2008年7月17日 (木)

昆虫たちの森

いささか古いお話になりますが、今月の4日に群馬県立「ぐんま昆虫の森」に行ってきました。

「ぐんま昆虫の森」は赤城山の南東、桐生市新里町に平成17年(2005)8月1日に全面オープンした教育普及施設。

設置の目的は、「広く県民が自然に親しみ、昆虫の生きた姿に直接ふれ、生きものの相互依存に学び、
生命の大切さや自然への理解と共感する心を育てること」だそう。

約48haに及ぶ広大な敷地に、雑木林、畑、沼、水田(非公開)の各ゾーンが整備され、
かつては日本の各地にあった里山の姿を再現しています。

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【ぐんま昆虫の森「昆虫観察館」】

この日の到着はam10:00頃。

お天気もよく、鼻歌交じりで広大な里山地域に歩き出しましたが、
東京ドーム14個分に及ぶ敷地は、想像以上の広さで、
お天道様が頭の上に来る頃にはもう熱中症寸前、バテバテでした。

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【「昆虫観察館」別館資料室】

おまけに、園内の樹液が出そうな広葉樹には全て「スズメバチに注意!!」の張り紙。

実際に、でっかいスズメちゃんと何度か遭遇した後に、
「ブーーーン」という大ボリュームの羽音が耳元に迫ってきたときには、本当にビビリました。

結局、何の羽音かは確認できませんでしたが、恐ろしさで心が折れてしまいました。

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【ツバメシジミ】

ということで、屋外の観察は早々に断念し、
次に、この昆虫の森のシンボル的な施設である「昆虫観察館」に向かいました。

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【ショウジョウトンボ】

巨匠・安藤忠雄氏の設計によるこの施設は、
ガラス張りのドームと曲面を多用したコンクリートの造形が印象的な、美しい建物。

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【ホソミイトトンボ】

館内には「多様な環境・たくさんのいのち」をテーマにした360度の映像が投影さるビジュアル施設や、
「里山の昆虫たち」という展示コーナー、西表島の環境を再現したという「生態温室」等があります。

「里山の昆虫たち」では、里山に生息する昆虫はもちろん、
カエルやイモリ等の両生類、蛇や蜥蜴等の爬虫類までを生体や標本で見ることができます。

そして、ガラス張りのドームの部分が、沖縄・西表島の環境をそのまま再現したという「生態温室」で、
ここには、40種類800匹の蝶をはじめとした様々な昆虫が、亜熱帯の植物の中で放し飼いにされています。

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【スジグロカバマダラ 】

実は、この日ここにやって来た最大の目的は、日本最大の蝶オオゴマダラの撮影でした。
しかし、午前中の太陽の下の暑さと温室の高温多湿に参ってしまって、撮影意欲と集中力が急降下。

眼に入る汗を拭いながら撮った蝶は、ピンボケ・手ぶれのオンパレード。

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【アオタテハモドキ】

文字通り温室育ちで、人間に対して警戒心の薄い蝶の撮影なので、
自然の蝶に比べてシャッターチャンスが多数あったのも係らず、
翅を美しく開いた写真は一枚も撮れませんでした。

近いうちに、もう一度リベンジしたいと思っています。

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【リュウキュウアサギマダラ】

私自身は準備不足・体力不足で施設を活用しきれず、写真も上手く行きませんでしたが、
「ぐんま昆虫の森」自体は、大人から子供まで楽しめる真面目な良い施設だという印象でした。

スズメちゃんが多いのは恐ろしかったですが、ある意味自然のままという点では好感が持てました。

しかし、実態はかなり厳しいようで、「不必要な文化施設」「税金の無駄遣い」と言う評価が一般的。

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【オオゴマダラ】

入場料は大人400円、大学・高校生は200円、中学生以下は無料で、
施設の充実度からすれば安いのではないかと思いますが、
入場者数は当初計画の目標数1,000人/日を大きく割り込み、年間約3億円の赤字予測だそう。

総事業費約80億円のうち、約44億円をつぎ込んだ「昆虫観察館」ではありますが、
この日・この時間帯には、入場者は私以外には見当たりませんでした。

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【ぐんま昆虫の森内に移設された赤城型養蚕農家①】

県の見解は「学習の場と考え、採算は度外視している」そうですが、
このままでは確かに税金の無駄遣い。

これだけ立派な施設で、内容的には素晴らしいものがありながら、
入場者数の目標を達成できないのは、明らかに当初計画に問題があります。

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【ぐんま昆虫の森内に移設された赤城型養蚕農家②】

もっと民間的な感覚でやれば、初期の建設コストも抑えられ、
その分を販促・PRにつぎ込めたのでしょうが、今となってはどうしようもありません。

ましてや、県がはなから採算度外視じゃあ、誰も営業努力はしませんネ。

お役所仕事って、どうして万事がこうなってしまうのでしょうか。

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2008年7月 3日 (木)

喧嘩の後でお参りを

今回も地元、大阪から。

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大東市はその名の通り、大阪市の東隣に位置する人口13万人の都市。

現在は、大阪府の中でも地味な(失礼!)な印象の市ですが、
古く縄文時代草創期から人の営みがあった歴史ある地域です。

古代には、市の東部・飯盛山麓一帯に多くの古墳が造営され、
中世には、東高野街道が通る軍事戦略上の要衝として度々戦乱の舞台となりました。

なかでも有名なのは、南北朝時代の正平3年・貞和4年(1348)にあった四条畷の合戦。
楠正成の嫡男・正行率いる南朝方3000騎が高師直率いる幕府方6万騎の前に散りました。

