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2008年5月20日 (火)

摂津国一之宮~すみよっさん

先日、5月12日(火)に帰阪した折に、大阪市住吉区にある住吉大社に行ってきました。

この日は午前中に天王寺で所要があり、その後、住吉大社へ向かいました。

阪堺電気軌道の天王寺駅前駅から「チン電」に乗り込み、
最寄の住吉鳥居前までは10駅、距離にして約4.5kmの道程です。

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【住吉大社参道】

大阪市の住吉区と住之江区の境に鎮座する住吉大社は、
摂津国一之宮で、旧社格は官幣大社。

全国2,000余に及ぶ住吉神社の総本宮として知られ、
大阪府下では最も著名な神社の1つです。

地元では親しみを込めて「すみよっさん」と呼ばれており、
初詣客数でも全国屈指の人出を誇っています。

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【住吉大社碑】

その起源は古く、今から約1800年前の神功皇后の新羅出兵に遡ります。

「住吉大社神代記」には、以下のような出来事が記されています。

仲哀天皇の治世、新羅と手を結び造反を繰り返す南九州の熊襲族に、
全国制覇を目指す大和政権は長年にわたり手を焼いてきました。

熊襲との倭王の座を巡る争いに終止符をうつため、
仲哀天皇と神功皇后は、自ら大軍を率いて筑紫の香椎宮に進駐しますが、
軍議の最中、住吉大神が神宮皇后に神懸りし、神託を発します。

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【太鼓橋:淀君が寄贈したと伝えられる】

神託は「海のかなたに金銀の国(新羅)があるのでこれを制せよ」という、
朝鮮半島への遠征を促すものでした。

この神託を信じなかった仲哀天皇は急逝してしまい、
驚いた神功皇后は大祓えをして再び神を呼び寄せ、新羅遠征を決断します。

その後は、住吉大神の加護により、たちまち熊襲を平定。
続いて、自らが軍船を率いて新羅に出征し、大いなる戦果を上げました。

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【住吉鳥居:支柱が角柱なのが特徴】

皇后摂政11年(211)、戦勝凱旋した神功皇后は田裳見宿禰(たもみのすくね)に住吉大神を祀らせ、
後には「われは大神と共に相住まむ」と、自らも合せ祀られるようになったということです。(※1)

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【第四本宮】

実は、住吉大神とは一柱の神様ではなく、
底筒之男命(そこつつのおのみこと)、中筒之男命(なかつつのおのみこと)、
表筒之男命(うわつつのおのみこと)の3神(住吉三神)の総称で、
これに息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)、
即ち神功皇后を併せた4神が住吉大社の主祭神となっています。

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【第三本宮】

神名の筒(つつ)とは、古語では星を指す言葉で、
住吉三神は現在でいうオリオンの三ツ星が神格化されたものだという説もあります。

目印のない海上でオリオン座の三ツ星は、舟の位置を知るための重要な目印。
三ツ星の輝きは海人にとって、まさに神の導きであったのでしょう。

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【第三・第四本宮】

そのためか、住吉三神は古来より海上安全の守護神とされ、
遣隋使や遣唐使も、社の南側にあった住吉津(すみのえのつ)から出発していました。

住吉津は仁徳天皇が開いたとされる港で、
当地は、日本最古の国際港であり、シルクロードの日本の玄関口でもありました。

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【第二本宮】

現在の海岸線は、大和川の堆積物と埋め立てにより5~6kmほど西へ後退し、
潮の香りも漂ってこないほど遠く離れてしまいましたが、
境内の松の緑が、かつては海辺であったことを偲ばせています。

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【第二本宮】

広々とした境内に、ゆったりと配された本殿4棟は文化7年(1810)に再建されたもの。

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【置き千木:第二本宮】

通常、神社の本殿は、南又は東向きに建てられていることが多いのですが、
ここでは、海に向かって西向きに建てられています。

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【第一本宮】

第一本宮に底筒之男命、第二本宮に中筒之男命、
第三本宮に表筒之男命、第四本宮に息長足姫命がそれぞれ祀られています。

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【祈り①】

造営年次は新しいものの、桧皮葺・切妻造り妻入りの「住吉造り」とよばれる特色ある様式は、
日本古来の神社建築の原型をとどめた貴重なものとして、何れも国宝の指定を受けています。

