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2007年6月16日 (土)

禅のパイオニア

岡山市中北部にある救世山安養寺は、現在は臨済宗建仁寺派に属する禅寺院ですが、
開山は天台の第5代座主智證大師(ちしょうだいし)と伝えられる古刹です。
しかし、無住の時代が長く続いたため、江戸時代にはすでに荒れ果てていました。

昭和9年(1934)に畠中大心住職が京都の建仁寺管長の命を受け入山し、苦難の末に今日のように再興されました。
<<平成6年(1994)、畠中住職は88歳で往生され、現在は澄子夫人がひっそりと寺を守っておられます。>>

私が安養寺を訪れたのは、吉備が生んだ偉大な宗教家の一人、明庵(みんなん)栄西の足跡を辿ってのことで、
ここは栄西が得度した寺として広く知られています。

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【救世山安養寺】

永治元年(1141)、栄西は吉備津神社の神官職を世襲する名門、賀陽(かや)氏に生まれました。
幼少のころから抜きんでた英才であったと伝えられており、8歳の頃には仏教の入門書といわれる「倶舎頌(くしゃじゅ)」を読み、
11歳にして父親の親友であった安養寺の静心住職に師事、多くのことを学びました。
少年栄西に類まれなる才能を見出した静心住職は、ここで教える事は無くなったと、比叡山で修業することを勧めます。

そして14歳の年には比叡山に上り受戒、顕教と密教の厳しい修業を積みましたが、
門閥・閨閥が跋扈し、高僧が官位取得に走る当時の比叡山に早々に見切りをつけ、応保2年(1162)、22歳で下山しました。
時を同じくして、その後の鎌倉新仏教の担い手となった日蓮・親鸞・法然らも比叡山を下りています。

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【安養寺:「栄西禅師得度の地」碑】

宋にわたり真の天台を極めたいと望んでいた栄西は、仁安3年(1168)28歳の時、初の入宋を果たします。
約5ヶ月の滞在の間、天台宗発祥の地である天台山や阿育王山を巡りましたが、
すでに両山においても主流が禅に代わりつつある事を知りました。

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【安養寺:本堂】

帰国後は、禅研究の大目標を達成する為、まずは天台蜜教での名声獲得を図ります。
故郷の吉備に帰り、荒廃した諸寺の復興に尽力され、金山寺(現岡山市)・日応寺(現岡山市)などで、
堂舎・伽藍の再建や法具の整備を行った記録が残っています。
若くして宋に留学を果たした実績と吉備での功績が認められ、栄西は次第に天台の実力者となってゆきます。

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【安養寺:書院】

政治の動きにも敏感であった栄西は、源氏台頭の兆しが見えると、
吉備でかかわりのあった平氏との繋がりを絶ち、筑前今津(福岡市)に活動の拠点を移し、誓願寺に逗留します。
その後10年間に渡り、再度の入宋を期し、ひたすら仏教研究に没頭しました。

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【安養寺:茶筅塚】

文治3年(1187)47歳の年、念願かなって再び宋へ。
4年にわたって滞在し、臨済宗黄龍(おうりょう)派の虚菴懐廠(こあんえじょう)のもとで禅の修業を積み、
「明庵(みんなん)」の号を授けられました。
この入宋で、栄西は日本の仏教界を再生するのは禅以外には無いと確信します。

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【弥勒山日応寺:総門】

また、この折に茶の種を持ち帰り、臨済禅の修行にも大いに効果のあったお茶を全国に広めました。
晩年に著した『喫茶養生記(きっさようじょうき)』は、日本で最初の茶の本とされ、
栄西はわが国の禅の開祖とされると共に、茶の開祖ともされています。
今日の茶道にしても、現代の日本人がお茶に親しんでいることにしても、栄西をぬきにして語ることは出来ません。

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【日応寺:三門】

建久2年(1191)に帰国した栄西は、天台・真言の既成仏教の影響力が強い京都を避け、博多を拠点として禅の布教を開始。
建久6年(1195)には、後に「扶桑最初禅窟(ふそうさいしょぜんくつ)」と称せられた聖福寺を建立し、開山となりました。
栄西の教えを乞うために沢山の門人がここに集い、その評判は京の都や幕府(鎌倉)にまで届きました。