その後、近世の大和川付け替え以降は、
木綿や菜種などの一大産地として「天下の台所」の繁栄を裏方から支えます。

農業生産の伸びは地域の発展を牽引し、
江戸期中期以降、当地は大坂と奈良を結ぶ交通の中継地として、
周辺一帯からの物資の集散基地となってゆきました。

本日は、その当時の大阪町人に手軽な観光スポットとして人気があったお寺、
曹洞宗福聚山慈眼禅寺、通称・野崎観音をご案内します。

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【慈眼禅寺参道】

野崎観音は、JR学研都市線野崎駅から東方、歩いて15分ほどの高台にあり、
天平勝宝年間(749~757)、行基上人によって創建されたと伝えられている古刹です。

毎年5月1日から10日までの無縁経法要には、JR野崎駅からの参道の両側に露店が並び、
現在もこの期間中は、全国各地からの「野崎参り」客で賑わいます。

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【山門】

永禄8年(1565)に兵火でお堂が全焼したため、
その後長らく廃墟となっていた野崎観音を、元和2年(1616)に青厳和尚が再建。

その後、寛文11年(1671)には5世大真和尚が、参拝者を増やし寺の興隆を図るため、
25年に1度、旧暦の4月1日から8日間、秘仏の観音様を特別開帳する法会を始められました。

法会の前の数日間は立札を辻々に立て、大々的に宣伝したことにより、
野崎観音は大坂一円の庶民の間でも広く知られるようになってゆきます。

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【本堂】

また享保6年(1721)には、道頓堀竹本座で近松門左衛門の「女殺油地獄」が初演され、
続いて安永9年(1780)には、同座で「新版歌祭文(※1)」が初演されますが、
双方とも野崎参りを背景にした文楽であったため、野崎観音はますます有名に。

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【お染久松の碑】

その結果、大阪町人の間で野崎参りは一大ブームとなります。

当時は、勿論JRも国鉄もなく、交通手段は船か徒歩。

天満橋のたもと、八軒屋船着場(現京阪電鉄天満橋駅付近)から屋形船で寝屋川を遡り、
あるいは寝屋川の堤を陸路てくてくと、町人達はこぞって野崎観音に向かいました。

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【楼門】

陸路はほとんどが堤の上で、川を行く屋形船と平行していたため、
屋形船の参拝客と徒歩の参拝客は、川を挟んでお互いを罵り合いながら勝ち負けを競っていたそうで、
野崎参りは別名「悪口祭」とも呼ばれていました。

道行く者と船で行く者との罵り合いは「ふり売りけんか」と呼ばれ、
口喧嘩に勝った年は縁起の良い年になります。

但し、条件は喧嘩の途中で決して怒らないこと。

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【江口の君堂】

清八と喜六の掛け合いで笑わせる桂春団治の十八番、上方落語の「野崎参り」にも、
「ふり売りけんか」を楽しみながら野崎観音へ向かう場面が出てきます。

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【本堂前の仏像】

「そら、あかんわ。
わい、静かにしてたら、口に虫が湧く性分やねん。」

「けったいな性分やなァ、お前は…。 あ、ほんなら、ちょどええわ。
あの堤を歩いてる人と、喧嘩をせェ、喧嘩を!」

「そら、あかん。わい、喧嘩、きらいや。
それに、第一、こっちは、舟に乗ってんねん。
むこから石でも投げよったら、お前、逃げるとこあれへん!」

「情けないなァ、お前は… 心配せんでもええ。
野崎詣りの喧嘩はナ、なんぼ口でいいあいしても、手ェひとつ掛けん、というのが名物や。
ええか… ここで、いいあいするやろ。
舟が住道へ着く、さきほどは失礼いたしました、
これからは仲ようお詣りいたしまひょか、さァ、おいなはれや。
チャラカチャンチャン♪と、踊りながら行くんや。
なァ、往く道だけの喧嘩や。
この喧嘩に、言い勝ちさえしたら、その年は運がええ、いうねん。
運さだめの喧嘩、一番やったらんか!」

「あ、なるほど。運さだめの喧嘩か… そんなら、わいやったろ!」

罵声を浴びせあいながらも、お互い怒らず恨まず、ケロッと忘れて仲良くお参り。
大阪人気質は、今も昔も変わらないなぁと思います。

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【安産祈願の猫の張子絵馬】

浪速鉄道(現JR学研都市線)が明治28年(1895)に開通してからは、
河運は急激に衰退し、屋形船もいつしか姿を消しました。

昭和8年、東海林太郎が歌った「野崎小唄」の大ヒットにより、
屋形船が一時復活しましたが、それも2~3年で終わったようです。

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【境内の花】

「野崎小唄」
作詩 今中楓渓  
作曲 大村能章
  歌  東海林太郎

野崎参りは 屋形船でまいろ 
どこを向いても 菜の花ざかり 
粋な日傘にゃ 蝶々もとまる
呼んでみようか 土手の人

野崎参りは 屋形船でまいろ 
お染久松 せつない恋に 
残る紅梅 久作屋敷 
今もふらすか 春の雨

野崎参りは 屋形船でまいろ
音にきこえた 観音ござる 
お願かけよか うたりょか滝に 
滝は白絹 法の水    

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【JR野崎駅】

現在のJR野崎駅は見事なまでの素っ気なさ。
往時を偲ぶものは何もありません。

JR西日本はん、もうちょっと何とかなりまへんか?

