいという遺言により、
四代将軍家綱が大猷院を造営しました。

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【大猷院本殿】

大猷院は、輪王寺の本堂である三仏堂からはかなり離れて建っており、
二荒山神社の西側に位置し、東照宮の方向に向いています。

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【大猷院仁王門:吽形力士像】

これは、家康に対する家光の強い思慕の念の表れ。

よく取り沙汰される話に、家光は家康の孫・秀忠の子ではなく、
乳母とされる春日の局と家康との間に生まれた子だというものがあります。

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【大猷院仁王門:阿形力士像】

それが本当のことならば、弟・国千代との間に起きた将軍継嗣騒動を解決した家康と春日の局の連携や、
家光が持っていた御守り袋の中に「二世権現・二世将軍」と書かれていた事など、すんなりと納得できるのですが。

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【大猷院夜叉門:白夜叉像】

大猷院の本殿や拝殿は国宝指定、夜叉門、二天門、仁王門は重要文化財。

本殿の後方には、家光の墓所・奥の院(宝塔とその拝殿)があるが、
通常は非公開で見ることは出来ませんでした。

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【大猷院端垣

日光を訪れるのは二度目ですが、前回は数年前の冬。
降りしきる雪で前も見えないぐらいで、満足に見学ができませんでした。

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【大猷院皇嘉門(奥の院入り口)】

今回はゆっくり見て回りたいと思っていましたが、雪より手ごわい強敵がいました。

それは家人と娘たちの「はよ温泉行こうな!」という声。

おちおち写真撮影も出来ず、名所をさらっと眺めるだけしか出来ませんでした。

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【大猷院唐門:獅子の木鼻】

「あらたふと 青葉若葉の 日の光」

移動の車中、芭蕉の句を引き合いに出し、日光の荘厳さを語ってみましたが、「あっ、そう!」てな表情。

家人はさておき、小6と中2の娘たちに世界遺産を見せてやろうという親心は見事に跳ね返され、
後ろ髪を引かれながら、足早に鬼怒川温泉街へと向かいました。

(次回に続きます。)

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2008年8月 2日 (土)

県中央の象徴

前橋市と高崎市は同じ群馬県下の隣接市同士ですが、
行政レベル・市民レベルで、お互いに対抗意識が強く、
いわゆるライバル関係にあることはよく知られています。

県庁所在地があり、国や県の行政庁が立ち並ぶ前橋市は「行政の前橋」。
新幹線駅があり、駅前に商業集積が発達している高崎市は「商業の高崎」。

今では、こう呼ぶことに異義がある人は少ないと思いますが、
以前にこのブログでも書いたことがあるように、
もともと、明治4年(1871)の廃藩置県時には県庁は高崎に置かれていました。

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【臨江閣別館①】

当初の県庁が置かれた高崎城址周辺は、明治6年(1873)の徴兵令制定に伴い陸軍の直轄地とされ、
そこに鎮台の分営が置かれることになったため、県庁は押し出されるように前橋に移転してしまいました。

その後の明治9年(1876)には、それまで栃木県管轄だった山田郡・新田郡・邑楽郡が群馬県に移管、
第2次群馬県がスタートしますが、それを期に県庁は再び高崎に戻ってきます。

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【臨江閣別館②】

しかし、どうも県庁舎がイマイチだったようで、
その間に、着々と奪還計画を進めていた前橋が再度、県庁の誘致に成功。

県庁を奪われた高崎市民は、怒りの抗議運動・再奪還運動を展開しますが、
実ることなく、廃藩置県から10年、明治14年(1881)の太政官布告で前橋が県庁所在地に確定しました。

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【臨江閣別館③】

そして、3年後の明治17年(1884)、当時の群馬県令・揖取素彦(かとりもとひこ)の提言により、
前橋に県庁所在地にふさわしい迎賓館が建てられることになります。

それが、本日ご紹介する臨江閣です。

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【臨江閣本館一回廊下】

臨江閣は、今も前橋市大手前3丁目(前橋公園内)で保存・一般公開されており、
全体は本館・別館・茶室から成り、本館と茶室は県指定、別館は市指定の重要文化財となっています。

西側の小さい方の建物が本館で、東側の大きな建物が別館、茶室は本館の西側にあります。

本館建設のきっかけは、先述したように楫取素彦の提言であり、
それに応えた形で、後の初代前橋市長・下村善太郎ら、多くの市内有志の協力と募金で建設されました。

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【臨江閣本館1階一の間】

利根川の流れを手前に、そしてその奥に妙義・浅間の山々を望む絶好の地。
敷地のほぼ中央に本館が建てられ、どの部屋からも美しい景色が眺められるように工夫されています。

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【別館より見た本館への渡り廊下】

建築様式は木造二階建・入母屋造り、瓦葺き屋根で、和風木造建築の分類では数寄屋建築に含まれるもの。
建設当初は雨戸だけで、写真にあるガラス戸はなく、電灯もついていませんでした。

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【臨江閣本館2階次の間】

その後、明治26年(1893)の明治天皇の行幸に先立ち、一部改築が加えられ、
さらに、明治43年(1910)の「一府十四県連合共進会」の貴賓館として別館が建てられた際にも再度改築、
本館~別館の渡り廊下も付設され、ほぼ現在の形になりました。

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【御座所の簾】

本館2階の奥座敷は、明治天皇が行幸の折に休まれた御座所(ござしょ)。
明治35年と明治41年には、当時まだ皇太子であった大正天皇もご滞在されました。

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【御座所床の間】

その場所に、実際上がらせていただき、おまけに写真まで。
時の積み重なりを撮影したような、貴重な体験をさせていただきました。

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【臨江閣別館2階大広間】

別館は、木造の書院風建築です。
一階に洋間、二階には180畳敷の大広間があり、共進会貴賓館の当時は大宴会場として利用されました。

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【臨江閣別館1階座敷】

その後、前橋市が譲り受けてからは、近県にもまれな大公会堂として利用され、
前橋を代表する詩人・萩原朔太郎の結婚披露宴などもここで行われました。

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【臨江閣別館1階廊下】

第二次大戦中には、前橋空襲で市役所が焼けてしまった為、
一時、市役所庁舎になったこともあるようですが、
戦後になるまでは、庶民が気軽に出入り出来るような建物ではなかったようです。

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【臨江閣別館階段】

茶室は、本館より2か月遅れで完成。
木造平屋建ての瓦葺き屋根の建物は、楫取県令以下、県庁の職員が資金を出し合って建設されたそうです。
(今回は、残念ながら茶室の中は見ることが出来ませんでした。)

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【臨江閣別館1階廊下】

他にも、茶室前には美しく手入れされた日本庭園が広がり、
本館内部には、貴重な資料とともに前橋の歴史を解かり易く解説した展示などもあり、
見所いっぱいで、かなり長居してしまいました。

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【臨江閣茶室】

臨江閣の前の道は、車で何度か通りかかったことはありましたが、
建物の中に入ったのは今回が初めて。

なんと、驚いたことに、建物や立派な日本庭園も含めて全てが入場無料!
あまりの太っ腹に、最初はビックリしました。

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【臨江閣別館④】

この臨江閣がある前橋公園は14.6haと広大で、よく整備されているし、
ここからすぐ(車で5分)の所には、36.6haの広さを有する敷島公園もあります。

高崎市街には、城址公園や高崎公園がありますが、どちらも規模は小さく、
中心市街地の公園の充実度対決では、高崎よりも前橋に軍配が上がるようです。

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2008年7月26日 (土)

近代登山発祥の地

妙義山は、赤城山・榛名山と共に上毛三山と称され、群馬県を象徴する山の一つです。 

しかし、ここも赤城山と同じく「妙義山」という名の頂は存在せず、
山体全部を総称して妙義山と呼ばれています。

実際は、白雲山(1,104m)・金洞山(1,073m)・金鶏山(856m)の三峰からなる「表妙義」と、
烏帽子岩(1,117m)・谷急山(1,162m)から成る「裏妙義」に分かれており、
このうち、奇岩群が林立する「表妙義」が県立妙義公園となっています。

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【表妙義の山々①】

妙義山の基盤は約2,000万年前(新生代第3紀中新世)に海底で堆積したもので、
やがて海底火山の爆発に伴い、それが海面上に隆起。

約1,000万年前から再び活発になった火山活動による火山性堆積物で山体が作られました。

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【表妙義の山々②】

以来、永年にわたる風化・浸食によって岩石の硬い部分だけが残り、
今日見られるような奇岩巨岩の山容となりました。

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【表妙義の山々③】

奇岩がゴツゴツと露出した急峻で荒々しい山容は、
四国小豆島の寒霞渓、九州大分県の耶馬渓と並んで日本三大奇勝とも称されています。

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【表妙義の山々④】

また、明治44年(1911)にイギリス人の登山家ウオルター・ウエストン卿が、
ザイルを使いながら岩山を登る技術を、妙義の案内人であった根本清蔵氏に初めて教えたことから、
この地は日本の近代登山発祥の地とされています。

自然が造形した石門(第1石門~第4石門)やロウソク岩・大砲岩・筆頭岩・ユルギ岩など、
数多くの奇岩群を眺望できる金洞山は国内屈指の山岳美と讃えられ、
今日でも多くの登山愛好家に親しまれています。

