« 大坂最初の自治都市 | トップページ | 河内の開拓者 (2) »

2008年1月21日 (月)

河内の開拓者 (1)

最近、群馬で休日を過ごすことが少なく、
仕事で帰阪した際にお休みをとるパターンが続いております。

その為、本日も前回に引き続き、大阪からのレポートです。

********************************************************************************************

本日ご紹介するのは、わが故郷・東大阪市の北辺に位置する、
JR学研都市線「鴻池新田(こうのいけしんでん)」駅周辺です。

このあたりは、旧農村が高度成長期以降、急速に都市化した地域で、
現在は、住宅やマンション、中小の工場や物流倉庫等が立ち並んでいます。

また、少なくなったとはいえ、まだ田畑も残っており、井路と呼ばれる農業用水路も健在。
町中を縫うように走っており、所々にかつての農村の面影を見ることが出来ます。

T_imgp5301
【井路①】

「新田」がつく地名は、全国各地に数多く残っていますが、
江戸時代初期の幕府による検地後に開墾された農地は、
水田・畑地を問わず「新田」と呼ばれたため、地名として定着したようです。

このあたりも、約300年前に行われた旧大和川の付け替え工事に以降に開発された地域で、
その開発を担ったのが、当時、天下一の豪商と謳われた三代目鴻池善右衛門・宗利(むねとし)でした。

T_imgp5287
【井路②】

現在の大和川は、奈良盆地を出ると真っ直ぐ西へ、
大阪市と堺市の市境に沿って大阪湾へ注ぎ込んでいますが、
元禄17年(1704)の付け替え工事以前は、大阪府柏原市付近で南から流れてくる石川と合流し、
久宝寺川や玉櫛川などに幾筋にも分かれながら、河内平野を北西に流れていました。

その後、枝分かれした河川は、河内平野北部にあった新開池・深野池などの湖沼や、
淀川水系の寝屋川に注ぎ込み、大阪湾へと繋がっていました。

T_r0010408
【壁の水車】

それらの河川が運ぶ肥沃な土砂のおがけで河内平野は、
平安の昔より農地として利用され、多くの人々の暮らしを支えてきましたが、
その反面、扇状に枝分かれした河川は大雨が降るたびに氾濫するため、
流域の村々は、毎年のように洪水の被害を受けていました。

江戸時代になっても、元和(1615~)から元禄(~1704)に至る約90年間で、
作物が全滅するような大水害が、記録に残っているだけでも15回。

氾濫に苦しむ流域の農民たちは、土地を洪水から守るため、
大和川の流れを石川との合流点から西方へ向け、
住吉・堺方面に流れるように付け替える案を幕府に嘆願しました。

T_r0010436
【廃農家】

嘆願の理由は、大きく2点。

1点目は、この付替えによって15万石以上にもおよぶ村々が水害の被害をまぬがれること。
2点目は、旧河床や湖沼の跡に新田が開けて作物の増収が期待できること。

というものでした。

T_imgp5273
【土蔵窓】

一方、新しい大和川の付替え予定地にあたる村々は、
川の掘削や堤防工事によって先祖伝来の家や田畑がつぶされるため激しく反対。

推進派と反対派双方が幕府に対して嘆願合戦を繰り広げますが、
5度に及ぶ付け替え調査の結果、幕府は一旦、工事不要の決定をするに至ります。

T_r0010462
【井路③】

幕府の決定を農民が覆すことは当時では考えられないこと。
推進派の農民たちも、次第に付け替え運動から離れてゆきました。

そんな中、その後も諦めることなく幕府に掛け合ったのが、
今米村(現東大阪市)の庄屋、中九兵衛(なか きゅうべい)でした。

工事不要の決定後も、九兵衛は幾度も嘆願を行いますが、
ついには、幕府から嘆願を行うことすら禁止されてしまいます。

そして、明暦2年(1656)、九兵衛は夢叶うことなくこの世を去ってしまいます。

T_r0010414
【中甚兵衛顕彰碑】

しかし、そこで大和川付け替えへの情熱は途絶えることはありませんでした。
九兵衛の遺志は子の甚兵衛にしっかりと受け継がれていたのです。

甚兵衛は、父親にもまして精力的に各地を奔走、嘆願を続けました。

そして、工事不要の決定から50年近く経った元禄17年(1704)、
ついに親子二代にわたる熱意は幕府に認められ、大和川付け替え工事実施が決定。

河内農民の悲願が叶えられることになりました。

T_r0010373_2
【歩道脇の花】

工事後、広い旧川床や新開池・深野池などの湖沼地は埋め立てられ新田となり、
また、商品作物としての木綿も栽培され、河内木綿の名が全国に広がりました。

こうして、この地域は商都大坂の重要な後背地となってゆきました。

その新田開発を請負い経営した人物の一人に、冒頭で記した三代目鴻池善右衛門・宗利がいました。

(この章、次回に続きます。)