(※1)

近松半二作「新版歌祭文」~野崎村の段~

野崎村の久作には、養子の久松(ひさまつ)と、女房の連れ子のお光(おみつ)がいた。
久作は気立ての優しいお光を、久松の嫁にしようとしていた。

一方、久松は奉公に出た大阪の油問屋の娘、お染(おそめ)と知り合い、恋に落ちる。
それをねたまれ、久松が油問屋から帰されてきたので、
久作は早速久松とお光の祝言を挙げようとする。

久松のことを以前から慕っていたお光が婚礼の支度をしている所へ、
大阪からお染が「野崎まいり」にかこつけて久松に会いに来た。

久松との関係に気付いたお光は、お染を追い返そうとし、久松と言い争いになる…。
養父への義理から別れ話を持ち出す久松と二人きりになったお染は、自害しようとする。

それを見て、久松は二人で死ぬことを約束する。

そこへ、事の成り行きをみていた久作に人の道に反していると諭され、
二人は別れを誓うが、お互い心中の覚悟を決めていた。

祝言の席でお光が綿帽子を取ると、髪を切り尼の姿になっていた。

お光は二人の心を察し、自分が身を引けば、二人が幸せになれると考えたのだった。

それを見ていた、お染の母親お勝(おかつ)はお光に礼を述べ、二人の仲を認め、
二人は油屋へ帰っていく。

二人の無事を祈り、その姿を見送りつつ、お光は泣き崩れるのであった。

(大東市HPより)

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2008年6月24日 (火)

古代からの日帰り旅行

またまた、大阪のお話です。

本日ご案内するのは、大阪城の南隣にある大阪歴史博物館。

ここは、古代から現代に至る大阪の歴史的空間を再現した、地下3階・地上13階の大博物館です。

前身は、大阪城公園内の旧陸軍第四師団司令部跡を利用していた大阪市立博物館で、
平成13年(2001)に現在地に移設され、大阪歴史博物館として再スタートしています。

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【大阪歴史博物館】

当地周辺(上町台地北部)は、古代には難波宮(※1)、中世には石山本願寺、近世には大坂城と、
その当時においては、政治的・宗教的に最も重要な施設が建てられていた場所。

また、近代~現代においても、行政庁舎やオフィスビルが立ち並ぶ大阪のビジネスの中心街となっており、
1300年以上に渡って、繁栄の歴史を積み重ねてきました。

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【難波宮大極殿の官吏:10F古代ゾーン】

大阪歴史博物館の常設展示は、その歴史の積み重なりを体感できる造りになっており、
その時代の人々の暮らしや風俗が、ミニチュア模型や等身大の人形などで見事に再現されています。

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【難波宮大極殿の官女:10F古代ゾーン】

1F受付で入場料\600を支払うと、まずはエレベーターで一気に10Fへ。

そこには、難波宮の大極殿が再現されていました。
等身大の官吏や女官の人形は実にリアルで、タイムスリップの気分が味わえます。

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【難波宮大極殿の官吏:10F古代ゾーン】

このフロアの見所は、虚像と実像を織り交ぜたスケールの大きな演出。

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【難波宮大極殿のCG:10F古代ゾーン】

まず、頭上の大きなスクリーンに、大極殿での儀式が音響とCG映像により再現され、
それが終わると、スクリーン下の窓ガラスを覆っていたシャッターが静かに巻き上がります。

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【難波宮跡公園:10F古代ゾーン】

薄暗いフロアに一気に陽が差し込むと、眼下には大阪の街の大パノラマが現れ、
その真ん中に、CG映像の儀式が行われていたであろう難波宮(難波宮跡公園)が現れるという仕掛け。

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【難波宮大極殿の官吏:10F古代ゾーン】

その他にも、難波宮を再現した模型や当地で発掘された貴重な埋蔵物やなどが数多く展示されており、
一つ一つをざっと見るだけでも、かなりの時間を要しました。

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【難波宮出土物展示:10F古代ゾーン】

古代の展示物に後ろ髪を引かれながらも、今度はエスカレーターで9Fへ。
すると、そこには中世~近世の大阪が広がっていました。

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【石山本願寺復元模型:9F中世ゾーン】

中世のゾーンは、織田信長と戦った石山本願寺の時代のものが展示のメイン。

明応5年(1496)、本願寺8世法主蓮如が山科本願寺の別院として大坂御坊を建立しますが、
その経緯を述べた蓮如の御文が、「大坂」という地名が記された歴史上最古の文献だそうです。

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【馬喰:9F中世ゾーン】

天文元年(1532)、六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き打ちされると、
本願寺教団は本拠地を大坂御坊に移転、小さな御坊は次第に巨大な石山本願寺となってゆきます。

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【中世大坂の町並み:9F中世ゾーン】

それ以降、山科がそうであったように、石山本願寺周辺にも広大な寺内町が形作られるようになり、
これが現在の大阪の町並の原形となったと考えられています。

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【水都大坂:9F近世ゾーン】

その後、当時最大の宗教的武装勢力となった本願寺勢力は、天下統一を目指す織田信長と対立するようになり、
亀元年(1570)の9月12日、本願寺11世法主顕如は「信長は本願寺を取り潰す仏敵である」として挙兵します。