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【表妙義の山々⑤】

山に慣れた人にとっては、登山というよりハイキング程度の「石門めぐりコース」でも、
シロウトの私にとってはかなりの難易度であり、とても一人で登るのは無理そう。

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【帰路:荒船ダム】

高所が苦手な人や自信のない人のために、危険が無く楽に巡れる巻き道も用意されているそうですが、
怪我をしては洒落にならないので、下からの写真だけにしておきました。

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【帰路:不通渓谷】

その石門めぐりコースの起点になっているのが金洞山中腹にある中之嶽神社。

この神社は寿永元年(1182)、欽明天皇の時代に創建された古社で、
主祭神は日本武尊とされています。

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【中之嶽神社参道石段】

金洞山(別名:中之嶽)の岩峰を見なが赤い鳥居をくぐると、
すぐ左手に石鳥居と急な苔むした石段が現れます。

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【中之嶽神社拝殿】

鬱蒼とした杉木立の中、石段を登りきると中之嶽神社の拝殿と御神体が見えてきます。

ここには神殿はなく、拝殿裏に聳える巨岩「轟岩」そのものが御神体でした。

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【鎮座750年の碑】

拝殿自体は明治期に再建されたものですが、巨岩と巨木によく調和して、
日本武尊が登ったと伝えられる山岳霊場の趣をとどめていました。

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【境内:杉の大木】

一方、中之嶽神社本殿に向かう石段の左手には、大黒天を祀る前社「大国神社」もあり、
こちらも嵯峨天皇の勅命により、弘仁9年(819)に大納言藤原冬嗣卿と弘法大師が登岳し、
出雲大社の分社として関東の霊域に奉斉されたと伝えられている由緒ある神社です。

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【大黒神社拝殿】

その、由緒正しき神社が平成17年(2005)に建立したのが「日本一の大黒様」。

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【日本一の大黒様①】

その大きさは、高さ20m・重さ8.5tというデカさ。
おまけに金ぴかで、何故か定番の打ち出の小槌ではなく剣を持っています。

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【日本一の大黒様②】

誤解を恐れずに言うならば、この大黒様はKY。
はっきり行って浮いてました。

霊山妙義の雰囲気に相応しいかというと、ちょっと首をひねりたくなりますね。

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2008年7月17日 (木)

昆虫たちの森

いささか古いお話になりますが、今月の4日に群馬県立「ぐんま昆虫の森」に行ってきました。

「ぐんま昆虫の森」は赤城山の南東、桐生市新里町に平成17年(2005)8月1日に全面オープンした教育普及施設。

設置の目的は、「広く県民が自然に親しみ、昆虫の生きた姿に直接ふれ、生きものの相互依存に学び、
生命の大切さや自然への理解と共感する心を育てること」だそう。

約48haに及ぶ広大な敷地に、雑木林、畑、沼、水田(非公開)の各ゾーンが整備され、
かつては日本の各地にあった里山の姿を再現しています。

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【ぐんま昆虫の森「昆虫観察館」】

この日の到着はam10:00頃。

お天気もよく、鼻歌交じりで広大な里山地域に歩き出しましたが、
東京ドーム14個分に及ぶ敷地は、想像以上の広さで、
お天道様が頭の上に来る頃にはもう熱中症寸前、バテバテでした。

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【「昆虫観察館」別館資料室】

おまけに、園内の樹液が出そうな広葉樹には全て「スズメバチに注意!!」の張り紙。

実際に、でっかいスズメちゃんと何度か遭遇した後に、
「ブーーーン」という大ボリュームの羽音が耳元に迫ってきたときには、本当にビビリました。

結局、何の羽音かは確認できませんでしたが、恐ろしさで心が折れてしまいました。

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【ツバメシジミ】

ということで、屋外の観察は早々に断念し、
次に、この昆虫の森のシンボル的な施設である「昆虫観察館」に向かいました。

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【ショウジョウトンボ】

巨匠・安藤忠雄氏の設計によるこの施設は、
ガラス張りのドームと曲面を多用したコンクリートの造形が印象的な、美しい建物。

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【ホソミイトトンボ】

館内には「多様な環境・たくさんのいのち」をテーマにした360度の映像が投影さるビジュアル施設や、
「里山の昆虫たち」という展示コーナー、西表島の環境を再現したという「生態温室」等があります。

「里山の昆虫たち」では、里山に生息する昆虫はもちろん、
カエルやイモリ等の両生類、蛇や蜥蜴等の爬虫類までを生体や標本で見ることができます。

そして、ガラス張りのドームの部分が、沖縄・西表島の環境をそのまま再現したという「生態温室」で、
ここには、40種類800匹の蝶をはじめとした様々な昆虫が、亜熱帯の植物の中で放し飼いにされています。

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【スジグロカバマダラ 】

実は、この日ここにやって来た最大の目的は、日本最大の蝶オオゴマダラの撮影でした。
しかし、午前中の太陽の下の暑さと温室の高温多湿に参ってしまって、撮影意欲と集中力が急降下。

眼に入る汗を拭いながら撮った蝶は、ピンボケ・手ぶれのオンパレード。

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【アオタテハモドキ】

文字通り温室育ちで、人間に対して警戒心の薄い蝶の撮影なので、
自然の蝶に比べてシャッターチャンスが多数あったのも係らず、
翅を美しく開いた写真は一枚も撮れませんでした。

近いうちに、もう一度リベンジしたいと思っています。

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【リュウキュウアサギマダラ】

私自身は準備不足・体力不足で施設を活用しきれず、写真も上手く行きませんでしたが、
「ぐんま昆虫の森」自体は、大人から子供まで楽しめる真面目な良い施設だという印象でした。

スズメちゃんが多いのは恐ろしかったですが、ある意味自然のままという点では好感が持てました。

しかし、実態はかなり厳しいようで、「不必要な文化施設」「税金の無駄遣い」と言う評価が一般的。

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【オオゴマダラ】

入場料は大人400円、大学・高校生は200円、中学生以下は無料で、
施設の充実度からすれば安いのではないかと思いますが、
入場者数は当初計画の目標数1,000人/日を大きく割り込み、年間約3億円の赤字予測だそう。

総事業費約80億円のうち、約44億円をつぎ込んだ「昆虫観察館」ではありますが、
この日・この時間帯には、入場者は私以外には見当たりませんでした。

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【ぐんま昆虫の森内に移設された赤城型養蚕農家①】

県の見解は「学習の場と考え、採算は度外視している」そうですが、
このままでは確かに税金の無駄遣い。

これだけ立派な施設で、内容的には素晴らしいものがありながら、
入場者数の目標を達成できないのは、明らかに当初計画に問題があります。

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【ぐんま昆虫の森内に移設された赤城型養蚕農家②】

もっと民間的な感覚でやれば、初期の建設コストも抑えられ、
その分を販促・PRにつぎ込めたのでしょうが、今となってはどうしようもありません。

ましてや、県がはなから採算度外視じゃあ、誰も営業努力はしませんネ。

お役所仕事って、どうして万事がこうなってしまうのでしょうか。

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2008年7月 3日 (木)

喧嘩の後でお参りを

今回も地元、大阪から。

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大東市はその名の通り、大阪市の東隣に位置する人口13万人の都市。

現在は、大阪府の中でも地味な(失礼!)な印象の市ですが、
古く縄文時代草創期から人の営みがあった歴史ある地域です。

古代には、市の東部・飯盛山麓一帯に多くの古墳が造営され、
中世には、東高野街道が通る軍事戦略上の要衝として度々戦乱の舞台となりました。

なかでも有名なのは、南北朝時代の正平3年・貞和4年(1348)にあった四条畷の合戦。
楠正成の嫡男・正行率いる南朝方3000騎が高師直率いる幕府方6万騎の前に散りました。

その後、近世の大和川付け替え以降は、
木綿や菜種などの一大産地として「天下の台所」の繁栄を裏方から支えます。

農業生産の伸びは地域の発展を牽引し、
江戸期中期以降、当地は大坂と奈良を結ぶ交通の中継地として、
周辺一帯からの物資の集散基地となってゆきました。

本日は、その当時の大阪町人に手軽な観光スポットとして人気があったお寺、
曹洞宗福聚山慈眼禅寺、通称・野崎観音をご案内します。

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【慈眼禅寺参道】

野崎観音は、JR学研都市線野崎駅から東方、歩いて15分ほどの高台にあり、
天平勝宝年間(749~757)、行基上人によって創建されたと伝えられている古刹です。

毎年5月1日から10日までの無縁経法要には、JR野崎駅からの参道の両側に露店が並び、
現在もこの期間中は、全国各地からの「野崎参り」客で賑わいます。

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【山門】

永禄8年(1565)に兵火でお堂が全焼したため、
その後長らく廃墟となっていた野崎観音を、元和2年(1616)に青厳和尚が再建。

その後、寛文11年(1671)には5世大真和尚が、参拝者を増やし寺の興隆を図るため、
25年に1度、旧暦の4月1日から8日間、秘仏の観音様を特別開帳する法会を始められました。

法会の前の数日間は立札を辻々に立て、大々的に宣伝したことにより、
野崎観音は大坂一円の庶民の間でも広く知られるようになってゆきます。

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【本堂】

また享保6年(1721)には、道頓堀竹本座で近松門左衛門の「女殺油地獄」が初演され、
続いて安永9年(1780)には、同座で「新版歌祭文(※1)」が初演されますが、
双方とも野崎参りを背景にした文楽であったため、野崎観音はますます有名に。

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【お染久松の碑】

その結果、大阪町人の間で野崎参りは一大ブームとなります。

当時は、勿論JRも国鉄もなく、交通手段は船か徒歩。

天満橋のたもと、八軒屋船着場(現京阪電鉄天満橋駅付近)から屋形船で寝屋川を遡り、
あるいは寝屋川の堤を陸路てくてくと、町人達はこぞって野崎観音に向かいました。

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【楼門】

陸路はほとんどが堤の上で、川を行く屋形船と平行していたため、
屋形船の参拝客と徒歩の参拝客は、川を挟んでお互いを罵り合いながら勝ち負けを競っていたそうで、
野崎参りは別名「悪口祭」とも呼ばれていました。

