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2008年6月24日 (火)

古代からの日帰り旅行

またまた、大阪のお話です。

本日ご案内するのは、大阪城の南隣にある大阪歴史博物館。

ここは、古代から現代に至る大阪の歴史的空間を再現した、地下3階・地上13階の大博物館です。

前身は、大阪城公園内の旧陸軍第四師団司令部跡を利用していた大阪市立博物館で、
平成13年(2001)に現在地に移設され、大阪歴史博物館として再スタートしています。

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【大阪歴史博物館】

当地周辺(上町台地北部)は、古代には難波宮(※1)、中世には石山本願寺、近世には大坂城と、
その当時においては、政治的・宗教的に最も重要な施設が建てられていた場所。

また、近代~現代においても、行政庁舎やオフィスビルが立ち並ぶ大阪のビジネスの中心街となっており、
1300年以上に渡って、繁栄の歴史を積み重ねてきました。

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【難波宮大極殿の官吏:10F古代ゾーン】

大阪歴史博物館の常設展示は、その歴史の積み重なりを体感できる造りになっており、
その時代の人々の暮らしや風俗が、ミニチュア模型や等身大の人形などで見事に再現されています。

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【難波宮大極殿の官女:10F古代ゾーン】

1F受付で入場料\600を支払うと、まずはエレベーターで一気に10Fへ。

そこには、難波宮の大極殿が再現されていました。
等身大の官吏や女官の人形は実にリアルで、タイムスリップの気分が味わえます。

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【難波宮大極殿の官吏:10F古代ゾーン】

このフロアの見所は、虚像と実像を織り交ぜたスケールの大きな演出。

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【難波宮大極殿のCG:10F古代ゾーン】

まず、頭上の大きなスクリーンに、大極殿での儀式が音響とCG映像により再現され、
それが終わると、スクリーン下の窓ガラスを覆っていたシャッターが静かに巻き上がります。

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【難波宮跡公園:10F古代ゾーン】

薄暗いフロアに一気に陽が差し込むと、眼下には大阪の街の大パノラマが現れ、
その真ん中に、CG映像の儀式が行われていたであろう難波宮(難波宮跡公園)が現れるという仕掛け。

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【難波宮大極殿の官吏:10F古代ゾーン】

その他にも、難波宮を再現した模型や当地で発掘された貴重な埋蔵物やなどが数多く展示されており、
一つ一つをざっと見るだけでも、かなりの時間を要しました。

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【難波宮出土物展示:10F古代ゾーン】

古代の展示物に後ろ髪を引かれながらも、今度はエスカレーターで9Fへ。
すると、そこには中世~近世の大阪が広がっていました。

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【石山本願寺復元模型:9F中世ゾーン】

中世のゾーンは、織田信長と戦った石山本願寺の時代のものが展示のメイン。

明応5年(1496)、本願寺8世法主蓮如が山科本願寺の別院として大坂御坊を建立しますが、
その経緯を述べた蓮如の御文が、「大坂」という地名が記された歴史上最古の文献だそうです。

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【馬喰:9F中世ゾーン】

天文元年(1532)、六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き打ちされると、
本願寺教団は本拠地を大坂御坊に移転、小さな御坊は次第に巨大な石山本願寺となってゆきます。

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【中世大坂の町並み:9F中世ゾーン】

それ以降、山科がそうであったように、石山本願寺周辺にも広大な寺内町が形作られるようになり、
これが現在の大阪の町並の原形となったと考えられています。

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【水都大坂:9F近世ゾーン】

その後、当時最大の宗教的武装勢力となった本願寺勢力は、天下統一を目指す織田信長と対立するようになり、
亀元年(1570)の9月12日、本願寺11世法主顕如は「信長は本願寺を取り潰す仏敵である」として挙兵します。

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【文楽人形:9F近世ゾーン】

数度の合戦の後、石山本願寺で篭城戦を展開する本願寺勢に手を焼いた信長は、
朝廷に働きかけ「勅命講和」という形で和議を提案。

弾薬や食料が逼迫していた本願寺勢も此れを受け入れ、天正8年(1580)3月7日に和議が成立します。

同年8月2日、顕如は約10年間篭城を続けた石山本願寺をついに明け渡しました。

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【江戸期の道頓堀:9F近世ゾーン】

信長が10年間かけても武力では落せなかった堅牢な「城」は、
顕如が退去した数刻後には火を放たれ、三日三晩燃え続けた挙句、灰になってしまいました。

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【江戸期の堂島:9F近世ゾーン】

その後の本願寺跡地は、豊臣秀吉が築いた大坂城、徳川家康が築いた大坂城と移り変わり、
現在の天守閣は、昭和6年(1931)に大阪人が築いた鉄筋コンクリートの天守閣。

