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2007年5月30日 (水)

薔薇の園

本日(5月28日)は、お花撮り。

岡山市の西部、倉敷市との市境に近い撫川(なつかわ)にあるRSKバラ園に行ってきました。

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【RSKバラ園】

RSKというのは地元放送局、山陽放送㈱の略称。
RSKバラ園は山陽放送の子会社、㈱RSKランドが昭和49年(1974)に造成したバラ園です。
高さ105mのラジオアンテナを中心に、同心円状のバラの花壇があり、
そこには約300種類1,5000株のバラが咲き誇ります。

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【ローズピンク】

バラ園の総面積は約30,000㎡で、この規模は全国でも有数だそうです。
ラジオアンテナの敷地を遊ばしておくのは勿体無いので、
花でも植えて、入場料で稼ごうという商魂のたくましさは感じられますが、
入り口を入ったとたん、「ホーッ!」と声を上げるほどの美しさでした。

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【真紅の薔薇】

円形のバラ園の周りには、梅林やボタン園、藤棚や花菖蒲園、蓮池等があり、
3月から8月までは、いろんな花が楽しめるようになっています。
この日、菖蒲園は開園していましたが、咲いているのはまだ2割程度。
見頃は、まだまだ先のようでした。

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【花菖蒲】

子供達向けにはアスレチック広場が造られ、
バーベキューガーデンなんかも有るみたいです。

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【ピンクの薔薇】

入場料は大人\600(駐車無料)は、岡山ではチョッと高めですが、
バラ自体には見事に手が入れられており、気持ちよく撮影が出来ました。

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【薄紫の薔薇】

もっとも、気持ちよいのは当人だけで、
見せられる側はたまった物ではないとのお声もあるかも知れませんが。

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【黄色い薔薇】

この日は良いお天気でしたが、花自体は満開過ぎる感があったので、
ベストシーズンはやはり5月中頃かなと思います。

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【薔薇と雨蛙】

写真はいつもながらの、パチパチ写真。
花の品種も控えていないので、何がなんだか分りません。
まさに、バラバラの出来となってしまいました。

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2007年5月27日 (日)

塩田の王

本日は児島の塩にまつわるお話。

岩塩資源のない我が国では、大昔から塩は海水を原料として作られており、
播磨・赤穂や讃岐・坂出、そして備前においては児島(現倉敷市)など、
瀬戸内海沿岸部では温暖で晴天日数が多い自然の利を生かして、
古くから、小規模の揚浜式(※1)の製塩が盛んに行なわれていました。

児島における製塩の歴史は古く、奈良時代までさかのぼります。
平城宮跡から出土の木簡には、「天平17年(745)三宅卿・加茂卿から塩やクラゲを平城京に送る」とあり、
また『日本後記』には、「延暦18年(799)児島の百姓が塩を焼いて調庸とした」との記述が見られます。

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【野崎家旧宅の土蔵群】

下って江戸期に入ると、塩田開発も大規模になり、製塩業という産業として確立されてゆく事となります。
その基礎を築いたのが、「塩田王」と呼ばれた野崎武左衛門(ぶざえもん)で、
JR児島駅一帯には、野崎家ゆかりの史跡が多く残されており、
そのお屋敷は当時のまま保存され、「野崎家旧宅・塩業歴史館」として一般に公開されています。

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【表書院】

野崎武左衛門は元の姓を昆陽野(こやの)といい、寛政元年(1789)に児島郡味野村で生まれました。
昆陽野家は元は裕福な商家でしたが、父・貞右衛門の時、塩浜に手を出して失敗。
家財を失った昆陽野家は没落し、武左衛門は貧苦のなかで育つ事となります。

苦難の中で成長した武左衛門は、児島郡で繁盛していた機織りに目をつけ、足袋の製造と行商を開始。
その販路を九州から大坂まで広げ、成功を遂げましたが、やがて足袋製造業の限界を見極め、
親戚筋にあたる播磨屋喜太郎・中島富次郎らの協力を得て、父・貞右衛門が夢破れた塩田開発に着手します。

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【表書院内部】

まず最初に手がけたのが故郷味野村・赤崎村の沖に築いた48町8反歩の入浜式塩田(※2)で、
文政10年(1827)に着工、文政12年(1829)に完成を見ました。
その塩田は両地名から一字をとって野崎浜と名付けられ、この時より、自らも野崎姓を名乗るようになりました。

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【野崎家行燈】

野崎家の塩業経営の最大の特色は、当作歩方(とうさくぶかた)制を採用したことにあります。
武左衛門は、当時、瀬戸内の塩田で採用されていた浜問屋付小作制を廃し、全塩田を直営化します。
それにより、各塩田の歩方(出来高)を掌握、これを関係者に付与して生産の効率化を図るという、
当時としては画期的な経営方式を創案・導入しました。