道行く者と船で行く者との罵り合いは「ふり売りけんか」と呼ばれ、
口喧嘩に勝った年は縁起の良い年になります。

但し、条件は喧嘩の途中で決して怒らないこと。

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【江口の君堂】

清八と喜六の掛け合いで笑わせる桂春団治の十八番、上方落語の「野崎参り」にも、
「ふり売りけんか」を楽しみながら野崎観音へ向かう場面が出てきます。

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【本堂前の仏像】

「そら、あかんわ。
わい、静かにしてたら、口に虫が湧く性分やねん。」

「けったいな性分やなァ、お前は…。 あ、ほんなら、ちょどええわ。
あの堤を歩いてる人と、喧嘩をせェ、喧嘩を!」

「そら、あかん。わい、喧嘩、きらいや。
それに、第一、こっちは、舟に乗ってんねん。
むこから石でも投げよったら、お前、逃げるとこあれへん!」

「情けないなァ、お前は… 心配せんでもええ。
野崎詣りの喧嘩はナ、なんぼ口でいいあいしても、手ェひとつ掛けん、というのが名物や。
ええか… ここで、いいあいするやろ。
舟が住道へ着く、さきほどは失礼いたしました、
これからは仲ようお詣りいたしまひょか、さァ、おいなはれや。
チャラカチャンチャン♪と、踊りながら行くんや。
なァ、往く道だけの喧嘩や。
この喧嘩に、言い勝ちさえしたら、その年は運がええ、いうねん。
運さだめの喧嘩、一番やったらんか!」

「あ、なるほど。運さだめの喧嘩か… そんなら、わいやったろ!」

罵声を浴びせあいながらも、お互い怒らず恨まず、ケロッと忘れて仲良くお参り。
大阪人気質は、今も昔も変わらないなぁと思います。

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【安産祈願の猫の張子絵馬】

浪速鉄道(現JR学研都市線)が明治28年(1895)に開通してからは、
河運は急激に衰退し、屋形船もいつしか姿を消しました。

昭和8年、東海林太郎が歌った「野崎小唄」の大ヒットにより、
屋形船が一時復活しましたが、それも2~3年で終わったようです。

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【境内の花】

「野崎小唄」
作詩 今中楓渓  
作曲 大村能章
  歌  東海林太郎

野崎参りは 屋形船でまいろ 
どこを向いても 菜の花ざかり 
粋な日傘にゃ 蝶々もとまる
呼んでみようか 土手の人

野崎参りは 屋形船でまいろ 
お染久松 せつない恋に 
残る紅梅 久作屋敷 
今もふらすか 春の雨

野崎参りは 屋形船でまいろ
音にきこえた 観音ござる 
お願かけよか うたりょか滝に 
滝は白絹 法の水    

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【JR野崎駅】

現在のJR野崎駅は見事なまでの素っ気なさ。
往時を偲ぶものは何もありません。

JR西日本はん、もうちょっと何とかなりまへんか?

(※1)

近松半二作「新版歌祭文」~野崎村の段~

野崎村の久作には、養子の久松(ひさまつ)と、女房の連れ子のお光(おみつ)がいた。
久作は気立ての優しいお光を、久松の嫁にしようとしていた。

一方、久松は奉公に出た大阪の油問屋の娘、お染(おそめ)と知り合い、恋に落ちる。
それをねたまれ、久松が油問屋から帰されてきたので、
久作は早速久松とお光の祝言を挙げようとする。

久松のことを以前から慕っていたお光が婚礼の支度をしている所へ、
大阪からお染が「野崎まいり」にかこつけて久松に会いに来た。

久松との関係に気付いたお光は、お染を追い返そうとし、久松と言い争いになる…。
養父への義理から別れ話を持ち出す久松と二人きりになったお染は、自害しようとする。

それを見て、久松は二人で死ぬことを約束する。

そこへ、事の成り行きをみていた久作に人の道に反していると諭され、
二人は別れを誓うが、お互い心中の覚悟を決めていた。

祝言の席でお光が綿帽子を取ると、髪を切り尼の姿になっていた。

お光は二人の心を察し、自分が身を引けば、二人が幸せになれると考えたのだった。

それを見ていた、お染の母親お勝(おかつ)はお光に礼を述べ、二人の仲を認め、
二人は油屋へ帰っていく。

二人の無事を祈り、その姿を見送りつつ、お光は泣き崩れるのであった。

(大東市HPより)

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2008年6月24日 (火)

古代からの日帰り旅行

またまた、大阪のお話です。

本日ご案内するのは、大阪城の南隣にある大阪歴史博物館。

ここは、古代から現代に至る大阪の歴史的空間を再現した、地下3階・地上13階の大博物館です。

前身は、大阪城公園内の旧陸軍第四師団司令部跡を利用していた大阪市立博物館で、
平成13年(2001)に現在地に移設され、大阪歴史博物館として再スタートしています。

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【大阪歴史博物館】

当地周辺(上町台地北部)は、古代には難波宮(※1)、中世には石山本願寺、近世には大坂城と、
その当時においては、政治的・宗教的に最も重要な施設が建てられていた場所。

また、近代~現代においても、行政庁舎やオフィスビルが立ち並ぶ大阪のビジネスの中心街となっており、
1300年以上に渡って、繁栄の歴史を積み重ねてきました。

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【難波宮大極殿の官吏:10F古代ゾーン】

大阪歴史博物館の常設展示は、その歴史の積み重なりを体感できる造りになっており、
その時代の人々の暮らしや風俗が、ミニチュア模型や等身大の人形などで見事に再現されています。

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【難波宮大極殿の官女:10F古代ゾーン】

1F受付で入場料\600を支払うと、まずはエレベーターで一気に10Fへ。

そこには、難波宮の大極殿が再現されていました。
等身大の官吏や女官の人形は実にリアルで、タイムスリップの気分が味わえます。

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【難波宮大極殿の官吏:10F古代ゾーン】

このフロアの見所は、虚像と実像を織り交ぜたスケールの大きな演出。

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【難波宮大極殿のCG:10F古代ゾーン】

まず、頭上の大きなスクリーンに、大極殿での儀式が音響とCG映像により再現され、
それが終わると、スクリーン下の窓ガラスを覆っていたシャッターが静かに巻き上がります。

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【難波宮跡公園:10F古代ゾーン】

薄暗いフロアに一気に陽が差し込むと、眼下には大阪の街の大パノラマが現れ、
その真ん中に、CG映像の儀式が行われていたであろう難波宮(難波宮跡公園)が現れるという仕掛け。

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【難波宮大極殿の官吏:10F古代ゾーン】

その他にも、難波宮を再現した模型や当地で発掘された貴重な埋蔵物やなどが数多く展示されており、
一つ一つをざっと見るだけでも、かなりの時間を要しました。

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【難波宮出土物展示:10F古代ゾーン】

古代の展示物に後ろ髪を引かれながらも、今度はエスカレーターで9Fへ。
すると、そこには中世~近世の大阪が広がっていました。

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【石山本願寺復元模型:9F中世ゾーン】

中世のゾーンは、織田信長と戦った石山本願寺の時代のものが展示のメイン。

明応5年(1496)、本願寺8世法主蓮如が山科本願寺の別院として大坂御坊を建立しますが、
その経緯を述べた蓮如の御文が、「大坂」という地名が記された歴史上最古の文献だそうです。

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【馬喰:9F中世ゾーン】

天文元年(1532)、六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き打ちされると、
本願寺教団は本拠地を大坂御坊に移転、小さな御坊は次第に巨大な石山本願寺となってゆきます。

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【中世大坂の町並み:9F中世ゾーン】

それ以降、山科がそうであったように、石山本願寺周辺にも広大な寺内町が形作られるようになり、
これが現在の大阪の町並の原形となったと考えられています。

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【水都大坂:9F近世ゾーン】

その後、当時最大の宗教的武装勢力となった本願寺勢力は、天下統一を目指す織田信長と対立するようになり、
亀元年(1570)の9月12日、本願寺11世法主顕如は「信長は本願寺を取り潰す仏敵である」として挙兵します。

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【文楽人形:9F近世ゾーン】

数度の合戦の後、石山本願寺で篭城戦を展開する本願寺勢に手を焼いた信長は、
朝廷に働きかけ「勅命講和」という形で和議を提案。

弾薬や食料が逼迫していた本願寺勢も此れを受け入れ、天正8年(1580)3月7日に和議が成立します。

同年8月2日、顕如は約10年間篭城を続けた石山本願寺をついに明け渡しました。

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【江戸期の道頓堀:9F近世ゾーン】

信長が10年間かけても武力では落せなかった堅牢な「城」は、
顕如が退去した数刻後には火を放たれ、三日三晩燃え続けた挙句、灰になってしまいました。

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【江戸期の堂島:9F近世ゾーン】

その後の本願寺跡地は、豊臣秀吉が築いた大坂城、徳川家康が築いた大坂城と移り変わり、
現在の天守閣は、昭和6年(1931)に大阪人が築いた鉄筋コンクリートの天守閣。

それも、豊臣時代の天守台に秀吉時代の天守閣をのせた奇妙なものとなっています。

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【荷役:9F近世ゾーン】

また、同じフロアの近世ゾーンには、
活気あふれる大坂町人たちの暮らしが1/20の模型でリアルに再現されています。

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【近世大坂の町並み:9F近世ゾーン】

スクリーンに映し出される文楽人形の「浪花屋寅之助」を水先案内人として、
蔵屋敷や住友銅吹所(銅の精錬所)、船場の町並みや角の芝居など、
水都大坂の名所を巡るという趣向になっています。

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【遠足の子達:8F発掘調査体験コーナー】

8Fは、「なにわ考古研究所」と名づけられた発掘調査体験コーナー。
原寸大で再現された発掘現場で、調査方法や遺構・遺物の見かたを学ぶことができ、
この日も、遠足の小~中学生で大賑わいでした。

