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2007年10月30日 (火)

小菊の里

本日は、ネット写真サークル「お散歩ネット」のお仲間T氏にお誘い頂き、
伊勢崎市赤堀町にある「小菊の里」に行ってきました。

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【小菊の里1】

AM9:30の待ち合わせでしたが、当方は土地勘が無い為に時間が読めず、
20分ほど早く到着し、しばし、撮影ポイントの探索をしていました。

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【小菊の里2】

すると、程なくT氏も到着。
カメラ繋がりのお仲間に逢う時には、何時も感じることですが、
T氏とも、本日が初対面ながら、旧知のような感じがしました。

T_imgp4168【小菊の里3】

T氏は大変穏やかにお話をされる、温厚そうなおじさん。(失礼!)
ほぼ同年代だと思うのですが、落ち着いた印象の方でした。

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【小菊の里4】

写真に対する姿勢は真摯で、私の「パチパチ「とは対照的。
じっくり被写体と向き合って、慎重に撮影される姿勢は大変勉強になりました。

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【小菊の里5】

現地の案内板によると、「小菊の里」の概要は以下の通り。

地元有志「小菊の里つくりの会(14名)」が赤堀町の農業振興とPRを目的として、
平成15年()から始めた休耕地を利用した菊園で、
22,000㎡の敷地に20,000株の小菊が植えられています。

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【小菊の里6】

入園料は無料で、今年の開園期間は10月7日~11月5日まで。

植え付け・除草・害虫駆除等の作業は、すべてボランティア(参加費\1,000)で、
今年の登録は276名、そのうち100名の方が作業に参加されたそうです。

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【小菊の里7】

開園期間も残すところ僅かとなっているためか、AM10:00を過ぎた頃には、
平日ながらかなりの人出となりました。

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【小菊の里8:挨拶】

菊園に隣接した地元物産店も大繁盛。

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【小菊の里8:大盛況】

お年寄り、子供連れ、そしてカメラおやじ。
この三種類の人たちで、そう広くない菊園は混雑に近い状況に。

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【小菊の里9:主は菊見物】

あまりの人出の多さに、撮影意欲も急激に衰退。
約1時間半程で撮影を切り上げ、T氏とはお別れしました。

また、何処かの撮影会で再会できる事が楽しみとなりました。

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2007年10月26日 (金)

上州の名山

今週の23日(火)に、日本百名山の1つとして数えられる赤城山に行ってきました。

関西出身で、山に関しての知識が乏しい私は、
恥ずかしながら赤城山という山があると思っていました。

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【赤城山公園の碑】

しかし、此方に来て初めて知ったことですが、
火口原湖を囲む形で聳える外輪山を総称して、赤城山と言うそうで、
黒檜山(1827m)、駒ケ岳(1685m)、地蔵岳(1674m)、長七郎岳(1579m)、
鍋割山(1332m)、鈴ヶ岳(1565m)の5つの峰から成っています。

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【駒ケ岳(だったかな?)】

また、赤城山一帯は、関東地方でいち早く紅葉が始まる地方として知られており、
この日もすでに紅葉はほぼ見頃を迎え、平日ながら多くのハイカーが訪れていました。

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【紅葉】

登山が苦手な私が目指したのは、噴火によって出来た爆裂火山湖である大沼(おの)と小沼(この)、
そして、大沼(おの)に連なる湿原、覚満淵(かくまんぶち)。

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【赤城山鋼索鉄道廃線跡】

かつてはケーブルカーで山上のカルデラ付近まで登れたようですが、
今は廃線となり、替わって立派な車道が湖畔まで通じています。

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【大鳥居:小暮交差点】

登山道路の手前には、大きな鳥居。

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【赤城神社本殿】

赤城山は、古来より自然崇拝・山岳信仰の対象となっており、
いわば山自体が御神体のようなものでした。
現在は大沼の湖畔に延喜式内社赤城神社(創建不明)が鎮座しています。

