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2008年9月24日 (水)

鎌倉倒幕の英雄 その2

(前回からの続き)

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「建武の新政」は表面上は復古的でしたが、
後醍醐天皇が目指したものは先進国・中国を模した天皇専制。

しかしながら、約150年も政権から離れていた天皇家がすぐさま舵を切れるほど、
国内の政治・経済の状況は単純ではありませんでした。

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【新田義重を追善供養する義重山新田寺大光院本堂:太田市金山町】

朝令暮改を繰り返す法令や政策、貴族・大寺社から武士にいたる広範な勢力の既得権の侵害、
もっぱら増税を財源とする大内裏建設計画や紙幣発行計画等の非現実的な経済政策など、
その施策の大半が政権批判へと繋がってゆきます。

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【新田寺大光院開山堂】

倒幕の論功行賞も出たら目で、皇族や側近の公家に厚く、
現場で血を流した武家には冷たいものでした。

武士勢力の不満が大きかっただけでなく、公家達の多くは政権に冷ややかな態度をとり、
また有名な「二条河原の落書」にみられるように、その無能ぶりは厳しく批判され、
瞬く間に後醍醐天皇の権威は失墜してしまいました。

不満を募らせた武士達は、鎌倉倒幕の立役者とも云える義貞ではなく、
その頃、建武政権とは距離を置き、東国・鎌倉にあった尊氏の方に集結してゆきます。

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【新田義貞を追善供養する太田山義貞院金龍寺の参道石段】

したたかな現実主義者が多い武将達は、
同じ清和源氏ならネームバリューがある足利家に付く方を選択したのでした。
 
当然、本来は嫡流である義貞としては面白いはずはなく、
次第に尊氏と対立を深めるようになり、
ついには敵として戦場で相まみえるようになります。

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【太田山義貞院金龍寺本堂:太田市金山町】

建武2年(1335)、尊氏は義貞を君側の奸であるとして、
後醍醐天皇にその討伐を上奏しますが、
天皇は逆に義貞に、武家政権樹立の意思を見せ始めた尊氏討伐を命じます。

新田軍と足利軍の戦いは、勝ったり負けたり。

三河では新田軍が足利軍を破り、そのまま関東に攻め入りますが、
箱根・竹の塚の戦いでは敗れ、京都に逃げ帰ります。

京都では、遠路駆けつけた北畠顕家らと共に、
攻め寄せる足利軍を京都市街に引き込みさんざんに打ち破り、
尊氏は九州に命からがら逃げ込んでいます。

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【太田山義貞院金龍寺本堂】

ここで、すぐさま足利軍掃討に出ればよいものを、
義貞は京都でぐずぐずしているうちに追撃の好機を逃すことになります。

その理由は、天皇の宮中に仕えていた勾当内侍という女性をもらい受け、
これを溺愛してしまったからだということです。

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【金龍寺本堂裏にある義貞供養五輪塔】

やっとこさ足利軍討伐に出た新田軍は、九州へ向かう途上、
赤松円心が篭城する赤穂・白旗城を攻めあぐね、またまた時間のロス。

その間に九州で勢力を立て直した足利軍は、再び京都に攻め上ってきます。

これを迎え撃ったのが名高い「湊川の合戦」です。

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【新田義貞以前の4代の墓が残る御室山円福寺:太田市別所町】

ここで新田軍は、足利軍の囮作戦にまんまとひっかかり退却→敗走。
孤立した楠木正成は最後まで勇戦し、討ち死にしています。

その後、義貞は北陸に逃げ落ち、再起を図りますが、
最後は北陸藤島(福井県)で、自ら先頭に立った偵察行動の中で敵の大軍と出くわし、
戦闘の末、泥田の中で討ち取られ37年の生涯を終えています。

