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2009年9月16日 (水)

港と偉人とコンビナート

本日ご紹介するのは、三重県随一の商工業都市として知られる四日市です。
訪問してから日が経ってしまい、少々季節外れな写真もありますが、宜しければお付き合い下さい。

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四日市市は、南北に長い三重県の中央よりやや北側に位置し、
北は桑名市、南は津市に接し、東は伊勢湾、西は鈴鹿山系を経て奈良県境に接しています。

総人口の307,486人は三重県最大で、県内初の中核市移行を目指し、準備を進めています。

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【四日市港第三埠頭付近】

当市の歴史は古く、すでに旧石器時代から人々が暮らしていたと見られており、
縄文~弥生期にかけての遺跡も数多く残っています。

「古事記」によると、日本武尊が東征の帰途、伊吹山の神との戦いの最中に負傷され、
四日市の足洗池(現:市内御館付近)に差し掛かったときに、
「吾が足三重の勾(まがり)の如くして、いと疲れたり」と嘆かれたとあります。

これが三重郡の名前の由来となり、後の県名となったと云われています。

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【太平洋セメントの埠頭(第三埠頭付近)】

このように歴史の早い段階から開けていた四日市ですが、
大きく発展するのは安土桃山期以降。

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【石油プラント(第三埠頭付近)】

元々、四日市沖の伊勢湾は水深があり、また、沿岸部には波静かな入り江があったので、
いわゆる「天然の良港」としての条件は揃っていました。

天然の良港に、15世紀中頃には商業港としての姿が整い始め、
その後の回船業の発展に伴って、全国各地の物資が集まるようになります。

港の近郊には大きな「市」が立ち始め、その「市」は「四」の付く日に開かれたため、
これが「四日市」という地名の由来となりました。

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【港務艇(第三埠頭付近)】

また、天正10年(1582)の本能寺の変の際には、
四日市の回船問屋達は、堺から苦難の末に当地に逃れてきた徳川家康を手助けし、
舟をしつらえて三河岡崎まで一行を送り届けました。

その後、天下を取った家康は、その時の恩に報いる為、
当地を幕府の天領としたと云われています。

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【重要文化財:末広橋梁(跳開式可動鉄道橋)】

天領となった四日市は、北勢地方の行政・商業の中心地となり、
また、東海道の43番目の主要宿場として、その名を全国に知られるようになってゆきました。

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【四日市旧港の灯台】

ところが、四日市が繁栄の極みに達した江戸末期、安政元年(1854)に巨大地震が発生します。
いわゆる「安政の大地震」です。

遠州灘を震源地としたこの地震で、四日市周辺で被災した家屋は2000軒以上にのぼり、
「人死凡そ七百人余,怪我人は数知れず」という甚大な被害がもたらされました。

その後も大地震による影響で、「天然の良港」に次第に土砂が流入。
港口が徐々に浅くなり、船の入港が困難な程になってしまいました。

その結果、廻船業は次第に衰退し、以降、幕末から明治にかけては、
港町から菜種油や肥料の町へと変遷してゆきました。

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【稲葉三右衛門顕彰碑(末広町)】

そんな時、或る人物が登場します。
港町四日市の現状を憂いていた、廻船問屋・稲葉三右衛門です。

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【稲葉三右衛門銅像(JR四日市駅前)】

彼は、四日市が更に発展するには、港の拡張・再整備が不可欠と考えていました。

そして、明治6年(1873)、三右衛門は私財を投じて港の改修工事に着手します。

工事は難航を極めたものの、11年後の明治17年(1884)、
波止場の長さ400m、造成地面積46,000㎡という港が完成しました。

三右衛門念願の港は、その後の四日市の商工業躍進の起爆剤となります。

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【旧港改築記念碑(末広町)】

明治32年(1899)、四日市港は政府指定の開港場(国際貿易港)となり、
大正時代には、後背地(岐阜県一宮・尾西)に毛織物業が発達したこともあり、
我が国の羊毛の代表的な輸入港となってゆきました。

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【万博から移設したオーストラリアパビリオン(霞ヶ浦地区)】

ちなみに、昭和43年(1968)以来、四日市港とシドニー港は姉妹港の関係にあります。

シドニー港は世界的な羊毛の輸出港であり、四日市港はその羊毛の主要な輸入港で、
羊毛の輸入は年々減少傾向にありますが、現在も対豪貿易高は四日市港が日本一です。

その縁で、四日市市は官民一体となってオーストラリアとの親善交流活動を続けています。

そのシンボルとして、四日市港の霞ヶ浦緑地公園には、
日本万国博覧会のオーストラリア・パビリオンが移設され、現在も当時のまま保存されています。

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【かもめ】

現在の四日市港は、霞ヶ浦地区の埠頭が中心拠点となっていますが、
稲葉三右衛門によって基礎が作られた旧港には、彼の業績を称える「稲葉翁記念公園」が整備されています。

