2006年12月 6日 (水)

湖東に集う

今週(12月3日)の日曜日に、所属するカメラサークルの撮影会があり、久しぶりの参加。
岡山に赴任して以来、土日に休みが取りにくくなり、しばらくの間参加できずにいましたが、
年内最後のチャンスということで、虚実織り交ぜた口実で休みを取り、カメラを担いで出かけました。
撮影地は琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西麓にある通称「湖東三山」。
湖東地方の彦根から八日市の間に、南北3~5kmの間隔で千年以上の歴史を誇る3つの名刹が並んでおり、
これを総称して「湖東三山」と言います。
いずれも広大な境内をもち、その昔、多数の僧兵を擁し、自衛の為に武力をもって闘った天台寺院であります。
今回は、紅葉(の名残り?)を狙って、北から順番に三山を回りました。

T_imgp9117_2 【西明寺三重塔】

湖東三山、一番北のお寺は、龍応山西明寺。
平安時代の初期、承和元年(834)に仁明天皇の勅願により 三修上人が創建した古刹です。
平安、鎌倉、室町の各時代を通じて祈願道場、修行道場として栄えました。
往時は、17のお堂、僧坊があり数百人の修行僧が居住した大寺院であったと言われています。
戦国時代、織田信長に抗したため、比叡山焼き討ち直後、ここも焼き討ちにあいましたが、
本堂、三重塔、二天門は火災を免れ現存しています。
中でも本堂は、釘を一切使わない鎌倉時代の代表的な純和様建造物で、国宝第一号に指定されています。
上の写真の3重塔も同じく、鎌倉時代後期の純和様建築。
屋根は檜皮葺き、総檜造りで、国宝に指定されています。 
今回は拝観できませんでしたが、鎌倉期のものとしては国内唯一の極彩色の壁画が塔内壁に描かれています。

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【金剛輪寺石地蔵】

湖東三山真中のお寺、金剛輪寺は、秦川山(469m)の西腹にあり、寺域が17,000k㎡にも及ぶという巨刹です。
天平13年(741)、聖武天皇の詔勅で行基菩薩が開山したと伝えられおり、
以来、天下泰平の祈願寺として栄え、延暦寺の慈覚大師によって、西方阿弥陀仏の信仰が教化され、
学問僧が集まる天台の大寺院となりました。
拝観料(500円)の支払いを済ませ、石畳の道を進み総門をくぐると、休憩所(食堂?)があり、そこで昼食タイム。
とろろ御飯とおそば、こんにゃくの味噌田楽のセットを食して、御代は1050円也。
味は兎も角として、観光地にしては良心価格ではないかと思いました。
そこを出るとすぐに、三重塔へ通じる石段があり、その両脇には風車が供えられた無数の石地蔵が並んでいました。
長い石段を登り、二天門(国重文)をくぐると、国宝の本堂が「大悲閣」の額を掲げ、どっしりした姿を現します。
幾多の戦火をくぐってきた凄みを感じさせる、実に立派な本堂でした。
総門まで戻ると、左手に「本坊明寿院」の門と庭園入口の案内があり、
門をくぐると見事な池泉回遊式庭園が広がっています。
桃山(南庭)、江戸初期(東庭)、江戸中期(北庭)の三庭からなり、
園内の紅葉は、血のように赤く染まることから「血染めのもみじ」といわれています。
当日は見ごろも過ぎ、残念ながら「血染め」が「かさぶた」の様になっていました。

T_imgp9248_1  【喜見院の庭園】

一番南に位置する釈迦山百済寺(ひゃくさいじ)は、 三山の中で最古のお寺。
推古朝の西暦606年、聖徳太子によって創建された古刹で、
渡来人のためのお寺として始まったとも言われ、「百済寺」の寺号もその名残といわれています。
塔坊は、百済の梵閣「龍雲寺」を模して建てられたと言われており、
開闢の法要は高句麗の高僧恵慈によって行われ、その後の供養は百済の高僧道欣が任ぜられました。
やがて比叡山に天台宗が開創されると、天台の寺院となり寺域も拡大。
塔頭300余坊を擁する荘厳な大寺院となり、「湖東の小叡山」と称されるようになりました。
しかし、自火を含め3回の火災に遭い、天正元年(1573)の信長による焼き討ちでは全山が灰となってしまいました。
江戸時代に入り、天海僧正の高弟により塔坊の復興が進み、領主井伊直孝の援助もあって、
現在の本堂、仁王門、山門などが再建されました。
本坊喜見院の庭園では、東方の山々を借景に、湖東平野や湖西の山並みが眼下に展望できます。
本坊庭園から出て荒い石段を登ると仁王門、さらに登ると、
檜皮葺きの入母屋造りで、正面に軒唐破風がついた落ち着いた本堂に辿り着きます。 
本堂脇には、鐘楼があり、誰でも鐘が撞けるようになっています。
私も撞かせていただきましたが、見事な余韻が全山に、また自身の煩悩だらけの心の底にも響き渡りました。