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【大沼】

大沼に到着したのは午前10時頃。
さすが標高1400mの高地、そのときの気温は4℃でした。

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【鋼線鉄道駅付近から覚満淵】

到着当初は、周囲の山々には雲がかかり、強風の中で小雨が舞うという最悪の天候。
しかし、日ごろの行いが功を奏したか、お昼近くなると空は一瞬にして晴れ渡り、
大沼の次に向かった覚満淵では、青空の下、雄大な風景を堪能することが出来ました。

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【覚満淵1】

私自身は大パノラマを堪能しましたが、写真のほうはご覧の通り。
見たままの感動を写真で伝えるのは、本当に難しいと痛感いたしております。

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【覚満淵2】

最後に回った小沼に付いた頃には、ハイカーの数も増え、混雑に近い状態に。
中でもとりわけ目立っていたのは、元気な遠足の子供たち。
裸足で小沼の中に入り、歓声を上げながらがら「我慢比べ」をしていました。

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【覚満淵の子供達】

お昼時も過ぎ、気温は上がってきていたとは思いますが、かなりの寒さ。
にもかかわらず、薄着ではしゃぎ回る子供たちを見ていると、
こちらまで、楽しい気持ちになりました。

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【枯れ木:覚満淵】

今回、赤城山行きの前に下調べをたところ、
山のプロや百名山制覇を目指すような人からの評価は、
「百名山の中の最下位」とか、「百名山の中に入っているから仕方なく登った」とか、
ほとんどが散々なものでした。

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【二人:覚満淵】

しかし、私のような山の素人からすると、
1800mを超える標高、豊富な自然と山頂からの展望、
広い裾野から独立して聳える堂々とした姿、
神宿る山を古くから信仰してきた里の人々との深い結びつき、
どれをとっても名山と呼ぶにふさわしいと思いました。

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【小沼付近】

単に、自分の登山技術をもってすれば簡単に登れてしまうことを理由に、
その山を悪く言うのは、山を愛する人の姿勢としては如何なものかと。

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【小沼付近より大沼】

山には、厳しさをもって人に対するものと、
暖かく人を包容してくれるものとの二種類があるそうですが、
赤城山は後者の代表例ではないでしょうか。

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【小沼】

多くの人たちが手軽に登山を楽しめる山。
子供たちの歓声が響きわたる山。
私にとっては、いい印象の山となりました。

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2007年10月23日 (火)

殖産興業のシンボル

先日訪れた富岡市は、日本の近代産業の発祥地でもあります。
市内中心部には旧官営富岡製糸場があり、殖産興業の名残を今に伝えています。

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【二号館】

安政6年(1859)の開港により、日本の生糸は、
蚕の病気で品不足に陥っていた欧米各国に盛んに輸出されるようになり、
横浜には各国の貿易商社が建ち並び、生糸輸出は非常な活況を呈していました。

しかし、すぐに粗製濫造した粗悪品が出回り始め、
各国から「安かろう・悪かろう」と不評を買うようになりました。

明治維新後、先進諸国の仲間入りを目指す日本政府は、
近代国家へ脱皮する為の布石として、高度に機械化された産業施設の建設を計画。
それと同時に、外貨獲得の手段として生糸の輸出振興政策を打ち出しました。

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【東繭倉庫】

具体的計画案を練っていた伊藤博文、渋沢栄一らは、
国際市場で信用を失っていた日本の生糸を根本的に改良するため、
模範的な官営の洋式製糸工場を建設することを決めました。

政府は明治3年(1870)、フランス人技師のポール・ブリュナを指導者として迎え、
工場建設から生糸生産の指導まで、全責任と権限を彼に与えました。
日本全国から候補地をピックアップ、各地をくまなく調査したブリュナは、
最終的に、元々有力な養蚕地帯だった富岡の地を工場設置の場所としました。