それも、豊臣時代の天守台に秀吉時代の天守閣をのせた奇妙なものとなっています。

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【荷役:9F近世ゾーン】

また、同じフロアの近世ゾーンには、
活気あふれる大坂町人たちの暮らしが1/20の模型でリアルに再現されています。

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【近世大坂の町並み:9F近世ゾーン】

スクリーンに映し出される文楽人形の「浪花屋寅之助」を水先案内人として、
蔵屋敷や住友銅吹所(銅の精錬所)、船場の町並みや角の芝居など、
水都大坂の名所を巡るという趣向になっています。

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【遠足の子達:8F発掘調査体験コーナー】

8Fは、「なにわ考古研究所」と名づけられた発掘調査体験コーナー。
原寸大で再現された発掘現場で、調査方法や遺構・遺物の見かたを学ぶことができ、
この日も、遠足の小~中学生で大賑わいでした。

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【角座:7F近代ゾーン】

常設展示フロア最後となる7Fには、
大正~昭和初期にかけての心斎橋筋~道頓堀の町並みが原寸大で再現されており、
モダン都市・大阪の雰囲気が存分に味わえます。

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【角座前の親子:7F近代ゾーン】

白い等身大のマネキン人形は、柵や囲いが無い状態での展示なので、どれが人でどれが人形か、
展示物と入場客が渾然一体となり、不思議なムードを醸し出していました。

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【モダンな御婦人:7F近代ゾーン】

その他にも、6Fには特別展示室(有料・この日は準備中)、
2Fには無料の学習情報センター「なにわ歴史塾」(開架資料室)、
1Fにはレストランやミュージアムショップなどがあります。

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【ショーウインドー:7F近代ゾーン】

また、この日は残念ながら時間が無く断念しましたが、施設自体が難波宮跡の真上に建っているので、
B1Fに保存されている難波宮の遺構も見学することが出来ます。
(1日6回・各回40人)

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【おかえりなさい:7F近代ゾーン】

以上、駆け足での案内となりましたが、じっくり見て回れば丸一日でも足りないくらいの内容。
\600の入場料は良心的な価格設定ではないかと思います。

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【魚屋:7F近代ゾーン】

しいて言えば、大阪の「光」の部分に焦点を当てた「大阪万歳!!」の展示が殆どで、
「影」の部分がそっくり抜け落ちているのが気になりました。

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【針仕事:7F近代ゾーン】

災害や事件・事故、犯罪や公害などの暗いお話は一切無しで、
太平洋戦争に関する展示も、戦時下の暮らしとして少しのスペースが割かれているだけ。

各ゾーンごとに、もう少し多角的な視点の展示があってもいいのかなと思いました。

※1 現在の大阪市中央区法円坂付近にあった宮殿。
   
    大化の改新(645)の際に孝明天皇が難波に遷都。
    この年から難波宮の造成が始まり、6年後の651年にはほぼ完成。(前期難波宮)

    しかし、その35年後(686)には火災により難波宮は全焼。

    40年後の(726)、聖武天皇が再び難波宮の造営を開始。(後期難波宮)
    その後、(794)の平安京遷都に至るまで、
    難波を象徴する宮殿として大きな役割を果たしました。

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2008年6月15日 (日)

尾曳の城

先日の日記に書きましたが、6月9日(日)に館林市を訪ねました。

館林市は、「鶴舞う形」と言われる群馬県の南東部、
ちょうど鶴の頭の位置にある、人口8万人・市域61k㎡という小じんまりとした街。

この日のお目当ては、市内中心部にある館林城跡と、
その旧城域に整備された県立つつじヶ丘公園でした。

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【館林城跡の碑】

この辺りは、日本有数のつつじの名所として知られていますが、
今春は出かける機会が持てず、見ることが出来ませんでした。

来年のつつじのシーズンまで来ることはないと思っていましたが、
「つつじヶ丘公園の花菖蒲園が見頃を迎えています」という地方紙の記事を見て、
「花菖蒲もあるの!」ということで、出かけてみることにしました。