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【角座:7F近代ゾーン】

常設展示フロア最後となる7Fには、
大正~昭和初期にかけての心斎橋筋~道頓堀の町並みが原寸大で再現されており、
モダン都市・大阪の雰囲気が存分に味わえます。

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【角座前の親子:7F近代ゾーン】

白い等身大のマネキン人形は、柵や囲いが無い状態での展示なので、どれが人でどれが人形か、
展示物と入場客が渾然一体となり、不思議なムードを醸し出していました。

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【モダンな御婦人:7F近代ゾーン】

その他にも、6Fには特別展示室(有料・この日は準備中)、
2Fには無料の学習情報センター「なにわ歴史塾」(開架資料室)、
1Fにはレストランやミュージアムショップなどがあります。

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【ショーウインドー:7F近代ゾーン】

また、この日は残念ながら時間が無く断念しましたが、施設自体が難波宮跡の真上に建っているので、
B1Fに保存されている難波宮の遺構も見学することが出来ます。
(1日6回・各回40人)

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【おかえりなさい:7F近代ゾーン】

以上、駆け足での案内となりましたが、じっくり見て回れば丸一日でも足りないくらいの内容。
\600の入場料は良心的な価格設定ではないかと思います。

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【魚屋:7F近代ゾーン】

しいて言えば、大阪の「光」の部分に焦点を当てた「大阪万歳!!」の展示が殆どで、
「影」の部分がそっくり抜け落ちているのが気になりました。

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【針仕事:7F近代ゾーン】

災害や事件・事故、犯罪や公害などの暗いお話は一切無しで、
太平洋戦争に関する展示も、戦時下の暮らしとして少しのスペースが割かれているだけ。

各ゾーンごとに、もう少し多角的な視点の展示があってもいいのかなと思いました。

※1 現在の大阪市中央区法円坂付近にあった宮殿。
   
    大化の改新(645)の際に孝明天皇が難波に遷都。
    この年から難波宮の造成が始まり、6年後の651年にはほぼ完成。(前期難波宮)

    しかし、その35年後(686)には火災により難波宮は全焼。

    40年後の(726)、聖武天皇が再び難波宮の造営を開始。(後期難波宮)
    その後、(794)の平安京遷都に至るまで、
    難波を象徴する宮殿として大きな役割を果たしました。

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2008年6月15日 (日)

尾曳の城

先日の日記に書きましたが、6月9日(日)に館林市を訪ねました。

館林市は、「鶴舞う形」と言われる群馬県の南東部、
ちょうど鶴の頭の位置にある、人口8万人・市域61k㎡という小じんまりとした街。

この日のお目当ては、市内中心部にある館林城跡と、
その旧城域に整備された県立つつじヶ丘公園でした。

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【館林城跡の碑】

この辺りは、日本有数のつつじの名所として知られていますが、
今春は出かける機会が持てず、見ることが出来ませんでした。

来年のつつじのシーズンまで来ることはないと思っていましたが、
「つつじヶ丘公園の花菖蒲園が見頃を迎えています」という地方紙の記事を見て、
「花菖蒲もあるの!」ということで、出かけてみることにしました。

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【城沼】

北は渡良瀬川、南は利根川に挟まれたこの地域は、大小の湖沼が点在する低湿地で、
館林城はその立地特性を活かし、城沼(じょうぬま)を自然の要害として築かれた平城です。

城沼を東側の外堀として、沼に突き出た低台地には本丸・二の丸・三の丸・八幡郭・南郭が置かれ、
これらを取り囲むように、稲荷郭・外郭・惣曲輪、さらに、その西側には城下町が配され、
そして、それらすべてを土塁と堀がとり囲むという広大な城郭でした。

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【館林城土塁跡:本丸付近】

築城は、戦国時代の初期に当たる天文元年(1532)。
上州の豪族であった赤井照光が築城したと伝えられています。

しかし、今日に至るまで、それを裏付ける直接的な資料は発見されておらず、
伝えられているのは、築城にまつわる不思議な説話です。

ある日、照光は、子供達にいじめられ、傷ついた一匹の子狐を助けてやりました。
すると、その夜の夢の中に、今度は年老いた白狐が現れ、
照光を城沼付近まで案内し、尾を曳いて城の縄張を指し示したというものです。

この伝承から、館林城は別名を「尾曳城(おびきじょう)」と呼ばれています。

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【館林城石垣跡】

白狐の加護があってか、館林城は難攻不落の名城として歴史の舞台にしばしば登場します。

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【館林城土橋門】

永禄5年(1562)の上杉謙信の関東に進出に際して、
当時の城主赤井照景(照光の子)は従属せず抵抗の意を示しましたが、
結局、謙信により照景は館林城から追放され、上杉一族の長尾景長が城主となりました。

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【旧秋元家別邸】

景長の養子として後を継いだ長尾顕長の時代になると、
小田原の北条氏が館林城を手に入れます。

天正13年(1585)、顕長と兄の由良国繁(金山城主)を小田原に呼び寄せた北条氏直は、
謀略により二人を幽閉し、その間に軍勢を送り両城に攻め立てますが、容易には落ちません。

やむなく、城主2人の解放を条件に両城を開城させ、館林城には一族の北条氏則を送り込みました。

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【紫陽花:旧秋元家別邸】

その後、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原北条攻めに際しては、
石田三成率いる2万の豊臣勢が館林城を攻撃しましたが、
この時も館林城は微動だにしませんでした。

館林城攻略には、城の中心に突入するしかないと考えた三成は、
夜間に城沼に筏を投げ込んで2筋の攻撃路を確保します。

しかし、不思議なことに、夜が明けると2筋の筏の道は沼の中に水没して、
跡形もなく消え失せていました。

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【つつじヶ丘公園花菖蒲園】

三成は神がかり的な館林城をこれ以上武力で攻めることを断念し、
北条氏直を通じて降伏を勧告し、ようやく館林城を開城することが出来ました。

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【花菖蒲①】

北条氏滅亡の後、秀吉によって徳川家康が関八州に転封させられると、
家康腹心の榊原康政が10万石で館林城主となり、
榊原氏の後は松平氏→太田氏→井上氏と、徳川譜代の大名がめまぐるしく交代します。

後に5代将軍となる徳川綱吉も、寛文元年(1661)から約20年間、城主としてここで過ごしました。

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【花菖蒲②】

築城以来、狐の加護が信じられていた城下では、
狐の保護のために、犬は見つけ次第撲殺されていたそうで、
そこに、犬公方と呼ばれた徳川綱吉が入封したのは何かの因縁かもしれません。

綱吉の後、嫡子徳松が館林城主となりますが、僅か5歳で急逝。
父綱吉は悲しみの余り館林城を徹底的に破壊させました。

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【花菖蒲③】

おそらく、綱吉は狐の神罰の恐ろしさを感じたのではないかと思われます。

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【花菖蒲④】

その館林城を宝永4年(1707)に再築したのが、徳川綱重の第二子松平清武。

清武は伝承をもとに、狐が尾を曳き始めたあたりに初曳稲荷神社、
曳き終えたあたりに尾曳稲荷神社をお祀りしました。

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【花菖蒲⑤】

最後の城主は秋元氏で、幕末の文政3年(1821)に出羽山形より6万石で入封。
館林城は秋元氏2代で明治維新を迎えることとなります。

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【花菖蒲⑥】

残念ながら、城郭の大半は明治7年(1874)に焼失。

現在は、三の丸跡に文化会館、二の丸跡には市役所などが建ち並び、
往時の面影は殆どありません。

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【花菖蒲⑦】

かろうじて本丸・三の丸・稲荷郭などに、遺構や土塁の一部が残されており、
昭和57年(1982)には、土橋門が城下町館林のシンボルとして復元されています。

土橋門は、城の中心(三の丸)への出入口の一つで、
正門の千貫門に対し、通用門として使用されていた門だそうです。

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造り酒屋「丸木屋」:国登録文化財】

この日のもう1つのお目当てである花菖蒲園は、館林城の八幡郭跡にありました。

八幡郭付近は、明治の廃藩後には旧藩主・秋元家の別邸となっていましたが、
その後は、つつじヶ丘公園に編入されて、その庭は花菖蒲の名所として知られています。

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旧藩士宅「武鷹館」長屋門:市重要文化財】

秋元別邸のお庭と周辺を含めると、270品種・約40万本もの花菖蒲が咲き誇り、
優雅に城沼を彩っていました。

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旧上毛モスリン㈱事務所:県重要文化財】

つつじヶ丘公園の樹齢800年を超えるつつじの古木群は、全国にその名を知られていますが、
菖蒲園も見事で、一見の価値は十分にありました。
(晴天で到着時間が遅かったこともあり、花の方は写真には少々だれ気味でしたが・・・)

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田山花袋旧宅:市指定史跡】

館林城址・つつじヶ丘公園周辺には、向井千明記念子ども科学館や田山花袋記念文学館、
その他にも、熱帯植物園(温室)や水産学習館(淡水魚館)などの文化施設が充実。

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旧二業見番組合事務所

また、市役所周辺から東武鉄道館林駅までの間には、歴史的な建築物も散見できるので、
ぶらぶら歩いていると、あっという間に時間がたっていました。

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向井千秋記念こども科学館

この日は時間が足りず、見学できませんでしたが、
この周辺には美智子皇后陛下にゆかりが深い正田醤油㈱の正田記念館や、
日清製粉グループの製粉記念館など、産業技術史的に興味深い施設も沢山あります。

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【関東の駅100選「東武鉄道館林駅」:昭和12年改築】

見所いっぱいの館林、つつじの季節を待たずに再訪したいと思いました。
秋には彼岸花も見事だそうなので、その頃かなぁ。

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2008年6月 3日 (火)

大阪の背骨

今回も大阪のお話です。

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関西出身者以外には、一般的には知られていないかもしれませんが、
大阪市のど真ん中には、「上町台地」とよばれる高台(標高20m程度)が背骨のように走っています。

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【観音坂】

先日このブログで紹介した住吉大社付近を基点に北北東へ向かって約15km、
天王寺を経て大阪城の先の天満橋付近まで、
住吉区-阿倍野区-天王寺区-中央区にまたがって連なる細長い丘陵です。