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【繰糸場案内板】

立地が決まり、工場の建設が進む中、
工場で働く「糸とり女工」の募集も始まりましたが、
当初は、応募者が全く集まりませんでした。

原因は「製糸場で外国人が若い女性の生き血を絞って飲んでいる」という噂が流れたため。
これは、ブリュナがワインを飲む姿が誤解されたものだと云われています。

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【繰糸場内部】

そこで、士族や豪農達は、率先して自らの娘たちを工場に入れ、
最終的には200人の女工が集められました。

集められた娘の多くは、工場での仕事など全く無縁なお嬢様が殆どでしたが、
彼女達は、それぞれの家の誇りと使命感を胸に工場へ入って行きました。

そして、明治5年(1872)10月4日に富岡製糸場は操業を開始。

もともと教養が高く、古い因習にとらわれなかった彼女達は、
新しい技術をすばやく吸収し、目覚しい生産性を上げながら、
政府唯一の輸出産業を支え続けました。

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【繰糸機】

また一方では、富岡製糸場の建物群にも日本人の知恵と心意気が詰まっていおり、
歴史的価値とともに、建築的な価値も高く評価されています。

当時の一般的な欧米の倉庫や工場の建築では、
単にレンガを積みあげてゆく工法が取られますが、
レンガ造りに慣れていない日本の職人の技術ではそれが困難でした。

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【木骨・挟み梁工法】

そこで、日本の職人達は、得意の木材で骨組みを造り、
その間にレンガを積ん出ゆくという木骨レンガ造り工法を取り入れました。

また、工場の大きな屋根は、中柱無しで支えられており、
そこには、珍しい「挟み梁」という工法が採られています。

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【挟み梁】

資材の調達も、当時としては大規模な建築であったため困難を極めました。

建造物の主要資材は礎石、木材、レンガ、瓦。
フランスから運ばれた鉄枠のガラス窓や、繭倉の観音開きの蝶番を除けば、
殆どが群馬県内からの調達でした。

材木(杉)は妙義山、礎石は連石山の切り出し。
さらに、レンガの目地は、セメントの代用として漆喰を使用し、
原料となる石灰は下仁田町産のものでした。

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【乾燥場】

官営富岡製糸場は明治26年(1893)に民間に払い下げになります。
三井製糸~原製糸を経て、昭和14年(1939)からは片倉工業の所有となり、
昭和62年(1987)に現役工場として役目を終えるまで、主力工場として活躍しました。

日本の産業の近代化のシンボルは、建設から135年余り後、
平成19年(2007)に文部科学の文化審議会文化財分科会で、
「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産暫定リストに加えられています。

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【三号館】

学校の教科書でしか知らなかった富岡製糸場。
建物や機械はほぼ当時のままという事で、これは片倉工業の見識の高さゆえだと思います。
欧米列強の脅威の中で、近代国家建設へとまっしぐらに進んでいった、
当時の日本人の息吹を感じることが出来る施設でした。

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2007年10月19日 (金)

上野国一之宮

今回も、いささか古い話になります。

今月の9日に、群馬県南西部の富岡市に行って来ました。
お目当ては上野国の一之宮、貫前神社。
1400年以上の歴史を誇る県下随一の古名社です。

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【楼門1(国重要文化財)】

社伝によると、物部姓磯部氏が鷺宮(さぎのみや)の地で氏神である経津主神(ふつぬしのみこと)を祀り、
その鷺宮の南方、蓬ヶ丘綾女谷(よもぎがおか・あやめがたに)に社を定めたのが安閑天皇の元年(531)とあり、
これが貫前神社創建の年とされています。

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【総門】

この神社には全国的にも珍しい、2つの大きな特徴があります。

1つ目は、その社殿配置。
多くの神社の場合、社殿は参道を上った高い位置に配されていますが、
この神社の場合は、総門から参道を下った低い位置に社殿が配されています。

