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2007年7月19日 (木)

最小の蜻蛉

岡山県総社市に、ヒイゴ池湿地と呼ばれている約2.5haほどの湿原があります。

この湿原は平成5年(1993)の岡山自動車道の建設計画で消滅の危機にありましたが、
市民団体(高梁川流域の水と緑をまもる会)の働きかけにより当初のルートが変更され、
保全されることになったビオトープです。

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【ヒイゴ池湿地記念碑】

入り口から少し入った地点から、約450mに渡って遊歩道が設けられており、
そこから湿原に生息する昆虫や水生植物を観察できるように整備されています。
現在は、行政(総社市)と地元の住民の方々が協力して維持管理をしているそうです。

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【水辺の野草:名前知らず】

ここには、700種以上の植物と500種以上の昆虫の生息が確認されており、
その中には、環境省のレッドデータブックで絶滅危惧種とされているトキソウやサギソウなどの希少植物や、
現在知られている蜻蛉科のトンボ中で、最も小さいハッチョウトンボなどが含まれています。

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【蝶々:名前知らず】

この日のお目当ては、5月から8月まで成虫の姿が見られるというハッチョウトンボ。
環境省が自然環境の良好度の指標として指定した十種の「指標昆虫」の一つで、
羽化後も幼虫時代を過ごした水域から離れることがない為、湿原の環境保全の象徴とされるトンボです。

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【トノサマバッタ】

遊歩道を歩き出すと、湿地の上空には沢山のトンボの姿。
まずはハッチョウトンボに拘らず、片っ端から撮影です。

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【トンボ:名前知らず】

全てをカメラに収める事は出来ませんでしたが、実にいろんな種類のトンボに出会うことが出来ました。

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【トンボ:ハラビロ?】

暫くの撮影の後、もうそろそろ本命のハッチョウトンボをと、その姿を探しましたが、
何せ、いつものことながら事前の勉強が乏しい為、どんな場所にいるのか見当がつきません。

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【トンボ:シオカラ系】

「成虫の体長は10~15mm程度で、普通のトンボよりかなり小さいく、
雄は羽化後、体が次第に真っ赤になり、雌は茶、黒、白のしましま」
これだけの情報を頼りに、遊歩道を暫く歩き回わりました。

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【トンボの交尾:名前知らず】

すると、遊歩道から程近い所で、草に止まって此方を見ているちっこいトンボを発見。
「これだ!」と思いました。

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【ハッチョウトンボ♂①】

全身が真っ赤で、大きさもぴったり。
有難いことに、レンズを向けても逃げ出すことなく、愛嬌のある顔でじっと此方を見つめていました。
しかしながら、湿地への立ち入りは厳禁されているので、にじり寄るにも限度があり、
遊歩道に座り込んで、湿地に落ちるぎりぎりまで身を乗り出しての撮影でした。

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【ハッチョウトンボ♂②】

体が小さいので、できるだけ寄りたかったのですが、
私が持っているレンズ(TAMRON 28mm-300mm)ではこれが限界。

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【ハッチョウトンボ♂③】

姿を大きく捉えることのみに意識が集中してしまい、なんとも面白みの無い図鑑写真と相成りました。

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【ハッチョウトンボ♂④】

最初の出会いから暫く経つと、目が慣れたのか、次々に赤い小さなトンボを発見。

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【ハッチョウトンボ♀か?】

これがハッチョウトンボに違いないと思いましたが、いまいち自信が無かったので、
居合わせた地元のカメラマンにモニターで確認していただいたら、「間違いナシ」ということでした。

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【ハッチョウトンボ♂⑤】

平成14年(2002)の渇水時には、ヤゴが育たず、一時ここのハッチョウトンボは絶滅の危機に瀕しましたが、
官民一体となり、井戸を掘るなどの方法で安定した水源確保に取り組み、
今では個体数は順調に回復しているそうです。

