« 県中央の象徴 | トップページ | 光と影~「関東の奥座敷」 »

2008年8月19日 (火)

青葉若葉の日の光

少し前のお話になりますが、大阪から夏休み中の娘たちが家人とともにやって来たので、
世界遺産の街・日光と鬼怒川温泉に一泊二日で出かけてきました。

*********************************************************************************

「日光の社寺」が世界遺産に登録されたのは平成11年(1999)。
日光の山内にある「二社一寺」、二荒山神社・東照宮・輪王寺の103に及ぶ建造物と境内、
そして、それらを取り巻く自然環境が登録対象となっています。

今でこそ二荒山神社・東照宮・輪王寺を区別して「二社一寺」と呼ばれていますが、
近世まではこれらを総称して「日光山」あるいは「日光三所権現」と称され、
山岳信仰と神道、仏教の考え方が違和感なく同居していました。

T_imgp7575
【二荒山神社(中祠)】

しかし、開山以来続いてきた神仏習合の信仰も、明治元年(1868)の神仏分離令によって一変。

神仏分離令は仏教排斥を目的とするものではありませんでしたが、
これを受け、第二次世界大戦の敗戦に至るまで一部の過激な神道家と、
檀家制度のもとで寺院に搾取されていたと感じていた一部の民衆が廃仏毀釈運動を展開しました。

廃仏毀釈の考え方は、一部地域を除き、一般には殆ど普及はしませんでしたが、
ここ日光でも影響が全くなかったわけではなく、数多くの寺が併合されるなどしながら現在の形と成りました.

T_imgp7572_2
【奥宮への参道口】

日光山といえば東照宮。

そのイメージが強いので、江戸期以降に開かれた場所かと思われがちですが、
開山の歴史は古く、遥か以前の1200年前にまで遡ります。

T_imgp7569
【中祠拝殿】

未開の地であった日光を切り開き、ここが後世に一大聖地となる基礎を築いたのは勝道上人。

T_imgp7587
【二荒山神社大鳥居(新宮)】

開祖・勝道上人は、下野国芳賀郡(現在の栃木県真岡)の人で、天平7年(735)に生まれ。
7歳のある夜、明星天子(みょうじょうてんし)が夢に現れ、
「仏の道を学び、日光山を開け」というお告げを受けます。

お告げに導かれ、勝道上人と10人の弟子は天平神護2年(766)に大谷川を渡り、
多くの困難を克服しながら、応2年(782)、ついに二荒山(=男体山)山頂を極め、
その地に二荒山大神を拝し、祠(奥宮)を奉りました。

二荒山神社とは、この奥宮と中禅寺湖半に鎮座する中祠と東照宮に隣接する新宮の総称です。

日光を彩る伝説の多くは勝道上人の足跡や業績に由来しており、
この地を理解するうえで最も重要な人物といわれています。

T_imgp7588
【二荒山神社(新宮)参道】

ところで、この日光(にっこう)という地名の由来ですが、
諸説あり定かではなく、次の3つが有力となっているようです。

①仏教では観音菩薩の浄土を補陀洛山(ふだらくさん)といいますが、
 その補陀洛山から二荒山(ふたらさん)の名がついたという説。

②日光の山には熊笹が多いので、アイヌ語の(ふとら)=熊笹が(ふたら)になり、
 (ふたら)が二荒になったという説。

③男体山(なんたいさん)、女峰山(にょほうさん)に男女の二神が現れたので、
 (ふたあらわれ)の山になったとという説。

T_imgp7595
【二荒霊泉】

ちなみに、二荒が日光となったのは、弘法大師・空海が二荒山に登られたとき、
二荒の文字が感心しないといって、(ふたら)を(にこう)と音読し、
吉字をあてて日光にしたと伝えられています。

