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2008年7月 3日 (木)

喧嘩の後でお参りを

今回も地元、大阪から。

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大東市はその名の通り、大阪市の東隣に位置する人口13万人の都市。

現在は、大阪府の中でも地味な(失礼!)な印象の市ですが、
古く縄文時代草創期から人の営みがあった歴史ある地域です。

古代には、市の東部・飯盛山麓一帯に多くの古墳が造営され、
中世には、東高野街道が通る軍事戦略上の要衝として度々戦乱の舞台となりました。

なかでも有名なのは、南北朝時代の正平3年・貞和4年(1348)にあった四条畷の合戦。
楠正成の嫡男・正行率いる南朝方3000騎が高師直率いる幕府方6万騎の前に散りました。

その後、近世の大和川付け替え以降は、
木綿や菜種などの一大産地として「天下の台所」の繁栄を裏方から支えます。

農業生産の伸びは地域の発展を牽引し、
江戸期中期以降、当地は大坂と奈良を結ぶ交通の中継地として、
周辺一帯からの物資の集散基地となってゆきました。

本日は、その当時の大阪町人に手軽な観光スポットとして人気があったお寺、
曹洞宗福聚山慈眼禅寺、通称・野崎観音をご案内します。

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【慈眼禅寺参道】

野崎観音は、JR学研都市線野崎駅から東方、歩いて15分ほどの高台にあり、
天平勝宝年間(749~757)、行基上人によって創建されたと伝えられている古刹です。

毎年5月1日から10日までの無縁経法要には、JR野崎駅からの参道の両側に露店が並び、
現在もこの期間中は、全国各地からの「野崎参り」客で賑わいます。

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【山門】

永禄8年(1565)に兵火でお堂が全焼したため、
その後長らく廃墟となっていた野崎観音を、元和2年(1616)に青厳和尚が再建。

その後、寛文11年(1671)には5世大真和尚が、参拝者を増やし寺の興隆を図るため、
25年に1度、旧暦の4月1日から8日間、秘仏の観音様を特別開帳する法会を始められました。

法会の前の数日間は立札を辻々に立て、大々的に宣伝したことにより、
野崎観音は大坂一円の庶民の間でも広く知られるようになってゆきます。

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【本堂】

また享保6年(1721)には、道頓堀竹本座で近松門左衛門の「女殺油地獄」が初演され、
続いて安永9年(1780)には、同座で「新版歌祭文(※1)」が初演されますが、
双方とも野崎参りを背景にした文楽であったため、野崎観音はますます有名に。

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【お染久松の碑】

その結果、大阪町人の間で野崎参りは一大ブームとなります。

当時は、勿論JRも国鉄もなく、交通手段は船か徒歩。

天満橋のたもと、八軒屋船着場(現京阪電鉄天満橋駅付近)から屋形船で寝屋川を遡り、
あるいは寝屋川の堤を陸路てくてくと、町人達はこぞって野崎観音に向かいました。

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【楼門】

陸路はほとんどが堤の上で、川を行く屋形船と平行していたため、
屋形船の参拝客と徒歩の参拝客は、川を挟んでお互いを罵り合いながら勝ち負けを競っていたそうで、
野崎参りは別名「悪口祭」とも呼ばれていました。

道行く者と船で行く者との罵り合いは「ふり売りけんか」と呼ばれ、
口喧嘩に勝った年は縁起の良い年になります。

但し、条件は喧嘩の途中で決して怒らないこと。

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【江口の君堂】

清八と喜六の掛け合いで笑わせる桂春団治の十八番、上方落語の「野崎参り」にも、
「ふり売りけんか」を楽しみながら野崎観音へ向かう場面が出てきます。

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【本堂前の仏像】

「そら、あかんわ。
わい、静かにしてたら、口に虫が湧く性分やねん。」

「けったいな性分やなァ、お前は…。 あ、ほんなら、ちょどええわ。
あの堤を歩いてる人と、喧嘩をせェ、喧嘩を!」

「そら、あかん。わい、喧嘩、きらいや。
それに、第一、こっちは、舟に乗ってんねん。
むこから石でも投げよったら、お前、逃げるとこあれへん!」

「情けないなァ、お前は… 心配せんでもええ。
野崎詣りの喧嘩はナ、なんぼ口でいいあいしても、手ェひとつ掛けん、というのが名物や。
ええか… ここで、いいあいするやろ。
舟が住道へ着く、さきほどは失礼いたしました、
これからは仲ようお詣りいたしまひょか、さァ、おいなはれや。
チャラカチャンチャン♪と、踊りながら行くんや。
なァ、往く道だけの喧嘩や。
この喧嘩に、言い勝ちさえしたら、その年は運がええ、いうねん。
運さだめの喧嘩、一番やったらんか!」