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【西明寺境内の落ち葉】

撮影会全行程を終え、最後の仕上げはJR草津駅近くの焼肉屋で懇親会。
参加者8名の内訳は、地元滋賀より1名、大阪より2名、兵庫より1名、名古屋より3名、そして岡山から参加の私。
普段はそれぞれの地元で、それぞれの日常を抱えた人たちが、
ただ写真を撮るという事だけで集まり、その後は写真やカメラ談義で杯を交わす。
誰に何の得があるのかといえば、全く無し。
冷静に考えれば、変わった人たちだなぁと思います。
しかしながら、なんとも言えない楽しさで宴は過ぎてゆくのです。
全行程どんより曇り、ときおり小雨がぱらつく生憎のお天気でしたが、
私の写真の出来以外は、大いに収穫ありの一日でした。

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2006年11月29日 (水)

そこにあった未来

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本日は、久しぶりに大阪で休日。

しかしながら、平日で家族は留守というすれ違い。

仕方がないので、カメラ片手に吹田市にある万博記念公園に出かけました。

万博記念公園はご存知の通り、日本万国博覧会(EXPO'70)の会場跡地に作られた公園で、

日本万国博覧会記念機構という独立行政法人が運営しています。

日本万国博覧会(以下、大阪万博)は昭和45年(1970)3月15日に、

5年の準備期間と2千億円の費用(関連工事を含めると1兆円)を掛けて開幕。

183日間の総入場者数は64,218,770人で、1日平均350,922人もの人が訪れました。

「人類の進歩と調和」という同一テーマのもとに、内外100をこえるパビリオン(展示館)がアイデアを競い、

日本全国民の半数以上を動員する史上最大のイベントとなりました。

当時私は、小学校一年生。

前年にアポロ11号が月面着陸に成功、そのとき持ち帰った月の石を観たさに、

親に連れられ何度か出かけたましたが、アメリカ館はあまりの行列で、遂に観れずに終わってしまいました。

今思うと、両親が大阪人特有の「いらち」で、並ぶのが嫌だっただけかもしれません。

しかし、何度か会場を訪れた中で、アメリカ館やソ連館などの超人気パビリオン以外は殆ど周った様に記憶しています。

数あるパビリオンの中で、一番印象的だったのは、なんといっても太陽の塔。

岡本太郎氏の前衛的なデザインとその巨大さは、圧倒的な存在感がありました。

「調和」という言葉と対極にある、「芸術とは爆発だ!」の岡本太郎氏の組み合わせは、

当時としてはたいへんな冒険だったと思います。

大阪万博は高度成長の象徴のようなイベントですが、私の地元も万博景気で潤った地域でした。

地元の東大阪市は、いわゆる中小企業の街。

技術者や職人さんが多く住んでいて、通っていた小学校には、

「太陽の塔は、おとうちゃんが造ったんや!」という友人が何人もいました。

太陽の塔は当時の姿のまま、今も万博公園に残っている数少ないパビリオン。

このまま、永久保存→世界遺産登録となれば良いなと思います。

万博会場へは、地下鉄御堂筋線から相互乗り入れの北大阪急行線が主な交通手段。

現在は千里中央駅が終点駅ですが、当時は万博会場まで電車が乗り入れていました。

一通り見学した後、夕暮れの万博会場から見た銀色に輝くジュラルミンの車両は、

小豆色の近鉄電車を見慣れた小学一年生の目には、ほんとうに眩しく映りました。

希望に満ちあふれた科学技術、はじめて接する外国文化の数々、斬新なデザインのパビリオン。

1970年の大阪には確かに、未来がありました。

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2006年11月27日 (月)

憲政の神様

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岡山市吉備町には、明治~昭和初期に日本の政党政治の確立に大きく貢献した大政治家、犬養毅の生家があります。