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【楼門2】

階段を下って拝殿にたどり着くというのは初めての体験。
参道から社殿を見下ろしながら参拝に向かうというのも、不思議な感じがしました。

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【拝殿1(国重要文化財)】

特殊な社殿配置になった理由については、当地に多い雷を避けるためなど諸説あるようですが、
社地と定めた綾女谷が、古代より祭祀のうえで重要な聖地であったからだと思われます。

現在の社殿は寛永12年(1635)、3代将軍徳川家光の命によって建てられたもので、
なかでも漆塗りで極彩色の楼門・拝殿・本殿は、豪華絢爛。
江戸初期の代表的な神社建築として国の重要文化財に指定されています。

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【拝殿2】

2つ目は式年遷宮が13年目毎に一度、今も行われていることです。

式年遷宮とは、社殿の新築や修理、檜皮の屋根の葺き替えなどのため、
神霊(ご神体)を本殿から他の場所に遷座させる神事で、
全国の神社で、この神事を今に伝えているのは伊勢神宮など数社しかなく、
極めて稀な例だと云われています。

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【拝殿3】

貫前神社の遷宮祭について記録にある最も古いものは万寿2年(1025)の記録で、
「前例をもって30年を限となし造替・・・」とあり、
当時は伊勢神宮同様に本殿を造り直していたようです。

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【拝殿と本殿(国重要文化財)】

その後、30年毎では荒廃が甚だしく、やがて7年毎の遷宮になり、
嘉永元年(1848)の「遷宮勧化帳」によれば、
天正年間に7年毎が現行の13年毎に改められとなっています。

明治以後は暦が変わったことにより、申年の12月12日に「仮殿遷座祭」、
酉年の3月13日に「本殿遷座祭」が行われるようになりました。

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【本殿】

12年に一度の遷宮祭の他にも年間祭儀が71回あり、
御戸開祭(みとびらきさい)や鹿占神事(しかうらしんじ)など、
数多くの祭儀が今なお伝承されており、
古典的な神道の祭祀を知るうえで貴重な存在となっています。

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【狛犬】

正月には県下NO.1の参詣客が詰め掛けるそうですが、
この時の境内に参詣客は私独り。
しんと静まり返った境内には荘厳な雰囲気が漂っていました。

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【境内そうじのおばあさん】

普段は信仰、信教とは全く無縁の生活を送っている私ではありますが、
由緒ある神社を訪れたときにはいつも、宗教という枠組みとは別の「何か」を感じます。
撮影を終え、拝殿の前で二礼二拍子一礼、家族の無病息災を祈願し帰路についた頃には、
なんだか、落ち着いた気持ちになっていました。

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2007年10月 7日 (日)

古代東国の中心地

初期の倭王権(4~5世紀)は、畿内の倭国と地方の有力諸国の首長(王)との連合で成り立っていました。

その中にあって、上毛野(かみつけの)国は九州の筑紫国、中国の吉備国などと肩を並べる大国で、
倭王権を代表して中国・朝鮮半島との外交や軍事、あるいは蝦夷征討に携わったと伝えられ、
その後、大和朝廷が支配体制を確立し始めた7世紀においても、
上毛野国は依然として大きな力を持っていました。

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【八幡塚古墳】

推古12年(604)に聖徳太子が制定したとされる冠位十二階にも、
第二位(大仁)の上毛野君形名(かたな)や、第三位(小任)の物部連兄麻呂(えまろ)など、
上毛野国を地盤とする豪族の名が見られます。

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【八幡塚古墳:後円部より】

また、天武朝(7世紀末)には「東国六腹の朝臣」として、
祖を同じとする上毛野・下毛野・大野・佐味・池田・車持の6氏が、
貴族としては最高の位「朝臣」を賜っています。

