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2009年11月30日 (月)

木曽の宿場町

(前回からの続き・・・)

●「女道」と呼ばれた中山道

翌17日(火)、お天気は生憎の雨模様でしたが、「雨に霞む宿場町もいいかも♪」と思い直し、
中山道・木曽路の風情を今に伝える街として人気の高い妻籠(つまご)~馬籠(まごめ)に向かいました。

中山道は言わずと知れた江戸時代の5街道の一つで、全行程132里に及ぶ当時の大動脈。

江戸の板橋宿を起点として、武州路(10宿)~上州路(7宿)~信濃路(15宿)~
木曽路(11宿)~美濃路(16宿)~近江路(10宿)を経て、近江の守山宿まで69の宿場がありました。

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【晩秋の木曽路】

なかでも贄川宿(にえかわじゅく)から馬籠宿までの木曽路は、
江戸期の安藤広重と渓斎英泉の浮世絵が「木曽街道六拾九次」と題されているように、
中山道の代名詞となっており、この街道筋を象徴する風土と景観が広がっています。

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【木曽の山々】

馬籠出身の明治の文豪・島崎藤村は、小説「夜明け前」の書き出しで、

『木曾路はすべて山の中である。
 あるところは岨づたいに行く崖の道であり、
 あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、
 あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。
 一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。』   
 
と書いているように、文字通り「山中の道」でありました。

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【雨の妻籠宿①】

こんな山の中にどれほど人々の往来があったの?と不思議に思いますが、
近江商人・尾張商人をはじめ、伊勢や善光寺参りの旅人、信州産の牛馬などなど、
結構な往来があったようです。

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【妻籠宿:旅籠「大吉」看板】

また、中山道は別名「女道」とも呼ばれていました。

同じ京都~江戸間を結んでいた126里53宿の東海道に比べても、距離が長く、宿場の規模は小さく、
その上、碓氷峠をはじめ和田峠・鳥居峠など峠が多く、道のり自体も険しかった中山道が、
なぜ「女道」なのか?

それは、大河が無く、渡河のための天気待ちや渡し待ちの渋滞がなかった為、
「滞る」のを嫌う婚礼の通行に盛んに利用された為だそうです。

江戸時代末期の皇女和宮降嫁に使われたのも中山道でありました。

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【妻籠宿:熊谷家住宅】

そんな中山道も、明治以降は主要街道としての役目を終えることになります。

特に、太平洋戦争以降は、輸送の主役が鉄道やトラックに移り、
空襲の焼け跡開発や急速な人口流入により沿道の姿が急速に変貌した東海道とは異なり、
中山道の沿道には、取り残された形で、江戸期以来の街道の佇まいが色濃く残ることになりました。

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【妻籠宿本陣:島崎家跡(島崎藤村の母方の実家)】
 
その後、昭和40年代には、これらを積極的に保存しようという気運が住民を中心に持ち上がります。

その先陣をきったのが、今回訪れた妻籠宿でありました。

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【雨の妻籠宿②】

●街並み保存のパイオニア・妻籠宿

昭和43年(1968)頃、妻籠の街並みを維持・保存しようという運動が全国に先駆けて起こります。

街並み保存は博物館的な凍結保存ではなく、
そこに人の生活が無ければ意義がないという住民の意思のもとに、
住民自らが保存事業の推進をはかるという運動がなされました。

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【雨の妻籠宿③】

妻籠地区の全住民が参加する「妻籠を愛する会」(現在は財団法人)が結成され、
昭和46年(1971)には、故郷の街並みは自らが守るという観点から「妻籠宿を守る住民憲章」を制定。

