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2008年3月 2日 (日)

もののふ達は語らず

高崎市のシンボル「白衣大観音」は、以前にこのブログで紹介しましたが、
そこから車で3分の所、高崎観音山の南麓に清水寺というお寺があります。

大同3年(808)、坂上田村麿が東国蝦夷征討の際に戦死した将兵の冥福を祈り、
京都の清水寺から千手観音を勧請し、開基したと伝えられている真言宗の古刹です。

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【清水寺】

全国的な知名度はありませんが、近在の人々からは養蚕にご利益があるお寺として信仰を集めています。

高崎観音山の地名も、創建の新しい「白衣大観音」から来ているのではなく、
1200年の歴史を誇るこの清水寺が、千手観音を本尊としていることから由来しているそうです。

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【石段】

麓から約550段の石段の途中には真っ赤に塗られた仁王門があり、
登りつめたところには、これまた真っ赤な楼門風の舞台と観音堂(本堂)。

そして、その本堂の脇には田村堂というお堂があり、中には36体もの木像が奉納されていました。

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【観音堂(本堂)①】

堂内の額によりますと、元治元年(1864)、下仁田(群馬県廿楽群下仁田町)において、
水戸天狗党と戦って戦死した高崎藩士36名の木像ということでした。

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【観音堂(本堂)②】

水戸天狗党とは、言わずと知れた幕末の水戸藩における尊王攘夷急進派。

文政12年(1829)に水戸藩9代目藩主となった徳川斉昭(なりあき)は、学者の藤田東湖ら下級の武士を登用し、
質素倹約・海防と軍備の充実・藩校弘道館の設置・全領の検地を柱とした積極的な藩政の改革を行いました。

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【田村堂】

やがて、ペリーの来航で対外危機が高まると、斉昭は幕府の政治にも関わるようになり、
斉昭とその側近の東湖は全国の尊王攘夷派のシンボル的存在となってゆきました。

その斉昭のお膝元で、尊皇攘夷運動を急進的に行なおうとしたのが水戸天狗党でした。

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【木造由来の額】

開国論と尊皇攘夷論は国内を2分しますが、結局幕府は開国を実施。
嘉永7年(1854)1月16日に、アメリカと日米和親条約締結に踏み切りました。

そして、開国派の大老井伊直弼(いいなおすけ)と対立した斉昭は、
安政5年(1858)の大獄で永蟄居の処分を受けます。

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【高崎藩士木像①】

それを受け、斉昭を支持する天狗党も、諸生党とよばれる保守派との藩内抗争に敗北。
これ以降、天狗党の浪士は、日本国中で過激な行動をとるようになります。

万延元年(1860)の桜田門外の変や文久2年(1862)の坂下門外の変等の事件は、
水戸浪士によって引き起こされた事件です。

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【高崎藩士木像②】

過激な行動の結果、徐々に追い詰められた天狗党は、元治元年(1864)3月、
武田耕雲斎(たけだこううんさい)を総大将として筑波山で挙兵するに至り、
1,000名にのぼる軍勢が水戸藩領を脱出。

当時、京に在った斉昭の子、徳川慶喜に尊王攘夷を説くために西を目指しました。

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【高崎藩士木像③】

当初から、天狗党は西に進軍する際に、高崎藩と正面から衝突しないようにと、
高崎城下を迂回して間道を通り、藤岡から下仁田に抜けるルートを選択していました。

しかし、高崎藩側は「おめおめと天狗党に素通りされたら武門の名折れ」とばかりに追撃を開始。

同年の11月16日、高崎軍と天狗党は下仁田で交戦することとなりました。
高崎藩士300余名と水戸浪士1,000余名とがあいま見えたこの戦闘は、下仁田戦争と呼ばれています。