生品神社の境内で、わずか150騎で鎌倉倒幕の兵を挙げてから、たった5年2ヶ月後のことでした。

義貞はその間、故郷の新田荘に一度も帰ることはありませんでした。

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【新田氏累代墓所の碑】

長々と新田義貞の足跡をたどってきましが、
その殆どが中世の軍記物語「太平記」が元となったもの。

義貞の評価が低い根本の原因は、この「太平記」の人物描写によるものだと思われます。

女に溺れて敵に復活の機会を与え、湊川の戦いでは楠正成を見捨ててトンズラ、
トップにあるまじき無茶な偵察行動であえなく命を落とすなど、
その記述は明らかに無能なイメージが強調されています。

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【東毛歴史資料館:太田市尾島町】

しかし、たった15日という短期間で鎌倉を陥落させ、
圧倒的な実力差があった尊氏を一時的にせよ撃破した実力は相当なもの。
決して愚将であっては成し遂げられない功績だと思えます。

知略に富んだゲリラ戦を駆使する名将として描かれる楠木正成や、
傘下の武将達に慕われる寛大な大人物として描かれる足利尊氏の引き立て役として、
太平記の作者によって意図的にキャラクター付けされたことが新田義貞の最大の悲劇でありました。

読み物としてはその方が面白いのでしょうが・・・

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【キバナコスモス:尾島町歴史公園】

また、戦前の一時期、皇国史観が幅を利かせていた時代には、
後醍醐天皇に弓を引いた足利尊氏は逆賊、
それとの対比で、新田義貞を英雄扱いする風潮がありました。

しかし、戦後、皇国史観が見直されるなかで尊氏の再評価が始まると、
反動として、義貞の評価が下がってしまったという事があったかもしれません。

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【新田義貞像:尾島町歴史公園】

新田義貞。法名:源光院殿義貞覺阿彌陀佛尊位。

不遇な名門に生まれ、存命中は武家・天皇家・公家、三つ巴の時代背景に翻弄され、
また、死後は一軍記物語に過ぎない「太平記」の記述に翻弄され、
また、戦前~戦後においては日本人の価値感の大転換に翻弄された悲運の武将。

なんとも、気の毒な人物といえるのではないでしょうか。

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2008年9月23日 (火)

鎌倉倒幕の英雄 その1

久方ぶりの更新です。

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群馬県太田市の尾島町~新田町周辺は、
12世紀中頃、源氏の嫡流である新田氏が開発した新田荘が基になり開けた街です。

現在も新田氏やその系譜にある武士達が残した足跡が数多く残っており、
新田荘園遺跡として平成12年に国の史跡に指定されています。

この史跡は太田市内に広く点在する中世の遺跡群を、
荘園遺跡として面で捕らえ国史指定している、全国的にも珍しい例となっています。

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【上毛かるた】

群馬県には昭和22年(1947)に作られた「上毛かるた」という、
小学生に郷土の歴史や物産を伝える教育カルタが普及しています。

現在でも冬になると、小学校を中心に子供の居住地域ごとにカルタ大会が行われ、
勝ち上がると、大々的に行なわれる県大会に出場することが出来ます。

その「上毛かるた」では、「れ」といえば「歴史に名高い新田義貞」と詠まれており、
このフレーズは群馬県育ちの人ならば、誇張ではなく、ホントに誰でも諳んじられるのです。

その甲斐あってか、新田義貞は鎌倉倒幕に尽力した名将として大変人気ががあり、
地元ののヒーローとなっています。

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【新田義貞誕生伝説地「台源氏館跡」 :太田市由良町字北庄】