その中で、保存をすべてに優先させる「売らない」「貸さない」「壊さない」の三原則を打ち出しました。

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【妻籠宿:旅籠「松代屋」看板】

行政(長野県南木曽町)も「住民憲章」を尊重する「妻籠宿保存条例」を制定すると共に、
周辺整備を積極的に展開。

昭和46年(1971)に「信濃路自然歩道」(県補助事業)、
続いて昭和53年度に「歴史の道」(国庫補助事業)を整備しました。

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【妻籠宿:木賃宿「下嵯峨屋」跡】

昭和50年(1975)には、官民一体となった妻籠宿の街並み保存運動が契機となり、
文化財保護法が改正されます。

伝統的建造物群に関しては、重要伝統的建造物群保存地区の制度が創設され、
建造物群によって形作られる伝統的景観が文化財として位置付けられました。

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【雨の妻籠宿④】

また、重要文化財等は、国の指定によるとされているのに対し、
市町村が条例で伝統的建造物群保存地区を規定し、国がそれを選定するという形に。

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【雨の妻籠宿⑤】

妻籠宿はその結果、文化財保護法改正の翌・昭和51年(1976)、
重要伝統的建造物群保存地区の栄えある認定第一号に。

地元の方々の郷土愛から始められた街並み保存事業は、宿場景観の保全・整備、宿内施設の充実度、
あるいは年間80万人にのぼる観光客の数字だけを見ても、
一応の成功を治めた事業モデルと言えるのではないかと思います。

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【雨の妻籠宿⑥】

ただ、全てが万歳と言う状況ではないようで、
ここでも宿場内の施設経営者の高齢化と後継者問題は深刻。

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【雨の妻籠宿⑦】

妻籠宿観光案内所によると、最盛期には57軒もあった民宿が現在は12軒となり、
旅館の廃業も目立ち、現在は2軒あるだけだそう。

土産物・地域物産店も同様に、後継者がままならない。

年間80万人という集客はたいへん大きな数ですが、
観光によって経済的自立がなされているとは言い難いのが現状です。

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【雨の妻籠宿⑧】

埼玉県の「蔵の町」・川越市では年間400万人を集客していますが、
それでようやく後継者が戻ってきはじめたというようなことを考えると、
街並み保存の理念を継承しながら更なる経済的付加価値をどう見いだすか。

今後の大きな課題であります。

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【妻籠から馬籠への途上:乙姫橋より】

●妻籠宿を後にして馬籠宿へ

中山道六十九次42番目の宿・妻籠から、3番目の宿・馬籠へは約7kmの道のり。

家族連れでも無理なく歩ける手軽なハイキングルートとなっていますが、
今回は時間の問題と家人の機嫌の兼ね合いもあり、車での移動となりました。

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【馬籠宿の街並み①】

馬籠の宿は明治28年と大正4年の大火災により、
江戸時代からの街並みは石畳と枡形以外は残念ながら全て消失し、
現在の街並みはその後復元されてたものです。

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【馬籠宿の街並み②】

その為か、妻籠に比べて街並み自体はすっきりとした印象。

石畳の坂道の両側にお土産物屋や飲食店が並び、
生活の場というより「観光」が前面に出ている感じを受けました。

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【馬籠宿の街並み③】

全長600mの石畳のほぼ中央には、この街出身の文豪、島崎藤村の生家であり、
旧宿場の本陣でもあった「島崎藤村記念館」があります。

前述したように、ここは名作「夜明け前」の舞台にもなっており、
街道情緒を楽しむ歴史ファンと共に、文学ファンが多数訪れています。

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【馬籠宿本陣:島崎藤村記念館(「島崎家」跡=島崎藤村の生家)】

それと、宿場自体が尾根伝いに造られている為、
周囲の自然景観と街並みが融合していることも大きな魅力の一つです。

この日は生憎の雨模様でしたが、霧にむせぶ山々が美しく、印象に残りました。

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【馬籠宿の街並み④】

馬籠宿は「信州・馬籠」といわれるように、行政区分としては長野県山口村に属していましたが、
平成17年(2005)、山口村が岐阜県中津川市と日本初の越県合併したことで話題となりました。

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【馬籠宿の街並み⑤】

もともと山口村の通勤、通学者の半数近くが岐阜県内に通っていたり、
TVは中京圏の放送しか映らなかったり、生活圏自体は「美濃」であったので、
便利になることの方が多かったようです。