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【文楽人形:9F近世ゾーン】

数度の合戦の後、石山本願寺で篭城戦を展開する本願寺勢に手を焼いた信長は、
朝廷に働きかけ「勅命講和」という形で和議を提案。

弾薬や食料が逼迫していた本願寺勢も此れを受け入れ、天正8年(1580)3月7日に和議が成立します。

同年8月2日、顕如は約10年間篭城を続けた石山本願寺をついに明け渡しました。

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【江戸期の道頓堀:9F近世ゾーン】

信長が10年間かけても武力では落せなかった堅牢な「城」は、
顕如が退去した数刻後には火を放たれ、三日三晩燃え続けた挙句、灰になってしまいました。

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【江戸期の堂島:9F近世ゾーン】

その後の本願寺跡地は、豊臣秀吉が築いた大坂城、徳川家康が築いた大坂城と移り変わり、
現在の天守閣は、昭和6年(1931)に大阪人が築いた鉄筋コンクリートの天守閣。

それも、豊臣時代の天守台に秀吉時代の天守閣をのせた奇妙なものとなっています。

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【荷役:9F近世ゾーン】

また、同じフロアの近世ゾーンには、
活気あふれる大坂町人たちの暮らしが1/20の模型でリアルに再現されています。

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【近世大坂の町並み:9F近世ゾーン】

スクリーンに映し出される文楽人形の「浪花屋寅之助」を水先案内人として、
蔵屋敷や住友銅吹所(銅の精錬所)、船場の町並みや角の芝居など、
水都大坂の名所を巡るという趣向になっています。

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【遠足の子達:8F発掘調査体験コーナー】

8Fは、「なにわ考古研究所」と名づけられた発掘調査体験コーナー。
原寸大で再現された発掘現場で、調査方法や遺構・遺物の見かたを学ぶことができ、
この日も、遠足の小~中学生で大賑わいでした。

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【角座:7F近代ゾーン】

常設展示フロア最後となる7Fには、
大正~昭和初期にかけての心斎橋筋~道頓堀の町並みが原寸大で再現されており、
モダン都市・大阪の雰囲気が存分に味わえます。

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【角座前の親子:7F近代ゾーン】

白い等身大のマネキン人形は、柵や囲いが無い状態での展示なので、どれが人でどれが人形か、
展示物と入場客が渾然一体となり、不思議なムードを醸し出していました。

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【モダンな御婦人:7F近代ゾーン】

その他にも、6Fには特別展示室(有料・この日は準備中)、
2Fには無料の学習情報センター「なにわ歴史塾」(開架資料室)、
1Fにはレストランやミュージアムショップなどがあります。

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【ショーウインドー:7F近代ゾーン】

また、この日は残念ながら時間が無く断念しましたが、施設自体が難波宮跡の真上に建っているので、
B1Fに保存されている難波宮の遺構も見学することが出来ます。
(1日6回・各回40人)

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【おかえりなさい:7F近代ゾーン】

以上、駆け足での案内となりましたが、じっくり見て回れば丸一日でも足りないくらいの内容。
\600の入場料は良心的な価格設定ではないかと思います。

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【魚屋:7F近代ゾーン】

しいて言えば、大阪の「光」の部分に焦点を当てた「大阪万歳!!」の展示が殆どで、
「影」の部分がそっくり抜け落ちているのが気になりました。

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【針仕事:7F近代ゾーン】

災害や事件・事故、犯罪や公害などの暗いお話は一切無しで、
太平洋戦争に関する展示も、戦時下の暮らしとして少しのスペースが割かれているだけ。

各ゾーンごとに、もう少し多角的な視点の展示があってもいいのかなと思いました。

※1 現在の大阪市中央区法円坂付近にあった宮殿。
   
    大化の改新(645)の際に孝明天皇が難波に遷都。
    この年から難波宮の造成が始まり、6年後の651年にはほぼ完成。(前期難波宮)

    しかし、その35年後(686)には火災により難波宮は全焼。

    40年後の(726)、聖武天皇が再び難波宮の造営を開始。(後期難波宮)
    その後、(794)の平安京遷都に至るまで、
    難波を象徴する宮殿として大きな役割を果たしました。

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2008年6月15日 (日)

尾曳の城

先日の日記に書きましたが、6月9日(日)に館林市を訪ねました。

館林市は、「鶴舞う形」と言われる群馬県の南東部、
ちょうど鶴の頭の位置にある、人口8万人・市域61k㎡という小じんまりとした街。

この日のお目当ては、市内中心部にある館林城跡と、
その旧城域に整備された県立つつじヶ丘公園でした。

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【館林城跡の碑】

この辺りは、日本有数のつつじの名所として知られていますが、
今春は出かける機会が持てず、見ることが出来ませんでした。

来年のつつじのシーズンまで来ることはないと思っていましたが、
「つつじヶ丘公園の花菖蒲園が見頃を迎えています」という地方紙の記事を見て、
「花菖蒲もあるの!」ということで、出かけてみることにしました。