しかし、正直言って地元以外でのこの武将の評価は高いとはいえません。
足利尊氏のライバルであったが、ついに尊氏に勝てなかった武将という印象が強いように思います。

私も正直、学校の歴史の教科書で習った記憶はありますが、
同じ南朝方の知将・楠正成の活躍に霞んで、地味な印象しか残っていませんでした。

しかし、実際に天然の要害都市・鎌倉を短期間で一気に攻め落としたのは新田義貞。

群馬の地に来る事がなければ、気にかけることもなかったと思いますが、
その故地を訪れてみると、なんだか気の毒になってきました。

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【新田氏総領の館跡に建つ総持寺:太田市尾島町】

新田氏の歴史は、八幡太郎源義家の子・源義国の長男・義重がこの地に移り、
新田姓を名乗ったことから始まります。

また、義国の次男の義康は、足利(栃木県足利市)に移り足利姓を名乗ります。

元をたどれば新田氏も足利氏も清和源氏の直系・源義国ということなのですが、
後の鎌倉政権下では、傍流の足利氏が有力御家人として重用されたのに対して、
本来嫡流である新田氏は、地方武士の扱いを受けることとなります。

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【総門から総持寺境内】

治承4年(1180)に「以仁王の令旨」を受け、源頼朝が平家討伐を果たそうと伊豆で挙兵しますが、
この時点ではまだ新田義重は平家に服属していました。

そのため、義重は頼朝を討つと称して領国に帰り兵を集めますが、
実際は頼朝と戦う意思はなく、かといって従属するでもなく、
立場を明確にせず情勢を窺っていました。

そして北関東での頼朝の優位が確立した同年の12月になって初めて鎌倉に参陣、
義重は、その日和見的姿勢を頼朝から叱責されることになります。

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【新田義重の子・徳川義季(徳川将軍家の遠祖)が創建した長楽寺】

また、頼朝が義重の娘を側室にしようとした際には、
北条政子の怒りを恐れて応じず、またまた、頼朝の怒りを買うことに。

こうした経緯から、義重は頼朝から冷遇される破目になりました。

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【長楽寺:太田市尾島町】

一方、先祖を同じくする足利氏は、執権家の北条氏と代々縁戚関係を結びながら、
着実に勢力を伸ばし、鎌倉政権下でも有数の実力者となってゆきました。

T_imgp7859【新田氏居城・反町館の土塁跡:太田市新田反町町】

源氏の嫡流である新田氏は没落してしまい、
傍流の足利氏は北条氏と結びつくことによりますます栄える。

栄えた足利氏は全国にその一族の輪を広げ、
没落した新田氏は狭い範囲に一族が固まり土着する。

新田義重から数えて7代目の新田義貞と、同じく足利義康の7代目足利尊氏には、
その人生のスタートから一族の力の差というハンディキャップが存在していました。

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【反町館跡に建つ照明寺(反町薬師)本堂前】

そして、世は戦乱の時代に突入してゆきます。

元弘元年(1331)の「元弘の変」に敗れ、隠岐に流されていた後醍醐天皇は、
その2年後の元弘3年(1333)には隠岐を脱出し、再び幕府打倒の狼煙を上げます。

それに呼応した河内の悪党(反幕府勢力)・楠木正成は千早城に篭城しゲリラ戦を展開、
1000人足らずの兵で100日間に及ぶ篭城戦を戦い抜き、100万と云われる幕府軍を撤退させます。

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【新田義貞居挙兵の地・生品神社境内:太田市新田市野井町】

正成の奮戦により権威の失墜した幕府に対して、
京都では足利尊氏が、そして東国では新田義貞が次々に挙兵。

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【生品神社・新田義貞挙兵伝説地】

京都に攻め上った足利軍は六波羅探題を攻め落とし、
一方の新田軍も幕府軍と数次の合戦を繰り広げながら鎌倉に攻め寄せ、
たった15日で鎌倉を攻め落とし、執権・北条高時を自害に追いやります。

こうして武家政権は倒れ、新しい時代「建武の新政」が始まりました。

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【新田義貞が軍旗を掲げたと伝えられるクヌギ:生品神社境内】

鎌倉攻めの功により、新田義貞は建武政権から左兵衛督に任ぜられます。

この時、義貞34歳。
僅か150騎の手勢で、故郷の生品神社を発ってから1ヶ月後のことでした。

ついに武者所の長となった義貞は、人生の絶頂期を迎えますが
それはほんの束の間のことでした。

(次回に続く)

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