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2008年8月23日 (土)

光と影~「関東の奥座敷」

(前回からの続き)

さらば日光、また来るまでは。

時間もまだ早く、まだまだ見たい場所が山ほどありましたが、
娘達の厳しい視線に耐え切れず、当日の宿泊地である鬼怒川温泉街に車を走らせました。

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鬼怒川温泉は、栃木県の中央部を北から南に流れる鬼怒川の上流部にあり、
美しい渓谷の両岸沿いに大型の旅館・ホテルが立ち並んでいます。

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【鬼怒川温泉街:西岸側】

温泉の起源は意外と新しく、元禄4年(1691)。
地元の村人が鬼怒川の西岸にお湯が湧き出しているのを偶然に発見したのが始まりです。

ところが、当地は日光の寺社領であったため、日光奉行と村人の所有権争いの末、
宝暦元年(1751)、ついに日光奉行に没収されてしまいます。

そのため、一般庶民の入湯は制限されることになり、
日光詣帰りの諸大名や僧侶達のみが利用可能な温泉となっていました。

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【鬼怒川温泉街:東岸側】

一般庶民に再び解放されるようになるのは明治時代になってからですが、
まだ規模が小さく、当時の村の名前から「滝温泉」と呼ばれていました。

明治2年(1869)には、鬼怒川東岸にも「藤原温泉」が湧出し、温泉の規模が拡大。
その後の大正3年(1914)になると、上流に下滝発電所(現在の鬼怒川発電所)が完成します。

ダムの完成により鬼怒川の水位が低下すると、新しい源泉が川底から次々と発見され、
従来の滝温泉と藤原温泉とを合わせて鬼怒川温泉と呼ばれるようになりました。

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【温泉のマスコット・鬼怒太君の階段】

大正4年(1915)には、発電所工事の為に敷設された藤原軌道を基に下野軌道が開通。
これを期に、鬼怒川温泉は急速に発展してゆきます。

昭和4年(1929)になると、下野軌道と関係が深かった東武鉄道によって日光線が開通。
続いて昭和10年(1935)には、東武浅草駅から直通便の乗入れが開始されます。

こうして鬼怒川温泉は「関東の奥座敷」の地位を確立、一大歓楽温泉街へと変貌してゆきました。

戦後になると、旅館・ホテルの大型化が積極的に進められ、
関東一円はもとより、全国から多くの観光客が押し寄せるようになり、
平成5年(1993)のピーク時には宿泊客数が年間341万人に達しました。

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【鬼怒太君の像】

そして、バブル崩壊。

大型投資を続けてきた全国の大規模温泉旅館・ホテルはその影響をモロに受けることになり、
ここまで順調に発展してきた鬼怒川温泉街も例外ではありませんでした。

鬼怒川温泉の旅館・ホテルに経営支援を行ってきた地元・足利銀行の経営破綻により、
大多数の旅館・ホテルで資金繰りが悪化し、倒産・廃業に追い込まれるケースも多々発生しました。

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【ラフティング出発前】

また、顧客ニーズの面から見ても、旅館・ホテルの大型化はバブル以前は武器となりましたが、
今の温泉ファンが求めるものは「温泉街の風情」であり、大型化がかえって仇となってしまっています。

かつては鬼怒川温泉の旧温泉街地区には賑わいのある商店街が形成されていたようですが、
宿泊施設の大型化の過程で商店がインショップ化されたり、
温泉街自体の南北への拡大によって拡散してしまい、温泉街の風情は失われてしまったようです。

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【鬼怒川ラインくだり船頭さん】

その結果、「鬼怒川温泉の弱点は?」というアンケートに対する回答を見ると、
宿泊客と旅館・ホテルの経営者の間で一致しており、
「風情に欠ける」「活気が無い」がどちらも上位を占めています。

風光明媚だが、風情に欠ける温泉街では、興味をそそる被写体も少なく、
このブログの写真も選ぶのにも苦労しました。

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【鬼怒川ラインくだり】

暗いお話になってしまいましたが、名湯・鬼怒川の再生に向けて、明るい話題もあります。

平成18年(2006)、JRの新宿駅~池袋駅~大宮駅~鬼怒川温泉駅間で、
特急「きぬがわ」・「スペーシアきぬがわ」の直通運転が開始されました。

それまでは、同じ東京近郊立地の温泉地、ライバルの箱根温泉に比べると、
アクセスがやや不利で、集客にハンディがありましたが、
JR直通特急の乗り入れで一気に解消されました。

前述のアンケートへの回答を見ると、旅館・ホテルの経営者さん達も、
顧客が何を求めているかを十分理解されているようなので、
今後、新しい観光資源開発や「風情」復活への取り組みがなされてゆくことを期待します。