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【城沼】

北は渡良瀬川、南は利根川に挟まれたこの地域は、大小の湖沼が点在する低湿地で、
館林城はその立地特性を活かし、城沼(じょうぬま)を自然の要害として築かれた平城です。

城沼を東側の外堀として、沼に突き出た低台地には本丸・二の丸・三の丸・八幡郭・南郭が置かれ、
これらを取り囲むように、稲荷郭・外郭・惣曲輪、さらに、その西側には城下町が配され、
そして、それらすべてを土塁と堀がとり囲むという広大な城郭でした。

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【館林城土塁跡:本丸付近】

築城は、戦国時代の初期に当たる天文元年(1532)。
上州の豪族であった赤井照光が築城したと伝えられています。

しかし、今日に至るまで、それを裏付ける直接的な資料は発見されておらず、
伝えられているのは、築城にまつわる不思議な説話です。

ある日、照光は、子供達にいじめられ、傷ついた一匹の子狐を助けてやりました。
すると、その夜の夢の中に、今度は年老いた白狐が現れ、
照光を城沼付近まで案内し、尾を曳いて城の縄張を指し示したというものです。

この伝承から、館林城は別名を「尾曳城(おびきじょう)」と呼ばれています。

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【館林城石垣跡】

白狐の加護があってか、館林城は難攻不落の名城として歴史の舞台にしばしば登場します。

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【館林城土橋門】

永禄5年(1562)の上杉謙信の関東に進出に際して、
当時の城主赤井照景(照光の子)は従属せず抵抗の意を示しましたが、
結局、謙信により照景は館林城から追放され、上杉一族の長尾景長が城主となりました。

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【旧秋元家別邸】

景長の養子として後を継いだ長尾顕長の時代になると、
小田原の北条氏が館林城を手に入れます。

天正13年(1585)、顕長と兄の由良国繁(金山城主)を小田原に呼び寄せた北条氏直は、
謀略により二人を幽閉し、その間に軍勢を送り両城に攻め立てますが、容易には落ちません。

やむなく、城主2人の解放を条件に両城を開城させ、館林城には一族の北条氏則を送り込みました。

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【紫陽花:旧秋元家別邸】

その後、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原北条攻めに際しては、
石田三成率いる2万の豊臣勢が館林城を攻撃しましたが、
この時も館林城は微動だにしませんでした。

館林城攻略には、城の中心に突入するしかないと考えた三成は、
夜間に城沼に筏を投げ込んで2筋の攻撃路を確保します。

しかし、不思議なことに、夜が明けると2筋の筏の道は沼の中に水没して、
跡形もなく消え失せていました。

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【つつじヶ丘公園花菖蒲園】

三成は神がかり的な館林城をこれ以上武力で攻めることを断念し、
北条氏直を通じて降伏を勧告し、ようやく館林城を開城することが出来ました。

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【花菖蒲①】

北条氏滅亡の後、秀吉によって徳川家康が関八州に転封させられると、
家康腹心の榊原康政が10万石で館林城主となり、
榊原氏の後は松平氏→太田氏→井上氏と、徳川譜代の大名がめまぐるしく交代します。

後に5代将軍となる徳川綱吉も、寛文元年(1661)から約20年間、城主としてここで過ごしました。

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【花菖蒲②】

築城以来、狐の加護が信じられていた城下では、
狐の保護のために、犬は見つけ次第撲殺されていたそうで、
そこに、犬公方と呼ばれた徳川綱吉が入封したのは何かの因縁かもしれません。

綱吉の後、嫡子徳松が館林城主となりますが、僅か5歳で急逝。
父綱吉は悲しみの余り館林城を徹底的に破壊させました。

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【花菖蒲③】

おそらく、綱吉は狐の神罰の恐ろしさを感じたのではないかと思われます。

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【花菖蒲④】

その館林城を宝永4年(1707)に再築したのが、徳川綱重の第二子松平清武。

清武は伝承をもとに、狐が尾を曳き始めたあたりに初曳稲荷神社、
曳き終えたあたりに尾曳稲荷神社をお祀りしました。

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【花菖蒲⑤】

最後の城主は秋元氏で、幕末の文政3年(1821)に出羽山形より6万石で入封。
館林城は秋元氏2代で明治維新を迎えることとなります。

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【花菖蒲⑥】

残念ながら、城郭の大半は明治7年(1874)に焼失。

現在は、三の丸跡に文化会館、二の丸跡には市役所などが建ち並び、
往時の面影は殆どありません。

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【花菖蒲⑦】

かろうじて本丸・三の丸・稲荷郭などに、遺構や土塁の一部が残されており、
昭和57年(1982)には、土橋門が城下町館林のシンボルとして復元されています。

土橋門は、城の中心(三の丸)への出入口の一つで、
正門の千貫門に対し、通用門として使用されていた門だそうです。

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造り酒屋「丸木屋」:国登録文化財】

この日のもう1つのお目当てである花菖蒲園は、館林城の八幡郭跡にありました。

八幡郭付近は、明治の廃藩後には旧藩主・秋元家の別邸となっていましたが、
その後は、つつじヶ丘公園に編入されて、その庭は花菖蒲の名所として知られています。

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旧藩士宅「武鷹館」長屋門:市重要文化財】

秋元別邸のお庭と周辺を含めると、270品種・約40万本もの花菖蒲が咲き誇り、
優雅に城沼を彩っていました。

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旧上毛モスリン㈱事務所:県重要文化財】

つつじヶ丘公園の樹齢800年を超えるつつじの古木群は、全国にその名を知られていますが、
菖蒲園も見事で、一見の価値は十分にありました。
(晴天で到着時間が遅かったこともあり、花の方は写真には少々だれ気味でしたが・・・)