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【蜘蛛:名前知らず】

どこかユーモラスなハッチョウトンボの姿を見ていると、
このトンボがとりわけ、湿原保全の象徴とされている理由が解ったような気がしました。

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【ヒイゴ池湿地】

2時間ほどの撮影でしたが、貴重な自然を体感できた楽しいひと時でした。
沢山の自然を愛する人々の努力で、残った湿原。
この先も、此処がトンボたちの楽園であり続けることを祈りつつ、帰路に着きました。

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2007年7月12日 (木)

新しき世界

月曜日(7月9日)はお休みで帰阪。
生憎、小雨交じりの曇り空でしたが、所用もあり、久しぶりに新世界を訪れました。

新世界は言わずと知れた、大阪を代表する歓楽街。
そのレトロ感あふれる雰囲気から、東京の浅草や名古屋の大須と並んで論じらることがありますが、
2つの街が歴史のある門前町の性格を持っているのに対し、新世界は後発の人工的な街です。

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【天王寺公園からの新世界】

新世界の街の起こりは、明治36年(1903)に天王寺一帯で開かれた第5回内国勧業博覧会に遡ります。
内国勧業博覧会は明治10年(1877)、第1回の東京を皮切りに、
2回目と3回目も東京、4回目は京都で開催されていました。

続く5回目の大阪での内国勧業博覧会は、日清戦争勝利後の国威を内外に示す絶好の場として、
日本の企業や団体の参加はもとより、国外からも13カ国の参加を受けて、
「日本初の万国博」と呼べるほどの規模となりました。
国内外の最新技術が寄せられた博覧会は大変な人気を博し、5カ月の開催期間中に530万人という入場者を集め、
大盛況の内に幕を閉じました。

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【通天閣】

閉幕後、跡地周辺には大阪鉄道(関西鉄道を経て現・JR西日本旅客鉄道)や阪堺電気軌道の鉄道駅が整備され、
博覧会から6年後の明治42年(1909)には、跡地東側に天王寺公園が設営されることとなります。
残る西側の土地2万2000坪も大阪財界出資の企業、大阪土地建物㈱に一括で払い下げられ、
跡地開発が着々と進められてゆきました。

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【新今宮方面からの通天閣】

大阪土地建物㈱に払い下げられた用地の北半分には、パリの街路をイメージした放射状の3つの通りが配され、
その要の広場にエッフェル塔を模した塔が建設されます。
その塔は儒学者・藤沢南岳により「天まで通じる塔」という意味で、「通天閣」と名付けられ、
高さ64mの威容と斬新なデザインは、当時の人々の度肝を抜いたと伝えられています。
この初代通天閣は現在のものとは外観が異なり、凱旋門の上にエッフェル塔を乗せたような感じでした。
一方、用地の南半分にはニューヨークのコニーアイランドに似た遊園地を開くこととし、「ルナパーク」と命名されました。

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【新世界本通り商店街】

明治45年(1912)、初代通天閣とルナパークが開業すると、その周りには芝居小屋や映画館、飲食店等が集まりはじめ、
また当時の人気興行であった大相撲の国技館も建設され、「市民の共同娯楽園」としての新世界が誕生します。
周辺地域でも大正4年(1915)に市立天王寺動物園が、大正7年(1918)には飛田遊廓が開業するなど、
一帯は大阪を代表する一大歓楽地帯として認識されるようになってゆきました。

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【新世界のおじさん1】

オープン当初は子供連れや浪速見物の観光客に人気を博したルナパークですが、10年もすると客足は激減し、
大正12年(1923)には敢え無く閉園となってしまいます。
また、初代の通天閣は、第二次世界大戦中の昭和18年(1943)に脚下の大橋座(劇場)の火災に巻き込まれて焼失。
焼け跡は解体されることになり、鉄材は戦時供出に付されました。
そして昭和20年(1945)3月13日、大阪は米軍の大空襲に見舞われ、新世界も被災。
一面の焼け野原になってしまいました。

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【新世界のおじさん2】

戦後は、昭和22年(1947)頃から、ジャンジャン横丁が先ず復興し、周辺一帯も徐々に活気を取りもどして行きます。
昭和31年(1956)には二代目通天閣(現存)が開業。
しかし、時代が下るとともに、家族連れ向けの娯楽ゾーンであった新世界は、大人向けの歓楽街へと姿を変えてゆきました。
そして、一時は一般人がおいそれとは立ち入り難い危険な雰囲気をかもし出すようになってゆきました。

