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2008年7月26日 (土)

近代登山発祥の地

妙義山は、赤城山・榛名山と共に上毛三山と称され、群馬県を象徴する山の一つです。 

しかし、ここも赤城山と同じく「妙義山」という名の頂は存在せず、
山体全部を総称して妙義山と呼ばれています。

実際は、白雲山(1,104m)・金洞山(1,073m)・金鶏山(856m)の三峰からなる「表妙義」と、
烏帽子岩(1,117m)・谷急山(1,162m)から成る「裏妙義」に分かれており、
このうち、奇岩群が林立する「表妙義」が県立妙義公園となっています。

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【表妙義の山々①】

妙義山の基盤は約2,000万年前(新生代第3紀中新世)に海底で堆積したもので、
やがて海底火山の爆発に伴い、それが海面上に隆起。

約1,000万年前から再び活発になった火山活動による火山性堆積物で山体が作られました。

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【表妙義の山々②】

以来、永年にわたる風化・浸食によって岩石の硬い部分だけが残り、
今日見られるような奇岩巨岩の山容となりました。

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【表妙義の山々③】

奇岩がゴツゴツと露出した急峻で荒々しい山容は、
四国小豆島の寒霞渓、九州大分県の耶馬渓と並んで日本三大奇勝とも称されています。

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【表妙義の山々④】

また、明治44年(1911)にイギリス人の登山家ウオルター・ウエストン卿が、
ザイルを使いながら岩山を登る技術を、妙義の案内人であった根本清蔵氏に初めて教えたことから、
この地は日本の近代登山発祥の地とされています。

自然が造形した石門(第1石門~第4石門)やロウソク岩・大砲岩・筆頭岩・ユルギ岩など、
数多くの奇岩群を眺望できる金洞山は国内屈指の山岳美と讃えられ、
今日でも多くの登山愛好家に親しまれています。

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【表妙義の山々⑤】

山に慣れた人にとっては、登山というよりハイキング程度の「石門めぐりコース」でも、
シロウトの私にとってはかなりの難易度であり、とても一人で登るのは無理そう。

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【帰路:荒船ダム】

高所が苦手な人や自信のない人のために、危険が無く楽に巡れる巻き道も用意されているそうですが、
怪我をしては洒落にならないので、下からの写真だけにしておきました。

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【帰路:不通渓谷】

その石門めぐりコースの起点になっているのが金洞山中腹にある中之嶽神社。

この神社は寿永元年(1182)、欽明天皇の時代に創建された古社で、
主祭神は日本武尊とされています。

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【中之嶽神社参道石段】

金洞山(別名:中之嶽)の岩峰を見なが赤い鳥居をくぐると、
すぐ左手に石鳥居と急な苔むした石段が現れます。

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【中之嶽神社拝殿】

鬱蒼とした杉木立の中、石段を登りきると中之嶽神社の拝殿と御神体が見えてきます。

ここには神殿はなく、拝殿裏に聳える巨岩「轟岩」そのものが御神体でした。

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【鎮座750年の碑】

拝殿自体は明治期に再建されたものですが、巨岩と巨木によく調和して、
日本武尊が登ったと伝えられる山岳霊場の趣をとどめていました。

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【境内:杉の大木】

一方、中之嶽神社本殿に向かう石段の左手には、大黒天を祀る前社「大国神社」もあり、
こちらも嵯峨天皇の勅命により、弘仁9年(819)に大納言藤原冬嗣卿と弘法大師が登岳し、
出雲大社の分社として関東の霊域に奉斉されたと伝えられている由緒ある神社です。

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【大黒神社拝殿】

その、由緒正しき神社が平成17年(2005)に建立したのが「日本一の大黒様」。

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【日本一の大黒様①】

その大きさは、高さ20m・重さ8.5tというデカさ。
おまけに金ぴかで、何故か定番の打ち出の小槌ではなく剣を持っています。

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【日本一の大黒様②】

誤解を恐れずに言うならば、この大黒様はKY。
はっきり行って浮いてました。

霊山妙義の雰囲気に相応しいかというと、ちょっと首をひねりたくなりますね。

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2008年7月17日 (木)