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【路上の花】

市内で唯一の高台となるこの周辺は、先の大戦での空襲による被害が比較的少なかった為、
大阪が長い年月の中で培ってきた都市居住の姿を今に伝える、歴史的な街並が色濃く残っています。

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【谷町筋】

「上町台地」という名前が一般化したのは30年程前からだそうで、
それまでは「難波丘陵」や「上町丘陵」、昭和の初期には「天王寺高地」とも呼ばれ、
大阪平野の中でも最も古い地層の1つであり、最も早く人々の暮らしが始まった地域でありました。

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【石畳】

古く縄文時代、大阪平野が形成される以前は、
「上町台地」は、現在の住吉区辺りから北に向かって突き出ている岬でした。

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【旧熊野街道】

岬の西側はもちろん大阪湾=瀬戸内海。
そして、東側は河内湾と呼ばれる内海でありました。

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近松門左衛門墓所

その後、長い年月を経て、河内湾は淀川や旧大和川水系の土砂堆積により狭く浅くなり、
2~3世紀頃には、岬の先端から伸びた砂州(天満砂州)が対岸に届くに至り、
河内湾は完全に瀬戸内海から切り離され淡水化し、河内湖または草香江(くさかえ)と呼ばれる湖となりました。

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難波仮病院跡

現在の海岸線から10km内陸にあるJR森ノ宮駅は、上町台地の東端に当たりますが、
その付近からは森ノ宮遺跡(貝塚)が見つかっており、
遺跡の下層(縄文中期から後期)からは海水で育つマガキが、
上層(弥生中期まで)からは淡水産のセタシジミが、それぞれ見つかっています。

この事から、河内湖が塩水から淡水化した歴史を窺い知ることが出来ます。

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【階段】

4~5世紀になると、水に囲まれたこの地は、中国や朝鮮半島との交流の拠点になってゆきます。

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【坂道】

その頃に今日の大阪の基礎を作ったと云われているのが、第16代仁徳天皇(在位:313年~399年)。

難波の地に初めて都を造営した仁徳天皇は、
その後も、住吉津(すみのえのつ)の開港や治水工事(→茨田堤:まんだのつつみ・難波堀江:なにわのほりえ)など、
数々の事業を行ない、古代都市大阪の原型を整備しました。

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また、高殿から街を見下ろした時、人家の竈から炊煙が立ち上っていないことを見て、
「きっと生活が苦しいに違いない」と、庶民救済のためにその後数3間は租税を免除。

3年後、同じ高殿に登り、多くの家々に炊煙が立ち上っているのを見て、
「高き屋に のぼりて見れば 煙立つ 民の竈 賑わひにけり」(古今和歌集)
という有名な歌を詠んだと伝えられています。(※誤伝の説あり)

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【高津宮拝殿】

古事記・日本書紀にも、その間は倹約のために宮殿の屋根さえ葺き替えなかったという逸話が記されており、
仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の贈り名もその功績に由来しているそうです。

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【高津宮参道】

仁徳天皇の宮殿は難波高津宮(なにわのたかつのみや)と称せられ、
現在の大阪城付近に在ったとされていますが、残念ながらその遺構はいまだ発見されていません。

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【高津宮十六弁菊紋章】

以来、皇室をはじめ、時の幕府等からの度々の造営・寄進を受け、
難波の守護神と仰がれてきましたが、造営から約700年を経た正親町天皇の代、
天正11年(1583)の秀吉の大阪城築城に際して現在地に遷座されました。

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【空堀商店街】

高津宮を後にして、北へ200mほど歩くと「空堀商店街」に行き当たります。

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【漬物屋さん】

「空堀(からほり)」は地名ですが、秀吉が大阪城築城の際にこの付近に築いた南惣構堀(みなみそうがまえぼり)が、
水のない空の堀だったことに由来しています。

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【魚屋さん 1】

この地域は江戸時代から商業が発展し、庶民的な商店街として近隣の人々に親しまれてきました。

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【魚屋さん 2】

松屋町筋から上町筋まで、アーケードの長さは約800m。
このあたりも戦災を免れた地域で、昔懐かしさを感じさせる街並みが多く残っています。

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【八百屋さん 1】

その一方で、新しい世代の経営者達は、老朽化したお店を近代的に改装したり、
古い長屋を生かした美術展やコンサートを企画するなど、積極的な町おこし活動を行っており、
その結果として、「空堀商店街」は新旧の文化が混ざり合う魅力的な商店街となっています。

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【昆布屋さん】

府内でも、人口増加地域にある郊外駅前商店街が大型商業施設に押され、シャッター通りと化している中、
人口の減少が続く大阪市内のど真ん中にある商店街は活気に溢れていました。

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【八百屋さん 2】

今回は、地下鉄谷町6丁目駅~同・谷町9丁目駅の間を散策しただけですが、
観光で大阪に来られる方には、上町台地縦断コースをお勧めしたいと思います。

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【親子】

住吉大社を出発し、新世界四天王寺~谷町界隈~大阪城を経て大阪天満宮まで。

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【格子戸】

その間にも名所や史跡・旧跡、古い町並みなどが点々と連なっており、
また、途中で歩き疲れても地下鉄や市バスなどの公共交通機関が充実しているので心配なし。

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【紫陽花】

時代の転換期に関わった場所を訪ね、趣き深い景観を楽しみながらぶらりと歩くだけでも、
何千年にも及ぶ歴史の積み重なりを感じることが出来ます。

(今回も長くなってしまいましたsweat01

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2008年5月20日 (火)

摂津国一之宮~すみよっさん

先日、5月12日(火)に帰阪した折に、大阪市住吉区にある住吉大社に行ってきました。

この日は午前中に天王寺で所要があり、その後、住吉大社へ向かいました。

阪堺電気軌道の天王寺駅前駅から「チン電」に乗り込み、
最寄の住吉鳥居前までは10駅、距離にして約4.5kmの道程です。

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【住吉大社参道】

大阪市の住吉区と住之江区の境に鎮座する住吉大社は、
摂津国一之宮で、旧社格は官幣大社。

全国2,000余に及ぶ住吉神社の総本宮として知られ、
大阪府下では最も著名な神社の1つです。

地元では親しみを込めて「すみよっさん」と呼ばれており、
初詣客数でも全国屈指の人出を誇っています。

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【住吉大社碑】

その起源は古く、今から約1800年前の神功皇后の新羅出兵に遡ります。

「住吉大社神代記」には、以下のような出来事が記されています。

仲哀天皇の治世、新羅と手を結び造反を繰り返す南九州の熊襲族に、
全国制覇を目指す大和政権は長年にわたり手を焼いてきました。

熊襲との倭王の座を巡る争いに終止符をうつため、
仲哀天皇と神功皇后は、自ら大軍を率いて筑紫の香椎宮に進駐しますが、
軍議の最中、住吉大神が神宮皇后に神懸りし、神託を発します。

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【太鼓橋:淀君が寄贈したと伝えられる】

神託は「海のかなたに金銀の国(新羅)があるのでこれを制せよ」という、
朝鮮半島への遠征を促すものでした。

この神託を信じなかった仲哀天皇は急逝してしまい、
驚いた神功皇后は大祓えをして再び神を呼び寄せ、新羅遠征を決断します。

その後は、住吉大神の加護により、たちまち熊襲を平定。
続いて、自らが軍船を率いて新羅に出征し、大いなる戦果を上げました。

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【住吉鳥居:支柱が角柱なのが特徴】

皇后摂政11年(211)、戦勝凱旋した神功皇后は田裳見宿禰(たもみのすくね)に住吉大神を祀らせ、
後には「われは大神と共に相住まむ」と、自らも合せ祀られるようになったということです。(※1)

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【第四本宮】

実は、住吉大神とは一柱の神様ではなく、
底筒之男命(そこつつのおのみこと)、中筒之男命(なかつつのおのみこと)、
表筒之男命(うわつつのおのみこと)の3神(住吉三神)の総称で、
これに息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)、
即ち神功皇后を併せた4神が住吉大社の主祭神となっています。

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【第三本宮】

神名の筒(つつ)とは、古語では星を指す言葉で、
住吉三神は現在でいうオリオンの三ツ星が神格化されたものだという説もあります。

目印のない海上でオリオン座の三ツ星は、舟の位置を知るための重要な目印。
三ツ星の輝きは海人にとって、まさに神の導きであったのでしょう。

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【第三・第四本宮】

そのためか、住吉三神は古来より海上安全の守護神とされ、
遣隋使や遣唐使も、社の南側にあった住吉津(すみのえのつ)から出発していました。

住吉津は仁徳天皇が開いたとされる港で、
当地は、日本最古の国際港であり、シルクロードの日本の玄関口でもありました。

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【第二本宮】

現在の海岸線は、大和川の堆積物と埋め立てにより5~6kmほど西へ後退し、
潮の香りも漂ってこないほど遠く離れてしまいましたが、
境内の松の緑が、かつては海辺であったことを偲ばせています。

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【第二本宮】

広々とした境内に、ゆったりと配された本殿4棟は文化7年(1810)に再建されたもの。

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【置き千木:第二本宮】

通常、神社の本殿は、南又は東向きに建てられていることが多いのですが、
ここでは、海に向かって西向きに建てられています。

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【第一本宮】

第一本宮に底筒之男命、第二本宮に中筒之男命、
第三本宮に表筒之男命、第四本宮に息長足姫命がそれぞれ祀られています。

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【祈り①】

造営年次は新しいものの、桧皮葺・切妻造り妻入りの「住吉造り」とよばれる特色ある様式は、
日本古来の神社建築の原型をとどめた貴重なものとして、何れも国宝の指定を受けています。

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【祈り②】

また、住吉三神といえば、同じ航海神として共通点の多い綿津見三神(わたつみさんしん)との関係も興味深いところ。

綿津見三神の総本宮は、志賀海神社。

朝鮮半島への玄関口・博多湾に浮かぶ志賀島に鎮座し、
「ちはやぶる 鐘の岬を過ぎぬとも 我は忘れじ志賀の皇神」と、
万葉集にも詠まれている古社です。

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【御神木】

海上交通の要衝に守護神として鎮座する住吉三神と綿津見三神は、
「古事記」「日本書紀」に記されている「神産みの神話」に同時に登場します。

伊弉諾命(いざなぎのみこと)は、亡くなった妻・伊弉冉命(いざなみのみこと)を忘れられず、
後を追って黄泉の国まで行きましたが、変わり果てた妻の姿を見たために怒りに触れ、
命からがらこの世に逃げ帰ります。

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【人待ち】

黄泉国から戻った伊弉諾命は、日向の橘の小門の阿波岐原で死後の穢れを禊ぎによって落としますが、
その際に、多くの神とともに住吉三神と綿津見三神が生まれました。

水の底で身を清めると底筒之男命と底津綿津見命(そこつわたつみのみこと)の2神が、
水の中程で身を清めると中筒之男命と中津綿津見命(なかつわたつみのみこと)の2神が、
水の表面で身を清めると表筒之男命と上津綿津見神(うわつわたつみのみこと)の2神が、
それぞれ、伊弉諾命の体から生まれたとされています。

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【高燈篭】

何故、同じような神が同時に2組生まれたのか?

