2014年1月17日 (金)

久しぶりのえべっさん

1月10日に、久しぶりに今宮戎神社に行くことができました。

寒い日でしたが、福娘さんたちの笑顔はさんさんと輝いておりました。

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2012年12月 4日 (火)

天空の城、我に微笑まず

先月の11日、紅葉真っ盛りの竹田城に行ってきました。

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【夜明け前】

日本一の山城といわれる竹田城。

その縄張りは、南北400メートル、東西100メートルにおよび、
完存する石垣遺構としては全国屈指の規模。

平成18年(2006)には日本城郭協会から「日本100名城」に選定されており、
自然石を巧みに配置した近江穴太衆による石垣は、築城当時の威容を誇っています。

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【竹田城①】

築城に関しては400年前と伝えられていますが、そのほとんどが不明。

朝来市和田山町にある臨済宗妙心寺派・円明寺が所蔵する『和田上道氏日記』には、
嘉吉年間(1441~1443)、丹波国と播磨国の通用門である竹田の地に「安井ノ城」が築かれたという旨のみが記されています。

『和田上道氏日記』は、江戸時代末期、当地に伝わる古い伝承をまとめたもので、
竹田城の築城に関しては、この他に史料がなく、
和田山町発行の『史跡・竹田城』にも、「嘉吉三年、山名持豊(宗全)によって築かれ、
太田垣光景が初代城主に任じられたとする口碑を残すのみである」とあります。

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【夜明け】

その後は、太田垣氏が5代にわたって城主となりますが、
織田信長の命による秀吉の但馬征伐で、天正8年(1580)に落城。

山名氏四天王の一角、太田垣氏による支配は終焉をむかえます。

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【竹田城②】 

天正13年(1585)には、秀吉に投降した龍野城主・赤松広秀が替わって入城。

赤松広秀は関ヶ原の戦いでは西軍に属し、舞鶴城を攻めるも西軍は敗戦。

その後、徳川方の亀井茲矩の誘いで東軍に加わり、鳥取城を落城させますが、
家康により鳥取城下の大火の責めを負わされ、慶長5年(1600)鳥取真教寺にて切腹。

竹田城は廃城となりました。

現存する穴太積みの見事な城郭は、この最後の城主・赤松広秀が整備したと伝えられています。

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【穴太積】

但馬地方では、秋~冬にかけての晴れた日の早朝に朝霧が発生する事が多く、
この季節の風物詩の一つとなっており、
標高標高353.7mの山頂に築かれた竹田城がひとたび雲海に包まれれば、
まさに天空に浮かんでいるように見えます。

とはいっても、私も写真やTVでしか観たことが無く、
その幻想的な風景を一度この眼で見ようと、夜が明ける前に竹田城を目指しました。

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【絶景!】

私が到着した午前5時半頃。

城跡まで徒歩15分程の、山の中腹にある約70台分の駐車場は既に満車に近い状態。
かろうじて、ラスイチとなった区画に車を滑り込ませることが出来ました。

月曜日の早朝に、そんなに多く来訪者は居ないだろうと思っていましたが、甘かった。

天守台の上は鈴なりの人だかりで満員御礼!

おまけに、まったく霧も出ず!残念!

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【竹田城③】

「天空の城」として城マニアやアマチュア写真家の間ではその名を知られていた竹田城ですが、
2012年夏公開の降旗康男監督、高倉健主演の映画『あなたへ』の撮影舞台となったことで、
ますますその人気に拍車がかかっているようです。

後日読んだ11月10日付の朝日新聞によると、
平成21年(2009)頃には月に1,000、最多月でも7,000人程度だった訪問者が、
今年の9月は前年の4倍余の20,000人、10月は35,000人、
見事な雲海が出た11月4日(日)には、一日で過去最高の3,287人に達したとのこと。

「天空の城」アピールの町おこしとしては、大成功なのだと思います。

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【竹田城④】

しかし、その半面、来訪者によるトラブルも急増しているようで、
マナー遵守を呼びかける看板がチラホラ。

この日も、駐車場にはゴミの放置がみられましたし、
天守台付近には徹夜組でしょうか、
貴重な史跡の上にテントのペグを打ち込んでいる輩もいました。

私自身も急増来訪者の一人。
くれぐれも気をつけたいと思いました。

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2012年11月19日 (月)

「ぼたん」がいた街

先日、かねてから訪問したいと思っていた「龍野」に行ってきました。

兵庫県たつの市は、平成17年(2005)に旧・龍野市と、
周辺の揖保郡新宮町・揖保川町・御津町などが合併し誕生した新しい市。

旧・龍野市の中心部の龍野町には武家屋敷や白壁の土蔵が今も残っており、
龍野藩5万3千石の城下町の面影が色濃く、「播州の小京都」と呼ばれています。

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【龍野の街並み】

この街に一度は行ってみたいと思うようになったきっかけは、映画「男はつらいよ」の影響。

「男はつらいよ」シリーズは、かつてこのブログでも書いた通り
若かりしころから、劇場やレンタルビデをで公開全作を観てきましたが、
昨年の1月6日、講談社より「寅さんDVDマガジン」なるものが発売されるのを聞き及んで、
これを機に手元に置いておきたくなり、定期購入を決意しました。