建物自体は、荒れるに任せていた生家を一旦解体し、復元したものですが、

犬養毅の功績に配慮した為か、国の重要文化財に指定されています。

犬養毅は安政2年(1885)に、当時の備中国賀陽郡庭瀬村の庄屋、犬飼家の次男として生まれました。

犬飼家は、藩から苗字帯刀はもちろん槍も許され、無禄ながら中小姓格の待遇を受けた家柄でした。

幼名は犬飼当毅(マサキ)ですが、「飼」を「養」に「当毅」を「毅」にと自身で改め、犬養毅と名乗るようになりました。

また、稀代の政治家であるとともに書にも優れ、号を木堂といいまいた。

自身も好んで木堂と名乗り、また回りも木堂と呼ぶ人が多かったようなので、ここでも木堂と記すことにします。

木堂は17~19歳まで地元の小田県庁で役人勤めをしていましたが、明治8年(1875)に上京を決意。

湯島の共慣義塾に入学後、念願の慶応義塾に転学しました。

慶応義塾在学中に勃発した西南戦争の際には、郵便報知新聞の従軍記者として戦地に赴き、

現地レポート「戦地直報」を発表、名声を博しています。

しかし、記者活動に時間を割きすぎた為、ずっと一番だった成績が二番に下がり、首席で卒業できないと判明すると、

根っからの負けず嫌いの木堂は、慶応義塾を卒業目前にして中退してしまいました。

その後は、ジャーナリストとして、自らが創刊した東海経済新報をはじめ、秋田日報や朝野新聞で筆をふるいました。

政界に転身したのは、明治23年(1890)の第1回衆議院議員総選挙の時。

岡山県から出馬し当選、その後、没年まで連続17回(補選が1回あり全部で18回)当選しています。

反藩閥政治を掲げ、大正2年(1913)の第1次憲政擁護運動の際には、第3次桂太郎内閣打倒に一役買い、

尾崎行雄とともに「憲政の神様」と呼ばれるようになりました。

しかし、後に閥族系の寺内正毅内閣で臨時外交調査委員会に参加したことから「変節漢」と批判されることもあります。

木堂は普通選挙の実現をはじめ、経済的軍備論、南方進出論、産業立国論など、

当時としては先見性のある独自の政策をもった政治家でした。

また、日本に亡命中の孫文を助け、中国の辛亥革命を支援したアジア主義者でもあっありました。

寺内内閣入閣をもって木堂を「変節漢」とするのは早計であり、

それら政策の実現のために、有益だと見る政権に加わったと見るべきではないでしょうか。

その証として、明治の政界で隠然たる影響力を誇っていた山県有朋が、

「朝野の政治家の中で、自分の許を訪れないのは頭山満と犬養毅だけ」と語ったという話が残っています。

ひとつ言える事は、木堂を評して「憲政の神様」と称える側も、「変節漢」と罵る側も、

政治を金儲けの道具とせず清廉潔白を貫いた政治家であったという点では一致しているるようです。

しかしながら、木堂の名を歴史に残したのは、その清廉潔白な生き方よりも、その壮絶な死に様でありました。

昭和7年(1932)3月、関東軍の暴走によって満州国が建国されますが、

その時総理となっていた木堂は、これを承認しようとはせず、

なんとか軍部をコントロールして事態を収拾し、中国との関係改善を図ろうとしていました。

しかし同年5月15日、官邸を襲った海軍将校たちの手によって2発の弾丸を受け、息をひきとります。享年77歳でした。

海軍の青年将校が犬養邸に侵入した際には、

木堂自身が「靴ぐらい脱いだらどうだね?」と、家族のいる部屋から他の部屋へ将校達を連れ出し、

「撃つのは何時でもできることだ、まぁ話をすれば解る」と何度も説得しました。

