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2008年3月 7日 (金)

お城に咲く梅

3月4日(火)に、お休みで帰阪した折に、
大阪を代表する早春の風物詩の一つ、大阪城公園の梅林に行ってきました。

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【大阪城公園の梅①】

現在大阪城梅林は、本丸内堀の東側の二の丸付近にありますが、
徳川時代には、城の警備役である大阪加番大名とその家来の長屋が建ち並ぶ場所でした。

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【大阪城公園の梅②】

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【大阪城公園の梅③】

その後、維新の世になっても、明治政府が大阪城内一帯を軍用地として転用したため、
太平洋戦争が終結するまでは、長らく一般市民は立ち入りが出来ませんでした。

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【大阪城公園の梅④】

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【大阪城公園の梅⑤】

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【大阪城公園の梅⑥】

その後、GHQによる接収の時代を経て、
昭和23年(1948)、外堀を含む広域が公園として整備され「大阪城公園」が誕生。

広く一般市民に開放されるようになりました。

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【大阪城公園の梅⑦】

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【大阪城公園の梅⑧】

梅林の起源は意外と新しく、昭和47年(1972)。

現在の大阪府知事・橋本氏の出身校、府立北野高校の同窓会が、
開校100周年事業の一環として22種・880本の梅を大阪市に寄贈したことに始まります。

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【大阪城公園の梅⑨】

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【大阪城公園の梅⑩】

その後、昭和49年(1974)には「大阪城梅林」として開園。
今では梅の木も93種・1250本に達し、西日本随一の梅林に成長しました。

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【大阪城公園の梅⑪】

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【大阪城公園の梅⑫】

この日は平日でしたが、天気も良く大変な人出でした。

寒暖が目まぐるしい今年は、木によって開花にばらつきこそありましたが、
ちょうど見頃だったのかなと思います。

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【大阪城公園の梅⑬】

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【大阪城公園の梅⑭】

豊臣秀吉による築城以来約360年の間、
ほんの60年前までは一貫して軍事施設であった大阪城。

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【大阪城公園のメジロ①】

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【大阪城公園のメジロ②】

その同じ場所で、うららかな早春の陽を浴びながら、のんびり写真撮影できるこの時代は、
なんだかんだ言っても、いい時代なんだろうなと思いました。

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2008年3月 2日 (日)

もののふ達は語らず

高崎市のシンボル「白衣大観音」は、以前にこのブログで紹介しましたが、
そこから車で3分の所、高崎観音山の南麓に清水寺というお寺があります。

大同3年(808)、坂上田村麿が東国蝦夷征討の際に戦死した将兵の冥福を祈り、
京都の清水寺から千手観音を勧請し、開基したと伝えられている真言宗の古刹です。

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【清水寺】

全国的な知名度はありませんが、近在の人々からは養蚕にご利益があるお寺として信仰を集めています。

高崎観音山の地名も、創建の新しい「白衣大観音」から来ているのではなく、
1200年の歴史を誇るこの清水寺が、千手観音を本尊としていることから由来しているそうです。

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【石段】

麓から約550段の石段の途中には真っ赤に塗られた仁王門があり、
登りつめたところには、これまた真っ赤な楼門風の舞台と観音堂(本堂)。

そして、その本堂の脇には田村堂というお堂があり、中には36体もの木像が奉納されていました。

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【観音堂(本堂)①】

堂内の額によりますと、元治元年(1864)、下仁田(群馬県廿楽群下仁田町)において、
水戸天狗党と戦って戦死した高崎藩士36名の木像ということでした。

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【観音堂(本堂)②】

水戸天狗党とは、言わずと知れた幕末の水戸藩における尊王攘夷急進派。

文政12年(1829)に水戸藩9代目藩主となった徳川斉昭(なりあき)は、学者の藤田東湖ら下級の武士を登用し、
質素倹約・海防と軍備の充実・藩校弘道館の設置・全領の検地を柱とした積極的な藩政の改革を行いました。