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【新世界のおじさん3】

大阪のキタやミナミの繁華街の隆盛と観光の多様化、そしてデンジャラスなイメージの定着も手伝って、
高度成長期以降の新世界は、長らくの間衰退を極めます。

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【新世界のおじさん4】

ようやく平成8年(1996)の阪神・淡路大震災復興を契機として新世界全体が明るく改装される運びとなり、
カラータイルの舗装や街灯、モールゲートなどが整備され、
再び家族連れが気軽に立ち寄れる街へとイメージチェンジが図られました。

また同年、NHKが新世界界隈を舞台とした朝の連続テレビ小説「ふたりっ子」を放映し、
翌平成9年(1997)には、新世界では久々の大型施設としてフェスティバルゲートとスパワールドが開業。

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【破綻したフェスティバルゲート】

しかし、懸命のアピールもむなしく、往時の賑わいを取り戻す事は出来ず、
鳴物入りで開業したフェスティバルゲートも平成16年(2004)には経営破綻、閉鎖の憂き目となりました。

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【行き交う自転車】

戦後の長い間、時代から取り残されてきた新世界でしたが、
ここ数年、皮肉にも現在進行形ではない「昔の繁華街」の雰囲気にスポットが当たり始めました。
旅行雑誌やTVのバラエティではレトロな飲食店や遊技場が度々取り上げられるようになり、
商店会の二代目三代目の若手経営者(といっても結構おっさんらしい)を中心に、
街全体が再び活気を取り戻しつつあります。

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【新世界の中心で写メを撮る】

この日は、近隣の天王寺公園や動物園が休園日の月曜日。
それでも、まだ午前中にもかかわらず、観光の人たちの姿もちらほら見ることが出来ました。
通天閣とド派手看板をバックに写真を撮る学生さんや、名物の串カツを食べる家族連れ、
仲良くスマートボールに興じるカップル等々。

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【親子連れ】

街全体でコテコテのディープ大阪を演出し、観光資源として活用する様子は、
歓楽街というよりはもはやテーマパークの域。
しかし、それは批判的な意味合いではなく、開き直りに近いストレートさに、
同じ大阪人として共感を覚えるのです。

「商売の為やったら何ぼでもボケたるで!」という意気込みが伝わってきて、
「新世界の新世代」を応援したい気持ちになりました。
およそ1時間ほどの散歩でしたが、ナニワ無くともナニワは最高の思いを強くしました。

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2007年7月 8日 (日)

修験の霊場

世紀末、呪術師の役小角(えんのおずぬ)は、日本古来の山岳信仰や神道と、
外来の仏教や道教を融合させた新しい宗教、修験道を成立させました。
そして、大峰山系(吉野山~金峰山~大峰山)から紀州・熊野にかけての険しい山岳地帯を霊場としながら、
金峰山を拠点とする山伏たちは真言系の当山派を、熊野を拠点とする山伏たちは天台系の本山派を形成するに至ります。

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【五流尊瀧院表門】

古い歴史をもつ全国各地の山岳霊場の多くは、中世末までに当山派と本山派の系列に組み込まれましたが、
特別の伝統をもつ筑後の英彦山や備前の児島五流などの山伏たちは独立を保ちつづけました。
本日紹介するのは、その児島五流修験道の総本山、倉敷市にある五流尊瀧院と熊野神社です。

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【護摩堂裏手】

児島五流修験道の起源は、今から1300年以上前に遡ります。
文武天皇元年(697)、大和国の葛城(かつらぎ)にいた修験道始祖・役小角は、
民衆を惑わす邪教の首魁として罪に問われ、伊豆大島に流されました。
その時、紀州・熊野にいた高弟らは、自らにも難の及ぶことを恐れ、
文武天皇3年(669)、熊野本宮の神体を船に移し、瀬戸内海に脱出しました。