T_imgp7658
【東照宮象上神庫:象の彫刻

その後、江戸時代になると日光は繁栄の極みに達します。

元和2年(1616)、75歳で徳川家康が逝去し、
家康の政治顧問・相談役であった天海僧正が、遺言にもとづき東照宮の造営を差配します。

T_imgp8427
【東照宮陽明門:龍】

元和3年(1617)、東照宮は完成し、これを「元和の造営」といいますが、
後の家康二十一回忌の法要を機会に、天海は三代将軍家光とともに大改修を計画。

寛永13年(1636)3月には、現在の華麗なる社殿を造りあげました。

これを「寛永の大造替」といいます。

T_imgp7683
【東照宮鼓楼】

陽明門(国宝)・唐門(国宝)・御本社(国宝)など55棟。
「日光山東照大権現様御造営御目録」によれば、その費用は金56万8千両、銀百貫匁、米千石を要し、
造営の総責任者には秋元但馬守泰朝、工事や大工の総責任者には大棟梁甲良豊後宗広があたり、
わずか1年5ヶ月の工期で完成させたと記されています。

T_imgp8420
【東照宮神厩舎:三猿(みざる)

境内の特徴は、自然の地形を生かした参道や階段を用い、
バランス良く配置された社殿群が荘厳な宗教的空間をつくりだしていることにあります。

T_imgp8418
【東照宮神厩舎:三猿(いわざる)

さらに建物には、漆や極彩色がほどこされ、柱などには数多くの彫刻が飾られていますが、
これらは単なるデザインではなく、信仰形態や学問・思想があらわされているそうです。
(東照宮HP)

T_imgp8417_3
【東照宮神厩舎:三猿(きかざる)

天海の「寛永の大造替」は日光山に空前の繁栄をもたらし、
この頃の日光山は20院80坊、数百人の僧侶と社家、奉仕人で賑わっていたと伝えられています。

その功績をたたえ日光中興の祖と称されています。

T_imgp8431
【東照宮坂下門:眠猫

天海とともに東照宮を大造替した三代将軍家光は、家康の孫。
輪王寺にある家光廟大猷院は、彼の霊廟です。

T_imgp7597
【大猷院】

家光は家康を敬愛しており、死後も家康に仕えたいという遺言により、
四代将軍家綱が大猷院を造営しました。

T_imgp7630
【大猷院本殿】

大猷院は、輪王寺の本堂である三仏堂からはかなり離れて建っており、
二荒山神社の西側に位置し、東照宮の方向に向いています。

T_imgp7603
【大猷院仁王門:吽形力士像】

これは、家康に対する家光の強い思慕の念の表れ。

よく取り沙汰される話に、家光は家康の孫・秀忠の子ではなく、
乳母とされる春日の局と家康との間に生まれた子だというものがあります。

T_imgp7605
【大猷院仁王門:阿形力士像】

それが本当のことならば、弟・国千代との間に起きた将軍継嗣騒動を解決した家康と春日の局の連携や、
家光が持っていた御守り袋の中に「二世権現・二世将軍」と書かれていた事など、すんなりと納得できるのですが。

T_imgp8398
【大猷院夜叉門:白夜叉像】

大猷院の本殿や拝殿は国宝指定、夜叉門、二天門、仁王門は重要文化財。

本殿の後方には、家光の墓所・奥の院(宝塔とその拝殿)があるが、
通常は非公開で見ることは出来ませんでした。

T_imgp7635
【大猷院端垣

日光を訪れるのは二度目ですが、前回は数年前の冬。
降りしきる雪で前も見えないぐらいで、満足に見学ができませんでした。

T_imgp7631
【大猷院皇嘉門(奥の院入り口)】

今回はゆっくり見て回りたいと思っていましたが、雪より手ごわい強敵がいました。

それは家人と娘たちの「はよ温泉行こうな!」という声。

おちおち写真撮影も出来ず、名所をさらっと眺めるだけしか出来ませんでした。

T_imgp8379
【大猷院唐門:獅子の木鼻】

「あらたふと 青葉若葉の 日の光」

移動の車中、芭蕉の句を引き合いに出し、日光の荘厳さを語ってみましたが、「あっ、そう!」てな表情。

家人はさておき、小6と中2の娘たちに世界遺産を見せてやろうという親心は見事に跳ね返され、
後ろ髪を引かれながら、足早に鬼怒川温泉街へと向かいました。

(次回に続きます。)

にほんブログ村 写真ブログへ にほんブログ村 写真ブログ 建物・街写真へ
最後までお付き合いいただき、有り難うございます。
ランキング参加中につき、宜しければクリックください。

|

« 県中央の象徴 | トップページ | 光と影~「関東の奥座敷」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 青葉若葉の日の光:

« 県中央の象徴 | トップページ | 光と影~「関東の奥座敷」 »