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2007年6月19日 (火)

鳥人の碑

岡山城から南へ、旭川に沿って500m程下った所に、京橋という橋がかかっています。
その京橋の袂近くに、下の写真にある「表具師幸吉之碑」が立っています。

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【表具師幸吉之碑】

浮田幸吉(別名桜屋幸吉)は宝暦7年(1757)、備前国八浜(現玉野市八浜町)の宿屋で生まれました。
しかし、実家の宿屋の経営が思わしくなく、幼くして岡山城下の紙屋に奉公に出され、
長じて、生まれながらの手先の器用さを生かし、傘職人を経て表具師となりました。

小さい頃から「鳥のように空を飛べたら」と考えていた幸吉は、
仕事の傍らに鳩などを観察し、鳥が飛ぶ仕組みを独学で研究していました。
その結果、鳩の体重と翼の大きさの割合を人間にあてはめ、
自分の体に見合った大きさの翼が必要であるとの結論に達し、ハバタキ式滑空機を竹と木と紙で作成。
天明5年(1785)6月の夕刻、高さ10m程の京橋から旭川の河原に向けて飛び降り、
見事に数十メートルの滑空飛行に成功しました。

この出来事は、後にその噂を聞いた詩人菅茶山(1748~1827)などによって記録※1されています。

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【河原の花:本文とは無関係です】

しかし、突然京橋から人が舞い降りてきた為、河原で夕涼みをしていた人々は「天狗が出た!」などと騒然となりました。
その為、幸吉は人々を驚かせた罪に問われ、岡山藩を所払いになってしまいます。

その後、幸吉は駿府の江川町(現静岡市江川町)に移り住み、備前の物産を売る店を開きました。 
そのかたわら時計や入れ歯の修理をしていましたが、ここでも空を飛ぶ夢が捨てきれず再び翼を作り、
今度は阿部川の河原で空を飛んだと伝えられています。 
この為、この土地でも所払いとなり、磐田見付(現磐田市見付)に移り住み「備前屋」という飯屋を開店。
弘化4年(1847)8月、91歳で亡くなりました。 

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【河原ですれ違った人:本文とは無関係です】

鳥人幸吉の記録は、筒井康隆氏によって「空飛ぶ表具屋」として小説化されています。
(新潮文庫短編集「将軍が目醒めた時」収録)

 空を飛ぶということは、いつの世にも自然の理に反したことなのです。
 人間が空を飛ぶ時、それは死を覚悟した時でなければならない。
 いいかえるならば、死んでもいいから空を飛びたいと強く望む人間だけが空を飛ぶ権利を持つのです。
 (筒井康隆氏「空飛ぶ表具屋」より引用)

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【大空を舞う鳶】

幸吉の京橋での飛行が事実であるならば、
1849年に行なわれた英国のジョージ・ケイリーによるグライダーの飛行実験よりも60年以上早く、
世界初の滑空飛行ということになります。
備前岡山の地は各方面で多くの偉人を輩出していますが、鳥人幸吉も岡山偉人列伝に是非加えたい魅力的な人物です。

※1 菅茶山が著した「筆のすさび」には以下の記述が見られます。
 備前岡山表具師幸吉というもの、一鳩を捕えて、その身の軽重、羽翼の長短を計り、
 わが身の重さとかけ比べて、自から羽翼を製し、機を設けて胸前にて繰り、摶ちて飛行す。
 地より直ちに揚ることあたわず、屋上より羽うちていず。
 ある夜郊外を駈け回りて、一所野宴するを下し見て、もし知れる人にやと近より見んとするに、 
 地に近づけば、風力弱くなりて、思わず落ちたりければ、その男女驚き叫びて逃れ走りける。
 あとに酒肴さわに残りたるを、幸吉あくまで飲み食いして、また飛び去らんとするに、
 地よりは揚り難きゆえ、羽翼をおさめ、歩して帰りける。
 後この事あらわれ、市尹の庁に呼び出され、人のせぬ事をするは、なぐさみといえども一罪なりとて、
 両翼を取り上げ、その住める巷を追放せられて、他の巷に移しかえられける。
 一時の笑柄のみなりしかど、珍しき事なればしるす。
 寛政の前のことなり。

