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2009年5月18日 (月)

天まで駆けよ!

少々古いお話になりますが、どうか御容赦を。

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5月5日はGW中唯一のお休みの日だったので、
毎年4・5日の両日に行われている多度大社の例祭に行ってきました。

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【御厨「小山」地区の方々】

期間中、大社の内外で数々の神事がとり行われますが、
中でも「上げ馬神事」は祭りの花形。

全国から多数の観光客と報道陣が押し寄せ、
境内は人で埋め尽くされると聞き、
人ごみは苦手なのですが、観覧場所を確保すべく、
養老鉄道に揺られて早めに現地入りしました。

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【花武者姿の乗り子】

桑名市の北西、多度町に鎮座する多度大社は、
五世紀後半、雄略天皇の御代に社殿が創建されたと伝えられる古社で、
「延喜式」神名帳にも、桑名郡十五座の中に「多度神社名神大」とあり、
いわゆる延喜名神大社の社格を誇る神社です。

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【弓取りの少年】

奈良時代末期の天平宝字7年(763)には、多度の神のご託宣を受けた満願禅師が、
多度菩薩を中心とした三重塔二基・法堂・僧房からなる神宮寺を建立、
後に国分寺に準ずる扱いをうけ、寺院70房・僧侶300余を数える大寺院となりました。

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【道化役】

しかし、元亀2年(1571)に織田信長の兵火により、
社殿・宝物殿をはじめ神宮寺の伽藍も焼失。

一時は荒れるに任せた状態となっていました。

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【境内に向う】

南北朝時代の暦応年間に始まったと伝えられる「上げ馬神事」も、
これ以降、約30年余り中断されることに。

その後、徳川家が天下を取り、太平の世を迎えると、
桑名藩主本多忠勝・忠政の支援により社殿も徐々に復興され、
中断されていた「上げ馬神事」も、この頃再開となったようです。

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【酒で馬具を清める馬喰役】

桑名藩主が松平家に替わった後も、多度大社は桑名の守護神として厚く崇敬され、
社殿の造営・社領の寄進が度々行なわれました。

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【緊張:馬場乗り(試走)前】

また、伊勢参宮の人々が、併せて此処にも参詣したために、
別名を北伊勢大神宮とも呼ばれるようになり、
「お伊勢参らば お多度もかけよ お多度かけねば片参り」と、
俗謡に歌われるほどに賑わったようです

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【精悍】

そもそも「上げ馬神事」は、武家・豪族が取り仕切る祭事でしたが、
信長の兵火による中断以降は、御厨(神饌を供える地区)の人々が奉納する行事となり、
以来、今日に至るまで連綿と続けられています。