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【本堂】

その後3年余り、淡路島など瀬戸内海各地を流浪した果てに児島の沖まで辿り着きましたが、
ついには飲み水にも困ってしまい、一同で天にむかって祈念を行いました。
すると、不思議な事に周囲の海水が真水となったと伝えられています。
この伝説が「水島」の地名の由来となったそうです。

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【護摩堂】

大宝元年(701)に小角が釈放となり、それを期にこの地に上陸。
この時、高弟たちが熊野権現の神体を奉斉したのが太法院・報恩院・建徳院・伝法院・尊瀧院の五院で、
これが、児島修験の起源となります。
小角の立行相伝の家として重きをなしながらも、五院はそれぞれ行法軌則のことなる修法を伝えて一派をなし、
後には児島五流と呼ばれるようになりました。

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【御庵室】

天平12年(740)、聖武天皇から神領として児島郡を拝領。
天平宝字5年(761)には熊野権現の社殿と、本地堂・千射仏堂・五重塔・鐘楼・仁王門を建て新熊野山と号しました。
続けて、児島郡木見村(倉敷市木見)に新宮諸興寺を建立、山村(倉敷市由加)には本地堂を設けて新熊野瑜伽寺とし、
本宮と瑜伽寺と諸興寺をあわせて新熊野三山と称しました。

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【庭園】

時代は下って建久3年(1192)、源頼朝が鎌倉幕府を興し、政治の実権は朝廷から幕府に移りますが、
いまだ国内情勢は不安定で、御家人同士が激しく争っている状態が続いていました。
それを制したのは頼朝の外戚にあたる北条氏で、二代・頼家、三代・実朝の死も北条氏の陰謀と言われています。
しかし幕府の内紛はなおも続き、その土台は決して磐石とは言えませんでした。

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【十一面観音像】

承久3年(1221)、後鳥羽上皇はこの機に乗じ、権力を再び朝廷の元に取り戻さんと、
執権北条義時追討の院宣を発し、兵を挙げます。
当初、鎌倉は混乱に陥りますが、幕府の元老・三浦義村が早々に北条氏への忠誠を表明。
すると御家人達の動揺も一気に鎮まり、たちまち十数万の幕府軍を整え、上皇のいる京都へ攻め上りました。

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【不動明王像】

朝廷軍は腰砕けになり、乱はあっさりと鎮圧され、上皇の志はむなしく潰えてしまいます。
これが承久の乱で、「皇室が人臣と兵革を用いて政権を争い、事実上、形式上 明に屈服したまいたる唯一の乱」
(「増鏡に見えたる後鳥羽院」谷崎潤一郎)でした。

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【焚き火】

結果、後鳥羽上皇は隠岐へ流され、上皇の第6皇子令泉宮頼仁親王もこの乱に加担したとされ、
ここ五流尊瀧院に流刑となりました。
すでにこの地には第4皇子桜井宮覚仁親王も流されてきており、二人の親王はこの地で寂しく余生を過ごしました。
延応元年(1239)、出家し法皇となった後鳥羽院も無念のうちに隠岐で終世を迎え、その遺骨は3つに分けられました。
1つは隠岐に、1つは都に、そしてもう1つがこの地に移されました。

五流尊瀧院近くには、そのご遺骨を納めた供養塔が建てられています。
皮肉にもこの乱をきっかけに、北条政権の基盤は確固たるものとなり、
後鳥羽院が志した天皇親政の実現には、100年後の後醍醐天皇による建武の中興を待たなければなりませんでした。

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【後鳥羽上皇御影塔】

南北朝時代から室町時代にかけては、神領や寺領がつぎつぎに削減され、新熊野三山は衰退の一途をたどります。
そして、決定的な打撃を蒙ったのは、応仁元年(1467)の覚王院円海の叛逆でした。
円海は細川勝元の縁者で、五流のなかにありながら勝手な振舞が多く、山内では円海打倒の機運が高まっていました。
危険を察知した円海は、備中国の阿知(倉敷市西阿知)へ逃走、この地に新たに熊野権現を勧請して対抗勢力を集め、
細川の兵を借りて新熊野山に乱入、 三十有余の伽藍僧坊を一夜のうちに焼き払ってしまいました。