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【龍野城】

決意とは大げさな!と思われるかもしれませんが、配本は全50回。
現在までに、隔週刊で49回がすでに発売済みで、残すところあと1回となっています。(※1)

まず、初回が790円(お決まりの手口^^;)。

残る49回は1,590円で、全巻を揃えると78,700円の出費となる勘定。
欲しいレンズが一本買えるお値段となっております。

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【龍野の街並み①】

で、買い続けてどうだったかというと、出費に見合った楽しみを得たという点で大いに満足しています。

ここ2年近くの間、隔週で手元に届くDVDを待ち遠しく思うくらいに、
50歳を目前に観た「寅さん」は、若いころとはまた違った感慨を与えてくれました。

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【龍野の街並み②】

前置きが長くなりましたが、この龍野界隈は、私の一番のお気に入りの回、
第17作「寅次郎 夕焼け小焼け」の舞台となった街です。

街の中心部を流れる揖保川に架かる龍野大橋、龍野城、醤油蔵の路地、
煉瓦造りの煙突、寅さんがタクシーから見た武家屋敷など、
映画のシーンそのままに、昔と変わらない落ち着いた佇まいが残っていました。

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【武家屋敷資料館】

龍野の街で出会い、寅さんが恋をするお相手のマドンナ役は太地喜和子。

本当に華のある女優さんで、明るくキップのいいい芸者「ぼたん」役がはまっていました。

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【武家屋敷資料館 内部】

芸者の「ぼたん」が、一転、洋装の普段着姿となって、
土塀に挟まれた狭い路地を小走りに走ってくるシーンなどは、まことに映画的で美しい!

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【龍野の街並み③】

渥美清にも負けない、圧倒的な太地喜和子の存在感。
ゲストで脇を固める宇野重吉、桜井センリ、佐野浅夫の軽妙な演技。
龍野の街並みの美しさ、起伏に富んだストーリー。

この作品は映画としての完成度も高く、「寅さん」ファンならずとも十分楽しめる秀作です。
「寅さん」を見たことがない若い方にも、ぜひともお勧めしたいと思います。

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【醤油工場の煉瓦煙突】

映画にもたびたび映りますが、龍野の街の美しさを構成する重要な要素となっているのが白壁の醤油蔵。
龍野は醤油の街としても有名で、関西の台所に欠かせない「うすくち醤油」はこの地で生まれました。

その歴史は江戸時代初期、寛文6年(1666)まで遡ります。

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【揖保川】

円尾孫右衛門という方が、大豆を発酵させた「醤油もろみ」に米を糖化した甘酒を混ぜる製法を発案。
当地を治めた龍野藩脇坂家の保護のもとに発展しました。

当地が醤油造りで栄えた一番の理由は、揖保川の水にありました。

透明感のある「うすくち」を作るには、きわめて鉄分が少ない揖保川の水がぴったりだったのです。

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【うすくち龍野醤油資料館】

また、それ以外の材料である大豆・小麦・塩の三つの原料が手に入れやすかったということがあります。
播州平野の小麦、山間部の新宮町・山崎町の大豆、そして沿岸部の赤穂の塩です。

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【うすくち龍野醤油資料館 内部】

「ほのかなる 人のなさけに 似るものか 龍野醤油の うす口の味」

放蕩の歌人・吉井勇が 歌に詠んだ龍野の醤油造りは、
伝統を守りながらも、販路拡大を積極的に推し進めた地元企業の努力により、
全国屈指の地場産業となりました。

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【ヒガシマル醤油ポスター】

その代表的な企業がヒガシマル醤油株式会社。

明治2年(1869)、淺井氏は揖保川東岸の旧・龍野藩の直営物産蔵(東蔵)を落札、
淺井醤油合名会社として商標「ヒガシマル」を醸造しはじめました。

昭和17年(1942)、天正年間創業の菊一醤油合資会社と合併し龍野醤油株式会社となり、
昭和39年(1964)ヒガシマル醤油株式会社と改称、現在は業界第3位の醤油会社となっています。

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【兵庫県手延素麺協同組合】

最後にもう一つ、龍野の地場産品をご紹介。
手延べ素麺の「揖保乃糸」も、龍野に在る兵庫県手延素麺協同組合のブランドです。

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【手延べ素麺「揖保乃糸」】

この日は、龍野公園内にある食事処「さくら路」で「揖保乃糸」を頂きました。
素麺にアユの甘露煮、桜の花の香りがついた炊き込みご飯のセットで1,000円也。
本場で味わう素麺は、腰があって舌触りもよく、サイコーのお味でした。