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【多度大社境内】

現在、神事を奉納する御厨は7地区で、、
占いによって各地区から、神児1名・乗り子(騎手)6名が選ばれます。

騎手を出す6地区からは、祭馬が各地区3頭、合計18頭が準備され、
毎年入れ替わる花馬(その年最初に上げ馬を行う地区)の指示により、
祭りが進められて行きます。

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【馬場乗り①】

今年の花馬は戸津で、
その後は北猪飼・猪飼・力尾・多度・小山の順に上げ馬が行われました。

ちなみに、乗り子の衣裳は4日が陣笠裃姿、5日は花笠武者姿でした。

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【馬場乗り②】

「上げ馬神事」は、人馬が一体となって3mあまりの絶壁を駆け上がる勇壮な神事。

大変な危険を伴うことから、祭の奉仕者は神の御加護が得られるように、
昔ながらの精進・潔斎に努めなければならないのだそうです。

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【馬場乗り③】

乗り子を努めるのは16歳前後の少年達。

毎年、4月1日に神占いが行われ、
その結果選ばれた6名の乗り子は、すぐさま乗馬の練習を開始します。

たった3週間で馬を全力疾走させれるように乗りこなさなければならず、
朝の4時には起きて、毎日1時間以上の練習を続けるそうです。

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【神馬と神児】

その後、4月26日からは更に厳しい精進が待っています。

肉や加工した食べ物は駄目、そもそも、他人が作った物は駄目。

その為、食事は家族とは別に自分で作らなければならず、
米、魚、野菜が中心の食事で、学生の場合は弁当も自作です。

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【急勾配の果てに待ち構える絶壁】

寝具まで新調され、一切の穢れがつかないようにと精進しながら、
上げ馬までの約一ヶ月を過ごし、気持ちを高めてゆきます。

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【本番前①】

そして迎えた本番。

前日4日は、6地区が各2回、計12回上げ馬を行い、
その結果は、成功が力尾の2回と多度・小山の各1回。

成功の確立は4/12でありました。

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【本番前②】

そして、この日は6地区が各1回のみの挑戦となります。

乗り子と馬は一体となり、100m余りの馬場(助走路)を猛烈な勢いで駆け抜け、
境内に作られた急勾配を駆け上がり、最後は絶壁の上めがけてジャンプ!!

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【上げ馬①:えいっ!!】

花馬の戸津、見事成功しました。

境内は割れんばかりの拍手と喝采。

私はその雄姿を間近に見て、思わず泣きそうになってしまいました。

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【上げ馬②:失敗!!】

その後の4地区は続けて失敗。

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【上げ馬④:大丈夫か!?】

そして、最後の小山が成功し、今年の上げ馬が全て終了しました。

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【上げ馬⑤:どうか!?】

余りの迫力に、手ぶれ、ピンボケを連発。

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【上げ馬⑥:成功!!】

写真の成果はイマイチでしたが、
祭りの熱気で、心地よい高揚感に浸ることが出来ました。

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【神輿①】

上げ馬が終わると、境内では「楠廻り」という行事が執り行われ、
その後、神社より担ぎ出された神輿とともに、
乗り子と馬、御厨の人々は須賀の馬場(2.5km南東の御旅所)向かいます。

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【神輿②】

行列が須賀の馬場に到着後、そこで流鏑馬等の神事が行なわれ、
終了後、再び神輿が神社に戻れば例祭は全て終了となります。

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【結束】

残念ながらタイムリミットで須賀の馬場までは行けず、
途中の多度駅から帰路に着きました。

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【神輿渡御の稚児行列】

多度の「上げ馬神事」では、古くは農作の時期や豊凶、
最近では景気の好不況などが占われています。

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【馬を労う:多度大社宮司】

馬が上がるか、上がらないか。
それは、きっと時の運。

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【ご苦労さん♪】

そんな事より、御厨の人々が大変な労力でこの祭りを支え、
地域が一丸となり伝統を守っていることこそ、
価値ある事なのだと思いました。

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2009年5月 8日 (金)

