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2008年1月27日 (日)

河内の開拓者 (2)

(前回からの続き。)

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前号で書いた元禄17年(1704)の大和川の付け替え工事のあと、
旧川筋では大規模な新田開発が始まりました。

河内平野の南部では、付替の後、流れがとだえた旧大和川の川筋、
玉串川や久宝寺川の河床や堤防を中心に新田が次々と造成されました。

平野の中北部にあり、旧大和川と寝屋川の水を集めた新開池も、
宝永2~4年(1705~7)に、干拓事業で埋め立てられ約158haの新田となりました。

この新開池の開発を手がけたのが、三代目鴻池善右衛門・宗利(むねとし)でした。

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【冠木門:鴻池新田会所】

鴻池家は、言わずと知れた江戸時代最大の豪商。
その栄華の歴史は、始祖と呼ばれる鴻池直文(なおふみ)が、
摂津国伊丹村(現・兵庫県伊丹市)で清酒の醸造を手がけたことに始まります。

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【表長屋門①:鴻池新田会所】

直文は、戦国時代の山陰地方の武将・山中幸盛の長男。

後に別所長治の家臣・黒田幸隆の養子となりましたが、
豊臣秀吉による黒田城陥落以降は摂津国伊丹村に移り、
武士の身分を捨てて酒造業を始めました。

長男の正成(まさなり)とともに、伊丹村で醸造した酒を江戸に運んで販売。
見事に成功を収め、事業を大きく発展させます。

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【表長屋門②:鴻池新田会所】

元和5年(1619)には天下の台所、大坂は久宝寺町に店を移しますが、
そこでも順調に業容が拡大、江戸に送る酒の量が大幅に増えため、
輸送を陸路から海路に切り替えます。

幕藩体制が固まりつつあったこの時期、
江戸・大坂間の物資輸送がにわかに活発化しており、
それを見た直文は寛永2年(1625)、海運業にも乗り出します。

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【本屋:鴻池新田会所】

その後、大阪の店舗を直文から引き継いだ正成は、はじめて善右衛門(初代)を名乗り、
天王寺屋五兵衛(両替商の始祖)から金融のノウハウを学び、明暦2年(1656)には両替店を開店。

海運業では、岡山藩の物資運輸に関わるようになり、
延宝7年(1679)からは、岡山藩蔵屋敷の掛屋(蔵屋敷内の物品の管理・売却等の実務責任者)を拝命。

これを契機として、全国諸藩大名との関係を構築してゆき、
大名蔵屋敷の物品を担保に金を貸し付ける「大名貸し」を拡大してゆきます。

正成の子・之宗(ゆきむね)の代には、早くも「十人両替」(幕府御用の両替屋十人)に指定され、
名実ともに大坂随一の豪商となってゆきました。

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【土間①:鴻池新田会所】

一見すれば何の関連性も無い酒造・海運・金融と家業を変えた鴻池家ですが、
こうしてみると、その3業種は互いに隣接した業種だったのです。

機を見て敏なるは商売の鉄則ですが、
鴻池家勃興期の当主たちの事業センスは鮮やかなほど。

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【土間②:鴻池新田会所】

之宗の子・宗利も、経済成長に陰りが見え始めた元禄年間を境に思い切った事業転換を断行。

まず、元禄8年(1695)に本店機能と本邸を大坂今橋に移し、
宝永2年(1705)からは当地での新田経営に参画します。

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【灰壷】

「大名貸し」によって金融業が有利だと悟った宗利は、酒造・海運とはきっぱり決別。
そして、金融事業と農業経営の安定させるために、様々な家訓や店則を定めました。

その教えを忠実に守った以降の歴代鴻池家当主は、金融業と新田経営にのみに専念。
幕末に至るまで、豪商としての地位を保ち続けました。

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【竈】

明治維新では、鴻池家は大名への貸し倒れにより大きな痛手を被りましたが、
なんとか苦境を乗り切り、その後、近代的な経営を取り入れ鴻池財閥と発展。

その系譜は、三和銀行→三菱東京UFJ銀行へと繋がってゆきます。

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【本屋座敷】

三代目の宗利は新開池を開発後も、金融業で得た資金を新田に投資し、
隣接するいくつかの新田の買収、「鴻池新田」の面積を拡大します。

そして、最盛期には広さ約200haにも及ぶ規模になり、
その新田を管理運営するための施設「会所」が作られました。

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【座敷上がり口の板間】

会所で行った業務は、村抱百姓からの小作料・肥料代の徴収、幕府への年貢の上納、
農地や水路の管理・補修、宗門改帳の作成・整理、幕府や鴻池家からの指示の伝達、
新田内での争いの裁定、老人への孝養米(こうようまい)の配給など多岐にわたりました。