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田山花袋旧宅:市指定史跡】

館林城址・つつじヶ丘公園周辺には、向井千明記念子ども科学館や田山花袋記念文学館、
その他にも、熱帯植物園(温室)や水産学習館(淡水魚館)などの文化施設が充実。

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旧二業見番組合事務所

また、市役所周辺から東武鉄道館林駅までの間には、歴史的な建築物も散見できるので、
ぶらぶら歩いていると、あっという間に時間がたっていました。

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向井千秋記念こども科学館

この日は時間が足りず、見学できませんでしたが、
この周辺には美智子皇后陛下にゆかりが深い正田醤油㈱の正田記念館や、
日清製粉グループの製粉記念館など、産業技術史的に興味深い施設も沢山あります。

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【関東の駅100選「東武鉄道館林駅」:昭和12年改築】

見所いっぱいの館林、つつじの季節を待たずに再訪したいと思いました。
秋には彼岸花も見事だそうなので、その頃かなぁ。

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2008年6月 3日 (火)

大阪の背骨

今回も大阪のお話です。

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関西出身者以外には、一般的には知られていないかもしれませんが、
大阪市のど真ん中には、「上町台地」とよばれる高台(標高20m程度)が背骨のように走っています。

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【観音坂】

先日このブログで紹介した住吉大社付近を基点に北北東へ向かって約15km、
天王寺を経て大阪城の先の天満橋付近まで、
住吉区-阿倍野区-天王寺区-中央区にまたがって連なる細長い丘陵です。

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【路上の花】

市内で唯一の高台となるこの周辺は、先の大戦での空襲による被害が比較的少なかった為、
大阪が長い年月の中で培ってきた都市居住の姿を今に伝える、歴史的な街並が色濃く残っています。

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【谷町筋】

「上町台地」という名前が一般化したのは30年程前からだそうで、
それまでは「難波丘陵」や「上町丘陵」、昭和の初期には「天王寺高地」とも呼ばれ、
大阪平野の中でも最も古い地層の1つであり、最も早く人々の暮らしが始まった地域でありました。

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【石畳】

古く縄文時代、大阪平野が形成される以前は、
「上町台地」は、現在の住吉区辺りから北に向かって突き出ている岬でした。

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【旧熊野街道】

岬の西側はもちろん大阪湾=瀬戸内海。
そして、東側は河内湾と呼ばれる内海でありました。

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近松門左衛門墓所

その後、長い年月を経て、河内湾は淀川や旧大和川水系の土砂堆積により狭く浅くなり、
2~3世紀頃には、岬の先端から伸びた砂州(天満砂州)が対岸に届くに至り、
河内湾は完全に瀬戸内海から切り離され淡水化し、河内湖または草香江(くさかえ)と呼ばれる湖となりました。

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難波仮病院跡

現在の海岸線から10km内陸にあるJR森ノ宮駅は、上町台地の東端に当たりますが、
その付近からは森ノ宮遺跡(貝塚)が見つかっており、
遺跡の下層(縄文中期から後期)からは海水で育つマガキが、
上層(弥生中期まで)からは淡水産のセタシジミが、それぞれ見つかっています。

この事から、河内湖が塩水から淡水化した歴史を窺い知ることが出来ます。

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【階段】

4~5世紀になると、水に囲まれたこの地は、中国や朝鮮半島との交流の拠点になってゆきます。

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【坂道】

その頃に今日の大阪の基礎を作ったと云われているのが、第16代仁徳天皇(在位:313年~399年)。

難波の地に初めて都を造営した仁徳天皇は、
その後も、住吉津(すみのえのつ)の開港や治水工事(→茨田堤:まんだのつつみ・難波堀江:なにわのほりえ)など、
数々の事業を行ない、古代都市大阪の原型を整備しました。

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また、高殿から街を見下ろした時、人家の竈から炊煙が立ち上っていないことを見て、
「きっと生活が苦しいに違いない」と、庶民救済のためにその後数3間は租税を免除。

3年後、同じ高殿に登り、多くの家々に炊煙が立ち上っているのを見て、
「高き屋に のぼりて見れば 煙立つ 民の竈 賑わひにけり」(古今和歌集)
という有名な歌を詠んだと伝えられています。(※誤伝の説あり)

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【高津宮拝殿】

古事記・日本書紀にも、その間は倹約のために宮殿の屋根さえ葺き替えなかったという逸話が記されており、
仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の贈り名もその功績に由来しているそうです。

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【高津宮参道】

仁徳天皇の宮殿は難波高津宮(なにわのたかつのみや)と称せられ、
現在の大阪城付近に在ったとされていますが、残念ながらその遺構はいまだ発見されていません。

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【高津宮十六弁菊紋章】

以来、皇室をはじめ、時の幕府等からの度々の造営・寄進を受け、
難波の守護神と仰がれてきましたが、造営から約700年を経た正親町天皇の代、
天正11年(1583)の秀吉の大阪城築城に際して現在地に遷座されました。