昆虫たちの森

いささか古いお話になりますが、今月の4日に群馬県立「ぐんま昆虫の森」に行ってきました。

「ぐんま昆虫の森」は赤城山の南東、桐生市新里町に平成17年(2005)8月1日に全面オープンした教育普及施設。

設置の目的は、「広く県民が自然に親しみ、昆虫の生きた姿に直接ふれ、生きものの相互依存に学び、
生命の大切さや自然への理解と共感する心を育てること」だそう。

約48haに及ぶ広大な敷地に、雑木林、畑、沼、水田(非公開)の各ゾーンが整備され、
かつては日本の各地にあった里山の姿を再現しています。

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【ぐんま昆虫の森「昆虫観察館」】

この日の到着はam10:00頃。

お天気もよく、鼻歌交じりで広大な里山地域に歩き出しましたが、
東京ドーム14個分に及ぶ敷地は、想像以上の広さで、
お天道様が頭の上に来る頃にはもう熱中症寸前、バテバテでした。

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【「昆虫観察館」別館資料室】

おまけに、園内の樹液が出そうな広葉樹には全て「スズメバチに注意!!」の張り紙。

実際に、でっかいスズメちゃんと何度か遭遇した後に、
「ブーーーン」という大ボリュームの羽音が耳元に迫ってきたときには、本当にビビリました。

結局、何の羽音かは確認できませんでしたが、恐ろしさで心が折れてしまいました。

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【ツバメシジミ】

ということで、屋外の観察は早々に断念し、
次に、この昆虫の森のシンボル的な施設である「昆虫観察館」に向かいました。

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【ショウジョウトンボ】

巨匠・安藤忠雄氏の設計によるこの施設は、
ガラス張りのドームと曲面を多用したコンクリートの造形が印象的な、美しい建物。

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【ホソミイトトンボ】

館内には「多様な環境・たくさんのいのち」をテーマにした360度の映像が投影さるビジュアル施設や、
「里山の昆虫たち」という展示コーナー、西表島の環境を再現したという「生態温室」等があります。

「里山の昆虫たち」では、里山に生息する昆虫はもちろん、
カエルやイモリ等の両生類、蛇や蜥蜴等の爬虫類までを生体や標本で見ることができます。

そして、ガラス張りのドームの部分が、沖縄・西表島の環境をそのまま再現したという「生態温室」で、
ここには、40種類800匹の蝶をはじめとした様々な昆虫が、亜熱帯の植物の中で放し飼いにされています。

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【スジグロカバマダラ 】

実は、この日ここにやって来た最大の目的は、日本最大の蝶オオゴマダラの撮影でした。
しかし、午前中の太陽の下の暑さと温室の高温多湿に参ってしまって、撮影意欲と集中力が急降下。

眼に入る汗を拭いながら撮った蝶は、ピンボケ・手ぶれのオンパレード。

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【アオタテハモドキ】

文字通り温室育ちで、人間に対して警戒心の薄い蝶の撮影なので、
自然の蝶に比べてシャッターチャンスが多数あったのも係らず、
翅を美しく開いた写真は一枚も撮れませんでした。

近いうちに、もう一度リベンジしたいと思っています。

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【リュウキュウアサギマダラ】

私自身は準備不足・体力不足で施設を活用しきれず、写真も上手く行きませんでしたが、
「ぐんま昆虫の森」自体は、大人から子供まで楽しめる真面目な良い施設だという印象でした。

スズメちゃんが多いのは恐ろしかったですが、ある意味自然のままという点では好感が持てました。

しかし、実態はかなり厳しいようで、「不必要な文化施設」「税金の無駄遣い」と言う評価が一般的。

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【オオゴマダラ】

入場料は大人400円、大学・高校生は200円、中学生以下は無料で、
施設の充実度からすれば安いのではないかと思いますが、
入場者数は当初計画の目標数1,000人/日を大きく割り込み、年間約3億円の赤字予測だそう。