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【高崎藩士木像④】

大砲15門を備えた近代装備の天狗党に対して、
鎧兜の高崎藩士は善戦しますが、いかんせん多勢に無勢。

天狗党の戦死者は4名であったのに対し、
高崎軍は36名の戦死者を出し、大敗を喫してしまいました。

この戦は、武士が甲冑に身を包んだ最後の戦と云われており、
この後、慶応2年(1866)には高崎藩もフランス式兵制を取り入れ近代化に踏み切っています。

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【高崎藩士木像⑤】

田村堂に奉納されている木像は、殆どが甲冑に身を包んだ若武者。

木像は黙して語りませんが、武士の時代の最後に、
武士として散っていった彼らの心中はいかがなものだったのでしょうか。

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【高崎藩士木像⑥】

一方、高崎軍を打ち破り美濃に至った一行は、中山道を通って真っ直ぐ京都を目指そうとしましたが、
道中には追討の諸藩の軍勢が集結しており、やむなく越前・若狭ルートを採ることに。

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【高崎藩士木像⑦】

すでに暦は12月。
降り積もる雪の中を重い大砲を引いた馬が、峠を越えることは不可能かと思われましたが、
一行は奇跡的に峠越えに成功、越前入りを果たしました。

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【高崎藩士木像⑧】

しかしながら、越前に入ってからも雪の山道は続き、
周囲には計1万数千人ともいわれる諸藩の軍勢がせまっていました。

一行が新保(しんぼ:現在敦賀市内)にたどり着いた頃にはすっかり包囲され、
しかも、頼みにしていた徳川慶喜がその追討軍の指揮を執っていることを知ります。

ここで、遂に天狗党の首脳は進軍を断念し、新保のすぐ近くに陣取っていた加賀藩に投降。
京へ向け水戸を出発してから50日余りで、一行の長い旅も終わりを告げることになりました。

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【高崎藩士木像⑨】

捕らわれた天狗党に対する処分は非常に厳しいもので、総大将の耕雲斎は一族根絶やし、
その他にも死罪が352名にものぼり、日本の長い歴史上でも類を見ない大量の処刑が行われました。

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【高崎藩士木像⑩】

天狗党事件以降、時代は大きく動き、薩摩藩・長州藩は討幕への動きを強め、ついに幕府は滅亡。
武士の時代が名実ともに終わりを告げました。

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【高崎藩士木像⑪】

天狗党の人々が敦賀で処刑されてから100年後の昭和40年(1965)、水戸市と敦賀市は姉妹都市となり、
それ以降、毎年両市の小学生の交流会が行われており、天狗党の悲劇を今に伝えています。

しかしながら、高崎藩士36名の奮闘については、語られることも少なく、
地元の方でも知る人が少ないのは、なんとも悲しい気がします。

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【碓氷川から榛名山を望む】

武士として戦場に散った36名の高崎藩士と、
維新を待ちきれず蜂起し、罪人として刑死した352名の水戸浪士。

彼らは間違いなく、この国の礎となったと思います。

140年前の幕末の動乱期から、この国の形が出来上がるまでに、
多くの方々の血が流されたことを再認識できた日でした。

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コメント

いつもながらの内容の濃い記事、ありがとうございました。
天狗党のことはまったく知りませんでした。
北関東や東北は幕末幕府側の藩が多かっただけに、その混乱ぶりはすざまじいものがありますね・・・
「時代に乗り切れなかった」「先見の明がなかった」とひとことで片づけるのは簡単ですが
会津や白河、そしてこの天狗党のひとびとのことを思うと、落涙を禁じえません。
ひとはそう簡単には、小さい頃から信じていたものを捨てられません。

それにしても榛名山のながめ、すばらしいです・・・・
風景の中にこういう山があると、ほっとします。
千葉は山が無くて本当にさびしいです。

投稿: きょんち | 2008年3月 2日 (日) 08時14分

下仁田と言えばネギとコンニャクが有名で、お土産のネギせんべいを食べたことがある…程度の知識しかありませんでしたが、今回yufukiさんの記事で、静かな町に壮絶な歴史のひとこまがあったことを知りました。ありがとうございました。

それにしても、田村堂の三十六体の人形は心の懊悩をよく表していると思います。カメラマンの腕もよいのだと思われますが。

その人形を見ていて少し気にかかったことがありました。①若武者だけではなく、年配者・老人もいたのではないか? ②天狗党が大砲を備えていることを、事前の情報で知らなかったのだろうか?目立つ武器のはずだが?しかも、高崎藩は代々江戸幕府の前線基地の役割をする藩で、情報は多くて速いはずだが…③水戸天狗党が旗を巻いて進軍し、目立たぬように脇道を通るなど、交戦を避けたい意思を示していたのに、なぜ高崎藩は仕掛けたのだろうか?…などの疑問をもちました。