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【空堀商店街】

高津宮を後にして、北へ200mほど歩くと「空堀商店街」に行き当たります。

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【漬物屋さん】

「空堀(からほり)」は地名ですが、秀吉が大阪城築城の際にこの付近に築いた南惣構堀(みなみそうがまえぼり)が、
水のない空の堀だったことに由来しています。

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【魚屋さん 1】

この地域は江戸時代から商業が発展し、庶民的な商店街として近隣の人々に親しまれてきました。

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【魚屋さん 2】

松屋町筋から上町筋まで、アーケードの長さは約800m。
このあたりも戦災を免れた地域で、昔懐かしさを感じさせる街並みが多く残っています。

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【八百屋さん 1】

その一方で、新しい世代の経営者達は、老朽化したお店を近代的に改装したり、
古い長屋を生かした美術展やコンサートを企画するなど、積極的な町おこし活動を行っており、
その結果として、「空堀商店街」は新旧の文化が混ざり合う魅力的な商店街となっています。

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【昆布屋さん】

府内でも、人口増加地域にある郊外駅前商店街が大型商業施設に押され、シャッター通りと化している中、
人口の減少が続く大阪市内のど真ん中にある商店街は活気に溢れていました。

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【八百屋さん 2】

今回は、地下鉄谷町6丁目駅~同・谷町9丁目駅の間を散策しただけですが、
観光で大阪に来られる方には、上町台地縦断コースをお勧めしたいと思います。

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【親子】

住吉大社を出発し、新世界四天王寺~谷町界隈~大阪城を経て大阪天満宮まで。

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【格子戸】

その間にも名所や史跡・旧跡、古い町並みなどが点々と連なっており、
また、途中で歩き疲れても地下鉄や市バスなどの公共交通機関が充実しているので心配なし。

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【紫陽花】

時代の転換期に関わった場所を訪ね、趣き深い景観を楽しみながらぶらりと歩くだけでも、
何千年にも及ぶ歴史の積み重なりを感じることが出来ます。

(今回も長くなってしまいましたsweat01

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2008年5月20日 (火)

摂津国一之宮~すみよっさん

先日、5月12日(火)に帰阪した折に、大阪市住吉区にある住吉大社に行ってきました。

この日は午前中に天王寺で所要があり、その後、住吉大社へ向かいました。

阪堺電気軌道の天王寺駅前駅から「チン電」に乗り込み、
最寄の住吉鳥居前までは10駅、距離にして約4.5kmの道程です。

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【住吉大社参道】

大阪市の住吉区と住之江区の境に鎮座する住吉大社は、
摂津国一之宮で、旧社格は官幣大社。

全国2,000余に及ぶ住吉神社の総本宮として知られ、
大阪府下では最も著名な神社の1つです。

地元では親しみを込めて「すみよっさん」と呼ばれており、
初詣客数でも全国屈指の人出を誇っています。

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【住吉大社碑】

その起源は古く、今から約1800年前の神功皇后の新羅出兵に遡ります。

「住吉大社神代記」には、以下のような出来事が記されています。

仲哀天皇の治世、新羅と手を結び造反を繰り返す南九州の熊襲族に、
全国制覇を目指す大和政権は長年にわたり手を焼いてきました。

熊襲との倭王の座を巡る争いに終止符をうつため、
仲哀天皇と神功皇后は、自ら大軍を率いて筑紫の香椎宮に進駐しますが、
軍議の最中、住吉大神が神宮皇后に神懸りし、神託を発します。

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【太鼓橋:淀君が寄贈したと伝えられる】

神託は「海のかなたに金銀の国(新羅)があるのでこれを制せよ」という、
朝鮮半島への遠征を促すものでした。

この神託を信じなかった仲哀天皇は急逝してしまい、
驚いた神功皇后は大祓えをして再び神を呼び寄せ、新羅遠征を決断します。

その後は、住吉大神の加護により、たちまち熊襲を平定。
続いて、自らが軍船を率いて新羅に出征し、大いなる戦果を上げました。

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【住吉鳥居:支柱が角柱なのが特徴】

皇后摂政11年(211)、戦勝凱旋した神功皇后は田裳見宿禰(たもみのすくね)に住吉大神を祀らせ、
後には「われは大神と共に相住まむ」と、自らも合せ祀られるようになったということです。(※1)

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【第四本宮】

実は、住吉大神とは一柱の神様ではなく、
底筒之男命(そこつつのおのみこと)、中筒之男命(なかつつのおのみこと)、
表筒之男命(うわつつのおのみこと)の3神(住吉三神)の総称で、
これに息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)、
即ち神功皇后を併せた4神が住吉大社の主祭神となっています。

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【第三本宮】

神名の筒(つつ)とは、古語では星を指す言葉で、
住吉三神は現在でいうオリオンの三ツ星が神格化されたものだという説もあります。

目印のない海上でオリオン座の三ツ星は、舟の位置を知るための重要な目印。
三ツ星の輝きは海人にとって、まさに神の導きであったのでしょう。

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【第三・第四本宮】

そのためか、住吉三神は古来より海上安全の守護神とされ、
遣隋使や遣唐使も、社の南側にあった住吉津(すみのえのつ)から出発していました。

住吉津は仁徳天皇が開いたとされる港で、
当地は、日本最古の国際港であり、シルクロードの日本の玄関口でもありました。

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【第二本宮】

現在の海岸線は、大和川の堆積物と埋め立てにより5~6kmほど西へ後退し、
潮の香りも漂ってこないほど遠く離れてしまいましたが、
境内の松の緑が、かつては海辺であったことを偲ばせています。