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【城沼】

北は渡良瀬川、南は利根川に挟まれたこの地域は、大小の湖沼が点在する低湿地で、
館林城はその立地特性を活かし、城沼(じょうぬま)を自然の要害として築かれた平城です。

城沼を東側の外堀として、沼に突き出た低台地には本丸・二の丸・三の丸・八幡郭・南郭が置かれ、
これらを取り囲むように、稲荷郭・外郭・惣曲輪、さらに、その西側には城下町が配され、
そして、それらすべてを土塁と堀がとり囲むという広大な城郭でした。

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【館林城土塁跡:本丸付近】

築城は、戦国時代の初期に当たる天文元年(1532)。
上州の豪族であった赤井照光が築城したと伝えられています。

しかし、今日に至るまで、それを裏付ける直接的な資料は発見されておらず、
伝えられているのは、築城にまつわる不思議な説話です。

ある日、照光は、子供達にいじめられ、傷ついた一匹の子狐を助けてやりました。
すると、その夜の夢の中に、今度は年老いた白狐が現れ、
照光を城沼付近まで案内し、尾を曳いて城の縄張を指し示したというものです。

この伝承から、館林城は別名を「尾曳城(おびきじょう)」と呼ばれています。

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【館林城石垣跡】

白狐の加護があってか、館林城は難攻不落の名城として歴史の舞台にしばしば登場します。

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【館林城土橋門】

永禄5年(1562)の上杉謙信の関東に進出に際して、
当時の城主赤井照景(照光の子)は従属せず抵抗の意を示しましたが、
結局、謙信により照景は館林城から追放され、上杉一族の長尾景長が城主となりました。

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【旧秋元家別邸】

景長の養子として後を継いだ長尾顕長の時代になると、
小田原の北条氏が館林城を手に入れます。

天正13年(1585)、顕長と兄の由良国繁(金山城主)を小田原に呼び寄せた北条氏直は、
謀略により二人を幽閉し、その間に軍勢を送り両城に攻め立てますが、容易には落ちません。

やむなく、城主2人の解放を条件に両城を開城させ、館林城には一族の北条氏則を送り込みました。

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【紫陽花:旧秋元家別邸】

その後、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原北条攻めに際しては、
石田三成率いる2万の豊臣勢が館林城を攻撃しましたが、
この時も館林城は微動だにしませんでした。

館林城攻略には、城の中心に突入するしかないと考えた三成は、
夜間に城沼に筏を投げ込んで2筋の攻撃路を確保します。

しかし、不思議なことに、夜が明けると2筋の筏の道は沼の中に水没して、
跡形もなく消え失せていました。

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【つつじヶ丘公園花菖蒲園】

三成は神がかり的な館林城をこれ以上武力で攻めることを断念し、
北条氏直を通じて降伏を勧告し、ようやく館林城を開城することが出来ました。

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【花菖蒲①】

北条氏滅亡の後、秀吉によって徳川家康が関八州に転封させられると、
家康腹心の榊原康政が10万石で館林城主となり、
榊原氏の後は松平氏→太田氏→井上氏と、徳川譜代の大名がめまぐるしく交代します。

後に5代将軍となる徳川綱吉も、寛文元年(1661)から約20年間、城主としてここで過ごしました。

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【花菖蒲②】

築城以来、狐の加護が信じられていた城下では、
狐の保護のために、犬は見つけ次第撲殺されていたそうで、
そこに、犬公方と呼ばれた徳川綱吉が入封したのは何かの因縁かもしれません。