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【土間から裏長屋門】

中でも注目すべきは、老人に孝養米が配られていたこと。

孝養米とは、現代の年金に相当するもので、
畑仕事ができなくなった高齢者に、会所側が配布したお米のことをいい、
この制度は、善右衛門の新田経営の特徴といわれています。

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【天井】

また、鴻池家は農閑期の余業として綿稼ぎ(わたかせぎ)に従事することを奨励しました。

その結果、当地一帯は日本を代表する綿作地帯となりましたが、
鴻池家が綿取引に関わった記録は残っていません。

これは、鴻池家としては綿作には手を出さず小作人に利益をもたらす方が、
新田経営は安定するという善右衛門の考えによるものだそうです。

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【本屋白州】

時は元禄の太平の時代を迎え、来るべき人口増大に備えた新田開発を幕府は奨励しました。

それを受け、日本各地で新田の開発が行われ、その経営には町人(商人)をはじめ、
寺院や有力な庄屋、藩や代官などが関わっていました。

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【裏長屋門から本屋井戸】

しかし、多くの新田は天候不順による不作や、小作人との争議などによって行き詰まり、
次から次へと経営者が変わりました。

そんな中にあっても、鴻池新田は約240年間にわたって経営者が変わることがありませんでした。

これは、鴻池家の小作に厚い先進的な政策があったからではないかといわれています。

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【鴻池新田会所跡の碑】

JR学研都市線「鴻池新田」駅から東へ、徒歩ですぐの所に、
その鴻池新田会所跡が復元整備され、一般公開されています。

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【庭園弁天池から本屋】

10,662㎡の会所敷地には、本屋や土蔵群のほか、長屋門・居宅・朝日社(鴻池家の神社)など、
伝統的な建築物と日本庭園が残されています。

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【文書蔵(手前)と米蔵(奥)】

会所が現在の場所に竣工したのは宝永4年(1707)。

敷地跡自体は、昭和51年(1976)に国の史跡に指定され、
昭和55年(1980)には本屋・屋敷蔵・文書蔵・米蔵・道具蔵が重要文化財に指定されました。

昭和60年(1985)からは、江戸時代末期・嘉永6年(1853)の状態に復元する解体修理が、
10年間の工期をかけてこなわれました。

会所建築の特徴は、当時の民家建築とは異なる装飾の少ないダイナミックな造作。

本屋の広大な土間や高い梁、開放的で簡素な座敷、中庭に面して建ち並ぶ蔵などに、
新田経営の中から生み出された、質素で無駄の無い美しさを見ることが出来ます。

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【本屋座敷】

この日は平日で訪れる人も少なく、凛とと静まり返った会所内をゆっくりと散策。

300年以上も前に、河内平野を切り開いた偉人達や、
その大地を耕し、代々暮らを繋げて来た人々に思い馳せながら、
我が子供達の世代にも、郷土の成り立ちを伝えてゆく責任の様なものを感じていました。

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2008年1月21日 (月)

河内の開拓者 (1)

最近、群馬で休日を過ごすことが少なく、
仕事で帰阪した際にお休みをとるパターンが続いております。

その為、本日も前回に引き続き、大阪からのレポートです。

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本日ご紹介するのは、わが故郷・東大阪市の北辺に位置する、
JR学研都市線「鴻池新田(こうのいけしんでん)」駅周辺です。

このあたりは、旧農村が高度成長期以降、急速に都市化した地域で、
現在は、住宅やマンション、中小の工場や物流倉庫等が立ち並んでいます。

また、少なくなったとはいえ、まだ田畑も残っており、井路と呼ばれる農業用水路も健在。
町中を縫うように走っており、所々にかつての農村の面影を見ることが出来ます。

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【井路①】

「新田」がつく地名は、全国各地に数多く残っていますが、
江戸時代初期の幕府による検地後に開墾された農地は、
水田・畑地を問わず「新田」と呼ばれたため、地名として定着したようです。