(※1 劇場公開は48作。あとの2作はTV版の編集と人気の高い「ハイビスカスの花」編の特別編集版。)

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2012年10月23日 (火)

明石の「うおんたな」

明石海峡付近の海域は、潮流の変化が大きく地形が複雑な為、
魚の産卵場や育成場が多数あり、瀬戸内海有数の漁場となっています。

そこでは、底曳き網漁、船曳き網漁、刺網漁、一本釣り漁の他、壺漁、籠漁など
小型船による多種多様な沿岸漁業が行われており、
特に、明石漁港で水揚げされた「前もの」と呼ばれる鯛や蛸は、
今や、「明石鯛」「明石ダコ」として、全国区のブランドになっています。

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【明石海峡】

そんな魚の街・明石を代表する商店街が、本日紹介する「魚の棚商店街」。

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【魚の棚商店街】

関西では「うおんたな」と発音しますが、この名称は、魚商人が軒先に大きな板を敷き、
その上に乗せた魚に、鮮度を保つための水を流した様子からきていると云われています。

当地以外にも、江戸時代に整備された海岸沿いの城下町には、
「魚の棚」という通称をもつ町があったようです。

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【明石城の坤櫓(ひつじさるやぐら)】

明石の「うおんたな」の始まりは、今から約400年前に遡ります。

明石城の初代城主・小笠原忠真が信濃松本8万石から播磨明石10万石に移封されたのが元和3年(1617)。

その翌年から明石城築城とともに城下町の整備を開始し、
町の東部を商人と職人の地区、中央部を東魚町、西魚町など商業と港湾の地区、
西部を樽屋町、材木町とし、その海岸部は回船業者や船大工、漁民などの居住する地区としました。

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【魚の棚商店街アーケード】

この町割りを行ったのが、小笠原忠真に長く仕えた宮本武蔵であったと伝えられています。

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【明石ダコ】

城下町の中央部の東魚町と西魚町が「うおんたな」の原型。

城に程近い、いわば一等地に魚町が置かれており、
その当時から明石では、魚の商いが重要視されていたとが判ります。

ちなみに、東魚町・西魚町は、昭和47年(1972)の住居表示変更で「本町」となり、
歴史を伝える旧町名は、残念ながら消えてしまいました。

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【レンコダイ】

現在の「うおんたな」は、全長350mのアーケードの両側に、
明石漁港で水揚げされた鮮魚や練り製品、塩干物などを扱う商店など、110店のほどの店舗が建ち並び、
地元はもちろん、神戸や大阪からも多くのお客さんを集め賑わっています。

訪れるなら、「昼網」のセリで仕入れた新鮮な魚が店頭に並ぶ、お昼1時過ぎがねらい目です。

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【タコの煮物】

そして、もう一つ、忘れてはならないのが「たまご焼き」。
別名「明石焼き」とも呼ばれていますが、地元のお店の表記はほとんど「たまご焼き」となっています。

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【たこ磯さん】

「うおんたな」と、その周辺にはたくさんの「たまご焼き」の名店がありますが、
私のおすすめは、アーケードの中ほどにある「たこ磯」さん。

お店で食べれば15個で650円。
たまご焼き本体はもちろん、カツオ風味が生きているダシも抜群。

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【たまご焼き】

土日、祭日ともなれば長い行列が出来る人気店ですが並ぶ価値アリ、納得のおいしさです。

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2012年9月19日 (水)

子午線のまち

これからはボチボチと、新しい任地となった明石市や、
その周辺のご紹介してゆきたいと思います。

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明石市は兵庫県の南部、瀬戸内海に面した都市で、人口は29万人。
明石海峡を挟んで、淡路島の北端と向かい合っています。

気候はいわゆる瀬戸内式気候で、年間を通して温暖・少雨で日照時間が長く、
一般の勤め人である私にとっては、かつての任地・岡山に似た住みやすい街です。

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【明石の門にかかる明石海峡大橋】

古代から阪神と播磨を結ぶ陸上交通、淡路島と四国の海上交通の要衝として開かれ、
柿本人麻呂らによって、多くの歌が詠まれた風光明媚な地でもあります。

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【JR明石駅前「ようこそ明石へ」のモニュメント】

万葉集巻三雑歌の部には、柿本人麻呂の「覊旅の歌八首」が並べてられており、
いづれも瀬戸内海をゆく船旅の途上詠まれたものと思われますが、
そのうち二首に、地名としての「明石」が詠みこまれています。