綱吉の後、嫡子徳松が館林城主となりますが、僅か5歳で急逝。
父綱吉は悲しみの余り館林城を徹底的に破壊させました。

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【花菖蒲③】

おそらく、綱吉は狐の神罰の恐ろしさを感じたのではないかと思われます。

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【花菖蒲④】

その館林城を宝永4年(1707)に再築したのが、徳川綱重の第二子松平清武。

清武は伝承をもとに、狐が尾を曳き始めたあたりに初曳稲荷神社、
曳き終えたあたりに尾曳稲荷神社をお祀りしました。

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【花菖蒲⑤】

最後の城主は秋元氏で、幕末の文政3年(1821)に出羽山形より6万石で入封。
館林城は秋元氏2代で明治維新を迎えることとなります。

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【花菖蒲⑥】

残念ながら、城郭の大半は明治7年(1874)に焼失。

現在は、三の丸跡に文化会館、二の丸跡には市役所などが建ち並び、
往時の面影は殆どありません。

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【花菖蒲⑦】

かろうじて本丸・三の丸・稲荷郭などに、遺構や土塁の一部が残されており、
昭和57年(1982)には、土橋門が城下町館林のシンボルとして復元されています。

土橋門は、城の中心(三の丸)への出入口の一つで、
正門の千貫門に対し、通用門として使用されていた門だそうです。

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造り酒屋「丸木屋」:国登録文化財】

この日のもう1つのお目当てである花菖蒲園は、館林城の八幡郭跡にありました。

八幡郭付近は、明治の廃藩後には旧藩主・秋元家の別邸となっていましたが、
その後は、つつじヶ丘公園に編入されて、その庭は花菖蒲の名所として知られています。

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旧藩士宅「武鷹館」長屋門:市重要文化財】

秋元別邸のお庭と周辺を含めると、270品種・約40万本もの花菖蒲が咲き誇り、
優雅に城沼を彩っていました。

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旧上毛モスリン㈱事務所:県重要文化財】

つつじヶ丘公園の樹齢800年を超えるつつじの古木群は、全国にその名を知られていますが、
菖蒲園も見事で、一見の価値は十分にありました。
(晴天で到着時間が遅かったこともあり、花の方は写真には少々だれ気味でしたが・・・)

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田山花袋旧宅:市指定史跡】

館林城址・つつじヶ丘公園周辺には、向井千明記念子ども科学館や田山花袋記念文学館、
その他にも、熱帯植物園(温室)や水産学習館(淡水魚館)などの文化施設が充実。

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旧二業見番組合事務所

また、市役所周辺から東武鉄道館林駅までの間には、歴史的な建築物も散見できるので、
ぶらぶら歩いていると、あっという間に時間がたっていました。

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向井千秋記念こども科学館

この日は時間が足りず、見学できませんでしたが、
この周辺には美智子皇后陛下にゆかりが深い正田醤油㈱の正田記念館や、
日清製粉グループの製粉記念館など、産業技術史的に興味深い施設も沢山あります。

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【関東の駅100選「東武鉄道館林駅」:昭和12年改築】

見所いっぱいの館林、つつじの季節を待たずに再訪したいと思いました。
秋には彼岸花も見事だそうなので、その頃かなぁ。

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2008年6月 3日 (火)

大阪の背骨

今回も大阪のお話です。

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関西出身者以外には、一般的には知られていないかもしれませんが、
大阪市のど真ん中には、「上町台地」とよばれる高台(標高20m程度)が背骨のように走っています。

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【観音坂】

先日このブログで紹介した住吉大社付近を基点に北北東へ向かって約15km、
天王寺を経て大阪城の先の天満橋付近まで、
住吉区-阿倍野区-天王寺区-中央区にまたがって連なる細長い丘陵です。

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【路上の花】

市内で唯一の高台となるこの周辺は、先の大戦での空襲による被害が比較的少なかった為、
大阪が長い年月の中で培ってきた都市居住の姿を今に伝える、歴史的な街並が色濃く残っています。

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【谷町筋】

「上町台地」という名前が一般化したのは30年程前からだそうで、
それまでは「難波丘陵」や「上町丘陵」、昭和の初期には「天王寺高地」とも呼ばれ、
大阪平野の中でも最も古い地層の1つであり、最も早く人々の暮らしが始まった地域でありました。

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【石畳】

古く縄文時代、大阪平野が形成される以前は、
「上町台地」は、現在の住吉区辺りから北に向かって突き出ている岬でした。

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【旧熊野街道】

岬の西側はもちろん大阪湾=瀬戸内海。
そして、東側は河内湾と呼ばれる内海でありました。

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近松門左衛門墓所

その後、長い年月を経て、河内湾は淀川や旧大和川水系の土砂堆積により狭く浅くなり、
2~3世紀頃には、岬の先端から伸びた砂州(天満砂州)が対岸に届くに至り、
河内湾は完全に瀬戸内海から切り離され淡水化し、河内湖または草香江(くさかえ)と呼ばれる湖となりました。