このあたりも、約300年前に行われた旧大和川の付け替え工事に以降に開発された地域で、
その開発を担ったのが、当時、天下一の豪商と謳われた三代目鴻池善右衛門・宗利(むねとし)でした。

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【井路②】

現在の大和川は、奈良盆地を出ると真っ直ぐ西へ、
大阪市と堺市の市境に沿って大阪湾へ注ぎ込んでいますが、
元禄17年(1704)の付け替え工事以前は、大阪府柏原市付近で南から流れてくる石川と合流し、
久宝寺川や玉櫛川などに幾筋にも分かれながら、河内平野を北西に流れていました。

その後、枝分かれした河川は、河内平野北部にあった新開池・深野池などの湖沼や、
淀川水系の寝屋川に注ぎ込み、大阪湾へと繋がっていました。

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【壁の水車】

それらの河川が運ぶ肥沃な土砂のおがけで河内平野は、
平安の昔より農地として利用され、多くの人々の暮らしを支えてきましたが、
その反面、扇状に枝分かれした河川は大雨が降るたびに氾濫するため、
流域の村々は、毎年のように洪水の被害を受けていました。

江戸時代になっても、元和(1615~)から元禄(~1704)に至る約90年間で、
作物が全滅するような大水害が、記録に残っているだけでも15回。

氾濫に苦しむ流域の農民たちは、土地を洪水から守るため、
大和川の流れを石川との合流点から西方へ向け、
住吉・堺方面に流れるように付け替える案を幕府に嘆願しました。

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【廃農家】

嘆願の理由は、大きく2点。

1点目は、この付替えによって15万石以上にもおよぶ村々が水害の被害をまぬがれること。
2点目は、旧河床や湖沼の跡に新田が開けて作物の増収が期待できること。

というものでした。

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【土蔵窓】

一方、新しい大和川の付替え予定地にあたる村々は、
川の掘削や堤防工事によって先祖伝来の家や田畑がつぶされるため激しく反対。

推進派と反対派双方が幕府に対して嘆願合戦を繰り広げますが、
5度に及ぶ付け替え調査の結果、幕府は一旦、工事不要の決定をするに至ります。

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【井路③】

幕府の決定を農民が覆すことは当時では考えられないこと。
推進派の農民たちも、次第に付け替え運動から離れてゆきました。

そんな中、その後も諦めることなく幕府に掛け合ったのが、
今米村(現東大阪市)の庄屋、中九兵衛(なか きゅうべい)でした。

工事不要の決定後も、九兵衛は幾度も嘆願を行いますが、
ついには、幕府から嘆願を行うことすら禁止されてしまいます。

そして、明暦2年(1656)、九兵衛は夢叶うことなくこの世を去ってしまいます。

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【中甚兵衛顕彰碑】

しかし、そこで大和川付け替えへの情熱は途絶えることはありませんでした。
九兵衛の遺志は子の甚兵衛にしっかりと受け継がれていたのです。

甚兵衛は、父親にもまして精力的に各地を奔走、嘆願を続けました。

そして、工事不要の決定から50年近く経った元禄17年(1704)、
ついに親子二代にわたる熱意は幕府に認められ、大和川付け替え工事実施が決定。

河内農民の悲願が叶えられることになりました。

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【歩道脇の花】

工事後、広い旧川床や新開池・深野池などの湖沼地は埋め立てられ新田となり、
また、商品作物としての木綿も栽培され、河内木綿の名が全国に広がりました。

こうして、この地域は商都大坂の重要な後背地となってゆきました。

その新田開発を請負い経営した人物の一人に、冒頭で記した三代目鴻池善右衛門・宗利がいました。

(この章、次回に続きます。)

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2008年1月13日 (日)

