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2007年7月 2日 (月)

石井のおとうさん

岡山市門田屋敷にある岡山博愛会病院の一角には、1人の偉人を顕彰する記念碑が建てられています。
その偉人とは、明治20年(1887)、日本の社会全体が貧しく、いまだ福祉という考え方もなかった時代に、
この地に日本最初の孤児院となる孤児教育会(後に岡山孤児院と改称)を創設した社会事業家、石井十次氏です。

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【岡山孤児院跡の記念碑】

石井十次は慶応元年(1865)、宮崎県児湯郡上江村(現宮崎県高鍋市)に下級武士の子として生まれました。
十次の幼少の頃の逸話として、戦前の修身の教科書でも取り扱われた「縄の帯」というお話しがあります。

村のお祭り日、近所の子ども達が晴れ着を着込んで出かけていく中、
十次の母親も新しい手織りの帯をしめさせて十次を送りだしました。

ところが、お祭りから帰ってきた十次は、手織りの新しい帯ではなく、きたならしい縄の帯をしめていました。
不審に思って母親が問いただすと、「友だちの松ちゃんが、汚い着物に縄の帯をしていたのを、
皆にからかわれていたので、僕の帯と取り替えてやったのです。」と答えたそうです。

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【石井十次胸像】

幼少の頃から心根が優しく聡明であった十次は、当初はと海軍士官を志しますが、病気(脚気)の為に断念。
故郷に帰り、小学校教師や警察署の書記をしていましたが、またもや難病(性病)を患います。
その時、彼の治療にあたった宮崎病院長の荻原百平は熱心なクリスチャンで、
十次に多大な影響を及ぼし、入信のきっかけをつくったのでした。 

その後、十次も医学の道を志し、1882(明治15)年に17歳で岡山県医学校(現岡山大学医学部)に入学。
明治20年(1887)には、医学の実地研修と自身の療養の為、邑久郡上阿知村(現岡山市上阿知)に転地、
「太田診療所」で代診を務めるようになりました。

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【天使像:新天地育児院前】

当時、「太田診療所」の隣には大師堂(現存)があり、生活に困窮した人たちが寝泊りするような場所になっていました。
ある日、旅の母親が2人の子供を連れて大師堂に泊まりました。
途方に暮れている一行を見兼ね、十次は1人の男の子を引き取りました。
この出来事が、その後の十次が一生を捧げる孤児救済事業の第一歩となります。

まもなく十次は、備前市で男の子が物乞いをしていると聞くと、その子を捜し出して引き取り、
また、十次の噂を聞いてやってきた極貧の女性からも男の子を預かりました。
こうして、瞬く間に十次は3人の孤児を預かることになり、
その年の内に、三友寺(現岡山市門田屋敷)の一角を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を開くに至りました。

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【聖母像:新天地育児院】

明治22年(1889)、十次は「人は二主に仕うること能わず」との聖句に従い、孤児救済に一生を捧げることを決意し、
それまで大切にしていた医学書をすべて焼いてしまい、医学校を自主退学します。

それ以降の十次は、エネルギッシュに全国的規模で孤児の収容を行い、
いろいろな人々からの援助を受けながら事業を拡大していきました。

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【通学帰路:本文とは無関係】

明治24年(1891)、濃尾地方に大震災が起き、死者が約7300人という悲惨な状況でした。
すぐさま十次は、震災孤児を救うための活動を起こし、明治25年(1892)、名古屋震災孤児院」を設立。
93人の孤児を救済しました。

明治30年(1897)には、孤児の為の私立岡山孤児院尋常高等小学校を設立。

明治37年(1904)になると日露戦争が起こり、戦争で父親をなくした子どもたちが路頭に迷っていました。
十次は、日本各地の戦争孤児63人を救済し、この時点で岡山孤児院は300人近い孤児を収容することとなりました。

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【通園帰路:本文とは無関係】

さらに、明治39年(1906)には、東北地方の大凶作による孤児を救済する活動に着手。
孤児たちの移送は6回に分けて行われ、824人の子どもたちが保護され、
岡山孤児院は1200人の大家族となり、50棟もの宿舎が建ち並びました。

