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2007年12月26日 (水)

日本仏法最初の官寺

ご無沙汰が続いております。

12月は更新頻度が悪く、今回がまだ二度目ですが、
たぶん、年内最後の更新になると思いますので、一言、お礼とご挨拶を。

2007年も駄文と稚拙な写真にお付き合いいただき、有難うございました。
来年も劇的な改良は無いとは思いますが、宜しくお願いします。

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今回は大阪からのレポート。
先日、所要で帰阪した際に、大阪市天王寺区にある荒陵山四天王寺に行って来ました。

四天王寺は言わずと知れた、聖徳太子が建立した日本仏法最初の大寺。

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【西重門】

その伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」と呼ばれ、
南北に一直線に並んだ伽藍(仁王門・五重塔・金堂・講堂)を回廊が取り囲むという様式で、
日本では最も古い建築様式の一つといわれています。

この様式は日本固有のものではなく、源流をたどれば朝鮮半島~中国に行き着き、
6~7世紀の大陸の様式を今日に伝える貴重な存在となっています。

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【西大門(極楽門)下】

聖徳太子が四天王寺を建立するに至った経緯については、
「日本書紀」が詳しく伝えています。

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【回廊の燈籠】

西暦587年4月の第31代用明天皇の薨去に伴う皇位継承争いで、
泊瀬部皇子(はつせべのみこ 後の第32代崇峻天皇)を推す蘇我馬子と、
穴穂部皇子(あなほべのみこ 後に馬子により暗殺)を推す物部守屋が対立し、
その年の7月には、ついに武力による直接対決に発展しました。

この二人は当時の政界を二分する実力者でしたが、
馬子の父・稲目(いなめ)は崇仏派、守屋の父・尾輿(おこし)は廃仏派として、
仏教対神道の宗教闘争を親の代から激しく繰り広げていました。

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【金堂】

そこへ皇位継承問題がからんだため、事態はますます複雑化、
武力対決は時間の問題と見られていました。

老獪な政治家であった馬子は、主要な皇族や氏族を次々に懐柔。
守屋は次第に孤立無援の状態に追い詰められてゆきました。

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【講堂】

身の危険を感じた守屋は、渋川(現在の大阪府東大阪市付近)にあった本拠地に引き篭もり、
来るべき決戦に向けての準備を開始します。

そして7月、ついに戦いの火蓋が切られ、馬子は自陣営の氏族や皇族たちとともに、
大軍を率いて渋川を攻撃しました。

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【五重塔】

しかし、物部氏は元来、軍事氏族として歴代天皇家に仕えてきた一族。
彼らは稲城(いなぎ)を築いて応戦し、三度戦い三度とも蘇我連合軍を退けました。

守屋に荷担したのは一部の物部系の支族と守屋直属の奴隷兵士たちのみでしたが、
まさに戦のプロ軍団、数を頼みの蘇我連合軍を寄せ付けない強さがありました。

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【石舞台と六時堂】

この時、守屋討伐に従軍していた皇族の中に14歳の聖徳太子がいました。

味方の苦戦を見た太子は、白膠木で四天王の像を自ら彫り、
「もしこの戦いに勝利したならば、護四天王を安置する寺院を建立しましょう。」と誓願します。

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【太子堂の屋根】

すると、四天王の加護によってか、蘇我連合軍4度目の進軍で、
迹見赤檮(とみのいちい)が、朴の大木に登って矢を射かけていた守屋を射落とす事に成功。

それを見た寄せ手はここぞとばかり攻めかかり、ついに守屋軍は崩壊。
戦い敗れた廃仏派の首魁、守屋とその一族は根絶やしにされてしまいました。

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【物部守屋墓:大阪府八尾市 05年10月撮影】

四天王の加護によって戦いに勝利した太子は、守屋との戦いから5年後の推古元年(593)に、
誓願を果たす為に四天王寺を建立しました。

このように、四天王寺の建立の経緯については、かなり血なまぐさいものでありました。

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【四天王の木像①:五重塔内部】

その後の四天王寺は、物部守屋の祟りが故か、たび重なる災害に見舞われ、
焼失と再建を繰り返すことになります。

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【四天王の木像②:五重塔内部】

平安時代の承和2年(836)には落雷で、天徳4年(960年)には火災で主要伽藍が失われ、
その後も、天正4年(1576)には織田信長の石山本願寺攻めの兵火で焼失。
豊臣秀吉によって再建された伽藍も、慶長19年(1614)の大坂冬の陣で焼失しています。

さらに、江戸幕府の援助で再建された伽藍も享和元年(1801)の落雷でまたも焼失。
文化9年(1812)に再建された伽藍が近代まで残っていましたが、
昭和9年(1934)の室戸台風で五重塔と仁王門が倒壊、金堂も大被害を受けました。

五重塔は昭和14年(1939)に再建されますが、昭和20年(1945)の大阪大空襲で他の伽藍とともに焼失、
現存の中心伽藍は戦後の昭和38年(1963)に再建されたもので、
耐震構造の鉄筋コンクリート造となっています。