「あ、なるほど。運さだめの喧嘩か… そんなら、わいやったろ!」

罵声を浴びせあいながらも、お互い怒らず恨まず、ケロッと忘れて仲良くお参り。
大阪人気質は、今も昔も変わらないなぁと思います。

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【安産祈願の猫の張子絵馬】

浪速鉄道(現JR学研都市線)が明治28年(1895)に開通してからは、
河運は急激に衰退し、屋形船もいつしか姿を消しました。

昭和8年、東海林太郎が歌った「野崎小唄」の大ヒットにより、
屋形船が一時復活しましたが、それも2~3年で終わったようです。

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【境内の花】

「野崎小唄」
作詩 今中楓渓  
作曲 大村能章
  歌  東海林太郎

野崎参りは 屋形船でまいろ 
どこを向いても 菜の花ざかり 
粋な日傘にゃ 蝶々もとまる
呼んでみようか 土手の人

野崎参りは 屋形船でまいろ 
お染久松 せつない恋に 
残る紅梅 久作屋敷 
今もふらすか 春の雨

野崎参りは 屋形船でまいろ
音にきこえた 観音ござる 
お願かけよか うたりょか滝に 
滝は白絹 法の水    

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【JR野崎駅】

現在のJR野崎駅は見事なまでの素っ気なさ。
往時を偲ぶものは何もありません。

JR西日本はん、もうちょっと何とかなりまへんか?

(※1)

近松半二作「新版歌祭文」~野崎村の段~

野崎村の久作には、養子の久松(ひさまつ)と、女房の連れ子のお光(おみつ)がいた。
久作は気立ての優しいお光を、久松の嫁にしようとしていた。

一方、久松は奉公に出た大阪の油問屋の娘、お染(おそめ)と知り合い、恋に落ちる。
それをねたまれ、久松が油問屋から帰されてきたので、
久作は早速久松とお光の祝言を挙げようとする。

久松のことを以前から慕っていたお光が婚礼の支度をしている所へ、
大阪からお染が「野崎まいり」にかこつけて久松に会いに来た。

久松との関係に気付いたお光は、お染を追い返そうとし、久松と言い争いになる…。
養父への義理から別れ話を持ち出す久松と二人きりになったお染は、自害しようとする。

それを見て、久松は二人で死ぬことを約束する。

そこへ、事の成り行きをみていた久作に人の道に反していると諭され、
二人は別れを誓うが、お互い心中の覚悟を決めていた。

祝言の席でお光が綿帽子を取ると、髪を切り尼の姿になっていた。

お光は二人の心を察し、自分が身を引けば、二人が幸せになれると考えたのだった。

それを見ていた、お染の母親お勝(おかつ)はお光に礼を述べ、二人の仲を認め、
二人は油屋へ帰っていく。

二人の無事を祈り、その姿を見送りつつ、お光は泣き崩れるのであった。

(大東市HPより)

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コメント

すっかりご無沙汰してしまいました。
「野崎参り」の記事、面白おかしく拝見させて頂きました。
東海林太郎の「野崎小唄」が耳に残っていて、記事を読み進むうち、思わず口ずさんでしまいます。「屋形船」は「野崎参り」には無くてはならないものと思っていましたが、この曲がヒットした時にはすでに無かったというのは意外でした。
私は勿論行ったことも見たこともないのですが、仙台に居ながらにしてお参りをさせて頂きました。

投稿: kazuo | 2008年7月12日 (土) 14時33分

kazuoさん
御無沙汰です。
「野崎小唄」は優雅で艶のある曲でしたが、
野崎観音以外はすっかり変わってしまった様で、
残念ながら、かつての面影は殆どありませんでした

投稿: yufuki | 2008年7月25日 (金) 01時16分

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