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【JR明石駅】

「天離る 鄙の長道を 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ」

「燭火の 明石大門に入らむ日や 榜ぎ別れなむ 家のあたり見ず」

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【明石銀座商店街】

明石と淡路島との間にある明石海峡は、古来より「明石の門」或いは「明石大門」と呼ばれ、
約4kmの海峡は潮流が早く、万葉の頃の旅人には危険な旅でありました。

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【明石港①】

西に向う旅人にとっては、ここ「明石の門」を越えれば、
大和の山々の姿はついに見えなくなり、いよいよ都を離れるという思いを味わったであろうし、
帰京の旅人にとっては、ようやく都に戻り家族に会えるといった、望郷の念にかられたことでありましょう。

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【明石港②】

このように長い歴史を持つ明石ですが、その名を日本国中で知らしめているは、
何と言っても「子午線のまち」としてではないでしょうか。

明石市の真上を通る東経135度の子午線が、日本における時刻の標準、
すなわち日本標準時を定めるための子午線となっており、
このことは小学校の教科書に必ず登場します。

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【明石港③】

明石市立天文科学館のHPによると、
東経135度子午線上にある市は、明石市を含む12市。

北から京丹後市、福知山市、豊岡市、丹波市、西脇市、加東市、小野市、三木市、
神戸市西区、明石市、淡路市、和歌山市を東経135度子午線は通っているのですが、
その中で明石市が、明治43年(1910)に日本で最初に標識を建てたことから、
「子午線のまち」となったようです。

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【人麻呂を祭る柿本神社】

天文科学館はまさに東経135度子午線の真上に建てられており、
日本標準時を刻む大きな塔時計が設置されています。

初代塔時計が設置されたのは昭和35年(1960)。
その後、1978年に設置された2代目は、平成7年(1995)の阪神・淡路大震災で破損・停止。
その時計は撤去され、現在は神戸学院大学で展示されています。

現役の塔時計は3代目となり、初代・2代目同様、服部セイコーからの寄贈です。

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【明石市立天文科学館】

この天文科学館には、もう一つ有名な施設があります。

館の2Fにあるカール・ツアイス・イエナ社製のプラネタリウムは、現役のものとしては国内最古。
阪神・淡路大震災でもこの館で唯一被害を免れ、1960年の稼働以来、今も元気に活躍中です。

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【カール・ツアイス・イエナ社製のプラネタリウム】

この日は、嫁さんと高校生の娘2人が遊びにきており、4人でプラネタリウムを鑑賞しましたが、
私は満点の星空のもと、心地よいリクライニングシートの上で、
瞬く間に夢の世界に入ってしまいました。

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2011年4月 7日 (木)

さらば、勢州!

大変ご無沙汰しています。
なんと、約一年ぶりのブログ更新です。

この一年は、本当に忙しない一年でした。

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【四日市コンビナート】

前半戦は、大阪の自宅の全面改修に追われ、
その後は、勤めている会社とグループ企業との経営統合に翻弄されました。

そして、現在も写真を撮る暇もないほど、バタバタしております。

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【三多気の桜】

多忙の一番の原因は、転勤辞令。
この度、約二年暮らした三重を離れることになりました。

4月12日付けで新任地に参ります。
新任地は関東地方で、今度も単身赴任です。

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【伊勢の海女さん実演】

前任地の岡山・群馬と同様、
当地三重でも、いろいろな方と出会い、いろいろな場所を訪れ、
故地大阪に留まっておれば知ることすらなかった事柄を見聞きでき、
本当に勉強になったし、何より、楽しく過ごす事ができました。

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【多度大社上げ馬神事】

出会ったすべての方々に感謝、感謝です。

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【御在所岳ロープウェイ】

家族の暮らす大阪からは遠くなり、一抹の寂しさはありますが、
初めての地で、また、素晴らしい出会いがあるだろうと、
今から楽しみにしています。

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【揖斐長良川大橋】

落ち着きましたら、ご報告いたしますので、
その時は宜しくお願いします。

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2010年4月 5日 (月)

佐保川の桜

先週、4月2日(金)のお話です。

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桑名から所要で帰阪の折、奈良市内の佐保川堤防に桜を撮りに行ってきました。

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【佐保川】

『佐保河の小石ふみ渡りぬばたまの 黒馬の来る夜は年にもあらぬか』

と万葉集にも詠われている佐保川の堤防には、沢山の桜の木が植えられています。

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【佐保川堤防】

江戸時代末期に奈良奉行であった川路聖謨(かわじ としあきら)が植樹させたのが始まりだそう。

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【佐保川の桜】

当時の桜は殆どが姿を消し、現存する樹は4本だけになってしまいますが、
その後の地域の方々の植樹で、堤防沿いに約3kmにわたって、
1000本もの立派な桜並木を見ることが出来ます。

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【撮影中】

ここの桜は地元の方以外にはあまり知られていないので、
満開に近いこの時期でも驚くほど人が少ないのでお勧めです。

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【堤防散歩】

私は見たことが無いのですが、義母曰く、夜間のライトアップも素晴らしいとのこと。
お近くの方は、一度行って見られてはいかがでしょうか。

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【佐保川の流れ】

この日は、嫁さんと長女が一緒。

普段は私の撮影に付き合うのを嫌がる二人ですが、この日は珍しく同行してきたので、
お天気がいまひとつだったこともあり、桜写真より家族スナップがメインになってしまいました。

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【奈良市街・三条通】

そして、桜見物の後は・・・

近鉄奈良駅近辺で、長々と洋服の買い物につき合わされ、
彼女達の同行の真の意図を知らされることになりました。

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2010年3月 7日 (日)

梅の花

久しぶりの更新。

前回更新から3ヶ月以上!!