合併以前は、運転免許証を更新するのにも、長野県警の出先機関まで車で約2時間。

それが今では20分程で済み、救急車や消防車の到着も10分程短縮されたそうです。

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【馬籠宿の街並み⑥】

便利になる反面、長く親しんできた信州への郷愁も。

地元紙によると、山口村の閉村式で当時の村長は、
「言葉で言い尽くせない寂しさがこみ上げてくる・・・有難う長野県、さようなら山口村」
としんみりと語ったそうです。

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【馬籠宿の街並み⑦】

早足での見学で、開放されている建物や資料館をつぶさに見ることが出来なかったのは残念ですが、
美しい街並みについては、十分堪能することが出来ました。

妻籠~馬籠を訪れて、改めて感じたことは、地元の方々のご苦労はいかばかりかということ。

それと同時に、今後の街並み保存の難しさも垣間見たような気がします。

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【馬籠で食べた「おやき」】

過度な観光地化は、逆に客離れを引き起こしかねませんが、
食えなくては後継者が現れるはずも無く、街並み保存の理念の担い手が居なくなってしまいます。

伝統的な景観はある程度、昔のままの姿を維持する事が出来ても、
そこでの暮らしも昔のままという訳にはゆきませんから。

<追記>
現在、長野県・岐阜県・南木曽町・中津川市の4者は、
『妻籠宿・馬籠宿と中山道』の世界遺産登録に向け、
文化庁に提案書を出しています。

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2009年11月24日 (火)

飛騨路の名湯

先週の月曜日、11月16日(月)のお話です。

温泉の宝庫、群馬県を離れてはや半年。

「長いこと温泉に入ってないわぁ」という家人のつぶやきを聞く頻度が高くなってきたので、
円滑な単身赴任生活を維持するため、会社に連休を頂き、温泉小旅行に出かけてきました。

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【下呂への途上:岐阜県中津川市付知峡付近】

向かった先は、岐阜県の下呂温泉。

下呂といえば、いわずと知れた岐阜県下最大の温泉街で、
兵庫県の有馬温泉、群馬県の草津温泉と共に「日本三名泉」と称される天下の名湯です。

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【下呂への途上:付知峡】

現在、温泉街には70を超える旅館やホテル、保養施設が営業しており、
その他、日帰りで楽しめる公共の露天風呂や、足湯などの施設も多くあります。

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【付知渓谷のお猿】

泉温は84度と高温で、泉質はアルカリ性単純泉(低張性アルカリ性高温泉)だそう。
効能としては、リウマチ性疾患・運動器障害・神経痛・神経麻痺・病後回復などが挙げられています。

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【下呂温泉街①】

温泉の歴史は古く、その起源は1千年以上前だと伝えられています。

元々の下呂の温泉は、今の温泉街から約4km東の湯ヶ峰(1,067m)の山頂付近で、
天暦年間(947~957 平安中期)に発見されました。

その後、文永2年(1265)には、山頂上付近に湧き出していた温泉が突然出なくなりますが、
翌年には、現在の源泉地、温泉街の中央を流れる飛騨川の河原で再び発見されることになります。

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【下呂温泉発祥の地】

この温泉再発見にまつわるお話が、「白鷺伝説」として今に伝えられています。

 「むかし、下呂を流れる飛騨川の川原に足の骨を折った白鷺がおりたちました。
 川原にうずくまった白鷺は、翌日、すっかり傷がなおり、西の空をめざしてとびたっていきました。
 このありさまを見ていた村人たちは、不思議に思って、白鷺のうずくまっていた川原へ行ってみると、
 そこにはもうもうと湯けむりをあげて、湯がわきでていたのです。
 村人たちは、『これは、お薬師様のお告げにちがいない。』といって、ていねいにおまつりしたそうです。」
 ~岐阜児童文学研究会編「岐阜の伝説」より~

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【下呂温泉街:雨情公園】

温泉と白鷺にまつわるお話としては、四国の道後温泉でも見聞きした記憶があったので、
ネットで調べてみると、熊本の玉名温泉・天草下田温泉、石川の和倉温泉・山中温泉・湯涌温泉、
佐賀の武雄温泉、島根の鷺ノ湯温泉、鳥取の浜村温泉、広島の湯来温泉、岡山の湯郷温泉、
愛知の白鷺温泉、和歌山の椿温泉、山形の湯田川温泉などなど、全国各地に多数残っているようです。