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【軽妙トークの船頭さん】

一方、同行の我が家の女性陣達は、そんなことはお構いなしの様子。

この日お世話になった「鬼怒川御苑」さんのお風呂と料理を満喫。

鬼怒川ライン下りの船上では、船頭さんの軽妙なガイドに大笑いし、
水しぶきが降りかかる急所では、屈託のない黄色い歓声を上げていました。

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【当日宿:鬼怒川御苑】

日光観光では少々お疲れ気味ではありましたが、
今回の小旅行、そこそこ楽しんでくれたのではないかと思っています。

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2008年8月19日 (火)

青葉若葉の日の光

少し前のお話になりますが、大阪から夏休み中の娘たちが家人とともにやって来たので、
世界遺産の街・日光と鬼怒川温泉に一泊二日で出かけてきました。

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「日光の社寺」が世界遺産に登録されたのは平成11年(1999)。
日光の山内にある「二社一寺」、二荒山神社・東照宮・輪王寺の103に及ぶ建造物と境内、
そして、それらを取り巻く自然環境が登録対象となっています。

今でこそ二荒山神社・東照宮・輪王寺を区別して「二社一寺」と呼ばれていますが、
近世まではこれらを総称して「日光山」あるいは「日光三所権現」と称され、
山岳信仰と神道、仏教の考え方が違和感なく同居していました。

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【二荒山神社(中祠)】

しかし、開山以来続いてきた神仏習合の信仰も、明治元年(1868)の神仏分離令によって一変。

神仏分離令は仏教排斥を目的とするものではありませんでしたが、
これを受け、第二次世界大戦の敗戦に至るまで一部の過激な神道家と、
檀家制度のもとで寺院に搾取されていたと感じていた一部の民衆が廃仏毀釈運動を展開しました。

廃仏毀釈の考え方は、一部地域を除き、一般には殆ど普及はしませんでしたが、
ここ日光でも影響が全くなかったわけではなく、数多くの寺が併合されるなどしながら現在の形と成りました.

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【奥宮への参道口】

日光山といえば東照宮。

そのイメージが強いので、江戸期以降に開かれた場所かと思われがちですが、
開山の歴史は古く、遥か以前の1200年前にまで遡ります。

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【中祠拝殿】

未開の地であった日光を切り開き、ここが後世に一大聖地となる基礎を築いたのは勝道上人。

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【二荒山神社大鳥居(新宮)】

開祖・勝道上人は、下野国芳賀郡(現在の栃木県真岡)の人で、天平7年(735)に生まれ。
7歳のある夜、明星天子(みょうじょうてんし)が夢に現れ、
「仏の道を学び、日光山を開け」というお告げを受けます。

お告げに導かれ、勝道上人と10人の弟子は天平神護2年(766)に大谷川を渡り、
多くの困難を克服しながら、応2年(782)、ついに二荒山(=男体山)山頂を極め、
その地に二荒山大神を拝し、祠(奥宮)を奉りました。

二荒山神社とは、この奥宮と中禅寺湖半に鎮座する中祠と東照宮に隣接する新宮の総称です。

日光を彩る伝説の多くは勝道上人の足跡や業績に由来しており、
この地を理解するうえで最も重要な人物といわれています。

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【二荒山神社(新宮)参道】

ところで、この日光(にっこう)という地名の由来ですが、
諸説あり定かではなく、次の3つが有力となっているようです。

①仏教では観音菩薩の浄土を補陀洛山(ふだらくさん)といいますが、
 その補陀洛山から二荒山(ふたらさん)の名がついたという説。

②日光の山には熊笹が多いので、アイヌ語の(ふとら)=熊笹が(ふたら)になり、
 (ふたら)が二荒になったという説。

③男体山(なんたいさん)、女峰山(にょほうさん)に男女の二神が現れたので、
 (ふたあらわれ)の山になったとという説。

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【二荒霊泉】

ちなみに、二荒が日光となったのは、弘法大師・空海が二荒山に登られたとき、
二荒の文字が感心しないといって、(ふたら)を(にこう)と音読し、
吉字をあてて日光にしたと伝えられています。

