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2007年5月27日 (日)

塩田の王

本日は児島の塩にまつわるお話。

岩塩資源のない我が国では、大昔から塩は海水を原料として作られており、
播磨・赤穂や讃岐・坂出、そして備前においては児島(現倉敷市)など、
瀬戸内海沿岸部では温暖で晴天日数が多い自然の利を生かして、
古くから、小規模の揚浜式(※1)の製塩が盛んに行なわれていました。

児島における製塩の歴史は古く、奈良時代までさかのぼります。
平城宮跡から出土の木簡には、「天平17年(745)三宅卿・加茂卿から塩やクラゲを平城京に送る」とあり、
また『日本後記』には、「延暦18年(799)児島の百姓が塩を焼いて調庸とした」との記述が見られます。

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【野崎家旧宅の土蔵群】

下って江戸期に入ると、塩田開発も大規模になり、製塩業という産業として確立されてゆく事となります。
その基礎を築いたのが、「塩田王」と呼ばれた野崎武左衛門(ぶざえもん)で、
JR児島駅一帯には、野崎家ゆかりの史跡が多く残されており、
そのお屋敷は当時のまま保存され、「野崎家旧宅・塩業歴史館」として一般に公開されています。

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【表書院】

野崎武左衛門は元の姓を昆陽野(こやの)といい、寛政元年(1789)に児島郡味野村で生まれました。
昆陽野家は元は裕福な商家でしたが、父・貞右衛門の時、塩浜に手を出して失敗。
家財を失った昆陽野家は没落し、武左衛門は貧苦のなかで育つ事となります。

苦難の中で成長した武左衛門は、児島郡で繁盛していた機織りに目をつけ、足袋の製造と行商を開始。
その販路を九州から大坂まで広げ、成功を遂げましたが、やがて足袋製造業の限界を見極め、
親戚筋にあたる播磨屋喜太郎・中島富次郎らの協力を得て、父・貞右衛門が夢破れた塩田開発に着手します。

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【表書院内部】

まず最初に手がけたのが故郷味野村・赤崎村の沖に築いた48町8反歩の入浜式塩田(※2)で、
文政10年(1827)に着工、文政12年(1829)に完成を見ました。
その塩田は両地名から一字をとって野崎浜と名付けられ、この時より、自らも野崎姓を名乗るようになりました。

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【野崎家行燈】

野崎家の塩業経営の最大の特色は、当作歩方(とうさくぶかた)制を採用したことにあります。
武左衛門は、当時、瀬戸内の塩田で採用されていた浜問屋付小作制を廃し、全塩田を直営化します。
それにより、各塩田の歩方(出来高)を掌握、これを関係者に付与して生産の効率化を図るという、
当時としては画期的な経営方式を創案・導入しました。

武左衛門はこの後も、児島半島南岸を中心に次々と塩田を開発。
その豊富な資金で、塩・石炭問屋や新田開発にも乗り出します。
塩田142町歩、田畑200町歩を有する、備前きっての大地主となった武左衛門は、
塩田と新田開発の功労によって大庄屋格となりました。

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【奥行き42mの中座敷】

この日訪れた野崎家旧宅は、武左衛門が天保から嘉永年間に築いた民家で、
敷地面積3,000坪、建築床面積1,000坪の壮大なお屋敷です。
低い丘陵を背景に長屋門、御成門の門建築が配され、その奥には南北に連なる広大な敷地が広がっています。
敷地南側には表書院、中座敷、その北側には内蔵・大蔵・書類蔵・道具蔵・岡蔵・夜具蔵など、
豪壮な土蔵群が建ち並んでいます。

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【洗濯場】

桁行約26mの堂々とした構えの長屋門を入ると、踏石を伝って表書院へ導かれます。
貴賓の応接に当てられた表書院は、南東面に縁座敷が巡らされ、
優雅でゆったりとした空間が形作られており、その前面には3棟の茶室のほか、
奇石・巨石を組み、松やツツジ、苔を巧みに配した美しい枯山水の庭園が広がっています。
表書院の奥には当主家の生活空間である中座敷があり、
南から上ノ間、中ノ間、鶴ノ間、亀ノ間、松ノ間と名づけられ、床の間までの奥行きは42mもあります。