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【下呂発祥の地に建つ外湯施設「白鷺の湯」】

白鷺説話が開湯伝説の定番だったとは。

長いくちばしと長い脚をもった優雅な姿の水鳥。
日本画や日本舞踊などに好んで取り上げられる美しさとはかなさの象徴。

しかし、どうして温泉には白鷺なんでしょうか?
調べたけど解りませんでした。

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【下呂温泉街②】

下呂温泉が名湯であることを初めて天下に紹介したのは、
室町時代の京都五山の僧・万里集九(ばんりしゅうく)でした。

その詩文集『梅花無尽蔵』には、

 「本邦六十余州ごとに霊湯あり。その最たるものは、
 上州の草津、津陽の有馬、飛州の湯島(下呂)、この三か所なり。」

と記されています。

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【下呂温泉街:林羅山像】

また、江戸時代には儒学者・林羅山も同様の評価をしており、『林羅山詩集第三西南行日録』には、

 「我が国は諸州に温泉を多く有す。その最も著しいものは、
 摂津の有馬、上州の草津、飛騨の湯島(下呂)、この三か所なり」

とあり、更に、

 「今、有馬、草津は広く世の知るところとなり。
 湯島は古来の霊湯たること、遠く知るもの少なしといえども、
 入湯する人はその験を得ざることなし」

と続き、下呂温泉が名湯であることを伝えています。

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【下呂温泉街:醫王霊山温泉寺ライトアップ①】

あと、この地に関して、予てから気になっていたことがありました。

それはズバリ、「下呂」という地名。

子供の頃は、TV番組などで紹介される度に「ゲロって・・・・」と思っていました。

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【下呂温泉街:醫王霊山温泉寺ライトアップ②】

このインパクトのある地名の起源についても調べてみました。

「下呂」の起源は、遠く8世紀にまで遡ります。

日本書紀に続く勅撰書『続日本紀(しょくにほんぎ)』の宝亀7年(776)10月の条には、

 「美濃国菅田駅と飛騨国大野郡伴有駅と相去る七十四里、
 岩谷険深にして行程殊に遠し。其の中間に一駅を置て下留と名つく」

と記されており、飛騨街道に「下留(しものとまり)」という宿駅が置かれていた事がわかります。

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【下呂温泉街:醫王霊山温泉寺ライトアップ③】

中央集権体制の確立を急ぐ律令政府にとって、交通網の整備は緊急な課題でありました。

そこで、都と諸国とを結ぶ主要な官道には、概ね4里ごとに駅家(うまや)が設けられ、
そこには馬が常置されており、公用者の行き来や文書の伝達に用いらました。

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【下呂温泉街:醫王霊山温泉寺ライトアップ④】

この「下留」が後に音読され「げる」となり、長い年月の間に「げろ」へと転化し、現在に至っています。。

ちなみに、下呂の近隣には上呂(じょうろ:JR高山線上呂駅付近)も、
中呂(ちゅうろ:JR高山線禅昌寺駅付近)も、地名として残っておりました。

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【下呂温泉合掌村①】

下呂温泉街には、多くの飲食店や文化施設、娯楽施設がありますが、
その中で私がお目当てにしていたのは、「下呂温泉合掌村」。

ここには白川郷などから移築した10棟の合掌家屋が移築されており、
合掌造りを見たことが無い私は、結構、楽しみにしていました。

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【下呂温泉合掌村②】

しかし、訪れた後の感想はやや期待はずれ。

私が期待したのは、飛騨の生活文化を紹介する民俗博物館的な施設でした。

ここを紹介する地元の観光サイトでもそのような表現があったのですが・・・・
やっぱり、入場料800円の観光施設でした。

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【下呂温泉合掌村③】

移築民家の目玉、国指定重要文化財に指定された旧大戸家住宅には、
民具や資料の展示が少々ありましたが、ただのお飾り程度。

展示品もこんなんでいいの?と思えるほどに雑な扱い。

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【下呂温泉合掌村④:国重要文化財「旧大戸家住宅」】

この施設のメインは、他の合掌建築で営業されている、
茶屋などの飲食店や特産物販売店だという印象を受けました。

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【下呂温泉合掌村⑤:旧大戸家囲炉裏】

当日のお宿は「富岳」さん。

下呂温泉街に数ある旅館・ホテルの中にあって、
旅行サイトの人気ランキングでは、常に上位に食い込む人気のお宿です。

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【旅館「富岳」玄関】

人気の秘密はそのリーズナブルな価格設定。

中部地方随一の温泉街とあって、高級・高額の老舗が多い中、
お手軽な価格で泊めていただけます。

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【富岳の夕食】

仲居さんの応対もフレンドリーで親切。

飛騨牛の朴葉味噌焼きに松茸の土瓶蒸しが付いた夕食もかなりの美味で、
もちろん、源泉掛け流しのお風呂も清潔感いっぱいで大満足でした。

旅行サイトの口コミ情報にあったように、「また行きたくなる宿」でした。

※次回は下呂温泉の帰路に立ち寄った「妻籠宿・馬籠宿」をレポします。

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2009年11月 5日 (木)