勢州の城下町

今回は松阪のお話。

松阪市は三重県のほぼ中央に位置し、
東は伊勢湾、西は台高山脈と高見山地を境に奈良県に、
南は多気郡、北は雲出川を隔てて津市に接しています。

平成17年の国勢調査によると、松阪市の総人口は168,973人で、
県下では4番目の人口規模。

特産品の松阪牛は、日本国内は勿論、世界中にその名が知られています。

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【創業明治35年・松阪牛の「牛銀」本店】

しかし、なにぶん単独でのブラブラ散歩。

下戸のおっさんが一人ぽつんと、
ビールも飲まず、すき焼きを黙々と食っている図は、
なんだか格好悪くて気が引けたので、今回は体験記はナシ。

松坂牛は又の機会、家族と来たときにでもレポートしたいと思います。

ということで、今回も相変わらずの歴史散策にお付き合い下さい。

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【松阪城址石垣①】

松阪市の中心市街の歴史は400年以上前の、
蒲生氏郷(がもううじさと)による松阪城築城に始まります。

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【松阪城址石垣②】

天正12年(1584)、氏郷が豊臣秀吉の命を受け最初に入城したのは、
現在の市街地の北方にあった平城・松ヶ島城でした。

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【松阪城址石垣③】

しかし、城下が手狭だった松ヶ島城を嫌った氏郷は、
飯高郡矢川庄(当時)にあった独立丘陵に目をつけ、その地に新城の建設を計画。

突貫工事で天正16年(1588)に完成させた平山城が現在の松阪城です。

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【松阪城址石垣④】

本丸、二の丸、三の丸、きたい丸、隠居丸、出丸といった郭の構成で、
本丸、二の丸、きたい丸、隠居丸は高い石垣、三の丸には土塁が築かれました。

天守台は中央よりやや西寄りあり、此処に三層の天守がそびえ、
それをとり巻いてそれぞれの郭に敵見、金の間、月見等の櫓が配されていました。

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【石垣上の緑】

氏郷が会津若松に移封になった後は、
天正19年(1591)に服部一忠、文禄4年(1595)には古田重勝が城主となりました。

その後、元和5年(1619)に松阪藩は廃藩となり、
以降、領地は紀州藩領に組み入れられ、
松阪城には勢州領18万5千石を統轄する城代が置かれました。

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【天守閣跡】

紀州藩領下の松阪城に関しては、江戸時代前期の史料に、
正保元年(1644)の台風のため、天守が倒壊という記述が残っています。

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【武家長屋「御城番屋敷」】

高い石垣と三層の天守を持つ築城当時の姿は、
さぞ壮観であっただろうと思われますが、
台風で天守は崩れ、その後の失火で郭群が消失、
残った城門なども明治初めに取り壊されてしまいました。

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【松阪城址の藤】

そして、明治14年(1881)には、現在へとつながる城跡公園として整備され、
往時の姿を留めるのは、壮大な石垣のみとなっています。

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【松阪城址より市内を望む】

その城址公園の一角にあるのが、松阪出身の偉大なる学者・本居宣長の記念館。

隣地には旧宅も移築され、一般に公開されています。

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【本居宣長旧宅】

本居宣長(幼名・小津富之助)は享保15年(1730)、
父・小津三四右衛門定利と母・勝の間に生まれました。

小津家は宣長から4代前の七右衛門の頃に江戸店もちの木綿商となった、
松阪・小津党の中でも最も有力な商家の一つでした。

松阪は江戸時代、「松阪商人」を輩出した商業の町でもあったのです。

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【土間:本居宣長旧宅】

しかし、宣長が家督を継ぐころには店も窮地に陥り破産寸前。
このため、宣長の将来を案じた母・勝は宣長を医師にする決心をします。

母の志を受けた宣長は23歳のとき京都へ上り、
28歳までの5年半の間に医学を修めるかたわら、
日本の古典文学についても勉強しました。

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【座敷:本居宣長旧宅】

姓を本居、名を宣長、字を春庵と改めたのもこのころで、
後年の業績の基礎はこの時期に築かれたといわれています。

宣長の業績については、「古事記伝」に代表される古事記研究や、
「源氏物語玉の小櫛」などの古典文学研究が有名ですが、
かく云う私自身は、敷居が高過ぎて解説書すら読んだ事がありません・・・。

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【「鈴屋」(2F書斎):本居宣長旧宅】

本居宣長旧宅は、彼が12歳から72歳で没するまで60年間を暮らした屋敷で、
明治42年(1909)に魚町(松阪市内中心部)から、保存のため現在地に移築されました。

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【魚町の本居宣長宅跡】

宣長が生まれ育った小津家のような「松阪商人」の始まりも、
蒲生氏郷の松阪城築城に遡る事が出来ます。

氏郷は築城と同時進行で、城下町の建設も積極的に取り組み、
城付近の大手町には松ヶ島城下の家蔵方を移住させ、
町の中央には近江日野の商人を、湊町には伊勢大湊の豪商を呼び寄せました。

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【資料館「松阪商人の館」】

これらの商人が商ったのが「松阪木綿」と呼ばれる綿織物。

松阪近郊を流れる櫛田川下流のデルタ地帯では、
古代より伊勢神宮奉納の神御衣を織る技術が伝承されており、
その織物技術の基盤の上に中世末以降はに綿花栽培が普及し、
当地は綿布の産地となっていました。

色褪せせず丈夫であった松阪木綿は、伊勢神宮参宮客によって全国に宣伝され、
また紀州藩の財源として保護奨励を受け、大ヒット商品となりました。

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【縁側:松阪商人の館】

その松阪木綿を江戸で売りさばいていたのが「松阪商人」です。

宣長の小津家や長谷川家など数々の豪商がいましたが、
その出世頭といえるのは、丸に井桁の三井家ではないでしょうか。

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【土間:松阪商人の館】

創業者・三井高利は寛文13年(1673)に江戸に初進出。(屋号は越後屋、現在の三越)