しかし、説得の甲斐なく、青年将校は「問答無用、撃て、撃て」と言いながら、木堂の側頭部を撃ち抜きました。

即死ではなかった木堂は「今の若い者をもう一度呼んで来い、話してよく聞かせるから」
と言う程、当初は元気でしたが、

結局その数時間後、帰らぬ人となってしまいました。

この5・15事件の後、穏健派の海軍大将斎藤実が次ぎの首班となり、木堂の死と共に政党政治は終焉を迎えます。

更に昭和11年(1936)には2・26事件が起こり、

以後、クーデターの脅威を背景にした軍部の前に対抗できる勢力は皆無となってしまいました。

この生家に隣接して、犬養木堂記念館(平成5年開館)が建てられており、

直筆の書や手紙、愛用の筆や硯、5・15事件の時の血染めの座布団など木堂ゆかりの資料が常設展示されています。

また、選挙の為に録音したレコードで、木堂の肉声を聞くこともできます。

この大政治家の演説を聞きくと、その理路整然とした語り口と、

聞く側が圧倒されてしまうような迫力は、現在の政治家は到底及ばないと思いました。

同じ吉備の出身で、郵政民営化法案に反対し自民党を離党、

今度はデカイ態度で復党させろとのたまう某「大物」造反議員など、

この場所で木堂の肉声を今一度聞いてみればいいのではと思います。

改めて自分の器量の小ささに気づくのではないでしょうか。

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2006年11月22日 (水)

県北の名園

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先日、11月20日の日記に書いた津山城から北へ500mほど足を伸ばせば、

「衆楽園」という美しい庭園があります。

この庭園は津山藩森氏2代目の藩主、長継公が明暦年間(1655~1658)に、

京都から作庭師を招いて、仙洞御所を模して造営した名庭園です。

中国山地の山々を借景とし、南北に長い池に四つの島を配した、近世池泉廻遊式の大名庭園で、

同じ様式の「後楽園」よりも古く、県の名勝にも指定されています。

池を海に見立て、灯籠や石組みを少なくした簡潔かつ自然な造作で、

島の配置や形、松の枝ぶりなど、京風の洗練された優美さが感じられます。

入り口の案内板によると、造営当時の面積は23,504坪。

現在の3倍ほどの広大な規模があり、藩主の清遊の場として利用されたほか、

津山藩は防備の上の見地から、他藩の使者を城内には入れず、

この「衆楽園」で応対したので「御対面所」とも呼ばれたそうです。

その後、森氏に変わって津山藩が松平氏に引き継がれ、

明治3年(1870)正月、時の藩主松平慶倫が「衆楽園」と命名し、公園として一般に公開しました。

明治4年(1871)の廃藩後には、多くの建造物が取り壊され、庭園の規模も大幅に縮小。

一時期、「偕楽園」・「津山公園」などと改称されましたが、

園池の主要部分は残されていた為、大正14年(1925)に再び「衆楽園」改称されました。

この日は平日でしたが、多くの来園者でにぎわっていましたが、地元の方の散歩コースでもあるようです。

この規模の庭園を維持・管理するには、それなりのコストがかかるとは思うのですが、入園料は無料。

なんとも有り難い庭園です。

駐車場(これも無料!)などの付帯設備もよく整備されおり、

静寂と清潔が良く保たれた、岡山県北エリアのお勧めスポットです。

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2006年11月20日 (月)