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【石の鳥居】

四天王寺境内への西側入口には、神仏習合の名残りの「石の鳥居」があり、
「釈迦如来転法輪所当極楽土東門中心」(極楽浄土の東にある門の意)と書かれた額が掲げられています。

この「石の鳥居」は永仁2年(1294)に再建された日本最古の石造りの大鳥居の一つで、国の重要文化財。

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【枯葉と五重塔】

日本仏法最初の大寺の入口に、山門ではなく神社の象徴である大鳥居が今も残るのは、
物部守屋の鎮魂の為かと考えてしまうのは深読みが過ぎるでしょうか。

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コメント

東北のお寺をめぐっていると、自分は関西の寺にはまったく詳しくない、と思うことがあります。
とくに大阪!実家はキタで昔商売をやっていたのですが、「地元」という気安さからか?ぜんぜん判ってません。
蘇我氏Vs物部氏の戦いは、山岸涼子さんの「日出処の天子」という漫画で詳しく読みました。
太子が祈願する場面はまさに鬼気迫るものがあって、すさまじいです。
(殺される守屋の動揺ぶりも)でもいろいろな場所で、神道はしっかり根付いているのでほっとします。
守屋もきっと喜んでおられることでしょう。
嫁ぎ先は神道で私の実家は仏教ですが、「神は絶対的なものであるが祟るもの、仏はそれを救うもの」という感覚で接して居ます。
とはいえ私が一番みじかに感じるのは、中高大と毎日礼拝したキリスト教なのですが・・・
(-_-;)

投稿: きょんち | 2007年12月26日 (水) 10時28分

きょんちさん
四天王寺さんには約十年ぶりの訪問でした。

かつて私も地元の神社・仏閣のことをほとんど知らないと感じたことがあり、
4年ほど前に、東大阪市と八尾市の地図上にある神社、
有名無名を問わず約100社を全て回りました。
しかし、お寺の方は数が膨大なのと、勝手に入れないところが多いので断念しました。

そういう意味では、神社は開かれた空間で、
寺社は閉ざされた空間というような気がします。

神社に行くとホッとした気持ちになるのは、
信仰の如何にかかわらず、来る者全てを受け入れるおおらかさ故だと思います。

投稿: yufuki | 2007年12月26日 (水) 18時41分

yufuki 様
初めまして。
今回もすばらしい写真と達意の文章を
味わわせていただきました。
いま美味しい料理を食した後の感慨の
ようなものを感じています。じわっと感謝です。
今後も楽しみにしています。
では、よいお年をお迎えください。
 

投稿: fou | 2007年12月26日 (水) 18時54分

fouさん
初めまして。
わざわざコメント頂きまして、有難うございます。

過分なお言葉ですが、これを励みに、
また来年も頑張ってUPしようと思います。
また、お立ち寄りいただければ嬉しいです。

投稿: yufuki | 2007年12月26日 (水) 23時11分

聖徳太子が四天王寺を建立するに至るまでのいきさつ、興味深く拝読させていただきました。
来年はどんなところに連れて行っていただけるのか、楽しみにしております。
良いお年をお迎え下さい。

投稿: kazuo | 2007年12月29日 (土) 09時31分

yufukiさんのコメントを読んで、そうその通り!と思いました。
今まで神道の儀式というと、主人の祖母・伯父・伯母の葬儀を体験しましたが、
仏教徒の実家とはまったく違っていてびっくりです。
とにかくすべてが簡単で、短い(笑)
仏教のように、死んでまで名前を買うのにお金がかかったりしません!
(自分の生前の名前で葬られます)
神主さんはくどくどとお説教もされません。
家の墓地は夫婦単位でひとつづつ墓を建てていきます(ちいさなものですよ)。
問題はどうしても墓地が大きくなってしまうので、後のものが掃除するのに大変だということです(笑)

投稿: きょんち | 2007年12月29日 (土) 12時44分

kazuoさん
いつもお立ち寄り有難うございます。
来年も、群馬中心に各地をブラブラ、
レポートをアップしたいと思いますので、
よろしくお願いします。

良いお年をお迎えください。

投稿: yufuki | 2007年12月29日 (土) 23時58分

きょんちさん
明治以降、第二次大戦の敗戦まで、
国家神道という暗い時代がありました。
しかし、それは長い歴史の中で捉えれば、
一時の異形の神道にしか過ぎません。

古来よりの伝統文化や民族文化を連綿と受け継ぎながら、
画一的にならず、多種多様に「ゆるく」発展してきた神社は、
日本の懐の深さの象徴ではないでしょうか。

投稿: yufuki | 2007年12月30日 (日) 00時06分

今晩は、今年はステキな写真を有難う御座いました。
来年もステキな年に成る様に願ってます。
又、来年もステキなブログ楽しみにしています。

投稿: KIYOOKU | 2007年12月31日 (月) 22時59分

KIYOOKUさん
明けましておめでとうございます。

お返事遅れまして、申し訳ございません。
今年も、気まぐれ更新になると思いますが、
また、お立ち寄りいただければ嬉しいです。

本年も宜しくお願いします。

投稿: yufuki | 2008年1月 3日 (木) 09時34分

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