現金掛け値なし、反物切り売りなど、当時としてはモダンな商い手法を導入して繁盛し、
その資金で京都で両替商も開業、これが後世の三井家の事業の柱となってゆきます。

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【箱階段:松阪商人の館】

初代高利の死後、その遺産は子供たちの共有とされ、
三井一族の統括機関である「三井大元方」が設立されます。

三井家は「三井家憲」の下に固い結束を誇り、
この体制は幕末の激流をも乗り越え明治以降も連綿と続いてゆきます。

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【座敷:松阪商人の館】

太平洋戦争後の昭和22年(1947)の財閥解体を契機に、
同族支配による多角経営を特徴とする形態は解消となり、
現在の企業連合体としての三井グループが形作られました。

松阪城の東、市内中心部を流れる阪内川の南方に「三井家発祥の地」が今も残っていますが、
残念ながら内部は公開されていませんでした。

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【庭:松阪商人の館】

その代わりという訳ではないのでしょうが、「三井家発祥の地」から100m程のところに、
資料館「松阪商人の館」として、小津清左衛門の屋敷が公開されています。

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【凧:資料館「まどいのやかた見庵」】

太い柱と梁に支えられた広大な屋敷は風格十分。

三井家と当時の富豪番付で争ったと云われる小津家の繁栄を、
肌で感じられる施設でした。

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【資料館「まどいのやかた見庵」】

初めて訪れた松阪。

今でも城下町の面影を色濃く残した街並みは風情たっぷりで、
一人ブラブラ散歩しているだけで、本当に落ち着いた気分になれました。

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【松阪市内・松名瀬海岸付近】

また、街ぐるみで観光には力を入れているようで、
近鉄松阪駅前にある観光案内所には、市内マップや資料が充実していて、
訪れる人に大変親切な街であるという印象を受けました。

歴史があり、見所がいっぱいの松阪。
また、ふらっと行きたくなる、そんな街でした。

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2009年5月 3日 (日)

47番目の宿場

ご無沙汰しています。

更新の頻度が月イチと悪くなっておりますが、
よろしければお付き合い下さい。

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先月28日のお話。
三重県亀山市に行ってきました。

現在の亀山市は、某家電メーカーの「亀山モデル」が全国に知られているように、
どちらかというと新興工業地域というイメージですが、
元来は宿場町として大いに栄えた地域でした。

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【東海道47番目の宿駅「関宿」】

江戸期、現在の亀山市域には東海道46番目の宿場・亀山宿と、
47番目の宿場・関宿が置かれていました。

中でも関宿は東海道と伊勢別街道の分岐点にあたり、
参勤交代の大名行列やお伊勢参りの旅人で大変賑わいました。

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【関宿:中町付近】

東海道の宿場町の殆どが旧態をとどめていない中にあって、
関宿は江戸時代から明治初期に建てられた古い町屋が200軒以上現存しており、
往時の姿を色濃く残す地域として、毎年多くの歴史ファンが訪れています。

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【関宿:「旅人宿 石垣屋」】

関宿の範囲は東追分(ひがしのおいわけ)から西追分(にしのおいわけ)までの約1.8kmの区間。

この区間は、昭和59年(1984)には旧文部省から「重要伝統的建造物群保存地域」に、
また、昭和61年(1986)には旧建設省から「日本の道百選」にそれぞれ選定されており、
歴史的景観保護に力点を置いた町づくりが官民一体となって行われています。

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【関宿:木崎の町並み】

鈴鹿山脈の南山麓に位置する「関」が歴史に登場するのは、
7世紀に「鈴鹿の関」がこの地に置かれて以来のことです。

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【関宿:中町付近】

「鈴鹿の関」は、岐阜県の「不破関」(ふわのせき)、
福井県の「愛発関」(あらちのせき)とともに、
古代律令制で定められた「律令三関」(りつりょうさんげん)の1つで、
「関」という地名もそこから来たものだと思われます。