私はむしろ、元々は1つの神であったものが、
記・紀編算の際に、何らかの意図で2組に分けられたのではと考えています。

元々は同じ神様であるのだが、古代王権が九州から畿内(近畿)に東遷する際に、
九州に留まった一族(安曇氏?)が信奉する神を綿津見三神とし、
近畿へ移った一族(天孫系氏族?)が信奉する神を住吉三神としたのではないかと。

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【摂社・大海神社(05年12月撮影)】

住吉大社の創建以来の歴代宮司家・津守氏は田裳見宿禰の末裔で、
その氏神は住吉大社の境内摂社の大海神社。

一般的に大海神社は、(だいかいじんじゃ)と呼ばれていますが、
正式には(おおわたつみじんじゃ)と読みます。

このあたりに、二組の神の謎を解き明かす鍵が隠れていそうです。

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【チン電】

興味の無い方には、まったく「何のこっちゃ!?」でしょうが、
一旦、古代の謎にはまってしまった者には、「すみよっさん」は格好の場所。

夢想は際限なく広がり、帰りの「チン電」はあっという間に目的駅に到着していました。

(※1) 当初は摂津国武庫郡菟原(現神戸市東灘区)祀られていましたが、
       仁徳天皇の治世に現在地に移されたようです。

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2008年5月 1日 (木)

中世の面影~上州白井宿

先月の28日(月)に、かつては白井城(しろいじょう)の城下町として栄え、
その後も市場町として賑わった白井宿(しろいじゅく:現・群馬県渋川市)を訪ねました。

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【白井宿】

白井宿は、利根川と吾妻川の合流点の河岸段丘上に発達した集落。

古くは、10世紀に成立した百科事典「和名類聚抄」にもその名が見え、
群馬郡13郷の1つ、群庁の所在地「白衣郷」として記録された歴史ある街です。

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【利根川・吾妻川合流点】

中世になると、関東管領の山内上杉氏の重臣、長尾景仲が西方の丘陵上に白井城を築城します。

吾妻川に面して城郭、その東に武家屋敷と職人街、
丘陵下には町人・農民が配置され、城下町としての形が整いました。

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【白井城跡】

白井城は他の北関東の城郭と同じように、
上杉・北条・武田各氏の抗争の波に揉まれた歴史を持っています。

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【白井城跡:石垣】

天文15年(1546)の河越の夜戦で北条氏康に敗れた上杉憲政は、
一旦平井城(現・群馬県藤岡市)に逃れますが、天文21年(1552)には越後に亡命。

北関東で勢力を拡大した北条氏は、近隣の厩橋城(前橋城)や沼田城(現・群馬県沼田市)を手中にします。

しかし、白井城と箕輪城(現・群馬県高崎市)は北条方に従はず、
その後、上杉憲政から家督を継いだ越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の関東侵攻への足がかりとなりました。

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【白井城跡:三日月堀】

謙信の死後、北条氏の再度の北進で白井城は一旦は北条方となりますが、
永禄13年(1570)の武田信玄の上州侵攻後は、真田幸隆の功により武田方の出城となります。

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【白井城跡:土塁1】

しかし、天正元年(1573)の信玄の死後には、北条方が再度奪回。

この間、城主である長尾氏は、上杉氏-武田氏-上杉氏-北条氏-滝川氏-北条氏と、
目まぐるしく主を変えました。

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【白井城跡:土塁2】

天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際には、北条方の北関東防衛の拠点に位置付けられましたが、
松井田城(現・群馬県安中市)を攻略した前田利家・上杉景勝から攻撃を受けると、
当時の城主・長尾政景はすぐに降伏を決断します。

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【白井城跡から赤城山を望む】

北条氏に心底服従していない長尾氏が、戦意なく開城するのは当然の成り行きで、
この時を以て、白井城は戦国の城としての役目を終えました。

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【源空寺:本田家墓所】

徳川家康が関東入りした後は、家康の命により徳川氏普代の本多氏が入城。

その後も、井伊氏や戸田氏、西尾氏など頻繁に城主が代わりましたが
元和9年(1623)、当時の城主・本多紀貞が後継ぎの無いまま病死したことにより廃城となりました。

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【白井堰】

廃城後、代官支配の地となった白井郷の住民は、
代官主導の下、中世の城下町の特色である短冊形の町割を活かし、半農・半商で経済を支えます。

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【井戸】

沼田・中之条・渋川・前橋のほぼ中間点に位置し、沼田街道・草津街道・三国街道への接続がよく、
利根・吾妻両河の渡河点でもあったことから市場町として発展。

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【商家】

上之町・中之町・下之町の900mにおよぶ町並みが形成され、
五・十日の六斉市(ろくさいいち)が各町間で交互に開かれるようになります。

元禄13年(1700)時点で、造り酒屋がすでに5軒。
この頃には、文人墨客をはじめ、多くの旅人が往来するまでになっていました。

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【石灯籠】

その他にも、露天の商いが中心ではありましたが、
市で取り扱われた商品は馬草・薪・材木をはじめ、
麻・繭糸・木綿・真綿・煙草・塩・茶・水油・米麦・豆など多岐にわたり、
その商圏は3郡24ヶ村に及んでいたそうです。

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【火の見櫓】

このように、成立過程を見てゆくと白井郷は宿場町ではありません。

しかし、街道の中央には白井堰と呼ばれる用水路が流れ、
両脇を通る街道沿いに商家が立ち並ぶ街並みは、宿場町の特徴と合致し、
その集落形態から「白井宿」と呼ばれるようになったのだそうです。

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【散歩】

江戸末期と明治に発生した大火により、古い建物の多くは消失していますが、
わずかに残る土蔵や点在する井戸などが、往時の面影を今に伝えています。

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【八重桜】

近年になって、街並みの保存と整備も進められているようで、
電線は全て地中化され、堰の両岸には約100本の八重桜が植えられています。

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【八重桜】

この日も散り始めではありましたが、見事な花を咲かせていました。

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【鯉のぼり】

この日は、平日の午前中ということもあってか訪れる人は疎ら。

聞けば、前日28日(日)は、この街のビックイベント「桜祭り」で、
武者行列が街を練り歩き、結構な賑わいであったとの事。

「武者行列」を見逃したのは残念ですが、落ち着いた佇まいを取り戻した白井宿で、
のんびりと良い時間が過ごせました。

<付記>

現在、白井城跡の二の丸・三の丸部分は殆ど農地化され、
本丸の一部も農地とし利用されていますが、
この日、たまたま本丸付近で農作業中の斉藤さんにお話をうかがうことが出来ました。

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【斎藤氏】

斉藤さんは、白井城城主・長尾氏につかえた斉藤氏の子孫。
(美濃の戦国大名斉藤道三の系譜だそう)

斉藤さんが子供の頃(60年前)には、本丸一帯は鬱蒼とした木々に覆われ、
近寄るのも不気味な城山であったとの事。

しかし、土塁や空堀はもっと良い状態で残っていたそうで、
大雨の度に坂東太郎が暴れだし、ずいぶんと崩れてしまったようです。

その他にも、大地主だった斉藤家が遭遇したGHQによる農地解放のお話や、
名産品のこんにゃく芋の相場や群馬の揚水力発電の事情など、
ここには記していませんが、興味深いお話を沢山聞かせていただきました。

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【いただいた長ネギと菜の花】

おまけに、私の単身赴任を聞くと「野菜を食べにゃイカン」と、
畑から長ネギを引っこ抜き、菜の花を摘んで帰り際に持たせてくれました。

普段はあまり自炊はしないのですが、
この日の夕飯は長ネギたっぷりの味噌汁と菜の花の御浸しを自作。

おいしく頂きました。

斉藤さん、有難うございました。

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2008年4月18日 (金)

赤城の大明神

(前回よりつづく)

赤城山南面千本桜を堪能して、次に向かったのが赤城神社。

赤城山上の大沼の畔にある元宮・赤城神社と区別する為、
当地の地名を冠して三夜沢赤城神社とも称される古社で、
全国に多くの分社をもつ赤城信仰の中心地として知られています。