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【八幡塚古墳:後円部】

その中の車持氏は、現在の高崎市がある榛名山南東地域一帯を治めた豪族。

この一族が治める場所は、当時、車郡(くるまさと)と呼ばれていましたが、
大宝元年(701)、朝廷は大宝律令の中で“慶字二文字”の詔を出し、
朝廷支配下の地名を大和風に改変する事業に乗り出したため、
それに応じた形で、上毛野国は上野(こうずけ)国、
車郡は読みは変わらず、表記上、群馬(くるま)郡となりました。

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【八幡塚古墳:後円部墳頂】

そして後代、明治4年(1871)の廃藩置県の際に、
上野国は、古代から一番大きな郡であった“群馬”の名を残し、
群馬(ぐんま)県とされ、現在に繋がっています。

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【八幡塚古墳:円筒埴輪(複製品)】

本日の写真は、古代における群馬の中心地であったと思われる場所、
東の国の王たちが眠る保渡田古墳群(高崎市群馬町)を訪れた際のものです。

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【八幡塚古墳石室:舟形石棺】

保渡田古墳群は、墳丘長100m級の3基の前方後円墳、
二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳からなる東日本でも有数の古墳群で、
約1500年前の造営であることが判っています。

二子山古墳→八幡塚古墳→薬師塚古墳の順に約50年間隔で築造されており、
同族の首長の親~子~孫3代の墓ではないかと推測され、
一説によると埋葬者は車持氏の祖ではないかと云われています。

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【二子山古墳:復元整備中】

八幡塚古墳と二子山古墳は、現在「上毛野はにわの里公園」として公園整備されており、
その公園の中核施設として「かみつけの里博物館」が墳墓の隣接地に建てられています。

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【埴輪:盾持ち人(複製)】

館内は9つのコーナーに分けられ、5~6世紀の豪族やムラに住む人々の生活の様子が、
埴輪や土器などの豊富な出土資料や復元模型を用いて、解かりやすく紹介されています。

受付嬢によれば、館内は申請すれば写真撮影OKということでしたが、
HPやブログ掲出はNGということなので、今回は館内写真はナシ。

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【かみつけの里博物館】

この付近一帯は、イタリアのポンペイ同様、
6世紀初頭の榛名山の大噴火による火砕流で一瞬にして埋没したため、
埴輪や土器などが良好な状態で出土するそうで、
貴重な現物資料が\200の低料金で見学することが出来ます。

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【薬師塚古墳にあるお寺の本堂】

一方、薬師塚古墳は、3段に築かれた前方部の南側が大きく削られ変形しており、
現在はそこに、あるお寺の本堂が建てられています。

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【薬師塚古墳出土の舟形石棺】

お寺の境内に当たる後円部の墳頂にも祠があり、
その脇には、ここから出土した舟形石棺が無造作に、剥き出しで置いてありました。

国指定の重要文化財という看板が、群馬町教育委員会の名で立てられていましたが、
私有地(?)ゆえなのか、あまりの無防備さに驚いてしまいました。

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【彼岸花と小祠:薬師塚古墳】

八幡塚古墳の演出過剰なまでの復元状況と、薬師塚古墳の現状を見比べると、
この格差は何なのだ!?と思う気持ちが無きにしも非ずですが、
広々とした公園で、しばしの古代ロマンに浸れたのも確か。

納得したような、出来ないような、複雑な感想を胸に保渡田古墳群を後にしました。

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2007年10月 2日 (火)

だるまさん発祥の地

少々古い話になりますが先月の25日(火)のお話です。

午後にちょこっと暇が出来たので、高崎市街中心から西方約8Km、
車で20分の所にある少林山達磨寺に行ってきました。

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【三門:達磨寺】

群馬県高崎市は張子の縁起だるまの名産地で、全国のだるま生産量の8割を占めており、
その発祥の地がこの達磨寺だと伝えられています。

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【講堂:達磨寺】

由緒によると、達磨寺の歴史は延宝8年(1680)に遡ります。

一了居士(いちりょうこじ)という行者が、観音堂に納めてあった香気ある霊木に、
達磨大師の坐禅像を彫り上げ、祀ったのが始まりだそうです。

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【霊符堂(本堂):達磨寺】

暫らくして、達磨出現の噂が人々の間で広まり、霊地として知られるようになると、
領主・酒井雅楽頭忠拳(さかいうたのかみただたか)は、
水戸光圀が帰依した中国の帰化僧、東皐心越禅師(とうこうしんえつぜんじ)を開山として迎え、
元禄10(1697)年、この地に少林山達磨寺(当時は曹洞宗)を開創しました。