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【竈】

屋敷内には、塩田に関する資料や野崎家で実際に使用されていた生活用具や衣裳が、
良い状態で保存され、当時の豪商の生活を垣間見る事が出来ます。
また、土蔵群の1つの大蔵は、塩の展示館になっており、世界各地の製塩に関する資料が常設されています。

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【千両箱】

今から177年前、一代で児島の製塩業を育てあげた野崎武左衛門の偉業は、
稲作が中心であったこの地の人々の暮らしを豊かに変え、長らく製塩は地場産業として地域を支えてきました。
しかし、昭和46年(1971)、「塩業の整理及び近代化の促進に関する臨時措置法」が公布されると、
日本の製塩業は大きな方向転換を余儀なくされる事になります。
国(日本専売公社)は、それまで全国26箇所あった塩田をすべて廃止させ、
海水をイオン交換膜によって濃縮する近代工場を全国に7箇所指定、生産を集約しました。
これにより、国内塩の100%が工場生産による化学塩となってしまいました。

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【麹室】

昭和46年(1971)当時、野崎家の製塩事業は内海塩業㈱に受け継がれており、
その工場は全国7箇所の中の1つに指定されました。
武左衛門が天保12年(1841)に完成させた東野崎浜塩田(現玉野市)の一角で、
今もナイカイ塩業㈱山田工場として操業を続けています。

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【漬物倉】

現在、わが国の塩の自給率は15%以下、生命維持に欠かせない塩も外国からの輸入に頼っています。
国の無分別な合理化政策は、われわれ消費者が自然塩を買う選択の自由まで奪うと共に、
豊かな塩田文化を死滅の危機に追いやりました。

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【前庭の睡蓮】

塩田の廃止以来、児島の労働人口は急激に減少し、かつての塩の町も往時の賑わいはありません。
しかし、日本の製塩業界にもようやく明るい兆しが見え始めています。
平成9年(1998)、明治38年(1905)以来続いた塩の専売制度が廃止された事を契機として、
沖縄・粟国島の天然塩など、純日本産の自然塩が各地で復活しつつあります。
古来からの製塩法を一から建て直し、流通経路も確保するのはそうたやすい事ではないでしょうが、
児島の町に、第2の武左衛門が現れるといいのになぁなどと、無責任な事を考えてしまいます。

(※1)揚浜式製塩
砂をひき詰めた塩田に、桶でくみ上げた海水を霧状に撒き、その砂を天日乾燥させ、
再び海水を懸け、塩の結晶を溶かしながら塩分濃度の高い鹹水(かんすい)を採り出す方法。
この鹹水を煮詰めてにがりを分離すれば、塩が完成します。

(※2)入浜式製塩
干満の差を利用して防波堤の中に引き入れた海水を、毛細管現象で砂の表面にしみ出させ鹹水を採る方法。
揚浜式ほど労働力を必要としない為、生産効率は飛躍的に向上し、昭和20年代頃まで続けられました。

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コメント

yufukiさんの写真と文章の素晴らしさには、いつも感心させられます。
今回の野崎武左衛門Historyも興味深く拝読させていただきました。

投稿: kazuo | 2007年5月30日 (水) 06時28分

kazuoさん
有難うございます。
町に歴史ありというか、人が集まって暮らしている場所には必ずなんらかの経緯があるので、
それを辿って確認するのが楽しく、岡山に来て約一年、いまだ退屈しません。

投稿: yufuki | 2007年5月30日 (水) 09時16分

ブログ楽しく拝見しました。
ちなみに、こういったことご存知ですか?よろしければご参考まで。
http://blog.goo.ne.jp/salt_master

投稿: hiro634 | 2007年6月 8日 (金) 21時16分

hiro634さん
有難うございました。
天然塩や自然塩などの表記に対する東京都や公取の指針は、最もだという気がしますが、
しかしながら、製造行程の違いはやはり重要だと思います。
そうでなければ、塩は塩。
これで終わってしまいます。

ブログにあるように、分りやすい明確なルールが必要ですね。

投稿: yufuki | 2007年6月 8日 (金) 23時59分

投稿: | 2007年8月25日 (土) 20時42分

小学3年です。
社会科見学で野崎ていに行きました
このホームページはとても勉強になりました

投稿: りーこ | 2012年2月11日 (土) 13時48分

りーこさん、嬉しいコメントありがとう。
ずっと更新をサボってますが、
また再開してみようかなという気になりました^^

投稿: yufuki | 2012年2月19日 (日) 00時18分

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