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難波仮病院跡

現在の海岸線から10km内陸にあるJR森ノ宮駅は、上町台地の東端に当たりますが、
その付近からは森ノ宮遺跡(貝塚)が見つかっており、
遺跡の下層(縄文中期から後期)からは海水で育つマガキが、
上層(弥生中期まで)からは淡水産のセタシジミが、それぞれ見つかっています。

この事から、河内湖が塩水から淡水化した歴史を窺い知ることが出来ます。

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【階段】

4~5世紀になると、水に囲まれたこの地は、中国や朝鮮半島との交流の拠点になってゆきます。

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【坂道】

その頃に今日の大阪の基礎を作ったと云われているのが、第16代仁徳天皇(在位:313年~399年)。

難波の地に初めて都を造営した仁徳天皇は、
その後も、住吉津(すみのえのつ)の開港や治水工事(→茨田堤:まんだのつつみ・難波堀江:なにわのほりえ)など、
数々の事業を行ない、古代都市大阪の原型を整備しました。

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また、高殿から街を見下ろした時、人家の竈から炊煙が立ち上っていないことを見て、
「きっと生活が苦しいに違いない」と、庶民救済のためにその後数3間は租税を免除。

3年後、同じ高殿に登り、多くの家々に炊煙が立ち上っているのを見て、
「高き屋に のぼりて見れば 煙立つ 民の竈 賑わひにけり」(古今和歌集)
という有名な歌を詠んだと伝えられています。(※誤伝の説あり)

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【高津宮拝殿】

古事記・日本書紀にも、その間は倹約のために宮殿の屋根さえ葺き替えなかったという逸話が記されており、
仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の贈り名もその功績に由来しているそうです。

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【高津宮参道】

仁徳天皇の宮殿は難波高津宮(なにわのたかつのみや)と称せられ、
現在の大阪城付近に在ったとされていますが、残念ながらその遺構はいまだ発見されていません。

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【高津宮十六弁菊紋章】

以来、皇室をはじめ、時の幕府等からの度々の造営・寄進を受け、
難波の守護神と仰がれてきましたが、造営から約700年を経た正親町天皇の代、
天正11年(1583)の秀吉の大阪城築城に際して現在地に遷座されました。

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【空堀商店街】

高津宮を後にして、北へ200mほど歩くと「空堀商店街」に行き当たります。

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【漬物屋さん】

「空堀(からほり)」は地名ですが、秀吉が大阪城築城の際にこの付近に築いた南惣構堀(みなみそうがまえぼり)が、
水のない空の堀だったことに由来しています。

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【魚屋さん 1】

この地域は江戸時代から商業が発展し、庶民的な商店街として近隣の人々に親しまれてきました。

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【魚屋さん 2】

松屋町筋から上町筋まで、アーケードの長さは約800m。
このあたりも戦災を免れた地域で、昔懐かしさを感じさせる街並みが多く残っています。

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【八百屋さん 1】

その一方で、新しい世代の経営者達は、老朽化したお店を近代的に改装したり、
古い長屋を生かした美術展やコンサートを企画するなど、積極的な町おこし活動を行っており、
その結果として、「空堀商店街」は新旧の文化が混ざり合う魅力的な商店街となっています。

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【昆布屋さん】

府内でも、人口増加地域にある郊外駅前商店街が大型商業施設に押され、シャッター通りと化している中、
人口の減少が続く大阪市内のど真ん中にある商店街は活気に溢れていました。

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【八百屋さん 2】

今回は、地下鉄谷町6丁目駅~同・谷町9丁目駅の間を散策しただけですが、
観光で大阪に来られる方には、上町台地縦断コースをお勧めしたいと思います。

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【親子】

住吉大社を出発し、新世界四天王寺~谷町界隈~大阪城を経て大阪天満宮まで。

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【格子戸】

その間にも名所や史跡・旧跡、古い町並みなどが点々と連なっており、
また、途中で歩き疲れても地下鉄や市バスなどの公共交通機関が充実しているので心配なし。

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【紫陽花】

時代の転換期に関わった場所を訪ね、趣き深い景観を楽しみながらぶらりと歩くだけでも、
何千年にも及ぶ歴史の積み重なりを感じることが出来ます。

(今回も長くなってしまいましたsweat01

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