開設以来、ぶっちぎりのブランク最長記録となってしまいました。

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先週の2日(火)、四日市にある南部丘陵公園に梅撮りに行ってきました。

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【日永の梅①】

南部丘陵公園は里山を利用した四日市市最大の総合公園で、
東端に造られた「日永梅林」では、「白加賀」「玉牡丹」など、約2000本の梅が楽しめます。

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【日永の梅②】

現在の梅林はまだ歴史は浅く、地域のボランティアの方々によって、
約十年ほど前に植林が始められたばかり。

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【日永の梅③】

かつて、この地には立派な梅林があり、江戸時代には景勝地として知られていたようで、
安藤広重の浮世絵「狂歌入り東海道」の「采女・内部川」の項に記された、

「梅の香に袖ふりあふて泊り村、つえつき坂をのぼる旅人」

という狂歌は、この地の梅を詠んだものだそうです。

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【日永の梅④】

ボランテイア団体の方々はその梅林の復活を目指しておられるとのこと。

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【日永の梅⑤】

この日、梅はもう最終章。

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【日永の梅⑥】

先に咲き始めた紅梅は殆ど終わっておりました。

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【日永の梅⑦】

今春は多忙続きで、例年になく梅撮りの機会が少なかったので、
なんだか名残惜しく、沢山写真を撮って帰りました。

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2009年11月30日 (月)

木曽の宿場町

(前回からの続き・・・)

●「女道」と呼ばれた中山道

翌17日(火)、お天気は生憎の雨模様でしたが、「雨に霞む宿場町もいいかも♪」と思い直し、
中山道・木曽路の風情を今に伝える街として人気の高い妻籠(つまご)~馬籠(まごめ)に向かいました。

中山道は言わずと知れた江戸時代の5街道の一つで、全行程132里に及ぶ当時の大動脈。

江戸の板橋宿を起点として、武州路(10宿)~上州路(7宿)~信濃路(15宿)~
木曽路(11宿)~美濃路(16宿)~近江路(10宿)を経て、近江の守山宿まで69の宿場がありました。

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【晩秋の木曽路】

なかでも贄川宿(にえかわじゅく)から馬籠宿までの木曽路は、
江戸期の安藤広重と渓斎英泉の浮世絵が「木曽街道六拾九次」と題されているように、
中山道の代名詞となっており、この街道筋を象徴する風土と景観が広がっています。

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【木曽の山々】

馬籠出身の明治の文豪・島崎藤村は、小説「夜明け前」の書き出しで、

『木曾路はすべて山の中である。
 あるところは岨づたいに行く崖の道であり、
 あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、
 あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。
 一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。』   
 
と書いているように、文字通り「山中の道」でありました。

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【雨の妻籠宿①】

こんな山の中にどれほど人々の往来があったの?と不思議に思いますが、
近江商人・尾張商人をはじめ、伊勢や善光寺参りの旅人、信州産の牛馬などなど、
結構な往来があったようです。

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【妻籠宿:旅籠「大吉」看板】

また、中山道は別名「女道」とも呼ばれていました。

同じ京都~江戸間を結んでいた126里53宿の東海道に比べても、距離が長く、宿場の規模は小さく、
その上、碓氷峠をはじめ和田峠・鳥居峠など峠が多く、道のり自体も険しかった中山道が、
なぜ「女道」なのか?

それは、大河が無く、渡河のための天気待ちや渡し待ちの渋滞がなかった為、
「滞る」のを嫌う婚礼の通行に盛んに利用された為だそうです。

江戸時代末期の皇女和宮降嫁に使われたのも中山道でありました。

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【妻籠宿:熊谷家住宅】

そんな中山道も、明治以降は主要街道としての役目を終えることになります。

特に、太平洋戦争以降は、輸送の主役が鉄道やトラックに移り、
空襲の焼け跡開発や急速な人口流入により沿道の姿が急速に変貌した東海道とは異なり、
中山道の沿道には、取り残された形で、江戸期以来の街道の佇まいが色濃く残ることになりました。