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2007年6月16日 (土)

禅のパイオニア

岡山市中北部にある救世山安養寺は、現在は臨済宗建仁寺派に属する禅寺院ですが、
開山は天台の第5代座主智證大師(ちしょうだいし)と伝えられる古刹です。
しかし、無住の時代が長く続いたため、江戸時代にはすでに荒れ果てていました。

昭和9年(1934)に畠中大心住職が京都の建仁寺管長の命を受け入山し、苦難の末に今日のように再興されました。
<<平成6年(1994)、畠中住職は88歳で往生され、現在は澄子夫人がひっそりと寺を守っておられます。>>

私が安養寺を訪れたのは、吉備が生んだ偉大な宗教家の一人、明庵(みんなん)栄西の足跡を辿ってのことで、
ここは栄西が得度した寺として広く知られています。

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【救世山安養寺】

永治元年(1141)、栄西は吉備津神社の神官職を世襲する名門、賀陽(かや)氏に生まれました。
幼少のころから抜きんでた英才であったと伝えられており、8歳の頃には仏教の入門書といわれる「倶舎頌(くしゃじゅ)」を読み、
11歳にして父親の親友であった安養寺の静心住職に師事、多くのことを学びました。
少年栄西に類まれなる才能を見出した静心住職は、ここで教える事は無くなったと、比叡山で修業することを勧めます。

そして14歳の年には比叡山に上り受戒、顕教と密教の厳しい修業を積みましたが、
門閥・閨閥が跋扈し、高僧が官位取得に走る当時の比叡山に早々に見切りをつけ、応保2年(1162)、22歳で下山しました。
時を同じくして、その後の鎌倉新仏教の担い手となった日蓮・親鸞・法然らも比叡山を下りています。

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【安養寺:「栄西禅師得度の地」碑】

宋にわたり真の天台を極めたいと望んでいた栄西は、仁安3年(1168)28歳の時、初の入宋を果たします。
約5ヶ月の滞在の間、天台宗発祥の地である天台山や阿育王山を巡りましたが、
すでに両山においても主流が禅に代わりつつある事を知りました。

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【安養寺:本堂】

帰国後は、禅研究の大目標を達成する為、まずは天台蜜教での名声獲得を図ります。
故郷の吉備に帰り、荒廃した諸寺の復興に尽力され、金山寺(現岡山市)・日応寺(現岡山市)などで、
堂舎・伽藍の再建や法具の整備を行った記録が残っています。
若くして宋に留学を果たした実績と吉備での功績が認められ、栄西は次第に天台の実力者となってゆきます。

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【安養寺:書院】

政治の動きにも敏感であった栄西は、源氏台頭の兆しが見えると、
吉備でかかわりのあった平氏との繋がりを絶ち、筑前今津(福岡市)に活動の拠点を移し、誓願寺に逗留します。
その後10年間に渡り、再度の入宋を期し、ひたすら仏教研究に没頭しました。

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【安養寺:茶筅塚】

文治3年(1187)47歳の年、念願かなって再び宋へ。
4年にわたって滞在し、臨済宗黄龍(おうりょう)派の虚菴懐廠(こあんえじょう)のもとで禅の修業を積み、
「明庵(みんなん)」の号を授けられました。
この入宋で、栄西は日本の仏教界を再生するのは禅以外には無いと確信します。

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【弥勒山日応寺:総門】

また、この折に茶の種を持ち帰り、臨済禅の修行にも大いに効果のあったお茶を全国に広めました。
晩年に著した『喫茶養生記(きっさようじょうき)』は、日本で最初の茶の本とされ、
栄西はわが国の禅の開祖とされると共に、茶の開祖ともされています。
今日の茶道にしても、現代の日本人がお茶に親しんでいることにしても、栄西をぬきにして語ることは出来ません。