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【関まちなみ資料館】

「鈴鹿関」の設置年代は不明ですが、「日本書紀」にもその記述が認められ、
古代から畿内防衛の要衝として、重要な地域であったようです。

その後、慶長6年(1601)に徳川幕府が宿駅の制度を定めてからは、
先述したように、東海道屈指の宿場として大いに賑わいました。

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【関まちなみ資料館:土間】

天保14年(1843)の記録には、屋敷が632軒、本陣2軒、脇本陣2軒、
その他にも、旅籠が42軒、酒食店は99軒あったと記されています。

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【関まちなみ資料館:明治初期の自転車】

関宿の東口は東追分と呼ばれ、ここから東海道と伊勢別街道が分岐していました。

写真の鳥居は伊勢神宮を遙拝するためのもので、
20年に1度の伊勢神宮式年遷宮の際には、
内宮の宇治橋南詰の鳥居を移設するのが習わしとなっています。

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【東追分の鳥居】

鳥居の近くには、「これよりいせへ」「外宮まで15里」と刻まれた石の道標、
また、その脇にはお伊勢参りの旅人や大名行列を照らした常夜灯があり、
当時のままの姿で現代の旅人を迎えてくれます。

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【関神社】

東追分から街道を西へ進み、北へ少し入ったところには関神社があります。

7月下旬の二日間に執り行われる関神社の祭礼では、
絢爛豪華な曳山が町内を練り歩きます。

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【関まちなみ資料館:関神社曳山の見送り幕】

曳山は江戸期には16台あったそうですが、今でも4台が現役で活躍しています。

現在使われている「これ以上望めない」という意味の「関の山」という言葉は、
当地の曳山が余りに立派であったことから生まれた言葉だそうです。

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【関宿旅籠玉屋歴史資料館:講札】

関神社から街道へ戻り西へ進むと、
関宿屈指の旅籠であった「玉屋」の建物があります。

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【関宿旅籠玉屋歴史資料館:離れの座敷】

建物自体は亀山市の重要文化財として修復・保存され、
内部は日本初の旅籠資料館「関宿旅籠玉屋歴史資料館」として公開されています。

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【関宿旅籠玉屋歴史資料館:客室】

旅籠で使われていた調度品や道具の数々、庶民の旅に関係する歴史資料、
歌川広重の浮世絵などが豊富に展示されていました。

当時のままの貴重な資料から、江戸期の旅の様子を覗い知る事が出来ました。

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【関宿旅籠玉屋歴史資料館:店の間から見た旧東海道】

宿場のほぼ中央には、親しみを込めて「関の地蔵さん」と呼ばれる、
西国愛染十七霊場第10番札所「地蔵院」があります。

行基上人が、天平13年(741)に諸国に流行した天然痘から人々を救うため、
当地にお地蔵様を刻んで安置されたのが開基だと伝えられています。

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【地蔵院本堂】

日本最古と言われる地蔵菩薩坐像は、
「関の地蔵に振袖着せて 奈良の大仏婿に取ろ」
と歌われたほど、地元の人々から愛されているお地藏様です。

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【地蔵院本堂の額】

東追分から入ると、宿場の終点は西追分。
ここからは、東海道と大和・伊賀街道が分岐していました。

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【西追分】

大和・伊賀街道は鈴鹿峠を越え、伊賀上野を通り奈良に至る道。
奈良に向かう旅人は、西追分から鈴鹿峠を見上げ、
この先の道の険しさを想い、当地で身体を休めたことでしょう。

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【燕】

今回紹介したスポットの他にも、宿場内には見所がいっぱい。

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【和菓子の老舗「深川屋」】

資料好きの方には、先程紹介した「関宿旅籠玉屋歴史資料館」の他にも、
伝統的な町屋を保存公開している「関まちなみ資料館」があります。

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【ナガオ薬局跡「ギャラリー綾羽」】

また、その他にも創業370年を数える和菓子の老舗「深川屋」や、
築195年の薬局を改造したカフェ&アンティークの「ギャラリー綾羽」など、
女性に人気のスポットも多数。

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【関のお婆さん】

テーマパーク的な「町並み保存」ではなく、そこに人の暮らしを残しながら、
歴史的景観を維持してゆくのは、さぞや大変だろうと思います。

地元の方々の見識とご苦労に敬意を表したいと思います。

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