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【達磨さん達2】

享保11年(1726)には、水戸家より三葉葵の紋と丸に水の徽章を賜り、永世の祈願所となり、
その後、中興開山と称される隠元(いんげん)禅師によって黄檗宗(おうばくしゅう)に改められ、
以来今日まで、地元はもとより全国から篤い信仰を集めています。

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【達磨大師像】

このような由緒を持つ達磨寺で、張子達磨が作られるようになったのは220年以上前に遡ります。

天明3年(1783)、浅間山の大噴火が冷害を引き起こし、当地の農作物も深刻な不作にみまわれました。
世に言う天明の大飢饉です。

この惨状を見かねた達磨寺9代目住職の東嶽(とうがく)和尚は、
開山の東皐心越禅師の描いた達磨大師の図を手本に、自らが木型を作成し、
飢餓に苦しむ農民達に張子の作り方を教え、副業として達磨作りを奨励しました。

これが、張子達磨の起源であると伝えられています。

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【達磨さん達】

張子達磨の赤色は、達磨大師の出身地である南インドの僧侶の赤い法衣の色で、
魔除けの赤などを意味しており、
また、赤い下地に墨で描かれた眉は鶴、髭は亀、口髭は松、目は竹、
そして、赤い鼻は梅の花を表していると言われています。

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【祈願:達磨寺】

現在も100軒以上の農家で製造されおり、正月6日の少林山星祭りには、
全国各地からの参詣人で賑わい、参道は張子達磨を売る店で埋めつくされるそうです。

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【鼻高展望花の丘】

達磨寺でパチパチと撮影を済ませた後は、すぐ近くにある花の公園「鼻高展望花の丘」に向いました。

「鼻高展望花の丘」は、鼻高町の高崎観音山丘陵に残された遊休農地(面積5.6ha)を利用して、
平成13年(2001)より、地域ボランティア「鼻高町をきれいにする会」の人達が整備を続けている公園です。

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【夫婦:鼻高展望花の丘】

「コスモス真っ盛り」という地元紙の記事を見て立ち寄ってみましたが、
現状では栽培の面積も小さく、花の公園としてはマダマダ発展途上といった感じでした。

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【コスモス:鼻高展望花の丘】

ボランティア活動による整備なので、少々時間がかかるのかもしれません。

しかしながら、標高268mから見下ろす景色は絶景で、開放感に溢れており、
将来的には素晴らしい公園になるだろうと思いました。

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【親子:鼻高展望花の丘】

この日最後に立ち寄ったのは丘陵地の中腹にある「長坂牧場」。
「鼻高展望花の丘」のほど近くにある、知る人ぞ知るのスポットです。

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【長坂牧場の牛】

牧場内の売店「みるく工房タンポポ」の手作りジェラートが大人気で、
この日も「鼻高展望の丘」の帰路に立ち寄る人達が行列をつくっていました。

私も食べてみましたが、コレは絶品!!
あまりの旨さに現物の写真を撮るのを失念してしまいました。

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【長坂牧場からの眺望】

ほんの一週間ほど前のことですが、今日の気温からは考えられない程の陽気で、
照付ける日差しは強く、まるで夏本番のようでした。

汗を吹き拭き、3時間ほどのお散歩でしたが、久しぶりの撮影は大変楽しく、
これから先の上州巡りを思い描きながら、仕事をしばし忘れて、心地よい時間を過ごせました。

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