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【東照宮象上神庫:象の彫刻

その後、江戸時代になると日光は繁栄の極みに達します。

元和2年(1616)、75歳で徳川家康が逝去し、
家康の政治顧問・相談役であった天海僧正が、遺言にもとづき東照宮の造営を差配します。

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【東照宮陽明門:龍】

元和3年(1617)、東照宮は完成し、これを「元和の造営」といいますが、
後の家康二十一回忌の法要を機会に、天海は三代将軍家光とともに大改修を計画。

寛永13年(1636)3月には、現在の華麗なる社殿を造りあげました。

これを「寛永の大造替」といいます。

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【東照宮鼓楼】

陽明門(国宝)・唐門(国宝)・御本社(国宝)など55棟。
「日光山東照大権現様御造営御目録」によれば、その費用は金56万8千両、銀百貫匁、米千石を要し、
造営の総責任者には秋元但馬守泰朝、工事や大工の総責任者には大棟梁甲良豊後宗広があたり、
わずか1年5ヶ月の工期で完成させたと記されています。

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【東照宮神厩舎:三猿(みざる)

境内の特徴は、自然の地形を生かした参道や階段を用い、
バランス良く配置された社殿群が荘厳な宗教的空間をつくりだしていることにあります。

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【東照宮神厩舎:三猿(いわざる)

さらに建物には、漆や極彩色がほどこされ、柱などには数多くの彫刻が飾られていますが、
これらは単なるデザインではなく、信仰形態や学問・思想があらわされているそうです。
(東照宮HP)

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【東照宮神厩舎:三猿(きかざる)

天海の「寛永の大造替」は日光山に空前の繁栄をもたらし、
この頃の日光山は20院80坊、数百人の僧侶と社家、奉仕人で賑わっていたと伝えられています。

その功績をたたえ日光中興の祖と称されています。

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【東照宮坂下門:眠猫

天海とともに東照宮を大造替した三代将軍家光は、家康の孫。
輪王寺にある家光廟大猷院は、彼の霊廟です。

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【大猷院】

家光は家康を敬愛しており、死後も家康に仕えたいという遺言により、
四代将軍家綱が大猷院を造営しました。

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【大猷院本殿】

大猷院は、輪王寺の本堂である三仏堂からはかなり離れて建っており、
二荒山神社の西側に位置し、東照宮の方向に向いています。

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【大猷院仁王門:吽形力士像】

これは、家康に対する家光の強い思慕の念の表れ。

よく取り沙汰される話に、家光は家康の孫・秀忠の子ではなく、
乳母とされる春日の局と家康との間に生まれた子だというものがあります。

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【大猷院仁王門:阿形力士像】

それが本当のことならば、弟・国千代との間に起きた将軍継嗣騒動を解決した家康と春日の局の連携や、
家光が持っていた御守り袋の中に「二世権現・二世将軍」と書かれていた事など、すんなりと納得できるのですが。

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【大猷院夜叉門:白夜叉像】

大猷院の本殿や拝殿は国宝指定、夜叉門、二天門、仁王門は重要文化財。

本殿の後方には、家光の墓所・奥の院(宝塔とその拝殿)があるが、
通常は非公開で見ることは出来ませんでした。

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【大猷院端垣

日光を訪れるのは二度目ですが、前回は数年前の冬。
降りしきる雪で前も見えないぐらいで、満足に見学ができませんでした。

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【大猷院皇嘉門(奥の院入り口)】

今回はゆっくり見て回りたいと思っていましたが、雪より手ごわい強敵がいました。

それは家人と娘たちの「はよ温泉行こうな!」という声。

おちおち写真撮影も出来ず、名所をさらっと眺めるだけしか出来ませんでした。

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【大猷院唐門:獅子の木鼻】

「あらたふと 青葉若葉の 日の光」

移動の車中、芭蕉の句を引き合いに出し、日光の荘厳さを語ってみましたが、「あっ、そう!」てな表情。

家人はさておき、小6と中2の娘たちに世界遺産を見せてやろうという親心は見事に跳ね返され、
後ろ髪を引かれながら、足早に鬼怒川温泉街へと向かいました。

(次回に続きます。)

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2008年8月 2日 (土)

県中央の象徴

前橋市と高崎市は同じ群馬県下の隣接市同士ですが、
行政レベル・市民レベルで、お互いに対抗意識が強く、
いわゆるライバル関係にあることはよく知られています。

県庁所在地があり、国や県の行政庁が立ち並ぶ前橋市は「行政の前橋」。
新幹線駅があり、駅前に商業集積が発達している高崎市は「商業の高崎」。

今では、こう呼ぶことに異義がある人は少ないと思いますが、
以前にこのブログでも書いたことがあるように、
もともと、明治4年(1871)の廃藩置県時には県庁は高崎に置かれていました。

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【臨江閣別館①】

当初の県庁が置かれた高崎城址周辺は、明治6年(1873)の徴兵令制定に伴い陸軍の直轄地とされ、
そこに鎮台の分営が置かれることになったため、県庁は押し出されるように前橋に移転してしまいました。