大坂最初の自治都市

皆様、明けましておめでとうございます。

年が明けてはや12日が経ちますが、2008年最初の更新なので、
ひとまず、ご挨拶をさせて頂きます。

昨年の初更新は11日。
スタートから遅れ気味ですが、今年もよろしくお付き合い下さい。

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新年第一弾も大阪から。

先日(7日)帰阪の折に、所要で大阪市平野区を訪れました。

大阪市の南東部に位置する平野区一帯は、
市内でも最も早くに開けた場所の一つで、その起源は上古にまで遡ると伝えられています。

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【染・織物のまつや:平野郷】

古の昔、この地を治めた杙俣長日子王(くひまたながひこのみこ=日本武尊の孫)の名に因んで、
「くまたの荘」と称したのがその始まりだそうです。

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【平野環濠跡:杭全神社境内 05.12.03撮影】

その後、平安時代には坂上田村麻呂の子広野麻呂(ひろのまろ)がこの地を朝廷より賜り、
以来、広野麿呂の子孫が永く当地を治めていたので、
しだいに「くまたの荘」が「広野の荘」と称されるようになり、
「ひろの」が転訛して「ひらの(平野)」と呼ばれるようになったようです。

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【平野環濠跡の碑:杭全神社境内 05.12.03撮影】

戦国時代以降は、環濠自治集落として発達したことでも知られており、
環濠と土塀で町を自衛し、町人の代表が町政を運営した自治都市(平野郷)として、
日本の近世史に、堺とともにその足跡を残しています。

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【杭全神社:拝殿 05.12.03撮影】

江戸時代には、平野郷の東側に隣接する河内平野一帯はまだ湿地帯で、
その中を大和川が扇状に幾筋もの支流に分岐しながら北上し、旧淀川水系と合流していました。

宝永元年(1704)になると、氾濫を繰り返す大和川を、新たに掘削した水路(現在の大和川)に付け替え、
西に向けて真っ直ぐ大阪湾に流すという壮大な大土木工事が行われます。

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この工事によって、広大な湿地が耕作地として生まれ変わり、
そこでは米の他にも、商品作物として綿花の生産が活発に行われるようになります。

河内から大坂へ抜ける交通の要衝となった平野郷は、
その河内木綿の集散基地として繁栄を極めました。

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【時の合図:大念仏寺】

また商業の発展は文化の交流を呼び、
京都や堺と同じく、連歌や茶道、能楽などが町民の間にも普及するようになり、
連歌所や民間の学問所などが建てられました。

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【楠:大念仏寺境内】

また、歴史ある町がいずれもそうであるように、
平野の町にも多くの神社仏閣が残っています。

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【水かけ不動:全興寺】

中でも、大治2年(1127)創建の諸仏護念院大源山大念仏寺は、
坂上広野麻呂の私邸内に建立した融通念仏の道場が前身といわれており、
日本最初の念仏道場として全国に知られています。

24000㎡の広大な境内には30余りの諸堂があり、
昭和13年(1938)に再建された本堂は、大阪府下最大の木造建築です。

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【マニ車:全興寺】

その他にも、広野麻呂の子当道(まさみち)が貞観年間4年(862)に創祀した杭全神社や、
その杭全神社の奥の院と仰がれた野中山全興寺など、
貴重な文化財が数多く残り、町全体が博物館のようになっています。

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【道しるべ①】

現在の平野区は大阪市内24区の中で、唯一人口が20万を超える巨大区。

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【子安地蔵】

しかしながら、第二次大戦で殆ど空襲の被害に遭わずに済んだ旧平野郷一帯は、
江戸時代初期に定められた、昔ながらの町割を現在も保っています。

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【道しるべ②】

環濠自体は、ほとんど埋め立てられ跡形を留めていませんが、
江戸時代の中二階を持つ伝統的な町屋建築と、
昭和の長屋建築が混在する街並みは風情たっぷり。

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【平野中央本通商店街】

その合間を縫うように連なる平野中央本通商店街と平野本町通商店街も、
大阪市内でよく見かけるパチンコ屋が軒を連ねるギンギラ商店街とは違う、
昔ながらの純朴な味わいの商店街。

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【おばあちゃんと孫:平野中央本通商店街】

商売的には非常に厳しい環境にあるだろうことは想像されますが、
何とかこのまま頑張ってもらいたいと、無責任ながら思ってしまいます。

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【路上バスケ】

この日の散歩時間は約2時間。

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【肉屋さん】

今までにも何度か訪れたことがある町ですが、
時間さえあれば、いつまでも退屈せずに散歩できそうでした。

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【路地の花】

大都会の一角にありながら、時間自体がゆっくり流れている。
そんな感じがする町でありました。

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