美作の名城

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本日は美作の国の堅城、津山城のお話。

津山城のある津山市は、岡山県北東部に位置する津山盆地の中心部にあり、

北は中国山地、南は中部吉備高原に接する、都市と自然が融合する美しい街です。

その津山市にあって、人気の観光スポットになっているのが鶴山(かくさん)公園で、

その鶴山公園は、津山城の城跡を公園として整備したものであります。

大和朝廷が備前の国から山間部の6郡を分離して、美作の国を設置したのが和銅6年(713)の事。

以来、津山盆地を中心に美作の国の統治が行われました。

室町幕府が開かれると、総社から西に5kmほど離れた院庄(いんのしょう)に

美作守護所が設けられ、この周囲も開けてゆくことになります。

嘉吉の乱(1441)の戦功により美作守護となった山名教清は、

一族の山名忠政を美作守護代に任命し、忠政は総社に程近い鶴山(つるやま)に城を築き、守りを固めました。

これが津山城の始まりで、築城時期は嘉吉元年(1441)とみられていますが、その当時の遺構は明らかではありません。

戦国争乱の時期には、山名氏は没落し、鶴山城は周辺豪族による争奪戦にさらされ、徐々に荒廃してゆきました。

その後、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、備前・美作を併せて領有したのが小早川秀秋で、

秀秋は備前の岡山城に入って領国経営を行ったので、鶴山城は正式に廃されてしまいました。

しかし、秀秋はわずか2年後に病死、嗣子が無かった小早川家は断絶され、

備前には池田氏に、美作には森氏が新たな領主として任じられました。

美作一国18万6,500石に入封した初代津山藩主・森忠政は、慶長8年(1603)の入封当初は院庄に入りますが、

領国支配の拠点としての適地を探し求めた結果、

美作中央部にあって古くから開けていた津山盆地のほぼ中心に位置する鶴山の地を選びました。  

ここは、かつて山名忠政が城を構えていた所でありますが、

当時は山上に鶴山八幡宮、南の山腹に日蓮宗妙法院があり、西の山腹には八子(やご)町の集落がありました。

これらを周辺に移転したうえで、翌慶長9年(1604)春、鶴山を「津山」と改め築城に着手し、

12年後の元和2年(1616)に完成を見ました。

津山城の特徴は、自然地形を巧みにいかしながら、土木工事によってさらに要害堅固な城としたことです。

鶴山の最高地点に平地を広くとって本丸とし、

それを取り囲むような形で山腹に二の丸・三の丸を階段状に廻らせ、山の大半を石垣で覆っています。

南を大手(表)、北を搦手(裏)とし、南・西・北の山麓(内山下)は総曲輪として、その外周を土塁・濠で固め、

東側は、直下を流れる宮川とその天然の断崖をそのまま防御線に取り込み、

さらには、南の吉井川とその支流である西の藺田川を防備上の最前線とし、

その内側に城下町の主要部を形成しています。

築城以来、津山城は森家4代・松平家9代の居城としてその領国支配を支え、

文化6年(1809)の本丸焼失以外には大きな損壊を受けることもありませんでしたが、

明治の廃藩置県・廃城令によって名実ともにその役目を終え、

明治7年(1874)から翌年にかけて、すべての建造物が取り壊されてしまいました。

その後、総曲輪の土塁を崩して濠を埋め立てたことにより、内山下は市街地に取り込まれ、

三の丸以内の城跡も荒れるがままになっていましが、旧藩士の間で保存の気運が高まり、

明治33年(1900)津山町有の鶴山(かくざん)公園として整備・公開されるようになりました。

昭和38年(1963)には城郭の主要部分である本丸・二の丸・三の丸を中心とした範囲が国史跡に指定されています。

かつての津山城には、5層の天守をはじめ、60を数える櫓があったといわれていますが、

現在みられる建造物は、本日の写真にある備中櫓のみ。

この備中櫓も、足掛け4年の工期と約8億円の費用をかけて平成17年(2005)に復元されたものです。

この日は見事な紅葉と石垣の組み合わせを期待して出かけましたが、

園内の紅葉する樹木がそれほど在るわけではなく、写真に関しては少々期待はずれ。

やはり、この公園の見ごろは、桜咲く頃であるようです。

春には公園化以降植樹された数千本のサクラが咲き誇り、

西日本有数のサクラの名所として「日本さくらの名所100選」にも選ばれているそうなので、

来年の春の再訪を楽しみにしたいと思っています。

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2006年11月15日 (水)

吉備の母なる川

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本日は、吉井川、旭川とともに岡山三大河川と並び称される高梁川のお話です。