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【日応寺:三門】

建久2年(1191)に帰国した栄西は、天台・真言の既成仏教の影響力が強い京都を避け、博多を拠点として禅の布教を開始。
建久6年(1195)には、後に「扶桑最初禅窟(ふそうさいしょぜんくつ)」と称せられた聖福寺を建立し、開山となりました。
栄西の教えを乞うために沢山の門人がここに集い、その評判は京の都や幕府(鎌倉)にまで届きました。

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【日応寺:山門より本堂】

栄西の名声は比叡山を刺激し、禅宗の進出を恐れた山徒から論難を受け、朝廷からも禅宗停止の命が出ました。
すぐさま上洛した栄西は「興禅護国論」を著し、自分の禅は最澄の説いた禅戒一致の禅と同質のものであり、
天台の鎮護国家論を再生し、叡山仏教を再興するものであると説きました。

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【日応寺:番人堂】

これにより、朝廷の信頼を得た栄西は、今度は新幕府のお膝元・鎌倉へ赴き、
ここで政権の中核に働きかけ、正治2年(1200)には、将軍・源頼家や母・北条政子の援助を受け、
鎌倉に寿福寺を建立することに成功します。

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【銘金山金山寺:仁王門】 06年12月撮影

建仁2年(1202)には、延暦寺と同格の大寺院・建仁寺を将軍・頼家が京都に建立、
幕府の庇護の下、当時62歳になっていた栄西が開山となります。
当時の建仁寺は、山内に止観院と真言院を置いており、天台宗・真言宗・禅宗の兼修道場の性格を持っていました。
このことにより、栄西は既成仏教と妥協したと評価されることもありますが、栄西自身は禅を総合仏教ととらえており、
天台や密教と兼修可能なものと考えていました。

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【金山寺:三重塔】 06年12月撮影

以後栄西は京都と鎌倉を頻繁に往復して、精力的な活動を続けます。
この活動により、天台・真言以外にも多様な仏教があるということが人々に認識されはじめ、
以後の道元(曹洞宗)、法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)らの活動を支える下地が出来上がりました。

栄西批判の急先鋒・天台座主の慈円は、朝廷・幕府の双方の信頼を得て高位についた栄西を、
権力欲の権化であると非難し続けました。
しかし、既成の巨大宗派に対して、新しい宗派を興隆させる為には、権威・地位は手段として必要不可欠であり、
栄西自身は無私・無欲の人であったと伝えられています。

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【吉備津神社:回廊】

様々な法難、批判に屈することなく、自ら信じる禅の道を力強く歩んだ栄西は、建保3年(1215)、75歳で生涯を閉じました。

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【吉備津神社:北随神門石段】

ところが、これまで見てきたように、栄西が超一級の歴史的人物であるにもかかわらず、
今日の日本の仏教界において、各宗派の開祖と比した時、仰ぎ見られるということが少ないように思います。
吉備津神社のすぐそばにある「生誕の地」も、「えっ!」と思うほど簡素なものでした。
同じ吉備出身の法然上人の場合には、生誕の地に立派な誕生寺が建ち、
その生い立ちや功績が伝説化し語り継がれている事を思えば、一抹の寂しささえ感じます。

京都の建仁寺では、毎年栄西の遺徳を偲んで、盛大な四頭茶会(よつがしらちゃかい)が催されていますが、
生誕地岡山では大きなイベントは無く、後楽園での桜祭りの折にお茶会が開かれる程度。
岡山出身者でも、栄西が地元出身だと言う事を知らない人も多いようです。

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【栄西禅師生誕の地】

その理由は幾つか考えられます。
時の権力に迎合した布教や天台・真言との兼修を是とした姿勢に対して、一部には厳しい見方があると言う事、
現存している日本の臨済禅は、全てが栄西の伝えた黄龍派の禅ではないという事などなど。
その他にも、臨済宗門内で難しい問題があるのかどうか、門外漢には全く知る由もありません。

しかしながら、明庵栄西が日本の禅のパイオニアであることに変わりなく、
「もう少し華やかに顕彰してもいいのでは?」と師の足跡を辿りながら、素朴にそう思いました。

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2007年6月 8日 (金)

