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2007年8月11日 (土)

妖怪の港町~灯台~千鳥城へ

本日は、先日書きました家族での山陰小旅行の続編です。

米子市の皆生温泉から、巨大な砂州である弓ヶ浜に沿って北西に進むと境港市に至ります。
境港市は言わずと知れた水産業の町。
全国3000漁港の中で13港しかない特定第3種漁港の1つで、
日本海沿岸随一の水産加工業の拠点となっています。
特にカニ(ズワイガニ・紅ズワイガニ)の水揚げは全国一を誇っており、
紅ズワイガニの加工では全国の8割のシェアを持っています。

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【境港:隠岐汽船フェリーターミナル】

水産業では全国に名をとどろかせている境港市ですが、冬のカニツアーシーズンを除けば、
観光資源が殆どなく、交通の便も悪い為、訪れる観光客の数は多くありませんでした。
そこで、市は水産業以外の産業振興を目的として、
平成元年(1989)より、町おこし政策「緑と文化のまちづくり」をスタート。
その一環として登場したのが「水木しげるロード」でした。

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【ねずみ男】

境港市は漫画家・水木しげる氏の出身地。
『ゲゲゲの鬼太郎』をはじめとする妖怪漫画は、多くのファンに愛されています。
そんな水木氏が、故郷の繁栄を願いプロデュースしたのが「水木しげるロード」。
JR境港駅前からアーケード沿いに続く全長約800mの通りに、
水木氏の漫画に登場する妖怪たちのブロンズ像が83体も並んでいます。
道の両脇に続々出現する妖怪ブロンズ像をはじめ、妖怪グッズを販売するショップ、
さらには妖怪神社に鬼太郎ポストとロードは妖怪づくし。

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【鬼太郎】

この日のロードは、大勢の子供達で賑わっており、
妖怪ショップのキャラクターグッズが結構売れていました。
ちなみに、我が家の末娘は妖怪「ぬりかべ」の貯金箱を記念に買っていました。
アニメによる町おこしを企画している自治体は沢山あるようですが、
詳しく調べたわけではありませんが、境港市は成功している方ではないでしょうか。

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【目玉親父】

境港市と境水道を挟んだ対岸はもう島根県。
県境にかかる境水道大橋を渡ると、島根半島の東端、美保関町に至ります。
美保関は6世紀以前、出雲における政治の拠点だったとされている所。
古事記・日本書紀にも美保関の名が見られ、
大国主命とその子・事代主命が大和からの使者・武甕鎚命に国譲りの返答をされたと記されています。
また、古代以降も海上交通・貿易の要衝、北前船の寄港地として江戸時代に至るまで繁栄は続きました。

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【美保関:地蔵崎】

したがって、この辺りには延喜式内の古社、美保神社をはじめ古墳や旧跡などが点在し、
見所が目白押しなのですが、今回は家族サービスがメインなので殆ど立ち寄る事が出来ませんでした。

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【美保関灯台①】

唯一、立ち寄ったのが半島の最東端、地蔵崎にある美保関灯台です。
旧跡と呼ぶには新しい、明治31年(1898)に建てられた現役の灯台ですが、
平成10年には「世界の歴史的灯台100選」に選ばれており、
かねてから、その瀟洒な姿を一目見たいと思っていたで立ち寄ってきました。

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【美保関灯台②】

「道の涯は小山のように隆起し、登り坂になった。
やがてこの地塊は、はげしい角度で海に落ちている。
その先頭に白い灯台がたっていた。」

かつて作家の司馬遼太郎氏は「街道をゆく」の中で、この灯台をこう描いています。
フランス人技師による設計で、地元職人の手によって立てられた石作りの建築は、
高さ14m(水面からの高さ83m)という堂々たるものです。
その白亜の美しい姿は、司馬氏をして「19世紀の西洋が小天地として存在している」と感嘆させました。

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【美保関灯台③】

昭和37年(1962)以降は無人化されましたが、建設から100年以上経った今も、
遠く43km先まで届く150万カンデラという力強い光で、沖をゆく船の航路を照らし続けています。

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【松江城内堀】

美保関灯台を後にして、境水道大橋を再度渡って弓ヶ浜砂州を後戻り。
中海に浮かぶ江島~大根島を経由して、松江市内に入りました。
目指すは出雲松江城でしたが、台風の影響でこの頃から雨足が強くなり、
松江城に到着した頃には本降りりに。