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【煙突(霞ヶ浦地区)】

この公園からは、全国的にも例を見ない「潮吹き防波堤」(※1)を見ることができます。

国の重要文化財に指定されているこの堤防、波が当ると潮吹き穴から海水が吹き出ることから、
このような名前で呼ばれるようになりました。

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【旧港に残る潮吹き防波堤の跡】

四日市港の改修後は、紡績を中心とした繊維工業、さらに機械や化学工業の工場進出が相次ぎ、
日本の近代工業化への歩みを踏襲するかのように四日市地域は発展してゆきました。

戦後になると四日市港の重要性は更に増し、政府から特定重要港湾に指定され、
工業港としての性格を強めながらその規模を拡大してゆきます。

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【石油プラント(霞ヶ浦地区)】

昭和32年~35年(1957~1960)にかけては、塩浜地区に三菱化成・日本合成ゴム・味の素・松下電工など、
昭和36年(1961)には、午起地区に大協石油・中部電力火力発電所・協和油化などが相次いで進出し、
いわゆる石油コンビナートが形成され、わが国屈指の石油化学工業都市に躍進しました。

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【ガスタンク(霞ヶ浦地区)】

昭和40年代に入ると、霞ヶ浦沖の広大な海面を埋め立てた霞ヶ浦埠頭が誕生し、
ここを拠点として本格的なコンテナ貨物の取り扱いが可能となりました。

これによって、国際海上輸送のコンテナ化に対応するとともに、
現在の四日市港の輸出の主力となっている自動車輸出も始まりました。

しかし、コンビナートの本格的操業と同時に、負の影響も深刻化してゆきます。
大気汚染その他の公害の発生が大きな社会問題になりました。

私をはじめ、多くの同世代の人が当地を知ったきっかけは、
「四日市ぜんそく」ではなかったでしょうか。

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【煙突(末広町付近)】

昭和40年代には「四日市=公害の街」として全国にその名を馳せましたが、
その後、法整備や汚染防止技術向上などの対策が格段に進み、
現在では「公害を克服した街」という評価を得つつあるようです。

今回、稲葉三右衛門の功績を追って、四日市周辺をうろうろしましたが、
少し郊外に車を走らせれば、田んぼや茶畑が広がる豊かな自然がいっぱいで、
都市機能と田舎の長所を併せ持った住み易い街という印象を持ちました。

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【四日市ドーム(霞ヶ浦地区)】

平成11年(1999)8月に開港100年を迎えた近代四日市港は、
名古屋港と同様に、日本最大のモノづくり圏を後背地に抱えています。

しかし、伊勢湾岸2港のライバルは、日本国内の港湾だけではありません。
世界中の港湾を相手にしなければならない「港湾大競争時代」が到来しています。

アジア諸国の近年の港湾機能の巨大化や、日本の港湾の国際競争力の低下、
さらには、将来的な港湾ニーズの世界的な高まりもあって、国内港湾の機能充実が急務となっています。

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【マリーナ(霞ヶ浦地区)】

平成16年(2004)、政府はその対応策として、国内に23港ある特定重要港湾のうち、
国際競争力の強化が特に重要な6港湾をスーパー中枢港湾(指定特定重要港湾)に指定しました。

指定を受けたのは京浜港(東京港・横浜港)、阪神港(大阪港・神戸港)、
伊勢湾(名古屋港・四日市港)の3港湾。

四日市港も生き残りを賭けて、アジアの主要港を凌ぐ「港湾コスト・サービス水準の実現」を目指し、
スーパー中枢港湾への国の重点的予算配分を受けながら、官民協働で港湾機能充実に取り組んでいます。

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【HONDAの貨物船】

私達が学んだ頃の小学校の教科書では、中京地区は何でも国内3位。
しかし、今や商工業のあらゆる分野で国内1位となり、国内最大の工業地帯となりました。

トヨタやホンダ、三菱やシャープなどの主力工場が地域を活性化、
昨秋のリーマンショックまでは空前の好景気でした。

日本が元気になるには、中京地区の復活が不可欠。
四日市の港に活気が戻ると、未曾有の大不況の出口も見えてくるのですが・・・

※1「潮吹き防波堤」

この防波堤の構造は、大堤・小堤の二重の堤防から成っており、
2つの堤防の間には溝が作られ、溝から港内へ抜ける排水口が大堤に作られています。

港外から来た波を、まず小堤で受けて勢いを弱め、
それを大堤で受け止め、海水を中間にある溝に貯めます。
その海水は、排水口を通って港内に吐き出される仕組みになっています。

昭和30年(1955)には埋立てられ、現在ではコスモ石油のタンクが写真のように建っており、
「潮吹き防波堤」は単なる岸になっております。

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