インターネットで調べてみました。下仁田戦争の戦闘配置図を見ますと、高崎藩の200人の部隊は天狗党の進路をふさぐ形で、布陣しています。これに対し、天狗党は1000人程の人数を3隊に分け、1隊は高崎藩部隊の正面に対峙し、他の2隊は、それぞれ北と南からの攻撃に備えて布陣し、高崎藩部隊を三方から包囲する隊形です。高崎藩は単純な一方向からの突撃のみを敢行する陣形でした。

武器に関する事前の情報が不足したまま、しかも戦略をもたずに200人が斬り込んだのではないか、という疑いをもちました。

相手はすでに筑波山での戦闘を経験し、四面楚歌の中で行軍する水戸の猛者たちです。闘うことへの思い入れが違うのではないか、と感じました。戦死者36人対4人というのは、9倍の差があります。天狗党は旅の途中で疲労しており、食糧も不足しがちで、しかもこの先京都までの長道中を考えれば、弾薬を無駄にしたくない心理があります。天狗党のうち、三分の一ほどが下仁田での戦闘に参加したと思われ(残りは北と南に待機)、高崎藩200人は、天狗党300人ほどと斬り合ったと思われます。ホームでの戦いにおいて、アウェイに比べて9倍の戦死者を出したのは惨敗と言えるのではないでしょうか。

そこで、現段階での私の仮説は、①高崎藩の200人は精鋭部隊ではなく、藩内の有志を寄せ集めた臨時の部隊ではなかったか?②高崎藩は本当に闘う意思はなく、ポーズとして戦争の形を作り、幕府への点数稼ぎをしたのではないか?ということです。

いわば、高崎藩200人は藩の政治的な駆け引きの中で突撃していったように思われます。尊皇か、佐幕か、開国か、攘夷かという時代のうねりのなかで、藩の保身のために散った命ではなかったか。(あくまでも仮説です)

そのように考えると、あの田村堂の三十六体の人形の表情がさらに哀しい色合いを帯びて見えてくる気がします。

投稿: fou | 2008年3月 2日 (日) 19時12分

こんにちは!!
折りしも、NHK大河ドラマ“篤姫”が放映されていて、宮尾登美子原作“天璋院篤姫”によると、いよいよこれから井伊直弼と

投稿: kazuo | 2008年3月 5日 (水) 19時51分

すみません、コメント途中で送信ボタンを押してしまって、“尻切れトンボ”になってしまいました。(汗)
いつもながらの素晴らしい記事、興味深く拝見しました。

投稿: kazuo | 2008年3月 5日 (水) 20時01分

きょんちさん
お返事何時も遅くなり、恐縮です。

維新は一握りのヒーローたちで成し遂げられたものではなく、
沢山の名も無き人たちの人生の結果。

その影に、多くの忠義の人々の血が流れたことは、
もっと語られるべきだと思います。

投稿: yufuki | 2008年3月 7日 (金) 11時31分

fouさん
何時も有難うございます。

下仁田戦争の高崎藩大敗の原因に関する考察、
興味深く拝読しました。

私も、この大敗ぶりは何なんだろう?と思いましたが、
fouさんの考察を読んで、なるほど!と思いました。

本文では「ほとんど若武者」と書きましたが、
確かに、木像の中には50歳を越える老兵のものもありました。

たぶん、高崎藩の主力部隊というものではなかったのだろうと思います。

政治的な駆け引きで落とした命であるなら、
仰るように、木像の顔がよけいに哀しげに見えてきました。

投稿: yufuki | 2008年3月 7日 (金) 11時42分

kazuoさん
何時も有難うございます。

この清水寺にも、下調べせずぶらりと立ち寄りましたが、
そこには語られることの少ない歴史がありました。

興味のない人には何でもないことなんでしょうが、
私としては非常に楽しく、これだから「ぶらぶら」は止められないなぁと思います。

投稿: yufuki | 2008年3月 7日 (金) 11時47分

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