木曽の宿場町
(前回からの続き・・・)
●「女道」と呼ばれた中山道
翌17日(火)、お天気は生憎の雨模様でしたが、「雨に霞む宿場町もいいかも♪」と思い直し、
中山道・木曽路の風情を今に伝える街として人気の高い妻籠(つまご)~馬籠(まごめ)に向かいました。
中山道は言わずと知れた江戸時代の5街道の一つで、全行程132里に及ぶ当時の大動脈。
江戸の板橋宿を起点として、武州路(10宿)~上州路(7宿)~信濃路(15宿)~
木曽路(11宿)~美濃路(16宿)~近江路(10宿)を経て、近江の守山宿まで69の宿場がありました。
なかでも贄川宿(にえかわじゅく)から馬籠宿までの木曽路は、
江戸期の安藤広重と渓斎英泉の浮世絵が「木曽街道六拾九次」と題されているように、
中山道の代名詞となっており、この街道筋を象徴する風土と景観が広がっています。
馬籠出身の明治の文豪・島崎藤村は、小説「夜明け前」の書き出しで、
『木曾路はすべて山の中である。
あるところは岨づたいに行く崖の道であり、
あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、
あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。
一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。』
と書いているように、文字通り「山中の道」でありました。
こんな山の中にどれほど人々の往来があったの?と不思議に思いますが、
近江商人・尾張商人をはじめ、伊勢や善光寺参りの旅人、信州産の牛馬などなど、
結構な往来があったようです。
また、中山道は別名「女道」とも呼ばれていました。
同じ京都~江戸間を結んでいた126里53宿の東海道に比べても、距離が長く、宿場の規模は小さく、
その上、碓氷峠をはじめ和田峠・鳥居峠など峠が多く、道のり自体も険しかった中山道が、
なぜ「女道」なのか?
それは、大河が無く、渡河のための天気待ちや渡し待ちの渋滞がなかった為、
「滞る」のを嫌う婚礼の通行に盛んに利用された為だそうです。
江戸時代末期の皇女和宮降嫁に使われたのも中山道でありました。
そんな中山道も、明治以降は主要街道としての役目を終えることになります。
特に、太平洋戦争以降は、輸送の主役が鉄道やトラックに移り、
空襲の焼け跡開発や急速な人口流入により沿道の姿が急速に変貌した東海道とは異なり、
中山道の沿道には、取り残された形で、江戸期以来の街道の佇まいが色濃く残ることになりました。

【妻籠宿本陣:島崎家跡(島崎藤村の母方の実家)】
その後、昭和40年代には、これらを積極的に保存しようという気運が住民を中心に持ち上がります。
その先陣をきったのが、今回訪れた妻籠宿でありました。
●街並み保存のパイオニア・妻籠宿
昭和43年(1968)頃、妻籠の街並みを維持・保存しようという運動が全国に先駆けて起こります。
街並み保存は博物館的な凍結保存ではなく、
そこに人の生活が無ければ意義がないという住民の意思のもとに、
住民自らが保存事業の推進をはかるという運動がなされました。
妻籠地区の全住民が参加する「妻籠を愛する会」(現在は財団法人)が結成され、
昭和46年(1971)には、故郷の街並みは自らが守るという観点から「妻籠宿を守る住民憲章」を制定。
その中で、保存をすべてに優先させる「売らない」「貸さない」「壊さない」の三原則を打ち出しました。
行政(長野県南木曽町)も「住民憲章」を尊重する「妻籠宿保存条例」を制定すると共に、
周辺整備を積極的に展開。
昭和46年(1971)に「信濃路自然歩道」(県補助事業)、
続いて昭和53年度に「歴史の道」(国庫補助事業)を整備しました。
昭和50年(1975)には、官民一体となった妻籠宿の街並み保存運動が契機となり、
文化財保護法が改正されます。
伝統的建造物群に関しては、重要伝統的建造物群保存地区の制度が創設され、
建造物群によって形作られる伝統的景観が文化財として位置付けられました。
また、重要文化財等は、国の指定によるとされているのに対し、
市町村が条例で伝統的建造物群保存地区を規定し、国がそれを選定するという形に。