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【一の鳥居】

ちなみに、赤城神社の分社は群馬県内に118社。
全国では334社に及びます。

祭神は赤城明神と大己貴(おおなむち=大国主)命で、
赤城明神とは赤城山が神格化した神様です。

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【参道】

室町時代中期に書かれた縁起物語「日光山縁起」には、
赤城明神と日光の二荒山大神にまつわる伝説が記されています。

大昔、赤城明神と二荒山大神の間に、
中の湖(中禅寺湖)の領有をめぐる争いが勃発。

赤城明神は大百足(むかで)の姿となり、二荒山大神は大蛇となって死闘を繰り広げ、
やがて、敗色が濃くなった二荒山大神は、弓の名手の小野猿麻呂に助っ人を依頼します。

猿麻呂は見事に赤城明神の左の目を射抜き、この戦いは二荒山大神の勝利で終わります。

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【拝殿】

この伝承が面白いのは、双方が百足と大蛇に、わざわざ姿を変えて戦ったこと。

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【拝殿正面】

百足を眷属(けんぞく:神の使者)としている神社は、佐渡の戸河神社や秩父の聖神社など、
全国にも数例があり、百足=鉱山神の使いとされています。

口伝に基づく話なので、論拠ははっきりとはしませんが、
その昔、鉱夫の間では「百足」という単語そのものが、鉱石・鉱物・採掘道具・衣裳など、
鉱山関連の一切のものを表現するときに用いられていたようです。

代表的なものとしては、「黒百足=鉄」「赤百足=金、銅」「白百足=銀」「縞百足=その他の鉱石」など。

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【たわら杉~伝:俵藤太(藤原秀郷)の献木】

また、鉱石を運ぶ牛馬も「百足ベコ」「百足ウマ」と呼ばれていたり、
百足が単に虫の名のみに使用されるようになったのは後世のことで、
上古には、鉱物そのものが百足という語であったといわれています。

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【中門と神殿】

一方、大蛇も鉱山とは関連が深い眷属。

その赤い舌が古代の製鉄プラント「たたら」の炎、
また、その姿形が砂鉄の採集地である河川の蛇行を連想させることから、
産鉄神の使いとされています。

よって、赤城山の神との二荒山の神の争いは、鉱脈を巡っての金属精錬集団同士の、
生存権を掛けた争いを伝えるものだったのではと考えられます。

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【神殿裏手】

ここで、興味深いのは二荒山神社の副祭神にも大己貴命の名が見られること。

赤城山の神との二荒山の神の争いに乗じて、出雲系の神である大己貴命を信仰する一族が、
一旦、この地を支配下に治めたことを暗示しているのではないかとも考えられます。

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【神楽殿】

そして、今の赤城神社の格付けは上野国二之宮。

かつては上野国一之宮でしたが、その座を貫前神社(群馬県富岡市)に譲り、
二之宮になったという伝承も残っています。

貫前神社の祭神は経津主(ふつぬし)命で、この神は天孫族系の産鉄神とされています。

赤城神社が二之宮となったということは、
一旦、上野国一帯の鉱山を手中にした出雲系の一族が、
経津主命を仰ぐ天孫族に支配権を明け渡した事を伝えているのではないでしょうか。

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【通学路:赤城神社からの帰路撮影】

古代の覇権を裏打ちするものは、高い金属精錬技術。

上野国の一之宮の変遷は、より高い技術をもった集団(天孫族)が周辺の集団を屈服させ、
わが国の基礎を築いていった経緯を表しているように思えます。

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【赤城山】

古社特有ののしっとりとした、まさに「神域」を感じさせる空気に包まれ、
遥か古代に思いを馳せると、想いは広がるばかりで時間が経つのを忘れてしまうほど。

三夜沢の杜は、神社好きには堪らない空間でした。

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2008年4月15日 (火)

赤城の千本桜

群馬に来て初めての桜のシーズン。

先日出かけた妙義山麓では時期がまだ早く、蕾だけしか見られなかったので、
今度は確実に桜を見られるように、ネットで開花情報を確認。

4月11日(金)に「見頃cherryblossom」のマークがついていた、赤城山南麓の千本桜を見に行って来ました。

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【桜と赤城】

群馬県内には、(財)日本さくらの会により「日本さくらの名所100選」に選定されている場所が2箇所あります。

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【桜の天井】

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【町を見下ろす(前橋方面)】

1つは、昨年の12月にこのブログでも紹介した「冬桜」の里、桜山公園
もう一箇所が、ここ、前橋市苗ヶ島町の赤城山南面千本桜です。

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【並木道①】

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【並木道②】

千本桜の起源は意外と浅く、昭和31年(1956)頃。

裾野の長い赤城山の南腹の登山道脇に、
地域の有志がソメイヨシノの苗約1,000本を植えたのが始まりです。

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【空に映える】

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【花盛り】

今では、高崎や前橋の市街地から数日遅れる花期が人気で、
多くの観光客を集めるスポットとなっています。

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【競演】

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【ひと休み】

また、始点の標高が430m、終点が標高700mと高低差があるため、
長い期間桜を楽しめるのもここのよい所。

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【初めての春】

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【花のアーケード】

この日も、裾にある駐車場付近は満開でしたが、
約2kmにわたる桜のトンネルも、終点近くは3分咲き程度でした。

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【謳歌①】

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【謳歌②】

平日にもかかわらず大盛況。

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【散歩日和】

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【掻き入れ時】

今後、GW前までは開花が続きそうなので、
立ち並ぶ出店もまだまだ稼ぎが見込めそうでした。

桜写真を堪能した後は、隣の三夜沢町にある赤城神社に向いました。

(次回に続く)

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2008年4月11日 (金)

日本最古の駅弁屋

(前回よりつづく)

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「碓氷峠鉄道文化むら」は、信越線の横川~軽井沢の廃線区間跡に作られた施設。
隣接地には区間廃線の後、始発着駅となった横川駅があります。

この横川駅の名を全国に知らしめたのが駅弁「峠の釜めし」で、
製造・販売元「おぎのや」の本店が、改札口を出て直ぐのところにあります。

駅前通りを挟み、本店の向かい側には、私設の資料館があり、
「おぎのや」や横川駅周辺の歴史が紹介されており、無料で見学することが出来ます。

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【JR横川駅】

「おぎのや」の創業は明治18年(1885)で、横川駅と同時期の開業。

以来、120年以上も当地で駅弁を販売し続けている老舗で、
現存する全国の駅弁製造会社のなかでも、最も古い歴史を誇っています。

大ヒット商品、「峠の釜めし」の販売開始は昭和33年(1958)。

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【おぎのや横川本店】

当時、アプト式はすでに廃止となっていましたが、
信越線横川~軽井沢は日本有数の鉄道の難所でありました。

急峻な碓氷峠を越えるためには、全ての列車が群馬側の横川駅に必ず停車し、
電気機関車(“峠のシェルパ”EF63形)を補助機関車として連結しなければなりませんでした。

平坦地では100㎞/h以上で走る特急列車が、横川~軽井沢間は機関車2両連結で20㎞/h程度の速度となり、
わずか10数㎞の区間を20分以上もかけて走行していました。

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【“峠のシェルパ”EF63形】

停車時間としては、下り列車(横川→軽井沢)で機関車連結作業のために7~8分、
上り列車(軽井沢→横川)で切り離し作業のために5分程度を要しました。

この停車時間の長さは駅弁販売には適していましたが、
業績は必ずしも好調ではありませんでした。

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【おぎのや資料館】

「おぎのや」が大きく発展するのは、
四代目高見澤みねじ氏が「峠の釜めし」を発売した昭和33年(1958)以降のこと。

商才に長けたみねじ氏は、巧みな広告・PR戦略を繰り広げ、
有名百貨店の駅弁大会などにも積極的に出品をしました。

昭和42年(1967)には、みねじ氏自らをモデルにしたテレビドラマ「釜めし夫婦」(フジ)が放映され、
全国的な知名度を獲得するに至ります。

また、昭和37年(1962)には、世のモータリゼーション化を見越して、
いち早く国道18号脇に工場兼ドライブインを建設。

その後、上信越自動車道開通により車の流れは横川をスルーすることになりますが、
高速のサービスエリアや軽井沢各所への出店することにより難局を乗り切っています。

平成9年(1997)の長野新幹線の開業に伴い、信越線横川駅~軽井沢駅間が廃線となっても、
横川駅での販売額は全体の3割程度となっていたため、経営への影響は最小限にとどまりました。

現在は、長野新幹線の高崎・軽井沢間でも釜めし車内販売が行なわれています。

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【峠の釜めし】

この日のお昼は、「おぎのや」の本店で「峠の釜めし」を初めていただきました。

正直、\900の釜めしの味に大した期待はしていませんでしたが、食べてビックリ。
なんとまぁ、美味しいこと!