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【祈り②】

また、住吉三神といえば、同じ航海神として共通点の多い綿津見三神(わたつみさんしん)との関係も興味深いところ。

綿津見三神の総本宮は、志賀海神社。

朝鮮半島への玄関口・博多湾に浮かぶ志賀島に鎮座し、
「ちはやぶる 鐘の岬を過ぎぬとも 我は忘れじ志賀の皇神」と、
万葉集にも詠まれている古社です。

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【御神木】

海上交通の要衝に守護神として鎮座する住吉三神と綿津見三神は、
「古事記」「日本書紀」に記されている「神産みの神話」に同時に登場します。

伊弉諾命(いざなぎのみこと)は、亡くなった妻・伊弉冉命(いざなみのみこと)を忘れられず、
後を追って黄泉の国まで行きましたが、変わり果てた妻の姿を見たために怒りに触れ、
命からがらこの世に逃げ帰ります。

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【人待ち】

黄泉国から戻った伊弉諾命は、日向の橘の小門の阿波岐原で死後の穢れを禊ぎによって落としますが、
その際に、多くの神とともに住吉三神と綿津見三神が生まれました。

水の底で身を清めると底筒之男命と底津綿津見命(そこつわたつみのみこと)の2神が、
水の中程で身を清めると中筒之男命と中津綿津見命(なかつわたつみのみこと)の2神が、
水の表面で身を清めると表筒之男命と上津綿津見神(うわつわたつみのみこと)の2神が、
それぞれ、伊弉諾命の体から生まれたとされています。

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【高燈篭】

何故、同じような神が同時に2組生まれたのか?

私はむしろ、元々は1つの神であったものが、
記・紀編算の際に、何らかの意図で2組に分けられたのではと考えています。

元々は同じ神様であるのだが、古代王権が九州から畿内(近畿)に東遷する際に、
九州に留まった一族(安曇氏?)が信奉する神を綿津見三神とし、
近畿へ移った一族(天孫系氏族?)が信奉する神を住吉三神としたのではないかと。

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【摂社・大海神社(05年12月撮影)】

住吉大社の創建以来の歴代宮司家・津守氏は田裳見宿禰の末裔で、
その氏神は住吉大社の境内摂社の大海神社。

一般的に大海神社は、(だいかいじんじゃ)と呼ばれていますが、
正式には(おおわたつみじんじゃ)と読みます。

このあたりに、二組の神の謎を解き明かす鍵が隠れていそうです。

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【チン電】

興味の無い方には、まったく「何のこっちゃ!?」でしょうが、
一旦、古代の謎にはまってしまった者には、「すみよっさん」は格好の場所。

夢想は際限なく広がり、帰りの「チン電」はあっという間に目的駅に到着していました。

(※1) 当初は摂津国武庫郡菟原(現神戸市東灘区)祀られていましたが、
       仁徳天皇の治世に現在地に移されたようです。

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2008年5月 1日 (木)

中世の面影~上州白井宿

先月の28日(月)に、かつては白井城(しろいじょう)の城下町として栄え、
その後も市場町として賑わった白井宿(しろいじゅく:現・群馬県渋川市)を訪ねました。

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【白井宿】

白井宿は、利根川と吾妻川の合流点の河岸段丘上に発達した集落。

古くは、10世紀に成立した百科事典「和名類聚抄」にもその名が見え、
群馬郡13郷の1つ、群庁の所在地「白衣郷」として記録された歴史ある街です。

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【利根川・吾妻川合流点】

中世になると、関東管領の山内上杉氏の重臣、長尾景仲が西方の丘陵上に白井城を築城します。

吾妻川に面して城郭、その東に武家屋敷と職人街、
丘陵下には町人・農民が配置され、城下町としての形が整いました。

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【白井城跡】

白井城は他の北関東の城郭と同じように、
上杉・北条・武田各氏の抗争の波に揉まれた歴史を持っています。

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【白井城跡:石垣】

天文15年(1546)の河越の夜戦で北条氏康に敗れた上杉憲政は、
一旦平井城(現・群馬県藤岡市)に逃れますが、天文21年(1552)には越後に亡命。

北関東で勢力を拡大した北条氏は、近隣の厩橋城(前橋城)や沼田城(現・群馬県沼田市)を手中にします。

しかし、白井城と箕輪城(現・群馬県高崎市)は北条方に従はず、
その後、上杉憲政から家督を継いだ越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の関東侵攻への足がかりとなりました。