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【妻籠宿本陣:島崎家跡(島崎藤村の母方の実家)】
 
その後、昭和40年代には、これらを積極的に保存しようという気運が住民を中心に持ち上がります。

その先陣をきったのが、今回訪れた妻籠宿でありました。

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【雨の妻籠宿②】

●街並み保存のパイオニア・妻籠宿

昭和43年(1968)頃、妻籠の街並みを維持・保存しようという運動が全国に先駆けて起こります。

街並み保存は博物館的な凍結保存ではなく、
そこに人の生活が無ければ意義がないという住民の意思のもとに、
住民自らが保存事業の推進をはかるという運動がなされました。

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【雨の妻籠宿③】

妻籠地区の全住民が参加する「妻籠を愛する会」(現在は財団法人)が結成され、
昭和46年(1971)には、故郷の街並みは自らが守るという観点から「妻籠宿を守る住民憲章」を制定。

その中で、保存をすべてに優先させる「売らない」「貸さない」「壊さない」の三原則を打ち出しました。

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【妻籠宿:旅籠「松代屋」看板】

行政(長野県南木曽町)も「住民憲章」を尊重する「妻籠宿保存条例」を制定すると共に、
周辺整備を積極的に展開。

昭和46年(1971)に「信濃路自然歩道」(県補助事業)、
続いて昭和53年度に「歴史の道」(国庫補助事業)を整備しました。

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【妻籠宿:木賃宿「下嵯峨屋」跡】

昭和50年(1975)には、官民一体となった妻籠宿の街並み保存運動が契機となり、
文化財保護法が改正されます。

伝統的建造物群に関しては、重要伝統的建造物群保存地区の制度が創設され、
建造物群によって形作られる伝統的景観が文化財として位置付けられました。

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【雨の妻籠宿④】

また、重要文化財等は、国の指定によるとされているのに対し、
市町村が条例で伝統的建造物群保存地区を規定し、国がそれを選定するという形に。

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【雨の妻籠宿⑤】

妻籠宿はその結果、文化財保護法改正の翌・昭和51年(1976)、
重要伝統的建造物群保存地区の栄えある認定第一号に。

地元の方々の郷土愛から始められた街並み保存事業は、宿場景観の保全・整備、宿内施設の充実度、
あるいは年間80万人にのぼる観光客の数字だけを見ても、
一応の成功を治めた事業モデルと言えるのではないかと思います。

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【雨の妻籠宿⑥】

ただ、全てが万歳と言う状況ではないようで、
ここでも宿場内の施設経営者の高齢化と後継者問題は深刻。

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【雨の妻籠宿⑦】

妻籠宿観光案内所によると、最盛期には57軒もあった民宿が現在は12軒となり、
旅館の廃業も目立ち、現在は2軒あるだけだそう。

土産物・地域物産店も同様に、後継者がままならない。

年間80万人という集客はたいへん大きな数ですが、
観光によって経済的自立がなされているとは言い難いのが現状です。

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【雨の妻籠宿⑧】

埼玉県の「蔵の町」・川越市では年間400万人を集客していますが、
それでようやく後継者が戻ってきはじめたというようなことを考えると、
街並み保存の理念を継承しながら更なる経済的付加価値をどう見いだすか。

今後の大きな課題であります。

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【妻籠から馬籠への途上:乙姫橋より】

●妻籠宿を後にして馬籠宿へ

中山道六十九次42番目の宿・妻籠から、3番目の宿・馬籠へは約7kmの道のり。

家族連れでも無理なく歩ける手軽なハイキングルートとなっていますが、
今回は時間の問題と家人の機嫌の兼ね合いもあり、車での移動となりました。

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【馬籠宿の街並み①】

馬籠の宿は明治28年と大正4年の大火災により、
江戸時代からの街並みは石畳と枡形以外は残念ながら全て消失し、
現在の街並みはその後復元されてたものです。

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【馬籠宿の街並み②】

その為か、妻籠に比べて街並み自体はすっきりとした印象。

石畳の坂道の両側にお土産物屋や飲食店が並び、
生活の場というより「観光」が前面に出ている感じを受けました。

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【馬籠宿の街並み③】

全長600mの石畳のほぼ中央には、この街出身の文豪、島崎藤村の生家であり、
旧宿場の本陣でもあった「島崎藤村記念館」があります。

前述したように、ここは名作「夜明け前」の舞台にもなっており、
街道情緒を楽しむ歴史ファンと共に、文学ファンが多数訪れています。

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【馬籠宿本陣:島崎藤村記念館(「島崎家」跡=島崎藤村の生家)】

それと、宿場自体が尾根伝いに造られている為、
周囲の自然景観と街並みが融合していることも大きな魅力の一つです。

この日は生憎の雨模様でしたが、霧にむせぶ山々が美しく、印象に残りました。

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【馬籠宿の街並み④】

馬籠宿は「信州・馬籠」といわれるように、行政区分としては長野県山口村に属していましたが、
平成17年(2005)、山口村が岐阜県中津川市と日本初の越県合併したことで話題となりました。

