« 鎌倉倒幕の英雄 その1 | トップページ | だんじりパレード »

2008年9月24日 (水)

鎌倉倒幕の英雄 その2

(前回からの続き)

************************************************************************************************

「建武の新政」は表面上は復古的でしたが、
後醍醐天皇が目指したものは先進国・中国を模した天皇専制。

しかしながら、約150年も政権から離れていた天皇家がすぐさま舵を切れるほど、
国内の政治・経済の状況は単純ではありませんでした。

T_imgp7947
【新田義重を追善供養する義重山新田寺大光院本堂:太田市金山町】

朝令暮改を繰り返す法令や政策、貴族・大寺社から武士にいたる広範な勢力の既得権の侵害、
もっぱら増税を財源とする大内裏建設計画や紙幣発行計画等の非現実的な経済政策など、
その施策の大半が政権批判へと繋がってゆきます。

T_imgp7949
【新田寺大光院開山堂】

倒幕の論功行賞も出たら目で、皇族や側近の公家に厚く、
現場で血を流した武家には冷たいものでした。

武士勢力の不満が大きかっただけでなく、公家達の多くは政権に冷ややかな態度をとり、
また有名な「二条河原の落書」にみられるように、その無能ぶりは厳しく批判され、
瞬く間に後醍醐天皇の権威は失墜してしまいました。

不満を募らせた武士達は、鎌倉倒幕の立役者とも云える義貞ではなく、
その頃、建武政権とは距離を置き、東国・鎌倉にあった尊氏の方に集結してゆきます。

T_imgp7955
【新田義貞を追善供養する太田山義貞院金龍寺の参道石段】

したたかな現実主義者が多い武将達は、
同じ清和源氏ならネームバリューがある足利家に付く方を選択したのでした。
 
当然、本来は嫡流である義貞としては面白いはずはなく、
次第に尊氏と対立を深めるようになり、
ついには敵として戦場で相まみえるようになります。

T_imgp7965
【太田山義貞院金龍寺本堂:太田市金山町】

建武2年(1335)、尊氏は義貞を君側の奸であるとして、
後醍醐天皇にその討伐を上奏しますが、
天皇は逆に義貞に、武家政権樹立の意思を見せ始めた尊氏討伐を命じます。

新田軍と足利軍の戦いは、勝ったり負けたり。

三河では新田軍が足利軍を破り、そのまま関東に攻め入りますが、
箱根・竹の塚の戦いでは敗れ、京都に逃げ帰ります。

京都では、遠路駆けつけた北畠顕家らと共に、
攻め寄せる足利軍を京都市街に引き込みさんざんに打ち破り、
尊氏は九州に命からがら逃げ込んでいます。

T_imgp9055
【太田山義貞院金龍寺本堂】

ここで、すぐさま足利軍掃討に出ればよいものを、
義貞は京都でぐずぐずしているうちに追撃の好機を逃すことになります。

その理由は、天皇の宮中に仕えていた勾当内侍という女性をもらい受け、
これを溺愛してしまったからだということです。

T_imgp7964_2
【金龍寺本堂裏にある義貞供養五輪塔】

やっとこさ足利軍討伐に出た新田軍は、九州へ向かう途上、
赤松円心が篭城する赤穂・白旗城を攻めあぐね、またまた時間のロス。

その間に九州で勢力を立て直した足利軍は、再び京都に攻め上ってきます。

これを迎え撃ったのが名高い「湊川の合戦」です。

T_imgp8030
【新田義貞以前の4代の墓が残る御室山円福寺:太田市別所町】

ここで新田軍は、足利軍の囮作戦にまんまとひっかかり退却→敗走。
孤立した楠木正成は最後まで勇戦し、討ち死にしています。

その後、義貞は北陸に逃げ落ち、再起を図りますが、
最後は北陸藤島(福井県)で、自ら先頭に立った偵察行動の中で敵の大軍と出くわし、
戦闘の末、泥田の中で討ち取られ37年の生涯を終えています。

生品神社の境内で、わずか150騎で鎌倉倒幕の兵を挙げてから、たった5年2ヶ月後のことでした。

義貞はその間、故郷の新田荘に一度も帰ることはありませんでした。

T_imgp8028
【新田氏累代墓所の碑】

長々と新田義貞の足跡をたどってきましが、
その殆どが中世の軍記物語「太平記」が元となったもの。

義貞の評価が低い根本の原因は、この「太平記」の人物描写によるものだと思われます。

女に溺れて敵に復活の機会を与え、湊川の戦いでは楠正成を見捨ててトンズラ、
トップにあるまじき無茶な偵察行動であえなく命を落とすなど、
その記述は明らかに無能なイメージが強調されています。

T_imgp7816
【東毛歴史資料館:太田市尾島町】

しかし、たった15日という短期間で鎌倉を陥落させ、
圧倒的な実力差があった尊氏を一時的にせよ撃破した実力は相当なもの。
決して愚将であっては成し遂げられない功績だと思えます。

知略に富んだゲリラ戦を駆使する名将として描かれる楠木正成や、
傘下の武将達に慕われる寛大な大人物として描かれる足利尊氏の引き立て役として、
太平記の作者によって意図的にキャラクター付けされたことが新田義貞の最大の悲劇でありました。

読み物としてはその方が面白いのでしょうが・・・

T_imgp9040
【キバナコスモス:尾島町歴史公園】

また、戦前の一時期、皇国史観が幅を利かせていた時代には、
後醍醐天皇に弓を引いた足利尊氏は逆賊、
それとの対比で、新田義貞を英雄扱いする風潮がありました。

しかし、戦後、皇国史観が見直されるなかで尊氏の再評価が始まると、
反動として、義貞の評価が下がってしまったという事があったかもしれません。

T_imgp8770
【新田義貞像:尾島町歴史公園】

新田義貞。法名:源光院殿義貞覺阿彌陀佛尊位。

不遇な名門に生まれ、存命中は武家・天皇家・公家、三つ巴の時代背景に翻弄され、
また、死後は一軍記物語に過ぎない「太平記」の記述に翻弄され、
また、戦前~戦後においては日本人の価値感の大転換に翻弄された悲運の武将。

なんとも、気の毒な人物といえるのではないでしょうか。

にほんブログ村 写真ブログへ にほんブログ村 写真ブログ 建物・街写真へ
最後までお付き合いいただき、有り難うございます。
ランキング参加中につき、宜しければクリックください。

|

« 鎌倉倒幕の英雄 その1 | トップページ | だんじりパレード »

コメント

ブログ復活おめでとうございます!
いやー良かった良かった、今までの記事もちゃんと残ってますね♪
関東の歴史にはとても興味があります、特に群馬・茨城は武士のふるさと。
関西とはまったくちがう背景ですよね♪
高校のころ英文科へいくか社会学部に行って比較文化をやるか、すごく迷いました。
結果的には前者を選んでしまったのですが、今になって後者みたいなことばかりやっています♪

投稿: きょんち | 2008年10月23日 (木) 21時08分

きょんちさん
有難うございます。
中世以降の武家社会にはあまり興味が無かったのですが、
やはり東国に来て武家文化に触れる機会が増えると興味が沸いてきます。

また、ボチボチ更新してゆきますので、宜しくお願いします。

投稿: yufuki | 2008年10月24日 (金) 21時28分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 鎌倉倒幕の英雄 その2:

« 鎌倉倒幕の英雄 その1 | トップページ | だんじりパレード »