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2007年10月23日 (火)

殖産興業のシンボル

先日訪れた富岡市は、日本の近代産業の発祥地でもあります。
市内中心部には旧官営富岡製糸場があり、殖産興業の名残を今に伝えています。

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【二号館】

安政6年(1859)の開港により、日本の生糸は、
蚕の病気で品不足に陥っていた欧米各国に盛んに輸出されるようになり、
横浜には各国の貿易商社が建ち並び、生糸輸出は非常な活況を呈していました。

しかし、すぐに粗製濫造した粗悪品が出回り始め、
各国から「安かろう・悪かろう」と不評を買うようになりました。

明治維新後、先進諸国の仲間入りを目指す日本政府は、
近代国家へ脱皮する為の布石として、高度に機械化された産業施設の建設を計画。
それと同時に、外貨獲得の手段として生糸の輸出振興政策を打ち出しました。

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【東繭倉庫】

具体的計画案を練っていた伊藤博文、渋沢栄一らは、
国際市場で信用を失っていた日本の生糸を根本的に改良するため、
模範的な官営の洋式製糸工場を建設することを決めました。

政府は明治3年(1870)、フランス人技師のポール・ブリュナを指導者として迎え、
工場建設から生糸生産の指導まで、全責任と権限を彼に与えました。
日本全国から候補地をピックアップ、各地をくまなく調査したブリュナは、
最終的に、元々有力な養蚕地帯だった富岡の地を工場設置の場所としました。

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【繰糸場案内板】

立地が決まり、工場の建設が進む中、
工場で働く「糸とり女工」の募集も始まりましたが、
当初は、応募者が全く集まりませんでした。

原因は「製糸場で外国人が若い女性の生き血を絞って飲んでいる」という噂が流れたため。
これは、ブリュナがワインを飲む姿が誤解されたものだと云われています。

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【繰糸場内部】

そこで、士族や豪農達は、率先して自らの娘たちを工場に入れ、
最終的には200人の女工が集められました。

集められた娘の多くは、工場での仕事など全く無縁なお嬢様が殆どでしたが、
彼女達は、それぞれの家の誇りと使命感を胸に工場へ入って行きました。

そして、明治5年(1872)10月4日に富岡製糸場は操業を開始。

もともと教養が高く、古い因習にとらわれなかった彼女達は、
新しい技術をすばやく吸収し、目覚しい生産性を上げながら、
政府唯一の輸出産業を支え続けました。

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【繰糸機】

また一方では、富岡製糸場の建物群にも日本人の知恵と心意気が詰まっていおり、
歴史的価値とともに、建築的な価値も高く評価されています。

当時の一般的な欧米の倉庫や工場の建築では、
単にレンガを積みあげてゆく工法が取られますが、
レンガ造りに慣れていない日本の職人の技術ではそれが困難でした。

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【木骨・挟み梁工法】

そこで、日本の職人達は、得意の木材で骨組みを造り、
その間にレンガを積ん出ゆくという木骨レンガ造り工法を取り入れました。

また、工場の大きな屋根は、中柱無しで支えられており、
そこには、珍しい「挟み梁」という工法が採られています。

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【挟み梁】

資材の調達も、当時としては大規模な建築であったため困難を極めました。

建造物の主要資材は礎石、木材、レンガ、瓦。
フランスから運ばれた鉄枠のガラス窓や、繭倉の観音開きの蝶番を除けば、
殆どが群馬県内からの調達でした。

材木(杉)は妙義山、礎石は連石山の切り出し。
さらに、レンガの目地は、セメントの代用として漆喰を使用し、
原料となる石灰は下仁田町産のものでした。

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【乾燥場】

官営富岡製糸場は明治26年(1893)に民間に払い下げになります。
三井製糸~原製糸を経て、昭和14年(1939)からは片倉工業の所有となり、
昭和62年(1987)に現役工場として役目を終えるまで、主力工場として活躍しました。

日本の産業の近代化のシンボルは、建設から135年余り後、
平成19年(2007)に文部科学の文化審議会文化財分科会で、
「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産暫定リストに加えられています。

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【三号館】

学校の教科書でしか知らなかった富岡製糸場。
建物や機械はほぼ当時のままという事で、これは片倉工業の見識の高さゆえだと思います。
欧米列強の脅威の中で、近代国家建設へとまっしぐらに進んでいった、
当時の日本人の息吹を感じることが出来る施設でした。

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コメント

本当に私も富岡製糸というと、教科書でしか知りませんでしたよ。
こんなに古い建物が今でも残っているのですね・・・・
一度見に行きたいです。
ところで、開国当時の日本の製品が「安かろう・悪かろう」だった。
なるほど~今の中国製品のようですね。
国がその汚名を返上するべく、外国から技術者を導入して頑張る、というのもそっくりです。
少し前の映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」でも
かつての日本製品の評価と、現在のそれの格差がコミカルな話題になっていましたが
ここが日本の工業の原点になっているかと思うと、感慨深いものがありますね~

風邪からアレルギーになってしまい、ひたすら籠っています。
今日もまた青空、あーーーかみさま、恨みますぅ・・・・

投稿: きょんち | 2007年10月24日 (水) 08時10分

近代産業の象徴である「富岡製糸場」、残っていたのですね。ビックリでした。
それから渋沢栄一の凄さにもいまさらながらに驚いております。
というのも、私が以前勤めていた製紙会社の親会社の設立も渋沢翁だったものですから・・・。

投稿: kazuo | 2007年10月24日 (水) 09時10分

きょんちさん
富岡製糸場が保存・公開されていることは、
こちらに来て初めて知りました。
教科書には必ず載っていた貴重な歴史的資料、
文部科学省ももう少しアピールしてよと思いました。

明治政府のもう一つのスローガン「富国強兵」を、
保管する為の「殖産興業」だったとはいえ、
この施設がなければ、今の日本はなかった位の価値があると思います。


体調が良くないとのこと、お大事にしてください。

投稿: yufuki | 2007年10月24日 (水) 09時37分

きょんちさん

訂正です。
「保管」じゃなく「補完」です(笑)

投稿: yufuki | 2007年10月24日 (水) 09時50分

kazuoさん
渋沢翁は本当に巨人ですね。
以前に勤められていた会社の他、
設立に携わった会社は500以上。
それも、現在も日本の中枢にある企業ばかり。
本当にすごいです。

投稿: yufuki | 2007年10月24日 (水) 09時56分

躁糸場の中はとても迫力がありますね。
当時の隆盛がしのばれます。
先人たちが苦労と工夫の末建てたものが今も残っていることを思うと、現代の私たちはもっとその意気と知恵を謙虚に学ぶべきですね。

投稿: uralaka | 2007年10月24日 (水) 22時01分

uralakaさん
御訪問有難うございます。
この時代に生きた先人達の気概が、
今の日本の隆盛をもたらしました。
仰るように、私達はもっと学ぶべきだと思いました。

投稿: yufuki | 2007年10月25日 (木) 00時56分

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