その後、明治43年(1910)には孤児院を宮崎の茶臼原(ちゃうすばる)に移転。
生まれ育った故郷で、十次が夢に描いた理想郷づくりを進めました。

そして大正3年(1914)、腎臓病が悪化し、開拓的社会事業家石井十次は永眠しました。

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【仕事中①:本文とは無関係】

児童福祉という言葉も概念もない明治の時代に、3000人もの孤児を救済した石井十次ですが、
注目すべきところは、食べさせるだけではなく、労働を通じて教育をすることが大切であるとの信念の下に、
最初から施設を「教育院にして養育院にあらず」と言っていること。

「社会に出て社会に貢献する活力ある人物を輩出せしむる」という、非常に積極的な教育観を持っていました。
私立の尋常小学校を作ったのはその表れで、能力ある児童は上級学校へも進学させました。

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【仕事中②:本文とは無関係】

東北の飢饉で助けられた子供が、十次に送った手紙を紹介します。

おとうさん(十次のこと)、私は無事に帰りました。家では父母がおおいいに喜びました。
私が三度のご飯の時にお祈りをすると、なにをしているのかと言われましたから、そのわけをいいました。
ところが、かんしんして喜びました。
私はイエス様のことを忘れません。私はひゃくしょうをしています。
ご安心ください。さようなら。私は岡山孤児院そだち、どんな苦労もいとやせぬ。

福島県安達郡岩根村 ○○吉造

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【仕事中③:本文とは無関係】

十次亡きあと、その事業は大正15年(1926)に一旦閉じられますが、
昭和20年(1945)、太平洋戦争被災孤児救済を目的に「石井記念友愛社」という名前を揚げて、
同じ茶臼原の地に再開され、現在も活動を続けています。

岡山孤児院は十次の没後12年、大正15年(1926)には解散。
建物の一部(家屋1棟)は現在、岡山市門田本町にある社会福祉法人新天地育児院の敷地内に移築され、
「石井十次記念館」として保存されています。

育ててもらうべき人が無く、道上で生活しているストリートチルドレンは、
全世界で1億人以上いると言われています。
明日の命も知れぬ子供達に、個人ができることは何なのか?
岡山の地で石井十次の生涯に触れ、考えさせられました。

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コメント

んっ?石井のお父さん?タイトルを見た瞬間、今日はyufukiさんのお知り合いの方でも登場するのかな?などと思ってしまいましたが、何と何と凄い人物ですね。驚きました。また、本文とは無関係の自転車屋さんの写真がいいですね。女性のお客さんとの会話が聞こえてきそうです。「大丈夫ですか?」「任せなさいって!」

投稿: kazuo | 2007年7月 2日 (月) 23時34分

またひとり、岡山の隠れた英雄ですね。
中央ではほとんど知られていませんが、本当にこういう方のことをもっと広めたいですよね・・・
岡山県、もっと宣伝してください(桃太郎さんだけでなく)。

投稿: きょんち | 2007年7月 3日 (火) 19時48分

kazuoさん
御返事遅くなりました。
自転車さんの写真、自分でも気に入っていたので、
無関係ながら載せてしまいました。
評価頂き、大変うれしく思います。

投稿: yufuki | 2007年7月 4日 (水) 10時27分

きょんちさん
石井十次氏の生涯は、松平健さん主演で映画化もされていますが、そんなに知られていませんね。
もっと、社会貢献をした人が語り継がれるような世の中になればいいのにと思います。

投稿: yufuki | 2007年7月 4日 (水) 10時30分

こんにちは♪

お久しぶりです (^^ゞ 

人物の入ったスナップ写真、どれも好いですね♪
yufukiさんの世界が広がっているのが良くわかります☆ 

投稿: osanponeko | 2007年7月 6日 (金) 13時09分

ねこさん、ご無沙汰しています。
お忙しい中、コメント有難うございます。

>人物の入ったスナップ写真、どれも好いですね♪

本文とはあまり関係が無い写真ですが、
自分が好きな写真が撮れたので、載せてしまいました。

投稿: yufuki | 2007年7月 6日 (金) 18時18分

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