にほんブログ村 写真ブログへ にほんブログ村 写真ブログ 建物・街写真へ
最後までお付き合いいただき、有り難うございます。
ランキング参加中につき、宜しければクリックください。

|

« 大坂最初の自治都市 | トップページ | 河内の開拓者 (2) »

コメント

おはようございます!
主人のいとこが東大阪の織物家の家に嫁いでおり、このあたりが布織物の産地であるということは、うすうす知っていましたが、なるほどそういう理由だったのですか~
河内木綿、名前だけは知っていますよ。
東北を旅するようになってつくづく思ったのは、自分は故郷のことを一番知らないし知ろうとも思わなかった。。。ということ。GREEにも福島在住の友人がいますが、結構ふるさとというのは旅をする場所じゃないので(笑)調べようとも思わないんですよね~
もういちど関西に住むことがあれば、今度はきっと「旅人の気分」で歩けるような気がします♪

投稿: きょんち | 2008年1月22日 (火) 07時42分

じんと胸に沁みるレポートでした。
その土地、土地には何らかの生活課題と利害対立があり、
その中ですぐれたリーダーが登場し、
歴史を切り拓いてきたことを改めて実感しました。
今後も現場を足で歩いたユニークな写真と文章を楽しみにしています。 

投稿: fou | 2008年1月22日 (火) 09時28分

かつての農山村の近代化の歴史には庶民にはよく
知られていない複雑な舞台裏があるものですね。
高速道路の開通に絡むICの新設でこれまでの山奥の村が繁華街に変貌した事例も知っています。

井路123の両岸の岸壁はすべて鋼矢板の連璧のように見受けますが永久構造なのでしょうか。
普通は護岸は鉄筋コンクリートか大型の護岸ブロックで造られると思うのですが。

投稿: いぶき | 2008年1月22日 (火) 14時26分

中九兵衛・甚兵衛親子、昔はこんな人が居たのですね。世の人々のために我が身を捨てて戦った人が…。感激しました。次回が楽しみです。

投稿: kazuo | 2008年1月22日 (火) 15時14分

きょんちさん
私も若い頃は生まれた町の事など知ろうとも思いませんでした。
10年ほど前から神社に興味を持つようになり、
神社めぐりをする過程で、郷土の成り立ちや伝承などを知りました。

今では、古い歴史を持つ郷土に愛着を感じています。

投稿: yufuki | 2008年1月23日 (水) 02時18分

fouさん
有り難うございます。
嬉しいコメントで、励みになります。
今後もよろしくお願いします。

次回は鴻池善右衛門についてレポートするつもりです。

投稿: yufuki | 2008年1月23日 (水) 02時22分

いぶきさん

>井路123の両岸の岸壁はすべて鋼矢板の連璧のように見受けますが永久構造なのでしょうか。
>普通は護岸は鉄筋コンクリートか大型の護岸ブロックで造られると思うのですが。


ご指摘の様に護岸は鋼矢板です。
美観より開発優先できたためでしょうか、殆どの井路が写真のような感じです。

しかし、最近は井路の両岸を遊歩道にする工事が徐々に行われているようです。

もう少し、かつての農村の面影を残してくれればと思いますが。

投稿: yufuki | 2008年1月23日 (水) 02時28分

kazuoさん
中九兵衛・甚兵衛親子は河内地方では英雄ですが、
堺に行けば敵の様に言われます。

付け替え工事以降、大和川は堺の港に流れ込むようになり、
海底に大量の土砂が堆積。
そのため、港湾機能が低下し、堺の港の地位が低下したといわれています。

喜ぶ人あれば、怒る人あり。
歴史には常に表裏がありますね。

投稿: yufuki | 2008年1月23日 (水) 02時41分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 河内の開拓者 (1):

« 大坂最初の自治都市 | トップページ | 河内の開拓者 (2) »