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【日応寺:山門より本堂】

栄西の名声は比叡山を刺激し、禅宗の進出を恐れた山徒から論難を受け、朝廷からも禅宗停止の命が出ました。
すぐさま上洛した栄西は「興禅護国論」を著し、自分の禅は最澄の説いた禅戒一致の禅と同質のものであり、
天台の鎮護国家論を再生し、叡山仏教を再興するものであると説きました。

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【日応寺:番人堂】

これにより、朝廷の信頼を得た栄西は、今度は新幕府のお膝元・鎌倉へ赴き、
ここで政権の中核に働きかけ、正治2年(1200)には、将軍・源頼家や母・北条政子の援助を受け、
鎌倉に寿福寺を建立することに成功します。

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【銘金山金山寺:仁王門】 06年12月撮影

建仁2年(1202)には、延暦寺と同格の大寺院・建仁寺を将軍・頼家が京都に建立、
幕府の庇護の下、当時62歳になっていた栄西が開山となります。
当時の建仁寺は、山内に止観院と真言院を置いており、天台宗・真言宗・禅宗の兼修道場の性格を持っていました。
このことにより、栄西は既成仏教と妥協したと評価されることもありますが、栄西自身は禅を総合仏教ととらえており、
天台や密教と兼修可能なものと考えていました。

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【金山寺:三重塔】 06年12月撮影

以後栄西は京都と鎌倉を頻繁に往復して、精力的な活動を続けます。
この活動により、天台・真言以外にも多様な仏教があるということが人々に認識されはじめ、
以後の道元(曹洞宗)、法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)らの活動を支える下地が出来上がりました。

栄西批判の急先鋒・天台座主の慈円は、朝廷・幕府の双方の信頼を得て高位についた栄西を、
権力欲の権化であると非難し続けました。
しかし、既成の巨大宗派に対して、新しい宗派を興隆させる為には、権威・地位は手段として必要不可欠であり、
栄西自身は無私・無欲の人であったと伝えられています。

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【吉備津神社:回廊】

様々な法難、批判に屈することなく、自ら信じる禅の道を力強く歩んだ栄西は、建保3年(1215)、75歳で生涯を閉じました。

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【吉備津神社:北随神門石段】

ところが、これまで見てきたように、栄西が超一級の歴史的人物であるにもかかわらず、
今日の日本の仏教界において、各宗派の開祖と比した時、仰ぎ見られるということが少ないように思います。
吉備津神社のすぐそばにある「生誕の地」も、「えっ!」と思うほど簡素なものでした。
同じ吉備出身の法然上人の場合には、生誕の地に立派な誕生寺が建ち、
その生い立ちや功績が伝説化し語り継がれている事を思えば、一抹の寂しささえ感じます。

京都の建仁寺では、毎年栄西の遺徳を偲んで、盛大な四頭茶会(よつがしらちゃかい)が催されていますが、
生誕地岡山では大きなイベントは無く、後楽園での桜祭りの折にお茶会が開かれる程度。
岡山出身者でも、栄西が地元出身だと言う事を知らない人も多いようです。

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【栄西禅師生誕の地】

その理由は幾つか考えられます。
時の権力に迎合した布教や天台・真言との兼修を是とした姿勢に対して、一部には厳しい見方があると言う事、
現存している日本の臨済禅は、全てが栄西の伝えた黄龍派の禅ではないという事などなど。
その他にも、臨済宗門内で難しい問題があるのかどうか、門外漢には全く知る由もありません。

しかしながら、明庵栄西が日本の禅のパイオニアであることに変わりなく、
「もう少し華やかに顕彰してもいいのでは?」と師の足跡を辿りながら、素朴にそう思いました。

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コメント

栄西禅師のこと耳にはしておりましたが、yufukiさんのブログで、その人物像を初めて知りました。禅のパイオニアが得度された「安養寺」の復興は、兎にも角にも喜ばしいことですね。

投稿: kazuo | 2007年6月17日 (日) 17時36分

kazuoさん
有難うございます。
記事にも書きましたが、安養寺は現在、ご高齢の住職婦人がお寺を守らているそうで、そのご苦労が偲ばれます。

投稿: yufuki | 2007年6月17日 (日) 20時26分

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