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【松江城登城口】

「もう帰ろう!」コールを始めた嫁さんと子供達を土産物屋さんに残し、
とりあえず、外観だけ写真に収めてきました。

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【松江城石垣】

松江城は山陰地方で唯一、建築当時の天守が残るお城です。
安土桃山時代の実戦的な城郭建築の特徴をよく残した、望楼式5層6階建の天守は慶長16年(1611)の建築。
お城ファンならずとも、思わずうっとりするほどの美しさです。

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【松江城天守】

名城を前にして、この日は文字通りの駆け足で、傘を差しながらの撮影。
天守内部や3つの櫓(復元)など、じっくりと見学したい思いはありましたが、
登城は諦めて家族が待つお土産物屋さんへ。
いつの日にかの再訪を誓い、後ろ髪をひかれる思いで帰路に着きました。

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07.08.24  本文訂正のお知らせとお詫び

記事中に、水木しげる氏がすでにお亡くなりになっているという表記がありましたが、
氏は現在も85歳でお元気であります。
メールでお知らせ下さった方があり、ようやく気づきました。
全くの勘違い。
本文は訂正させていただきました。
水木しげる氏ならびに、読んで頂いたすべての皆様にお詫び申し上げます。

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2007年8月 6日 (月)

皆、生き返る温泉

8月の1日から3日までの3日間は、仕事を連休。
大阪から嫁さんと下の娘2人を呼んで、久しぶりに家族小旅行に出かけました。

向った先は鳥取県米子市にある皆生温泉。
観光旅館・ホテル・公共の宿などが40軒、5000人の収容規模を誇る山陰では最大の温泉地です。   
泉質は、ナトリウム・カルシウム塩化物泉で、源泉数は19ヶ所、源泉温度は27~83℃と高温で、
毎分4456.5ℓと豊富な湧出量を誇ります。

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【弓ヶ浜と皆生温泉街】

旅行の目的のメインは娘達の海水浴、サブが嫁さんの温泉、オマケで私の米子周辺の旧跡撮影。
という訳で、あまり撮影の方はぱっとしませんでした。

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【皆生温泉の雲】

山陰随一といわれる皆生温泉の歴史はまだ浅く、
明治33年(1900)に地元の一師が海中に湧き出す熱湯を、偶然発見したのが始まりです。
しかし、当時の技術では、海底から湧き出すお湯を安定的に利用するのは難しく、
本格的な開発が始められたのは大正9年(1924)になってから。
皆生温泉開発の祖と呼ばれる有本松太郎氏が、
温泉源を安全な場所に確保・維持し、集中的に配湯できるシステムを作り上げました。

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【有本松太郎記念碑】

有本松太郎氏は、文久3年(1863)兵庫県生まれ。
家業の土木請負業をついで、米子で事業を営んでいました。
その後、大正7年(1918)に鳥取県会議員に当選。
それを期に土木請負業を知人に譲り、皆生温泉開発に専念するようになりました。
まず、温泉源一帯の土地を整備して本格的な都市計画を策定。
米子からの鉄道を敷設し米子電気軌道株式会社(現在は廃線)を設立するなど、交通網の整備も進めてゆきました。

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【皆生温泉開発の祖、有本松太郎氏】

当時の最先端を行く、松太郎氏の「皆生温泉都市計画設計図」が現在の温泉街の原型となっており、
皆生温泉は日本各地にある伝統的な温泉郷とは生い立ちを異にした、
近代的な都市計画から形成された温泉リゾートだと言えます。

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【皆生温泉歓楽街】

戦後は、団体客が多く訪れるようになり、それと共に風俗営業の店が増加。
一時は温泉リゾートというよりは、お色気路線の歓楽温泉となりました。

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【日本トライアスロン発祥の地】

しかし、1970年代後半からは積極的に歓楽温泉から健康的な温泉へのイメチェンが図られ、
昭和53年(1978)には弓ヶ浜に海水浴場を整備、昭和56年(1981)には日本で最初のトライアスロン競技会を開催、
その発祥の地として毎年大会を開催し、多くの選手や関係者を集めています。

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【弓ヶ浜海水浴場:台風前の静けさ】

この日は台風5号が接近中で、子供連れの数は少なかったようですが、
広々とした弓ヶ浜海水浴場で夏休みを楽しんでいました。
我が家の娘達が、親父と海岸で戯れてくれるのも後数年。
仕事に終われる日々の中、娘達との「今」を大いに楽しんだ3日間でした。

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