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【馬籠宿の街並み⑤】

もともと山口村の通勤、通学者の半数近くが岐阜県内に通っていたり、
TVは中京圏の放送しか映らなかったり、生活圏自体は「美濃」であったので、
便利になることの方が多かったようです。

合併以前は、運転免許証を更新するのにも、長野県警の出先機関まで車で約2時間。

それが今では20分程で済み、救急車や消防車の到着も10分程短縮されたそうです。

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【馬籠宿の街並み⑥】

便利になる反面、長く親しんできた信州への郷愁も。

地元紙によると、山口村の閉村式で当時の村長は、
「言葉で言い尽くせない寂しさがこみ上げてくる・・・有難う長野県、さようなら山口村」
としんみりと語ったそうです。

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【馬籠宿の街並み⑦】

早足での見学で、開放されている建物や資料館をつぶさに見ることが出来なかったのは残念ですが、
美しい街並みについては、十分堪能することが出来ました。

妻籠~馬籠を訪れて、改めて感じたことは、地元の方々のご苦労はいかばかりかということ。

それと同時に、今後の街並み保存の難しさも垣間見たような気がします。

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【馬籠で食べた「おやき」】

過度な観光地化は、逆に客離れを引き起こしかねませんが、
食えなくては後継者が現れるはずも無く、街並み保存の理念の担い手が居なくなってしまいます。

伝統的な景観はある程度、昔のままの姿を維持する事が出来ても、
そこでの暮らしも昔のままという訳にはゆきませんから。

<追記>
現在、長野県・岐阜県・南木曽町・中津川市の4者は、
『妻籠宿・馬籠宿と中山道』の世界遺産登録に向け、
文化庁に提案書を出しています。

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2009年11月24日 (火)

飛騨路の名湯

先週の月曜日、11月16日(月)のお話です。

温泉の宝庫、群馬県を離れてはや半年。

「長いこと温泉に入ってないわぁ」という家人のつぶやきを聞く頻度が高くなってきたので、
円滑な単身赴任生活を維持するため、会社に連休を頂き、温泉小旅行に出かけてきました。

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【下呂への途上:岐阜県中津川市付知峡付近】

向かった先は、岐阜県の下呂温泉。

下呂といえば、いわずと知れた岐阜県下最大の温泉街で、
兵庫県の有馬温泉、群馬県の草津温泉と共に「日本三名泉」と称される天下の名湯です。

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【下呂への途上:付知峡】

現在、温泉街には70を超える旅館やホテル、保養施設が営業しており、
その他、日帰りで楽しめる公共の露天風呂や、足湯などの施設も多くあります。

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【付知渓谷のお猿】

泉温は84度と高温で、泉質はアルカリ性単純泉(低張性アルカリ性高温泉)だそう。
効能としては、リウマチ性疾患・運動器障害・神経痛・神経麻痺・病後回復などが挙げられています。

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【下呂温泉街①】

温泉の歴史は古く、その起源は1千年以上前だと伝えられています。

元々の下呂の温泉は、今の温泉街から約4km東の湯ヶ峰(1,067m)の山頂付近で、
天暦年間(947~957 平安中期)に発見されました。

その後、文永2年(1265)には、山頂上付近に湧き出していた温泉が突然出なくなりますが、
翌年には、現在の源泉地、温泉街の中央を流れる飛騨川の河原で再び発見されることになります。

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【下呂温泉発祥の地】

この温泉再発見にまつわるお話が、「白鷺伝説」として今に伝えられています。

 「むかし、下呂を流れる飛騨川の川原に足の骨を折った白鷺がおりたちました。
 川原にうずくまった白鷺は、翌日、すっかり傷がなおり、西の空をめざしてとびたっていきました。
 このありさまを見ていた村人たちは、不思議に思って、白鷺のうずくまっていた川原へ行ってみると、
 そこにはもうもうと湯けむりをあげて、湯がわきでていたのです。
 村人たちは、『これは、お薬師様のお告げにちがいない。』といって、ていねいにおまつりしたそうです。」
 ~岐阜児童文学研究会編「岐阜の伝説」より~

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【下呂温泉街:雨情公園】

温泉と白鷺にまつわるお話としては、四国の道後温泉でも見聞きした記憶があったので、
ネットで調べてみると、熊本の玉名温泉・天草下田温泉、石川の和倉温泉・山中温泉・湯涌温泉、
佐賀の武雄温泉、島根の鷺ノ湯温泉、鳥取の浜村温泉、広島の湯来温泉、岡山の湯郷温泉、
愛知の白鷺温泉、和歌山の椿温泉、山形の湯田川温泉などなど、全国各地に多数残っているようです。