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【三重塔】

それから20数年後、大願寺住職・天誉(てんよ)が再興に着手し、
明応元年(1492)以降に本殿・大日堂・三重塔(県指定重文)・長床などを再建。
熊野神社本殿の一棟(国指定重文)はこのとき再建された社殿です。
しかしながら、後鳥羽院の御廟堂と経蔵、覚仁親王の御廟などは再建することができませんでした。

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【横一列に並ぶ熊野神社社殿】

下って戦国末期の天正10年(1582)、備中高松城の水攻めに加勢しなかったという理由で羽柴秀吉の弾圧をうけます。
すべての神領を失い、以降の児島五流は悲境の一途をたどることとなりました。

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【春日造りの神殿二棟(右は国指定重文)】

この日の備前国の修験のメッカは訪れる人も無く、ひっそりと静まり返っていました。
五流尊瀧院の本堂や護摩堂を見た後、隣接する熊野神社に回りましが、
その境内には尊瀧院の三重塔が聳えており、まさに神仏習合のモザイク状態でした。
また、神殿など数棟の社殿が横一列に配置されており、縦配列の神社を見慣れた者には奇異な感じがしました。
この配列は紀州の熊野本宮と同様で、熊野神道の社殿配置が完璧に残る全国的にも貴重な例とされているそうです。

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【役小角像】

時折小雨がぱらつく梅雨空の下、しばらくは撮影をしながら1人境内を歩きましたが、
すれ違う人も無く、あまりの静寂に寒気を感じ、足早に車に向かい退散してしまいました。
私自身は、どちらかと言うと、現代科学の信奉者で、心霊や神秘主義を是としない立場ですが、
さすがに1300年続く霊場、独特な雰囲気がありました。

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2007年7月 2日 (月)

石井のおとうさん

岡山市門田屋敷にある岡山博愛会病院の一角には、1人の偉人を顕彰する記念碑が建てられています。
その偉人とは、明治20年(1887)、日本の社会全体が貧しく、いまだ福祉という考え方もなかった時代に、
この地に日本最初の孤児院となる孤児教育会(後に岡山孤児院と改称)を創設した社会事業家、石井十次氏です。

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【岡山孤児院跡の記念碑】

石井十次は慶応元年(1865)、宮崎県児湯郡上江村(現宮崎県高鍋市)に下級武士の子として生まれました。
十次の幼少の頃の逸話として、戦前の修身の教科書でも取り扱われた「縄の帯」というお話しがあります。

村のお祭り日、近所の子ども達が晴れ着を着込んで出かけていく中、
十次の母親も新しい手織りの帯をしめさせて十次を送りだしました。

ところが、お祭りから帰ってきた十次は、手織りの新しい帯ではなく、きたならしい縄の帯をしめていました。
不審に思って母親が問いただすと、「友だちの松ちゃんが、汚い着物に縄の帯をしていたのを、
皆にからかわれていたので、僕の帯と取り替えてやったのです。」と答えたそうです。

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【石井十次胸像】

幼少の頃から心根が優しく聡明であった十次は、当初はと海軍士官を志しますが、病気(脚気)の為に断念。
故郷に帰り、小学校教師や警察署の書記をしていましたが、またもや難病(性病)を患います。
その時、彼の治療にあたった宮崎病院長の荻原百平は熱心なクリスチャンで、
十次に多大な影響を及ぼし、入信のきっかけをつくったのでした。 

その後、十次も医学の道を志し、1882(明治15)年に17歳で岡山県医学校(現岡山大学医学部)に入学。
明治20年(1887)には、医学の実地研修と自身の療養の為、邑久郡上阿知村(現岡山市上阿知)に転地、
「太田診療所」で代診を務めるようになりました。

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【天使像:新天地育児院前】

当時、「太田診療所」の隣には大師堂(現存)があり、生活に困窮した人たちが寝泊りするような場所になっていました。
ある日、旅の母親が2人の子供を連れて大師堂に泊まりました。
途方に暮れている一行を見兼ね、十次は1人の男の子を引き取りました。
この出来事が、その後の十次が一生を捧げる孤児救済事業の第一歩となります。