高梁川は中国山地の花見山(標高1,188m)に水源を発し、広島・岡山県内を流れ水島灘に注ぐ、

流域面積2,670k㎡、流路延長111km、流域平均降水量約1,370mmの河川です。

この川の本流を指す呼称は、古くは日本書紀に記されている川島川から、川辺川、松山川など、

その時代で最も栄えていた流域の町の名前が採られてきました。

高梁川という名称も明治以降のもので、備中松山が高梁と改称されたため、河川名も松山川から高梁川となりました。

かつての備中は、備前(現岡山県)・備後(現広島県)と合わせて吉備の国と呼ばれ、

古来より政治・経済・文化の面で重要な地域であり、その繁栄を支えたのは高梁川をはじめとする河川群でした。

上流域の阿哲郡、支流の成羽川上流、広島県比婆郡や神石郡等、

中国山地脊梁に近い花崗岩帯は、中世よりタタラ製鉄のメッカでした。

山を掘り崩した土砂の中から、河川の流水を利用した鉄穴流(かんななが)しという比重選別法によって砂鉄を採集。

その砂鉄をタタラと呼ばれ精錬所で溶解させ、鉄材を精製していました。

この鉄材を原料とした農器具は、下流域の農業生産効率を飛躍的に向上させました。

また、鉄穴流しの過程で発生する莫大な土砂が濁水となり、中~下流域で堆積して河床上昇の一因となりました。

中世から明治時代の中期まで行われた鉄穴流しと、16世紀頃から始まった河口域の干拓により、

現在の倉敷市の平野部の殆どが形成されました。

中流域にある城下町、備中松山では16世紀より高瀬舟による船運が始まり、大いに賑わいを見せました。

高瀬舟の航路は、江戸時代の最盛期には上流の新見、支流域では成羽川上流の東城や、

小田川上流の井原のあたりまで整備され、交通・運輸の重要な動脈となっていました。

江戸~明治期まで成羽川上流の吹屋で盛んに生産されていたベンガラも、高瀬舟を利用し全国に運ばれてゆきました。

治水・改修の歴史は岡山3大河川の中では最も古く、

明治25・26年の大洪水が契機となって、工期20年にも及ぶ大改修が実施されました。

この内務省による第1期改修(明治43年~大正14年)によって、それまで倉敷市内で東西の派川に分岐していた流れのうち、

東の派川を締切って廃川とし、西の派川を本流としました。

その後、廃川となった東派川の敷地約450haの造成、水島の工業用地造成などが行われ、高梁川は今の姿になりました。

現在の高梁川流域は、美しい自然環境が今なお残る地域として、県下でも人気の観光スポットとなっています。

上流域は比婆道後帝釈国定公園と備作山地県立自然公園に、中流域は高梁川上流県立自然公園と山野峡県立自然公園に、

下流域は吉備史跡県立自然公園に指定されています。

支流域でも、井倉峡、阿哲峡、豪渓、天神峡など、高梁川水系特有の奇岩・奇鋒の景勝地があり、

四季折々に、周辺の山々と一体となった美しい自然景観を見せてくれます。

今日の写真は、総社市と高梁市の市境付近から高梁川を撮ったものです。

抜けるような青空と、水量豊かに悠々と流れる川面を眺めていると、

ゆったりとした気持ちになり、しばし時間が経つのも忘れてしまいました。

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2006年11月12日 (日)

天下の奇勝

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先日、この日記に書いた井山宝福寺から約10km北上すると、

総社市と吉備中央町(旧賀陽町)にまたがる「豪渓」という景勝地が広がっています。

ここは、岡山3大河川の1つ、高梁川の支流に当たる槙谷川の上流地域にあたり、

水平、垂直の節理に富んだ花崗岩の断崖や、長年の侵食による塔状岩塊は他に類を見ない程の規模で、

大正12年(1923)には国から名勝の指定を受けています。

奇岩・奇鋒と清流、そして、季節の移ろいとともに変化する木々が姿が織り成す渓谷美は、

神秘的な芸術作品とも言われており、一年を通じて沢山の観光客でにぎわっています。

この日は朝から好天で、名に聞こえる奇岩群と紅葉、清流のハーモニーを写真に収めようと、

いそいそとカメラを片手に出かけました。

「名勝豪渓」の看板のある駐車場に車を止め、渓流に沿って1kmほど歩くと、

見返り橋という橋があり、そのたもとで先客数人が立ち止まっているのが見えました。

どうしたのかと思いながら近づいてみると、なんと大きな落石があったため、

橋から向こうは通行止めになっており、、大小の岩石、石塊がゴロゴロと対岸の道を塞いでいました。

大きなもので径1mを超えており、人を直撃していたらと思うと恐ろしくなりました。

幸いにも、落石の可能性を予見して道路を事前に通行規制していたため、

この時の事故では、人的被害はなかったそうです。

落石は恐ろしいですが、この橋の向こう側にある遊歩道を登れば、

断崖の上に作られた見晴らし小屋に行くことが出来るはず。

そこから見下ろすアングルが1番の狙いどころだと、知人から聞いて来たのでがっかりでした。

しかし、落石事故があったのはもう数年も前のことらしく、

事前に調べればすぐに分かったはずで、悪いのは場当たり的な自分の行動。

しかたなく、しばらくは遠景の写真を撮りましたが、紅葉の度合いもまだ期待した程ではなく、

また、崩落防止の為の接着工事用の足場が殆どの奇岩に組まれていたため、

思うようには撮影が出来ず、早々に引き上げてきました。

しかし後から考えれば、造形美を見せる奇岩はすべて落石予備軍。

それをすべて接着工事でくっつけてしまうのは如何なものかと思いました。

地形は年を経るごとに変化してゆくものであり、奇岩美は崩れ落ちる前の刹那の美しさとも言えます。

美しい姿も自然なら、崩落もまた自然。

足場を組んで岩石を接着するのも、危険防止の観点からはある程度必要だとは思いますが、

豪渓自体が人工の景観となってしまうような気がしてなりません。

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2006年11月 9日 (木)