武左衛門はこの後も、児島半島南岸を中心に次々と塩田を開発。
その豊富な資金で、塩・石炭問屋や新田開発にも乗り出します。
塩田142町歩、田畑200町歩を有する、備前きっての大地主となった武左衛門は、
塩田と新田開発の功労によって大庄屋格となりました。

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【奥行き42mの中座敷】

この日訪れた野崎家旧宅は、武左衛門が天保から嘉永年間に築いた民家で、
敷地面積3,000坪、建築床面積1,000坪の壮大なお屋敷です。
低い丘陵を背景に長屋門、御成門の門建築が配され、その奥には南北に連なる広大な敷地が広がっています。
敷地南側には表書院、中座敷、その北側には内蔵・大蔵・書類蔵・道具蔵・岡蔵・夜具蔵など、
豪壮な土蔵群が建ち並んでいます。

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【洗濯場】

桁行約26mの堂々とした構えの長屋門を入ると、踏石を伝って表書院へ導かれます。
貴賓の応接に当てられた表書院は、南東面に縁座敷が巡らされ、
優雅でゆったりとした空間が形作られており、その前面には3棟の茶室のほか、
奇石・巨石を組み、松やツツジ、苔を巧みに配した美しい枯山水の庭園が広がっています。
表書院の奥には当主家の生活空間である中座敷があり、
南から上ノ間、中ノ間、鶴ノ間、亀ノ間、松ノ間と名づけられ、床の間までの奥行きは42mもあります。

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【竈】

屋敷内には、塩田に関する資料や野崎家で実際に使用されていた生活用具や衣裳が、
良い状態で保存され、当時の豪商の生活を垣間見る事が出来ます。
また、土蔵群の1つの大蔵は、塩の展示館になっており、世界各地の製塩に関する資料が常設されています。

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【千両箱】

今から177年前、一代で児島の製塩業を育てあげた野崎武左衛門の偉業は、
稲作が中心であったこの地の人々の暮らしを豊かに変え、長らく製塩は地場産業として地域を支えてきました。
しかし、昭和46年(1971)、「塩業の整理及び近代化の促進に関する臨時措置法」が公布されると、
日本の製塩業は大きな方向転換を余儀なくされる事になります。
国(日本専売公社)は、それまで全国26箇所あった塩田をすべて廃止させ、
海水をイオン交換膜によって濃縮する近代工場を全国に7箇所指定、生産を集約しました。
これにより、国内塩の100%が工場生産による化学塩となってしまいました。

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【麹室】

昭和46年(1971)当時、野崎家の製塩事業は内海塩業㈱に受け継がれており、
その工場は全国7箇所の中の1つに指定されました。
武左衛門が天保12年(1841)に完成させた東野崎浜塩田(現玉野市)の一角で、
今もナイカイ塩業㈱山田工場として操業を続けています。

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【漬物倉】

現在、わが国の塩の自給率は15%以下、生命維持に欠かせない塩も外国からの輸入に頼っています。
国の無分別な合理化政策は、われわれ消費者が自然塩を買う選択の自由まで奪うと共に、
豊かな塩田文化を死滅の危機に追いやりました。

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【前庭の睡蓮】

塩田の廃止以来、児島の労働人口は急激に減少し、かつての塩の町も往時の賑わいはありません。
しかし、日本の製塩業界にもようやく明るい兆しが見え始めています。
平成9年(1998)、明治38年(1905)以来続いた塩の専売制度が廃止された事を契機として、
沖縄・粟国島の天然塩など、純日本産の自然塩が各地で復活しつつあります。
古来からの製塩法を一から建て直し、流通経路も確保するのはそうたやすい事ではないでしょうが、
児島の町に、第2の武左衛門が現れるといいのになぁなどと、無責任な事を考えてしまいます。

(※1)揚浜式製塩
砂をひき詰めた塩田に、桶でくみ上げた海水を霧状に撒き、その砂を天日乾燥させ、
再び海水を懸け、塩の結晶を溶かしながら塩分濃度の高い鹹水(かんすい)を採り出す方法。
この鹹水を煮詰めてにがりを分離すれば、塩が完成します。

(※2)入浜式製塩
干満の差を利用して防波堤の中に引き入れた海水を、毛細管現象で砂の表面にしみ出させ鹹水を採る方法。
揚浜式ほど労働力を必要としない為、生産効率は飛躍的に向上し、昭和20年代頃まで続けられました。

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2007年5月19日 (土)

眠らない港

一昨日の晩より、激しい食あたりに見舞われ、著しい体調不良に陥ってしまいました。
嘔吐と下痢の繰り返しで、すっからかんに干からび、現在も完調ではありません。
岡山に来て以来、健康には留意していたつもりでしたが、食あたりとは思わぬ落とし穴。
単身赴任の寂しさが身に沁みました。