まもなく十次は、備前市で男の子が物乞いをしていると聞くと、その子を捜し出して引き取り、
また、十次の噂を聞いてやってきた極貧の女性からも男の子を預かりました。
こうして、瞬く間に十次は3人の孤児を預かることになり、
その年の内に、三友寺(現岡山市門田屋敷)の一角を借りて孤児教育会(後の岡山孤児院)を開くに至りました。

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【聖母像:新天地育児院】

明治22年(1889)、十次は「人は二主に仕うること能わず」との聖句に従い、孤児救済に一生を捧げることを決意し、
それまで大切にしていた医学書をすべて焼いてしまい、医学校を自主退学します。

それ以降の十次は、エネルギッシュに全国的規模で孤児の収容を行い、
いろいろな人々からの援助を受けながら事業を拡大していきました。

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【通学帰路:本文とは無関係】

明治24年(1891)、濃尾地方に大震災が起き、死者が約7300人という悲惨な状況でした。
すぐさま十次は、震災孤児を救うための活動を起こし、明治25年(1892)、名古屋震災孤児院」を設立。
93人の孤児を救済しました。

明治30年(1897)には、孤児の為の私立岡山孤児院尋常高等小学校を設立。

明治37年(1904)になると日露戦争が起こり、戦争で父親をなくした子どもたちが路頭に迷っていました。
十次は、日本各地の戦争孤児63人を救済し、この時点で岡山孤児院は300人近い孤児を収容することとなりました。

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【通園帰路:本文とは無関係】

さらに、明治39年(1906)には、東北地方の大凶作による孤児を救済する活動に着手。
孤児たちの移送は6回に分けて行われ、824人の子どもたちが保護され、
岡山孤児院は1200人の大家族となり、50棟もの宿舎が建ち並びました。

その後、明治43年(1910)には孤児院を宮崎の茶臼原(ちゃうすばる)に移転。
生まれ育った故郷で、十次が夢に描いた理想郷づくりを進めました。

そして大正3年(1914)、腎臓病が悪化し、開拓的社会事業家石井十次は永眠しました。

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【仕事中①:本文とは無関係】

児童福祉という言葉も概念もない明治の時代に、3000人もの孤児を救済した石井十次ですが、
注目すべきところは、食べさせるだけではなく、労働を通じて教育をすることが大切であるとの信念の下に、
最初から施設を「教育院にして養育院にあらず」と言っていること。

「社会に出て社会に貢献する活力ある人物を輩出せしむる」という、非常に積極的な教育観を持っていました。
私立の尋常小学校を作ったのはその表れで、能力ある児童は上級学校へも進学させました。

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【仕事中②:本文とは無関係】

東北の飢饉で助けられた子供が、十次に送った手紙を紹介します。

おとうさん(十次のこと)、私は無事に帰りました。家では父母がおおいいに喜びました。
私が三度のご飯の時にお祈りをすると、なにをしているのかと言われましたから、そのわけをいいました。
ところが、かんしんして喜びました。
私はイエス様のことを忘れません。私はひゃくしょうをしています。
ご安心ください。さようなら。私は岡山孤児院そだち、どんな苦労もいとやせぬ。

福島県安達郡岩根村 ○○吉造

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【仕事中③:本文とは無関係】

十次亡きあと、その事業は大正15年(1926)に一旦閉じられますが、
昭和20年(1945)、太平洋戦争被災孤児救済を目的に「石井記念友愛社」という名前を揚げて、
同じ茶臼原の地に再開され、現在も活動を続けています。

岡山孤児院は十次の没後12年、大正15年(1926)には解散。
建物の一部(家屋1棟)は現在、岡山市門田本町にある社会福祉法人新天地育児院の敷地内に移築され、
「石井十次記念館」として保存されています。

育ててもらうべき人が無く、道上で生活しているストリートチルドレンは、
全世界で1億人以上いると言われています。
明日の命も知れぬ子供達に、個人ができることは何なのか?
岡山の地で石井十次の生涯に触れ、考えさせられました。

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