画聖の出発点

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岡山県総社市には、紅葉の名所として県内では広く知られている、

臨済宗東福寺派の中本山、井山宝福寺があります。

このお寺は、もともとは天台宗の古刹でしたが、

貞永元年(1232)、近在の真壁郷出身の名僧鈍庵(どんあん)和尚が、

この地に伽藍を建立し臨済宗に改めたと伝えられています。

盛時には塔頭、学院55、山外の末寺300余を有したと伝えられ、

現在も、山門・仏殿・方丈・庫裡・禅堂・鐘楼・経蔵などの七堂伽藍を有する、

地方では珍しい巨刹といわれています。

また、見事な紅葉とともに、井山宝福寺の名を知らしめているのが、画聖雪舟との深いかかわりです。

水墨画の巨匠雪舟は、応永27年(1420)備中赤浜(現岡山県総社市赤浜)に生まれました。

幼くしてこの井山宝福寺へ修行に入り、その後、京都の相国寺へ入りました。

当時、相国寺には、日本の水墨画を代表する周文がおり、

その薫陶を直接受けて、 天賦の才能を開花させた雪舟は、

書の余技であった水墨山水画を、芸術の域にまで高めました。

井山宝福寺には、小僧時代の雪舟が、住職に叱られ、方丈の柱に縛りつけられた際に、

涙で鼠の絵を描いたという逸話が残されています。

しかし、残念ながら、雪舟が縛られた方丈は、天正3年(1575)の備中の兵乱の際に焼失し、

その後、二度にわたって復興したものが現在の方丈です。

その方丈の前には、そのときの様子を模した(?)、なんだか地味な石像があります。

今日の写真はというと、国の重要文化財に指定されている三重塔です。

この三重塔は、弘長2年(1262)執権北条時頼が寄進して建立したといわれていましたが、

昭和42年に行われた解体修理の際、永和2年(1376)の墨書銘が発見され、

南北朝時代の建築であることが確認されました。

塔の方は3間、総高18.47メートルの本瓦葺で、鮮やかな丹塗りが施されています。

軒の出が深く、軒先の反転はすっきりしており、各重の逓減割合も美しく、

室町時代初期の寺院建築の風格を今に伝えています。

この日、紅葉の方はまだ色づき始たばかりで、見頃には1週間~10日ほど早かったようですが、

秋のやわらかい陽射しの中で、禅宗寺院特有の静寂かつ清浄な雰囲気を堪能することができました。

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2006年11月 3日 (金)

始まりと終わり

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岡山県の最北部、鏡野町(旧・奥津町上斎原村)には、「岡山県立森林公園」という自然公園があり、