その後の明治9年(1876)には、それまで栃木県管轄だった山田郡・新田郡・邑楽郡が群馬県に移管、
第2次群馬県がスタートしますが、それを期に県庁は再び高崎に戻ってきます。

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【臨江閣別館②】

しかし、どうも県庁舎がイマイチだったようで、
その間に、着々と奪還計画を進めていた前橋が再度、県庁の誘致に成功。

県庁を奪われた高崎市民は、怒りの抗議運動・再奪還運動を展開しますが、
実ることなく、廃藩置県から10年、明治14年(1881)の太政官布告で前橋が県庁所在地に確定しました。

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【臨江閣別館③】

そして、3年後の明治17年(1884)、当時の群馬県令・揖取素彦(かとりもとひこ)の提言により、
前橋に県庁所在地にふさわしい迎賓館が建てられることになります。

それが、本日ご紹介する臨江閣です。

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【臨江閣本館一回廊下】

臨江閣は、今も前橋市大手前3丁目(前橋公園内)で保存・一般公開されており、
全体は本館・別館・茶室から成り、本館と茶室は県指定、別館は市指定の重要文化財となっています。

西側の小さい方の建物が本館で、東側の大きな建物が別館、茶室は本館の西側にあります。

本館建設のきっかけは、先述したように楫取素彦の提言であり、
それに応えた形で、後の初代前橋市長・下村善太郎ら、多くの市内有志の協力と募金で建設されました。

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【臨江閣本館1階一の間】

利根川の流れを手前に、そしてその奥に妙義・浅間の山々を望む絶好の地。
敷地のほぼ中央に本館が建てられ、どの部屋からも美しい景色が眺められるように工夫されています。

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【別館より見た本館への渡り廊下】

建築様式は木造二階建・入母屋造り、瓦葺き屋根で、和風木造建築の分類では数寄屋建築に含まれるもの。
建設当初は雨戸だけで、写真にあるガラス戸はなく、電灯もついていませんでした。

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【臨江閣本館2階次の間】

その後、明治26年(1893)の明治天皇の行幸に先立ち、一部改築が加えられ、
さらに、明治43年(1910)の「一府十四県連合共進会」の貴賓館として別館が建てられた際にも再度改築、
本館~別館の渡り廊下も付設され、ほぼ現在の形になりました。

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【御座所の簾】

本館2階の奥座敷は、明治天皇が行幸の折に休まれた御座所(ござしょ)。
明治35年と明治41年には、当時まだ皇太子であった大正天皇もご滞在されました。

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【御座所床の間】

その場所に、実際上がらせていただき、おまけに写真まで。
時の積み重なりを撮影したような、貴重な体験をさせていただきました。

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【臨江閣別館2階大広間】

別館は、木造の書院風建築です。
一階に洋間、二階には180畳敷の大広間があり、共進会貴賓館の当時は大宴会場として利用されました。

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【臨江閣別館1階座敷】

その後、前橋市が譲り受けてからは、近県にもまれな大公会堂として利用され、
前橋を代表する詩人・萩原朔太郎の結婚披露宴などもここで行われました。

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【臨江閣別館1階廊下】

第二次大戦中には、前橋空襲で市役所が焼けてしまった為、
一時、市役所庁舎になったこともあるようですが、
戦後になるまでは、庶民が気軽に出入り出来るような建物ではなかったようです。

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【臨江閣別館階段】

茶室は、本館より2か月遅れで完成。
木造平屋建ての瓦葺き屋根の建物は、楫取県令以下、県庁の職員が資金を出し合って建設されたそうです。
(今回は、残念ながら茶室の中は見ることが出来ませんでした。)

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【臨江閣別館1階廊下】

他にも、茶室前には美しく手入れされた日本庭園が広がり、
本館内部には、貴重な資料とともに前橋の歴史を解かり易く解説した展示などもあり、
見所いっぱいで、かなり長居してしまいました。

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【臨江閣茶室】

臨江閣の前の道は、車で何度か通りかかったことはありましたが、
建物の中に入ったのは今回が初めて。

なんと、驚いたことに、建物や立派な日本庭園も含めて全てが入場無料!
あまりの太っ腹に、最初はビックリしました。

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【臨江閣別館④】

この臨江閣がある前橋公園は14.6haと広大で、よく整備されているし、
ここからすぐ(車で5分)の所には、36.6haの広さを有する敷島公園もあります。

高崎市街には、城址公園や高崎公園がありますが、どちらも規模は小さく、
中心市街地の公園の充実度対決では、高崎よりも前橋に軍配が上がるようです。

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