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【第二本宮】

広々とした境内に、ゆったりと配された本殿4棟は文化7年(1810)に再建されたもの。

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【置き千木:第二本宮】

通常、神社の本殿は、南又は東向きに建てられていることが多いのですが、
ここでは、海に向かって西向きに建てられています。

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【第一本宮】

第一本宮に底筒之男命、第二本宮に中筒之男命、
第三本宮に表筒之男命、第四本宮に息長足姫命がそれぞれ祀られています。

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【祈り①】

造営年次は新しいものの、桧皮葺・切妻造り妻入りの「住吉造り」とよばれる特色ある様式は、
日本古来の神社建築の原型をとどめた貴重なものとして、何れも国宝の指定を受けています。

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【祈り②】

また、住吉三神といえば、同じ航海神として共通点の多い綿津見三神(わたつみさんしん)との関係も興味深いところ。

綿津見三神の総本宮は、志賀海神社。

朝鮮半島への玄関口・博多湾に浮かぶ志賀島に鎮座し、
「ちはやぶる 鐘の岬を過ぎぬとも 我は忘れじ志賀の皇神」と、
万葉集にも詠まれている古社です。

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【御神木】

海上交通の要衝に守護神として鎮座する住吉三神と綿津見三神は、
「古事記」「日本書紀」に記されている「神産みの神話」に同時に登場します。

伊弉諾命(いざなぎのみこと)は、亡くなった妻・伊弉冉命(いざなみのみこと)を忘れられず、
後を追って黄泉の国まで行きましたが、変わり果てた妻の姿を見たために怒りに触れ、
命からがらこの世に逃げ帰ります。

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【人待ち】

黄泉国から戻った伊弉諾命は、日向の橘の小門の阿波岐原で死後の穢れを禊ぎによって落としますが、
その際に、多くの神とともに住吉三神と綿津見三神が生まれました。

水の底で身を清めると底筒之男命と底津綿津見命(そこつわたつみのみこと)の2神が、
水の中程で身を清めると中筒之男命と中津綿津見命(なかつわたつみのみこと)の2神が、
水の表面で身を清めると表筒之男命と上津綿津見神(うわつわたつみのみこと)の2神が、
それぞれ、伊弉諾命の体から生まれたとされています。

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【高燈篭】

何故、同じような神が同時に2組生まれたのか?

私はむしろ、元々は1つの神であったものが、
記・紀編算の際に、何らかの意図で2組に分けられたのではと考えています。

元々は同じ神様であるのだが、古代王権が九州から畿内(近畿)に東遷する際に、
九州に留まった一族(安曇氏?)が信奉する神を綿津見三神とし、
近畿へ移った一族(天孫系氏族?)が信奉する神を住吉三神としたのではないかと。

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【摂社・大海神社(05年12月撮影)】

住吉大社の創建以来の歴代宮司家・津守氏は田裳見宿禰の末裔で、
その氏神は住吉大社の境内摂社の大海神社。

一般的に大海神社は、(だいかいじんじゃ)と呼ばれていますが、
正式には(おおわたつみじんじゃ)と読みます。

このあたりに、二組の神の謎を解き明かす鍵が隠れていそうです。

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【チン電】

興味の無い方には、まったく「何のこっちゃ!?」でしょうが、
一旦、古代の謎にはまってしまった者には、「すみよっさん」は格好の場所。

夢想は際限なく広がり、帰りの「チン電」はあっという間に目的駅に到着していました。

(※1) 当初は摂津国武庫郡菟原(現神戸市東灘区)祀られていましたが、
       仁徳天皇の治世に現在地に移されたようです。

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2008年5月 1日 (木)

中世の面影~上州白井宿

先月の28日(月)に、かつては白井城(しろいじょう)の城下町として栄え、
その後も市場町として賑わった白井宿(しろいじゅく:現・群馬県渋川市)を訪ねました。

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【白井宿】

白井宿は、利根川と吾妻川の合流点の河岸段丘上に発達した集落。

古くは、10世紀に成立した百科事典「和名類聚抄」にもその名が見え、
群馬郡13郷の1つ、群庁の所在地「白衣郷」として記録された歴史ある街です。

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【利根川・吾妻川合流点】

中世になると、関東管領の山内上杉氏の重臣、長尾景仲が西方の丘陵上に白井城を築城します。

吾妻川に面して城郭、その東に武家屋敷と職人街、
丘陵下には町人・農民が配置され、城下町としての形が整いました。

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【白井城跡】

白井城は他の北関東の城郭と同じように、
上杉・北条・武田各氏の抗争の波に揉まれた歴史を持っています。

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【白井城跡:石垣】

天文15年(1546)の河越の夜戦で北条氏康に敗れた上杉憲政は、
一旦平井城(現・群馬県藤岡市)に逃れますが、天文21年(1552)には越後に亡命。

北関東で勢力を拡大した北条氏は、近隣の厩橋城(前橋城)や沼田城(現・群馬県沼田市)を手中にします。

しかし、白井城と箕輪城(現・群馬県高崎市)は北条方に従はず、
その後、上杉憲政から家督を継いだ越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の関東侵攻への足がかりとなりました。