「おぎのや」さん、評判をこれまで疑っていたこと、お詫び申し上げます。

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【JR磯部温泉駅前】

お昼を済ませた後は、碓氷第三橋梁(めがね橋)や碓氷湖(桜は蕾のみ!!)を回り、
午後4時ごろに家人のお目当てである磯部温泉街に到着しました。

いつもの事ながら、私の趣味に引っ張りまわされた家人は爆発寸前でしたが、
ギリギリ、何とか事なきを得ました。

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【磯部温泉街】

磯部温泉は歴史ある温泉郷ですが、その規模は草津温泉や伊香保温泉と比べると格段に小さく、
町の中心を流れる碓氷川の両岸に、現在11件の温泉旅館が営業しています。

当日の宿の若女将(別嬪さん!)に、「この内陸部の地名が、何故に磯部?」と尋ねたところ、
大昔、このあたりは海底で、今も断層から貝の化石が多数発見されるそうで、
磯部という地名もそのあたりに由来するらしいと教えていただきました。

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【足湯】

そのためかどうか、磯部温泉は塩分が大変強く、
鎌倉時代に成立した歴史書「吾妻鏡」の中には、
「磯部村此所に塩の湧き出る所あり」とう記述があります。

この記述から、鎌倉時代にはすでに温泉が湧出していたものと推測されています。

その後、天明3年(1783)の浅間山の大噴火により湧出量が急増。

江戸時代後期には本格的に湯治場となり、
明治時代になるとpH8.0のアルカリ性鉱泉は、
ベルツ博士をはじめ、多くの医学博士に効能を評価されました。

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【桜:磯部温泉赤城神社】

信越線が碓氷峠を越えて開通し、軽井沢にその地位を取って代られるまでは、
日本を代表する避暑地であり、多くの外国人別荘地が立ち並ぶリゾートの草分け的存在でありました。

以前は泉温が24℃と低く、「磯部鉱泉」と呼ばれていた時期もありましたが、
平成8年(1996)には、新源泉(52℃)が掘削により湧出。

現在は、主としてこの源泉が各旅館で利用されています。

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【温泉記号の碑】

全国的にはあまり知られていない磯部温泉ですが、
この地が発祥とされているもので、日本人の誰もが知っているものがあります。

それは、温泉マーク。

万治4年(1661)、この地で起こった草刈場の入会権に絡む農民同士の争いに決着を付けるため、
江戸幕府は「上野国碓氷郡上磯部村と中野谷村就野論裁断之覚」という評決文を出しました。

その中の地図には、温泉マークが二箇所はっきりと記されており、
2008年現在、これより古い資料が見つかっていないことから、
磯部温泉が温泉記号発祥の地とされています。

温泉街にある赤城神社の境内には、「日本最古の温泉記号の碑」がありました。

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【当日のお宿】

この日のお宿は、客室数11のこじんまりした旅館。

先述の若女将をはじめ、女将(またまた別嬪さん!)や従業員の皆様には、
とても明るく感じのよい対応をしていただきました。

また、お部屋や建物も隅々まで清掃が行き届いており、もちろんお風呂も綺麗!
随所に気遣いが感じられるお宿でした。

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【露天風呂】

宿泊日は4月2日でしたが、「エイプリルフール特別企画・嘘のようなホントの価格」で御世話になりました。

食事も美味しく、お安い料金で申し訳ないくらい。

とても気持ちのよい休日を過ごさせていただきました。

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2008年4月 8日 (火)

鉄路の街

またまた、ご無沙汰いたしております。

今回が4月最初の更新です。

なんだかんだと雑事が重なり、最近は更新頻度が非常に悪く、
最近ではあわや月刊というペースに陥っております。

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先週の4月2日~3日にかけて、群馬県安中市にある磯部温泉に行ってきました。

昨年9月の群馬転勤時に、家人と「二ヶ月に一度の温泉めぐり」という約束を交わしており、
これまでは、11月の草津温泉、1月の伊香保温泉と順調にノルマを達成してきました。

しかし、3月はスケジュールが非常にタイトで、何処へ行くことも出来ず、少し遅れての約束履行となりました。

高崎市街地から磯辺温泉へは、国道18号線を西へ真っ直ぐ約20Kmの一本道。
また、信越本線を利用すれば、高崎-磯部間はたったの15分。

日帰りでも十分な一番近場の温泉ですが、
今回は、その先にある妙義山方面の桜を期待して一泊の予定を組みました。

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【妙義山】

しかしながら、当日、現地へ行ってみてがっくり。

やはり早すぎたようで、妙義山腹の桜はつぼみが膨らんだ程度で、
ひょっとしたら、ちらほら咲きぐらいは見られるかもという淡い期待は霧散してしまいました。

そこで、まだ蕾ばかりの妙義山を長い間眺めていても仕方が無いので、
磯部温泉に引き返す前に、安中市松井田町にある「碓氷峠鉄道文化むら」という施設に立ち寄りました。

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【中仙道:坂本宿】

「碓氷峠鉄道文化むら」のある松井田町は、群馬県の最西端に位置し、
隣県長野の軽井沢町と碓氷峠を挟んで接しています。

江戸時代以前には東山道や中山道が通り、碓氷峠には関所が置かれ、
松井田、坂本の二つの宿場を中心に、交通の要衝として発展してきました。

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【アプト式機関車:ED42型】

その後、明治の世になると全国の鉄道網が急速に発達。

信越本線も順調に伸延され、明治26年(1897)には難所・碓氷峠区間(約12km)を最後に全線が開通しました。

この区間は群馬側の横川駅が海抜387m、長野側の軽井沢駅が海抜939mと約500mの標高差があり、
最大で66.7‰(水平距離100m先で6.67mの高低差)という国内路線最大の急勾配が立ちはだかっていました。

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【ED42型プレート】

そのため、開通後も急勾配対策として、各時代における最高水準の鉄道技術が注ぎこまれてゆくことになります。

明治年(1897)、アプト式機関車(※1)の導入。
明治年(1897)、レンガ作りのアーチ式橋としては国内最古の碓氷第三橋梁(めがね橋)の整備。
大正年(1912)、丸山変電所の整備による国内最初の電化。
大正年(1919)、国産第一号の電気機関車の配置。 等々。

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【アプト式機関車底部の歯車動輪】

このように上越本線横川駅-軽井沢駅区間は、日本の鉄道技術史において特別な位置を占めてきましたが、
時代は流れ、平成9年(1997)には長野新幹線の供用開始に伴って、廃線となることが決定されました。

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【トンネル:アプト式鉄道廃線跡】

この決定を受け、地元町民の間には過疎化への危惧が急速に高まり、
行政でも、地域活性化に向けての方策が検討されることに。

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【めがね橋:アプト式鉄道廃線跡】

町民参加で地域懇談会などが開かれ、具体的なアイデアを公募したところ、
町特有の地域資源である鉄道を活用した意見が数多く寄せられ、
「鉄道文化・街道文化をまちづくりに」が地域活性化のテーマの一つとなりました。

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【特急あさま】

そして平成11年(1999)、横川駅周辺整備の一環として、
鉄道テーマパーク「碓氷峠鉄道文化むら」がオープンするに至ります.。

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【EF62型】

横川-軽井沢間の本線敷の一部と横川運転区の跡地、旧国鉄の宿舎跡などを用いた4.5haの敷地に、
車両展示や資料館、ミニSLやトロッコ列車、シュミレーターなどの体験施設が数多く盛り込まれ、
とりたてて鉄道ファンではない私や家人も十分に楽しめました。

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【3等寝台車オハネ12-29】

車両の展示は一部を除いては野ざらしで、少々可愛そうな気もしましたが、
広大な敷地に気動車、客車、貨車、蒸気機関車やディーゼル機関車が並ぶ姿は壮観でした。

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【3等客車ナハフ11-1】

そして、何といってもこの施設の最大の目玉は、
碓氷峠専用のEF63型電気機関車の実車運転体験ができること。

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【運転台】

EF63型機関車はアプト式から粘着式(※2)に移行した昭和38年(1963)以降、廃線に至るまで、
横川-軽井沢間の急峻な峠越えに備えて補助車両として連結されていた名物車両だそうです。

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【峠のシェルパ:EF63】

半日かけて学科実技講習を受けて、その日に行なわれる修了試験に合格すれば、
翌日以降に、晴れて本物を運転することができるのです。

学科実技受講料が\30,000、300mの区間を往復する体験運転が一回あたり\5,000という価格設定は、
一般観光客向けとはいえませんが、本物の機関車の体験運転が出来る施設は全国的にも例がないようです。

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【「グリーンブリーズ」号】

今回は時間とお金が無く体験は出来ませんでしたが、
鉄道ファンでなくとも心動かされるものがありました。

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【動輪:蒸気機関車D51】

「碓氷峠鉄道文化むら」の入場者数は開園以来9年で180万人を突破。
年間平均で20万人の動員は立派なものではないでしょうか。

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【ミニSL】

この日も春休み期間中ということもあり、沢山の家族連れやカップル(熟年多し)で賑わっていました。

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【トロッコ列車「シェルパ君」】

開園当初は、心無い鉄道マニアによる部品やプレートの盗難・破損事件が頻発し、
車両の扉をバーナーで焼ききって、運転台ごと持ち去る等の過激な犯行も見られたようですが、
国鉄OBのボランティアや全国の善良な鉄道ファンに支えられて、
行政主導のテーマパークによる地域振興の優良事例となっているようです。

(次回に続く。)

※1 通常の2本レールの間に、ラックレールという鋸状のレールを敷き、
    機関車底部の歯車(動輪)をかみ合わせて勾配を上る方式。
    現在、国内では大井川鉄道のみで採用されています。

※2   車両とレールの摩擦だけで運転する、一般的な鉄道方式。

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2008年3月 7日 (金)

お城に咲く梅

3月4日(火)に、お休みで帰阪した折に、
大阪を代表する早春の風物詩の一つ、大阪城公園の梅林に行ってきました。

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【大阪城公園の梅①】

現在大阪城梅林は、本丸内堀の東側の二の丸付近にありますが、
徳川時代には、城の警備役である大阪加番大名とその家来の長屋が建ち並ぶ場所でした。

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【大阪城公園の梅②】

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【大阪城公園の梅③】

その後、維新の世になっても、明治政府が大阪城内一帯を軍用地として転用したため、
太平洋戦争が終結するまでは、長らく一般市民は立ち入りが出来ませんでした。

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【大阪城公園の梅④】

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【大阪城公園の梅⑤】

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【大阪城公園の梅⑥】

その後、GHQによる接収の時代を経て、
昭和23年(1948)、外堀を含む広域が公園として整備され「大阪城公園」が誕生。

広く一般市民に開放されるようになりました。

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【大阪城公園の梅⑦】

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【大阪城公園の梅⑧】

梅林の起源は意外と新しく、昭和47年(1972)。

現在の大阪府知事・橋本氏の出身校、府立北野高校の同窓会が、
開校100周年事業の一環として22種・880本の梅を大阪市に寄贈したことに始まります。

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【大阪城公園の梅⑨】

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【大阪城公園の梅⑩】

その後、昭和49年(1974)には「大阪城梅林」として開園。
今では梅の木も93種・1250本に達し、西日本随一の梅林に成長しました。