妻籠宿はその結果、文化財保護法改正の翌・昭和51年(1976)、
重要伝統的建造物群保存地区の栄えある認定第一号に。
地元の方々の郷土愛から始められた街並み保存事業は、宿場景観の保全・整備、宿内施設の充実度、
あるいは年間80万人にのぼる観光客の数字だけを見ても、
一応の成功を治めた事業モデルと言えるのではないかと思います。
ただ、全てが万歳と言う状況ではないようで、
ここでも宿場内の施設経営者の高齢化と後継者問題は深刻。
妻籠宿観光案内所によると、最盛期には57軒もあった民宿が現在は12軒となり、
旅館の廃業も目立ち、現在は2軒あるだけだそう。
土産物・地域物産店も同様に、後継者がままならない。
年間80万人という集客はたいへん大きな数ですが、
観光によって経済的自立がなされているとは言い難いのが現状です。
埼玉県の「蔵の町」・川越市では年間400万人を集客していますが、
それでようやく後継者が戻ってきはじめたというようなことを考えると、
街並み保存の理念を継承しながら更なる経済的付加価値をどう見いだすか。
今後の大きな課題であります。
●妻籠宿を後にして馬籠宿へ
中山道六十九次42番目の宿・妻籠から、3番目の宿・馬籠へは約7kmの道のり。
家族連れでも無理なく歩ける手軽なハイキングルートとなっていますが、
今回は時間の問題と家人の機嫌の兼ね合いもあり、車での移動となりました。
馬籠の宿は明治28年と大正4年の大火災により、
江戸時代からの街並みは石畳と枡形以外は残念ながら全て消失し、
現在の街並みはその後復元されてたものです。
その為か、妻籠に比べて街並み自体はすっきりとした印象。
石畳の坂道の両側にお土産物屋や飲食店が並び、
生活の場というより「観光」が前面に出ている感じを受けました。
全長600mの石畳のほぼ中央には、この街出身の文豪、島崎藤村の生家であり、
旧宿場の本陣でもあった「島崎藤村記念館」があります。
前述したように、ここは名作「夜明け前」の舞台にもなっており、
街道情緒を楽しむ歴史ファンと共に、文学ファンが多数訪れています。

【馬籠宿本陣:島崎藤村記念館(「島崎家」跡=島崎藤村の生家)】
それと、宿場自体が尾根伝いに造られている為、
周囲の自然景観と街並みが融合していることも大きな魅力の一つです。
この日は生憎の雨模様でしたが、霧にむせぶ山々が美しく、印象に残りました。
馬籠宿は「信州・馬籠」といわれるように、行政区分としては長野県山口村に属していましたが、
平成17年(2005)、山口村が岐阜県中津川市と日本初の越県合併したことで話題となりました。
もともと山口村の通勤、通学者の半数近くが岐阜県内に通っていたり、
TVは中京圏の放送しか映らなかったり、生活圏自体は「美濃」であったので、
便利になることの方が多かったようです。
合併以前は、運転免許証を更新するのにも、長野県警の出先機関まで車で約2時間。
それが今では20分程で済み、救急車や消防車の到着も10分程短縮されたそうです。
便利になる反面、長く親しんできた信州への郷愁も。
地元紙によると、山口村の閉村式で当時の村長は、
「言葉で言い尽くせない寂しさがこみ上げてくる・・・有難う長野県、さようなら山口村」
としんみりと語ったそうです。
早足での見学で、開放されている建物や資料館をつぶさに見ることが出来なかったのは残念ですが、
美しい街並みについては、十分堪能することが出来ました。
妻籠~馬籠を訪れて、改めて感じたことは、地元の方々のご苦労はいかばかりかということ。
それと同時に、今後の街並み保存の難しさも垣間見たような気がします。
過度な観光地化は、逆に客離れを引き起こしかねませんが、
食えなくては後継者が現れるはずも無く、街並み保存の理念の担い手が居なくなってしまいます。
伝統的な景観はある程度、昔のままの姿を維持する事が出来ても、
そこでの暮らしも昔のままという訳にはゆきませんから。
<追記>
現在、長野県・岐阜県・南木曽町・中津川市の4者は、
『妻籠宿・馬籠宿と中山道』の世界遺産登録に向け、
文化庁に提案書を出しています。
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