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【下呂発祥の地に建つ外湯施設「白鷺の湯」】

白鷺説話が開湯伝説の定番だったとは。

長いくちばしと長い脚をもった優雅な姿の水鳥。
日本画や日本舞踊などに好んで取り上げられる美しさとはかなさの象徴。

しかし、どうして温泉には白鷺なんでしょうか?
調べたけど解りませんでした。

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【下呂温泉街②】

下呂温泉が名湯であることを初めて天下に紹介したのは、
室町時代の京都五山の僧・万里集九(ばんりしゅうく)でした。

その詩文集『梅花無尽蔵』には、

 「本邦六十余州ごとに霊湯あり。その最たるものは、
 上州の草津、津陽の有馬、飛州の湯島(下呂)、この三か所なり。」

と記されています。

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【下呂温泉街:林羅山像】

また、江戸時代には儒学者・林羅山も同様の評価をしており、『林羅山詩集第三西南行日録』には、

 「我が国は諸州に温泉を多く有す。その最も著しいものは、
 摂津の有馬、上州の草津、飛騨の湯島(下呂)、この三か所なり」

とあり、更に、

 「今、有馬、草津は広く世の知るところとなり。
 湯島は古来の霊湯たること、遠く知るもの少なしといえども、
 入湯する人はその験を得ざることなし」

と続き、下呂温泉が名湯であることを伝えています。

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【下呂温泉街:醫王霊山温泉寺ライトアップ①】

あと、この地に関して、予てから気になっていたことがありました。

それはズバリ、「下呂」という地名。

子供の頃は、TV番組などで紹介される度に「ゲロって・・・・」と思っていました。

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【下呂温泉街:醫王霊山温泉寺ライトアップ②】

このインパクトのある地名の起源についても調べてみました。

「下呂」の起源は、遠く8世紀にまで遡ります。

日本書紀に続く勅撰書『続日本紀(しょくにほんぎ)』の宝亀7年(776)10月の条には、

 「美濃国菅田駅と飛騨国大野郡伴有駅と相去る七十四里、
 岩谷険深にして行程殊に遠し。其の中間に一駅を置て下留と名つく」

と記されており、飛騨街道に「下留(しものとまり)」という宿駅が置かれていた事がわかります。

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【下呂温泉街:醫王霊山温泉寺ライトアップ③】

中央集権体制の確立を急ぐ律令政府にとって、交通網の整備は緊急な課題でありました。

そこで、都と諸国とを結ぶ主要な官道には、概ね4里ごとに駅家(うまや)が設けられ、
そこには馬が常置されており、公用者の行き来や文書の伝達に用いらました。

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【下呂温泉街:醫王霊山温泉寺ライトアップ④】

この「下留」が後に音読され「げる」となり、長い年月の間に「げろ」へと転化し、現在に至っています。。

ちなみに、下呂の近隣には上呂(じょうろ:JR高山線上呂駅付近)も、
中呂(ちゅうろ:JR高山線禅昌寺駅付近)も、地名として残っておりました。

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【下呂温泉合掌村①】

下呂温泉街には、多くの飲食店や文化施設、娯楽施設がありますが、
その中で私がお目当てにしていたのは、「下呂温泉合掌村」。

ここには白川郷などから移築した10棟の合掌家屋が移築されており、
合掌造りを見たことが無い私は、結構、楽しみにしていました。

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【下呂温泉合掌村②】

しかし、訪れた後の感想はやや期待はずれ。

私が期待したのは、飛騨の生活文化を紹介する民俗博物館的な施設でした。

ここを紹介する地元の観光サイトでもそのような表現があったのですが・・・・
やっぱり、入場料800円の観光施設でした。

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【下呂温泉合掌村③】

移築民家の目玉、国指定重要文化財に指定された旧大戸家住宅には、
民具や資料の展示が少々ありましたが、ただのお飾り程度。

展示品もこんなんでいいの?と思えるほどに雑な扱い。

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【下呂温泉合掌村④:国重要文化財「旧大戸家住宅」】

この施設のメインは、他の合掌建築で営業されている、
茶屋などの飲食店や特産物販売店だという印象を受けました。

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【下呂温泉合掌村⑤:旧大戸家囲炉裏】

当日のお宿は「富岳」さん。

下呂温泉街に数ある旅館・ホテルの中にあって、
旅行サイトの人気ランキングでは、常に上位に食い込む人気のお宿です。

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【旅館「富岳」玄関】

人気の秘密はそのリーズナブルな価格設定。

中部地方随一の温泉街とあって、高級・高額の老舗が多い中、
お手軽な価格で泊めていただけます。

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【富岳の夕食】

仲居さんの応対もフレンドリーで親切。

飛騨牛の朴葉味噌焼きに松茸の土瓶蒸しが付いた夕食もかなりの美味で、
もちろん、源泉掛け流しのお風呂も清潔感いっぱいで大満足でした。

旅行サイトの口コミ情報にあったように、「また行きたくなる宿」でした。

※次回は下呂温泉の帰路に立ち寄った「妻籠宿・馬籠宿」をレポします。

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