昭和の残像~大阪市西成区山王

11月2日はお休みで、所用の為、大阪へ帰っていました。

所要と言っても夕方の1時間ほどで片付く用件で、朝からは全くのヒマ。

しかしながら、平日なので子供達は学校、嫁さんは何処かへお出かけで、相手をしてくれる家族はナシ。

コレでは桑名にいるのと同じではないかと思いつつ、
家でゴロゴロしていても仕方が無いので、大好きな街・天王寺に独りで出かけてみました。

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【新世界:街は俺のステージだ!!】

目的地は、長らく訪ねていない天王寺動物園。

最寄駅から、JR天王寺駅までは約40分。
JRを乗り継いで到着してみたら、なんと、月曜日は休園日。

計画性皆無、休園日があるなどと言うことすら考えていませんでした。

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【ジャンジャン横丁:「かずが娯楽場」(ゲームセンター)】

仕方が無いので、動物園のお隣にある新世界から、ジャンジャン横丁を抜けて南へ向い、
大阪の下町中の下町・山王(さんのう)方面に行ってみることにしました。

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【動物園前一番街(飛田本通商店街)】

西成区の北東部にあたる山王は、殆どが商業地で、
「動物園前一番街」「新開筋商店街」「山王市場商店街」などの多くの商店街があり、
アーケードが縦横無尽に張り巡らされています。

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【山王市場通商店街】

山王の西側には労働者の街である通称・愛隣地区(釜ヶ崎)が広がっている為か、
この商店街はすっかり観光地化した新世界界隈とはまったく趣が違います。

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【新開筋商店街:西成区に本拠がある激安の「スーパー玉出」】

たとえば、大抵の商店街では客と言えば「オバハン」が主流ですが、ここでは圧倒的に「オッサン」。

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【新開筋商店街】

ビールと日本酒の自販機もやたらとあります。

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【スーパーとよしまや】

アーケードもかなり年季が入っており、並んでいるお店もどこか懐かしい感じが漂っています。

まるで、「昭和」で時間の流れが止まってしまったような商店街でした。

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【大衆演劇「オーエス劇場」ポスター】

新開筋商店街を抜けると、そこには「飛田新地」が広がっています。

知る人ぞ知る、大正5年(1916)に築かれた日本最大級の遊廓街です。

昭和33年(1958)の売春防止法施行以後、遊郭は「料亭」に衣替えとなりました。

しかしながら、ほとんどの「料亭」の営業内容は、
ここでは多くは語れませんが、大正以来何ら変わっていない様子です。

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鯛よし百番

この街ではカメラは御法度。

もし見つかれば、その筋のお兄さんがダッシュでやって来るそうなので、残念ながら「料亭」の写真はナシ。

唯一コンデジで撮影出来たのが、「鯛よし百番」の外観です。

「鯛よし百番」は、大正初期に遊廓として建てられた建物を、現在も使用している料理店。
(ちなみに、ここは本当の料理店です。)

遊郭建築を今に伝える建物として、平成11年(2000)には文化庁登録有形文化財に指定されています。

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【路地】

たくさんの「お声がけ」をいただきながら、飛田新地を抜け阿倍野の再開発地区へ。

ここでは行政主導の巨大なビル群が建設中です。

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【山王を見下ろすビル群】

山王地区を威圧するように見下ろすビル群。
味気ないコンクリートの塊が、今後もどんどん広がるのかと思うと「なんだかなぁ」と思ってしまいます。

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【憩いの場「日の出温泉」】

大阪人の間でも、しばしば山王は危険な街だと言われることがありますが、
節度を守って歩いている分には何の問題もありません。

お世辞にも美しいとはいえませんが、過剰に恐れる必要もなく、
当たり前の話ですが、多くの普通の家族が普通に暮らし、普通に幼稚園や学校だってあるのです。

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【郷愁漂う山王の街】

難波利三氏の直木賞作品「てんのじ村」や、はるき悦巳氏の漫画「じゃりン子チエ」舞台であり、
ミヤコ蝶々さんや平和ラッパさん、人生幸朗さんなど、多くの芸人を育てた古い大阪の下町。

人情味あふれるこの地域が、様変わりしないように願うのは、部外者の無責任な感傷でしょうか。

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