総面積334haの広大な敷地が、標高840~1,100mの中国背稜山地に広がっています。

開園は昭和50年(1975)の7月で、「明治百年記念事業」として計画・整備されました。

瀬戸内式の気候のイメージが強い岡山県ですが、

このあたりはもう裏日本型の気候で、県南部とは植物相は大きく異なります。

公園管理棟にあった案内によると、森林の大部分はブナ、ミズナラなどの落葉広葉樹ですが、

一部には県内でも珍しいカラマツ林があるほか、スギの天然林などもあります。

尾根筋には、ブナ、ミズナラの大木が茂り、山麓の一部にはマユミの大木が見事な赤い実をつけ、

また、園内にある湿原では、バイケイソウ、オタカラコウなどの水生植物が季節を追って出現するなど、

四季を通じて変化する植物の景観と眺望が、この公園の特徴となっています。

この森林公園のもう1つの特徴は、高梁川、旭川と並んで、岡山県3大河川に数えられる吉井川の源流を含んでおり、

林野庁から「水源の森100選」に選定されていることです。

平成6年(1995)に、「水源の森100選」検討委員会(座長:筒井迪夫・東大名誉教授)が、

豊かで良質な水の源泉であり、その水を仲立ちとして、森林と人との理想的な関係が作られている代表的な森として、

全国で100地区を選定しました。

水道の蛇口をひねれば出てくる水も、川の上流部に豊かな森林があってこそ。

森林の働きによって、我われの「暮らし」は成り立っています。

そしてその森林は、森林所有者はもとより、地域住民の「努力」のもとに維持され、守られてきました。

こうした水源地域への関心が、もっと高まって欲しいという願いから、「水源の森100選」が選定されたそうです。

写真は園内にある「もみじの滝」で、吉井川の最上流部にあたり、水量は多くありませんが、落差30mは県内最大の滝です。

流れ落ちる水は、限りなく透明で美しく、その水音は心に響くように澄んでいました。

しかし、先日の日記(11月1日)に児島湖の惨状として書いたように、

この美しい水が、一たび山を下り、街を通り過ぎ、海に注ぐ頃には、悲しいくらいに、汚れ濁ってしまいます※。

今日の滝の写真と、先日の児島湖の写真は始まりと終わりのひとコマです。

清らかな水が汚水に変わってしまう、その間にあるのもまた、人間の「暮らし」であります。

いま一度、「暮らし」を変える「努力」をしなければ、早晩「暮らし」自体が成り立たなくなると思うのです。

※実際は吉井川は直接、児島湖には注いでおらず、児島湾に流入しています。

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2006年11月 1日 (水)

湖の悲鳴

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本日の写真は児島湖、岡山市と玉野市にまたがる面積約1,088ha、平均水深2.4mの広く浅い湖です。

児島湖のあたりはその昔、「吉備の穴海」と呼ばれた遠浅の美しい海でしたが、

周辺の干拓地の農業用水の確保と排水改良のため、堤防で締め切られ人工湖となりました。

もともと、児島湾は百間川、旭川、高梁川の沖積作用で干潟が発達しており、

大規模な干拓が可能な条件が整っていました。

そのため、干拓の歴史は古く、江戸時代にさかのぼり、

明治時代には湾内7000haのうち5500haの大規模干拓事業が開始され、

昭和38年(1963)には、その全てが完成しています。

その前年、昭和37年(1962)に、児島湾の一部が締切り堤防によって遮断され、淡水の人工湖、児島湖が誕生しました。

しかし、淡水化以降、水質の汚濁は悪化の一途をたどり、かつての宝の海は写真のような惨状。

有機物の汚濁量を示すCOD(化学的酸素要求量)は昭和50年(1975)当時で11ppm、

環境基準値(5ppm以下)の2倍以上にまで悪化しました。

その後、写真の看板にあるように人口葦原を作ったり、湖底のヘドロの浚渫工事などを行い、

現在COD値は8~9ppm 程度まで下がりつつありますが、

印旛沼などと並んで、全国湖沼ランキングのワースト3に上げられる湖になっています。

湖水が入れ替わりにくい閉鎖水域であるため、汚濁が進行しやすく、

さらに、流入河川流域の都市化や生活様式の変化により、児島湖を取り巻く環境はますます厳しくなっています。

汚れの原因の主たるものは、家庭・工場・畜産場・農地等からの排水ですが、

この中でも、日常生活に伴って各家庭から流される生活排水が最大の原因です。

岡山県も、児島湖の浄化を県政の重点施策として取り組んできましたが、

莫大な税金を投入しても従来の対策では、基準達成の見通しが立たないのが現状です。

県は、昭和61年(1986)からは5年ごとに水質保全計画を立て、下水道整備や浄化槽の設置などの事業を進めてきました。

その事業費は第1期が856億円、第2期1,926億円、第3期1,698億円、

今年の3月で終了した第4期は981億円で、事業費総額は5,461億円にのぼります。

第5期(平成18~22年)の計画は策定中だそうですが、従来の例に従えば1,000億規模になると思われます。

今後も巨額の税金投入が続き、県民に大きな負担を強いることになる為、

地域の住民団体や漁業関係者は、水門を開いて海水の浄化力を利用するなど、抜本的な対応を求めています。

しかしながら、ここまで状況が悪化し、その後も改善の見通しが立たないのは、行政の責に拠るものだけなのでしょうか?

地域住民を含めた県民全体が、児島湖のこの有様を見て何を思うのか?

このゴミの山の責任は、一体誰にあるのか?と、問いかけたい気持ちになりました。

行政任せで、結果を批判するだけではなんともならないような気がします。

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