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【田村堂】

やがて、ペリーの来航で対外危機が高まると、斉昭は幕府の政治にも関わるようになり、
斉昭とその側近の東湖は全国の尊王攘夷派のシンボル的存在となってゆきました。

その斉昭のお膝元で、尊皇攘夷運動を急進的に行なおうとしたのが水戸天狗党でした。

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【木造由来の額】

開国論と尊皇攘夷論は国内を2分しますが、結局幕府は開国を実施。
嘉永7年(1854)1月16日に、アメリカと日米和親条約締結に踏み切りました。

そして、開国派の大老井伊直弼(いいなおすけ)と対立した斉昭は、
安政5年(1858)の大獄で永蟄居の処分を受けます。

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【高崎藩士木像①】

それを受け、斉昭を支持する天狗党も、諸生党とよばれる保守派との藩内抗争に敗北。
これ以降、天狗党の浪士は、日本国中で過激な行動をとるようになります。

万延元年(1860)の桜田門外の変や文久2年(1862)の坂下門外の変等の事件は、
水戸浪士によって引き起こされた事件です。

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【高崎藩士木像②】

過激な行動の結果、徐々に追い詰められた天狗党は、元治元年(1864)3月、
武田耕雲斎(たけだこううんさい)を総大将として筑波山で挙兵するに至り、
1,000名にのぼる軍勢が水戸藩領を脱出。

当時、京に在った斉昭の子、徳川慶喜に尊王攘夷を説くために西を目指しました。

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【高崎藩士木像③】

当初から、天狗党は西に進軍する際に、高崎藩と正面から衝突しないようにと、
高崎城下を迂回して間道を通り、藤岡から下仁田に抜けるルートを選択していました。

しかし、高崎藩側は「おめおめと天狗党に素通りされたら武門の名折れ」とばかりに追撃を開始。

同年の11月16日、高崎軍と天狗党は下仁田で交戦することとなりました。
高崎藩士300余名と水戸浪士1,000余名とがあいま見えたこの戦闘は、下仁田戦争と呼ばれています。

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【高崎藩士木像④】

大砲15門を備えた近代装備の天狗党に対して、
鎧兜の高崎藩士は善戦しますが、いかんせん多勢に無勢。

天狗党の戦死者は4名であったのに対し、
高崎軍は36名の戦死者を出し、大敗を喫してしまいました。

この戦は、武士が甲冑に身を包んだ最後の戦と云われており、
この後、慶応2年(1866)には高崎藩もフランス式兵制を取り入れ近代化に踏み切っています。

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【高崎藩士木像⑤】

田村堂に奉納されている木像は、殆どが甲冑に身を包んだ若武者。

木像は黙して語りませんが、武士の時代の最後に、
武士として散っていった彼らの心中はいかがなものだったのでしょうか。

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【高崎藩士木像⑥】

一方、高崎軍を打ち破り美濃に至った一行は、中山道を通って真っ直ぐ京都を目指そうとしましたが、
道中には追討の諸藩の軍勢が集結しており、やむなく越前・若狭ルートを採ることに。

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【高崎藩士木像⑦】

すでに暦は12月。
降り積もる雪の中を重い大砲を引いた馬が、峠を越えることは不可能かと思われましたが、
一行は奇跡的に峠越えに成功、越前入りを果たしました。

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【高崎藩士木像⑧】

しかしながら、越前に入ってからも雪の山道は続き、
周囲には計1万数千人ともいわれる諸藩の軍勢がせまっていました。

一行が新保(しんぼ:現在敦賀市内)にたどり着いた頃にはすっかり包囲され、
しかも、頼みにしていた徳川慶喜がその追討軍の指揮を執っていることを知ります。

ここで、遂に天狗党の首脳は進軍を断念し、新保のすぐ近くに陣取っていた加賀藩に投降。
京へ向け水戸を出発してから50日余りで、一行の長い旅も終わりを告げることになりました。

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【高崎藩士木像⑨】

捕らわれた天狗党に対する処分は非常に厳しいもので、総大将の耕雲斎は一族根絶やし、
その他にも死罪が352名にものぼり、日本の長い歴史上でも類を見ない大量の処刑が行われました。

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【高崎藩士木像⑩】

天狗党事件以降、時代は大きく動き、薩摩藩・長州藩は討幕への動きを強め、ついに幕府は滅亡。
武士の時代が名実ともに終わりを告げました。

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【高崎藩士木像⑪】

天狗党の人々が敦賀で処刑されてから100年後の昭和40年(1965)、水戸市と敦賀市は姉妹都市となり、
それ以降、毎年両市の小学生の交流会が行われており、天狗党の悲劇を今に伝えています。

しかしながら、高崎藩士36名の奮闘については、語られることも少なく、
地元の方でも知る人が少ないのは、なんとも悲しい気がします。

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【碓氷川から榛名山を望む】

武士として戦場に散った36名の高崎藩士と、
維新を待ちきれず蜂起し、罪人として刑死した352名の水戸浪士。

彼らは間違いなく、この国の礎となったと思います。

140年前の幕末の動乱期から、この国の形が出来上がるまでに、
多くの方々の血が流されたことを再認識できた日でした。

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