総事業費約80億円のうち、約44億円をつぎ込んだ「昆虫観察館」ではありますが、
この日・この時間帯には、入場者は私以外には見当たりませんでした。

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【ぐんま昆虫の森内に移設された赤城型養蚕農家①】

県の見解は「学習の場と考え、採算は度外視している」そうですが、
このままでは確かに税金の無駄遣い。

これだけ立派な施設で、内容的には素晴らしいものがありながら、
入場者数の目標を達成できないのは、明らかに当初計画に問題があります。

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【ぐんま昆虫の森内に移設された赤城型養蚕農家②】

もっと民間的な感覚でやれば、初期の建設コストも抑えられ、
その分を販促・PRにつぎ込めたのでしょうが、今となってはどうしようもありません。

ましてや、県がはなから採算度外視じゃあ、誰も営業努力はしませんネ。

お役所仕事って、どうして万事がこうなってしまうのでしょうか。

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2008年7月 3日 (木)

喧嘩の後でお参りを

今回も地元、大阪から。

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大東市はその名の通り、大阪市の東隣に位置する人口13万人の都市。

現在は、大阪府の中でも地味な(失礼!)な印象の市ですが、
古く縄文時代草創期から人の営みがあった歴史ある地域です。

古代には、市の東部・飯盛山麓一帯に多くの古墳が造営され、
中世には、東高野街道が通る軍事戦略上の要衝として度々戦乱の舞台となりました。

なかでも有名なのは、南北朝時代の正平3年・貞和4年(1348)にあった四条畷の合戦。
楠正成の嫡男・正行率いる南朝方3000騎が高師直率いる幕府方6万騎の前に散りました。

その後、近世の大和川付け替え以降は、
木綿や菜種などの一大産地として「天下の台所」の繁栄を裏方から支えます。

農業生産の伸びは地域の発展を牽引し、
江戸期中期以降、当地は大坂と奈良を結ぶ交通の中継地として、
周辺一帯からの物資の集散基地となってゆきました。

本日は、その当時の大阪町人に手軽な観光スポットとして人気があったお寺、
曹洞宗福聚山慈眼禅寺、通称・野崎観音をご案内します。

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【慈眼禅寺参道】

野崎観音は、JR学研都市線野崎駅から東方、歩いて15分ほどの高台にあり、
天平勝宝年間(749~757)、行基上人によって創建されたと伝えられている古刹です。

毎年5月1日から10日までの無縁経法要には、JR野崎駅からの参道の両側に露店が並び、
現在もこの期間中は、全国各地からの「野崎参り」客で賑わいます。

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【山門】

永禄8年(1565)に兵火でお堂が全焼したため、
その後長らく廃墟となっていた野崎観音を、元和2年(1616)に青厳和尚が再建。

その後、寛文11年(1671)には5世大真和尚が、参拝者を増やし寺の興隆を図るため、
25年に1度、旧暦の4月1日から8日間、秘仏の観音様を特別開帳する法会を始められました。

法会の前の数日間は立札を辻々に立て、大々的に宣伝したことにより、
野崎観音は大坂一円の庶民の間でも広く知られるようになってゆきます。

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【本堂】

また享保6年(1721)には、道頓堀竹本座で近松門左衛門の「女殺油地獄」が初演され、
続いて安永9年(1780)には、同座で「新版歌祭文(※1)」が初演されますが、
双方とも野崎参りを背景にした文楽であったため、野崎観音はますます有名に。

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【お染久松の碑】

その結果、大阪町人の間で野崎参りは一大ブームとなります。

当時は、勿論JRも国鉄もなく、交通手段は船か徒歩。

天満橋のたもと、八軒屋船着場(現京阪電鉄天満橋駅付近)から屋形船で寝屋川を遡り、
あるいは寝屋川の堤を陸路てくてくと、町人達はこぞって野崎観音に向かいました。

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【楼門】

陸路はほとんどが堤の上で、川を行く屋形船と平行していたため、
屋形船の参拝客と徒歩の参拝客は、川を挟んでお互いを罵り合いながら勝ち負けを競っていたそうで、
野崎参りは別名「悪口祭」とも呼ばれていました。