忘却の塔

岡山市街地のすぐ東側広がる独立丘陵「操山」(みさおやま)には、
先日ご紹介した曹源寺のほかにも、多くの神社仏閣が鎮座しています。
本日は、先日曹源寺を訪れた際に立ち寄った、瓶井山(みかいさん)禅光寺安住院を紹介します。
寺伝によると、禅光寺の創建は天平勝宝元年(749)。
報恩大師によって建立された備前四十八ヶ寺の一つとされる真言宗の古刹です。

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【安住院】

もとの寺中には、禅光寺の本坊である安住院を中心として、
堯王院・蓮華院・理證院・法明院・閑安院・歓喜院・万徳院・伝経院・金蔵院・明寿院・中蔵院・普門院の、
12に及ぶ塔頭(たっちゅう)があり、、瓶井(みかい)の谷は僧坊で埋まっていたと伝えられています。
また、近郷に数多くの末寺をもち、備中における真言宗の中心的勢力として栄えました。
しかし、江戸末期より寺はしだいに衰微、塔頭の諸院は廃寺となり、
現在は本坊の安住院と普門院が残るのみとなっています。

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【仁王門】

旧参道(現在は生活道)を登ってゆくと、先ず目に入ってくるのが、
「瓶井(みかい)の赤門」とよばれる仁王門です。仁王門は康正2年(1456)の建立で、県内最古の楼門。
木割りの太さ、軸部の朱塗り、虹梁(こうりょう)や木鼻(きばな)の形式など、
室町後期の楼門の特徴をよく伝えている名建築で、国の重要文化財に指定されています。

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【安住院境内】

仁王門から約200m行くと、安住院の境内があり、
鐘楼門・本堂・薬師堂・大日堂・牛王所堂・庫裡などが建ち並んでいます。

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【鐘楼門】

境内入り口に当たる鐘楼門は、一見して上部と下部がアンバランスな造りになっています。
案内によると、大正時代に下部を改造したとのこと。
安住院では、明治の頃まで、有名な西大寺観音院の会陽と同様の、
裸の男衆が宝木を奪い合うお祭りを行っていたらしく、
それを偲んで西大寺の竜宮門をまねて、元あった鐘楼を改造したようです。

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【本堂】

入母屋造・本瓦葺の本堂は、棟札にある記録から、
慶長6年(1601)12月18日に建造されたことがわかっています。
しかし、当初建てられた位置は現在地よりも南方数百mの場所で、
先述の12の塔頭が整備される過程で、寛政12年(1800)に現在地に移築されました。

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【観音菩薩立像】

かつては12院を擁した大寺院も、安住院本坊だけを見て回るには、半時間もあれば十分。
この日のお目当ては、当寺に保管されているという「竜の舌」でしたが、
公開されていないらしく、案内も何もありませんでした。
本当は鮫の鼻先らしいのですが、これを龍王堂付近の古池の水で洗うと雨が降ると伝えられています。
秘宝「竜の舌」を見られないならと、早々に安住院を後にしました。

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【十一面観音像】

帰宅後数時間経ち、ふと思い出したのが多宝塔の存在。
たしか、安住院には県下第2の規模の多宝塔もあったはず。
しかし、境内からみえる範囲にはに見当たらず、そのまま帰ってきてしまいました。

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【境内の紫陽花】

観光地図で調べてみると、多宝塔は境内には無く、歩いて10分ほどの山中にあるとの事。
下調べを怠った結果、後楽園の借景にもなっているという、有名な多宝塔を見落とす羽目になってしまいました。
また、近いうちに多宝塔を見てこようと思います。
何事も、ついでの仕事はろくな結果になりませんね。

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2007年6月 4日 (月)

異邦人の禅寺

岡山市街中心部から東方へ約3kmのところに、標高130~170mの小高い丘陵があり、
なだらかな起伏を繰り返しながら、東西方向に4km程連なっています。

操山(みさおやま)と呼ばれるこの丘陵地には、古い民家や畑、竹林や雑木林など、
昔ながらの里山の佇まいが今も残っています。
丘陵全体にわたって、色々な散策コースが整備されており、
岡山市街や児島湾などが見渡せる眺望スポットも数多くあります。