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【白井城跡:三日月堀】

謙信の死後、北条氏の再度の北進で白井城は一旦は北条方となりますが、
永禄13年(1570)の武田信玄の上州侵攻後は、真田幸隆の功により武田方の出城となります。

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【白井城跡:土塁1】

しかし、天正元年(1573)の信玄の死後には、北条方が再度奪回。

この間、城主である長尾氏は、上杉氏-武田氏-上杉氏-北条氏-滝川氏-北条氏と、
目まぐるしく主を変えました。

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【白井城跡:土塁2】

天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際には、北条方の北関東防衛の拠点に位置付けられましたが、
松井田城(現・群馬県安中市)を攻略した前田利家・上杉景勝から攻撃を受けると、
当時の城主・長尾政景はすぐに降伏を決断します。

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【白井城跡から赤城山を望む】

北条氏に心底服従していない長尾氏が、戦意なく開城するのは当然の成り行きで、
この時を以て、白井城は戦国の城としての役目を終えました。

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【源空寺:本田家墓所】

徳川家康が関東入りした後は、家康の命により徳川氏普代の本多氏が入城。

その後も、井伊氏や戸田氏、西尾氏など頻繁に城主が代わりましたが
元和9年(1623)、当時の城主・本多紀貞が後継ぎの無いまま病死したことにより廃城となりました。

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【白井堰】

廃城後、代官支配の地となった白井郷の住民は、
代官主導の下、中世の城下町の特色である短冊形の町割を活かし、半農・半商で経済を支えます。

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【井戸】

沼田・中之条・渋川・前橋のほぼ中間点に位置し、沼田街道・草津街道・三国街道への接続がよく、
利根・吾妻両河の渡河点でもあったことから市場町として発展。

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【商家】

上之町・中之町・下之町の900mにおよぶ町並みが形成され、
五・十日の六斉市(ろくさいいち)が各町間で交互に開かれるようになります。

元禄13年(1700)時点で、造り酒屋がすでに5軒。
この頃には、文人墨客をはじめ、多くの旅人が往来するまでになっていました。

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【石灯籠】

その他にも、露天の商いが中心ではありましたが、
市で取り扱われた商品は馬草・薪・材木をはじめ、
麻・繭糸・木綿・真綿・煙草・塩・茶・水油・米麦・豆など多岐にわたり、
その商圏は3郡24ヶ村に及んでいたそうです。

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【火の見櫓】

このように、成立過程を見てゆくと白井郷は宿場町ではありません。

しかし、街道の中央には白井堰と呼ばれる用水路が流れ、
両脇を通る街道沿いに商家が立ち並ぶ街並みは、宿場町の特徴と合致し、
その集落形態から「白井宿」と呼ばれるようになったのだそうです。

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【散歩】

江戸末期と明治に発生した大火により、古い建物の多くは消失していますが、
わずかに残る土蔵や点在する井戸などが、往時の面影を今に伝えています。

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【八重桜】

近年になって、街並みの保存と整備も進められているようで、
電線は全て地中化され、堰の両岸には約100本の八重桜が植えられています。

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【八重桜】

この日も散り始めではありましたが、見事な花を咲かせていました。

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【鯉のぼり】

この日は、平日の午前中ということもあってか訪れる人は疎ら。

聞けば、前日28日(日)は、この街のビックイベント「桜祭り」で、
武者行列が街を練り歩き、結構な賑わいであったとの事。

「武者行列」を見逃したのは残念ですが、落ち着いた佇まいを取り戻した白井宿で、
のんびりと良い時間が過ごせました。

<付記>

現在、白井城跡の二の丸・三の丸部分は殆ど農地化され、
本丸の一部も農地とし利用されていますが、
この日、たまたま本丸付近で農作業中の斉藤さんにお話をうかがうことが出来ました。

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【斎藤氏】

斉藤さんは、白井城城主・長尾氏につかえた斉藤氏の子孫。
(美濃の戦国大名斉藤道三の系譜だそう)

斉藤さんが子供の頃(60年前)には、本丸一帯は鬱蒼とした木々に覆われ、
近寄るのも不気味な城山であったとの事。

しかし、土塁や空堀はもっと良い状態で残っていたそうで、
大雨の度に坂東太郎が暴れだし、ずいぶんと崩れてしまったようです。

その他にも、大地主だった斉藤家が遭遇したGHQによる農地解放のお話や、
名産品のこんにゃく芋の相場や群馬の揚水力発電の事情など、
ここには記していませんが、興味深いお話を沢山聞かせていただきました。

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【いただいた長ネギと菜の花】

おまけに、私の単身赴任を聞くと「野菜を食べにゃイカン」と、
畑から長ネギを引っこ抜き、菜の花を摘んで帰り際に持たせてくれました。

普段はあまり自炊はしないのですが、
この日の夕飯は長ネギたっぷりの味噌汁と菜の花の御浸しを自作。

おいしく頂きました。

斉藤さん、有難うございました。

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