道行く者と船で行く者との罵り合いは「ふり売りけんか」と呼ばれ、
口喧嘩に勝った年は縁起の良い年になります。

但し、条件は喧嘩の途中で決して怒らないこと。

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【江口の君堂】

清八と喜六の掛け合いで笑わせる桂春団治の十八番、上方落語の「野崎参り」にも、
「ふり売りけんか」を楽しみながら野崎観音へ向かう場面が出てきます。

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【本堂前の仏像】

「そら、あかんわ。
わい、静かにしてたら、口に虫が湧く性分やねん。」

「けったいな性分やなァ、お前は…。 あ、ほんなら、ちょどええわ。
あの堤を歩いてる人と、喧嘩をせェ、喧嘩を!」

「そら、あかん。わい、喧嘩、きらいや。
それに、第一、こっちは、舟に乗ってんねん。
むこから石でも投げよったら、お前、逃げるとこあれへん!」

「情けないなァ、お前は… 心配せんでもええ。
野崎詣りの喧嘩はナ、なんぼ口でいいあいしても、手ェひとつ掛けん、というのが名物や。
ええか… ここで、いいあいするやろ。
舟が住道へ着く、さきほどは失礼いたしました、
これからは仲ようお詣りいたしまひょか、さァ、おいなはれや。
チャラカチャンチャン♪と、踊りながら行くんや。
なァ、往く道だけの喧嘩や。
この喧嘩に、言い勝ちさえしたら、その年は運がええ、いうねん。
運さだめの喧嘩、一番やったらんか!」

「あ、なるほど。運さだめの喧嘩か… そんなら、わいやったろ!」

罵声を浴びせあいながらも、お互い怒らず恨まず、ケロッと忘れて仲良くお参り。
大阪人気質は、今も昔も変わらないなぁと思います。

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【安産祈願の猫の張子絵馬】

浪速鉄道(現JR学研都市線)が明治28年(1895)に開通してからは、
河運は急激に衰退し、屋形船もいつしか姿を消しました。

昭和8年、東海林太郎が歌った「野崎小唄」の大ヒットにより、
屋形船が一時復活しましたが、それも2~3年で終わったようです。

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【境内の花】

「野崎小唄」
作詩 今中楓渓  
作曲 大村能章
  歌  東海林太郎

野崎参りは 屋形船でまいろ 
どこを向いても 菜の花ざかり 
粋な日傘にゃ 蝶々もとまる
呼んでみようか 土手の人

野崎参りは 屋形船でまいろ 
お染久松 せつない恋に 
残る紅梅 久作屋敷 
今もふらすか 春の雨

野崎参りは 屋形船でまいろ
音にきこえた 観音ござる 
お願かけよか うたりょか滝に 
滝は白絹 法の水    

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【JR野崎駅】

現在のJR野崎駅は見事なまでの素っ気なさ。
往時を偲ぶものは何もありません。

JR西日本はん、もうちょっと何とかなりまへんか?

(※1)

近松半二作「新版歌祭文」~野崎村の段~

野崎村の久作には、養子の久松(ひさまつ)と、女房の連れ子のお光(おみつ)がいた。
久作は気立ての優しいお光を、久松の嫁にしようとしていた。

一方、久松は奉公に出た大阪の油問屋の娘、お染(おそめ)と知り合い、恋に落ちる。
それをねたまれ、久松が油問屋から帰されてきたので、
久作は早速久松とお光の祝言を挙げようとする。

久松のことを以前から慕っていたお光が婚礼の支度をしている所へ、
大阪からお染が「野崎まいり」にかこつけて久松に会いに来た。

久松との関係に気付いたお光は、お染を追い返そうとし、久松と言い争いになる…。
養父への義理から別れ話を持ち出す久松と二人きりになったお染は、自害しようとする。

それを見て、久松は二人で死ぬことを約束する。

そこへ、事の成り行きをみていた久作に人の道に反していると諭され、
二人は別れを誓うが、お互い心中の覚悟を決めていた。

祝言の席でお光が綿帽子を取ると、髪を切り尼の姿になっていた。

お光は二人の心を察し、自分が身を引けば、二人が幸せになれると考えたのだった。

それを見ていた、お染の母親お勝(おかつ)はお光に礼を述べ、二人の仲を認め、
二人は油屋へ帰っていく。

二人の無事を祈り、その姿を見送りつつ、お光は泣き崩れるのであった。

(大東市HPより)

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