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2008年9月23日 (火)

鎌倉倒幕の英雄 その1

久方ぶりの更新です。

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群馬県太田市の尾島町~新田町周辺は、
12世紀中頃、源氏の嫡流である新田氏が開発した新田荘が基になり開けた街です。

現在も新田氏やその系譜にある武士達が残した足跡が数多く残っており、
新田荘園遺跡として平成12年に国の史跡に指定されています。

この史跡は太田市内に広く点在する中世の遺跡群を、
荘園遺跡として面で捕らえ国史指定している、全国的にも珍しい例となっています。

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【上毛かるた】

群馬県には昭和22年(1947)に作られた「上毛かるた」という、
小学生に郷土の歴史や物産を伝える教育カルタが普及しています。

現在でも冬になると、小学校を中心に子供の居住地域ごとにカルタ大会が行われ、
勝ち上がると、大々的に行なわれる県大会に出場することが出来ます。

その「上毛かるた」では、「れ」といえば「歴史に名高い新田義貞」と詠まれており、
このフレーズは群馬県育ちの人ならば、誇張ではなく、ホントに誰でも諳んじられるのです。

その甲斐あってか、新田義貞は鎌倉倒幕に尽力した名将として大変人気ががあり、
地元ののヒーローとなっています。

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【新田義貞誕生伝説地「台源氏館跡」 :太田市由良町字北庄】

しかし、正直言って地元以外でのこの武将の評価は高いとはいえません。
足利尊氏のライバルであったが、ついに尊氏に勝てなかった武将という印象が強いように思います。

私も正直、学校の歴史の教科書で習った記憶はありますが、
同じ南朝方の知将・楠正成の活躍に霞んで、地味な印象しか残っていませんでした。

しかし、実際に天然の要害都市・鎌倉を短期間で一気に攻め落としたのは新田義貞。

群馬の地に来る事がなければ、気にかけることもなかったと思いますが、
その故地を訪れてみると、なんだか気の毒になってきました。

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【新田氏総領の館跡に建つ総持寺:太田市尾島町】

新田氏の歴史は、八幡太郎源義家の子・源義国の長男・義重がこの地に移り、
新田姓を名乗ったことから始まります。

また、義国の次男の義康は、足利(栃木県足利市)に移り足利姓を名乗ります。

元をたどれば新田氏も足利氏も清和源氏の直系・源義国ということなのですが、
後の鎌倉政権下では、傍流の足利氏が有力御家人として重用されたのに対して、
本来嫡流である新田氏は、地方武士の扱いを受けることとなります。

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【総門から総持寺境内】

治承4年(1180)に「以仁王の令旨」を受け、源頼朝が平家討伐を果たそうと伊豆で挙兵しますが、
この時点ではまだ新田義重は平家に服属していました。

そのため、義重は頼朝を討つと称して領国に帰り兵を集めますが、
実際は頼朝と戦う意思はなく、かといって従属するでもなく、
立場を明確にせず情勢を窺っていました。

そして北関東での頼朝の優位が確立した同年の12月になって初めて鎌倉に参陣、
義重は、その日和見的姿勢を頼朝から叱責されることになります。

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【新田義重の子・徳川義季(徳川将軍家の遠祖)が創建した長楽寺】

また、頼朝が義重の娘を側室にしようとした際には、
北条政子の怒りを恐れて応じず、またまた、頼朝の怒りを買うことに。

こうした経緯から、義重は頼朝から冷遇される破目になりました。

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【長楽寺:太田市尾島町】

一方、先祖を同じくする足利氏は、執権家の北条氏と代々縁戚関係を結びながら、
着実に勢力を伸ばし、鎌倉政権下でも有数の実力者となってゆきました。

T_imgp7859【新田氏居城・反町館の土塁跡:太田市新田反町町】

源氏の嫡流である新田氏は没落してしまい、
傍流の足利氏は北条氏と結びつくことによりますます栄える。

栄えた足利氏は全国にその一族の輪を広げ、
没落した新田氏は狭い範囲に一族が固まり土着する。

新田義重から数えて7代目の新田義貞と、同じく足利義康の7代目足利尊氏には、
その人生のスタートから一族の力の差というハンディキャップが存在していました。

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【反町館跡に建つ照明寺(反町薬師)本堂前】

そして、世は戦乱の時代に突入してゆきます。

元弘元年(1331)の「元弘の変」に敗れ、隠岐に流されていた後醍醐天皇は、
その2年後の元弘3年(1333)には隠岐を脱出し、再び幕府打倒の狼煙を上げます。

それに呼応した河内の悪党(反幕府勢力)・楠木正成は千早城に篭城しゲリラ戦を展開、
1000人足らずの兵で100日間に及ぶ篭城戦を戦い抜き、100万と云われる幕府軍を撤退させます。

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【新田義貞居挙兵の地・生品神社境内:太田市新田市野井町】

正成の奮戦により権威の失墜した幕府に対して、
京都では足利尊氏が、そして東国では新田義貞が次々に挙兵。

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【生品神社・新田義貞挙兵伝説地】

京都に攻め上った足利軍は六波羅探題を攻め落とし、
一方の新田軍も幕府軍と数次の合戦を繰り広げながら鎌倉に攻め寄せ、
たった15日で鎌倉を攻め落とし、執権・北条高時を自害に追いやります。

こうして武家政権は倒れ、新しい時代「建武の新政」が始まりました。

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【新田義貞が軍旗を掲げたと伝えられるクヌギ:生品神社境内】

鎌倉攻めの功により、新田義貞は建武政権から左兵衛督に任ぜられます。

この時、義貞34歳。
僅か150騎の手勢で、故郷の生品神社を発ってから1ヶ月後のことでした。

ついに武者所の長となった義貞は、人生の絶頂期を迎えますが
それはほんの束の間のことでした。

(次回に続く)

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