市街地から歩いても行ける距離に、まだこんなにも自然がいっぱい残っているのかと、
大阪出身の私は、初めて訪れた時には少々驚きました。

また、この操山には、豊富な自然の他にも、
古墳群や古寺・古社など、歴史的な見どころも数多く残っており、
市内はもとより県下全域から、多くのハイキング客を集めています。

本日はその見どころ中から、備前の国髄一の禅寺として名高い、護国山曹源寺をご紹介します。

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【曹源寺:総門前】

曹源寺は、岡山城主池田綱政が父・光政と高祖父・信輝の菩提を弔うため、
家臣の上阪外記に命じて、元禄11年(1691)に建立した寺院です。

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【総門から三門へ】

綱政は、先祖の弔いと同時に、自身の寿蔵(墓)も境内に造営し、
以来、岡山城主の墳墓は当地で営まれてゆく事になります。
開山にあたっては、名僧・絶外(ぜつがい)和尚を迎え、
臨済宗妙心寺派の大禅寺として、後代にわたって大変栄えました。

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【本堂から三門を見る】

池田藩政の時代には、寺領として備前円山村山崎の田畑、山林など260石を与えられ、
10,700㎡の広い境内には、総門・三門・本堂方丈・開山堂・経堂・禅堂・書院・庫裡・鐘楼など、
20棟に及ぶ建物が、禅林にふさわしく、いかにも荘厳な雰囲気で立ち並んでいます。

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【本堂】

本堂は、桁行7間、梁間6間、重層入母屋造・本瓦葺の大建築で、県内最大の規模を誇ります。
建立当初の本堂は安永9年(1780)に焼失しており、現在の本堂は文政7年(1824)の再建。
残念ながら内部は拝観できませんが、正面の仏壇には、本尊十一面観音(平安中期の作)を中心に、
左側に綱政、継政、宗政、右側に治政、斉政、斉敏の歴代藩主の等身大の木像が、
壮麗な厨子に安置されているそうです。

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【開山堂】

堂舎群の東側には、絶外和尚と池家老・津田永忠が造園した池泉回遊式の禅庭が広がっています。

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【庭園:心字池】

この庭園を抜け、裏山への石段を登ると、広大な池田家墓所があり、
巨大な墓石が整然と並ぶ様子に、往時の池田家の権勢を垣間見た様な気がしました。

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【石燈篭と経堂】

現在の曹源寺は別名「外人寺」と呼ばれており、
滞在10年以上の50歳代の長期修行者から、20歳代前半の若者まで、
常時20~30名ほどの外国人男女が禅修行に専念しています。

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【開山塔】

ドイツ、スペイン、フランス、ポーランド、アメリカ、カナダなどの欧米諸国から、
インドや台湾などのアジア諸国まで、世界各地から修行者は集まっており、
日本人は住職の原田正道老師だけしか居ないそうです。

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【異国からの修行者】

また、本格的な修業とは別に、毎日曜日には「日曜坐禅会」が開かれており、
修行僧の方が座禅指導にあたっておられます。

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【坐禅堂】

参加資格は特に無く、料金も一切無し。
多くの禅に興味のある方が、ここで座禅を体験されています。

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【坐禅堂】

この日も、いつもの様にカメラ片手にぶらぶらと、散歩気分で立ち寄った曹源寺でしたが、
新緑の木立に包まれた、清浄な禅の道場を歩き回るうちに、
しだいに心が洗れ、仏の教えの一端に触れたような不思議な気持ちになりました。

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【総門前参道の松林】

最後に、私が非常に感銘を受けた原田正道住職の講話の一説をご紹介し、
締めくくりとしたいと思います。

 心を水のように使いましょう。
  心は、形ではありません。
 たえず働き、生きています。

 春になれば、心は春になり、夏になれば、心は夏になります。
 心は、固定したものではなく、たえず変化していきます。
 ちょうど、水が停滞することを嫌い、すきまなく流れ、
  どこへでも流れて行くように、心は自由です。

 心を広く、柔軟に、自由に、天真爛漫に、
 水のように使いましょう。

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