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本日は、岡山の港めぐり第2弾、玉野市にある宇野港の巻です。
5月7日に紹介した倉敷市の水島港が貨物の玄関口とするならば、この宇野港は旅客の玄関口。
この日は短時間の撮影でしたが、その間にも大型のフェリーが引きもきらずに出入りしていました。

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【宇野港:四国フェリー埠頭】

現在の宇野港の原型は明治39年(1906)、
岡山県が港湾の修築工事と共に、鉄道(現JR宇野線)の施設工事を開始した事に始まります。
港湾修築が竣工した明治42年(1909)には、宇野~高松間の連絡船航路が開かれ、
本州と四国を結ぶ海上交通の要衝として、繁栄の基礎が築かれました。

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【帰港】

昭和5年(1930)には、当時岡山県唯-の外貿商港として開港指定を受け、
昭和7年(1932)、第二期修築工事が開始され、その港湾区域を拡大。
戦後の昭和26年には、水島港よりも一足早く重要港湾に指定されました。
更に昭和35年には隣接の日比港を併合し、港湾区域をさらに拡張しました。
近年では、瀬戸大橋の架橋に伴う港湾機能の再編に対応するため、
宇野港再開発が行なわれており、その一環として昭和58年(1983)から隣接の田井地区において、
内外貿易用の公共ふ頭の建設が始まり、平成8年(1996)に完成を見ました。

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【田井地区:釣り人たち】

昭和63年(1988)には瀬戸大橋が開通。
それに続く宇高連絡船の廃止、JR宇野線の支線化などに伴い、
宇野港の位置づけは、大きな変化を余儀なくされました。
しかし、そのようなマイナス環境の中ではありますが、
高松をはじめとする周辺観光地と、倉敷~岡山を結ぶ人流港として、
宇野港が現在でも、海上交通の要衝である事には変わりはありません。

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【乗船】

1日に宇野港から出航するフェリーは、高松行きをはじめ、
小豆島行きや直島行き等、5社7航路合わせて123便。
1時間に5~6便のフェリーが24時間行き交い、
年間の乗降客数は平成13年(2001)の資料では約110万人に上ります。

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【出航】

しかし、前述のような交通体系の変化や、玉野市の基幹産業である造船業の停滞などにより、
港の周辺の町は衰退の一途をたどっており、隣接商店街の顧客も市外に流出、
往時の様な活気は失われてしまいました。

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【宇野「港」銀座商店街】

宇野港周辺にもう一度に賑わいを取り戻す為、玉野市は港を市の中心と位置づけ、
フェリーが行き交う『景観』を活用した「みなとまちづくり」を進めています。
平成6年(1994)から「ポルタ・デ・UNO~24時間眠らない港」をキャッチフレーズに掲げ、
宇高連絡船の跡地を活用したイベントが数多く開催されている他、
平成17年(2005)中には、新たな大型旅客船埠頭が完成する予定です。

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【高松へ】

残念な事に、豊富な港湾施設を活用し、観光拠点として賑わいのある町づくりを進めるという市の狙いは、
現状のところ成果が上がっているとは言い難く、この日も相変わらずの沈滞ムード。

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【作業船】

港湾施設自体は美しく生まれ変わり、ハードは整いつつありますが、
肝心の町の中身、コンテンツは何も変わっていません。
このままでは、日本中で見られる「潤ったのは土木関係者だけ」というオチなってしまいます。

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2007年5月16日 (水)

西日本最大の港

私が末席を汚さしていただいているカメラサークルでは、
主催者の“天才”写真家、キット・タケナガ氏(以下、師匠)が発行しているメルマガ上にて、
師匠自らが会員の投稿作品を講評する月例講評会が行われています。
月毎のテーマが出され、そのテーマに沿った作品を会員が投稿するわけですが、
写真歴の浅い私は、毎月投稿を自らのノルマと課しており、
師匠の「酷評」にも凹まない鈍感者として、今月も懲りずにチャレンジしようと思っています。

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【貨物船】

今月のお題は「港」で、幸いな事に、瀬戸内海に面した岡山県は港の宝庫。
まずは行ってみようと港めぐりを開始、今月の7日には倉敷市にある水島港を訪ねてみました。

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【巡視船】

水島港は、高梁川の河口部に位置し、先日このブログで紹介した旧玉島港を中心とした“商港”玉島地区と、
水島コンビナートの海の玄関口、“工業港”水島地区との2地区からなっています。

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【水島コンビナート①】

水島港としての原型は、旧玉島港にあり、
寛文11年(1671)、備中松山藩主(現高梁市)・水谷勝宗によって開かれて以来、
江戸期を通じて北前船や高瀬船などで賑わう一大物流港湾として繁栄しました。
一方、本日ご紹介する“工業港”水島地区の歴史は新しく、
戦後、昭和30年代の高度成長期に、水島コンビナートと共に急速な発展を遂げました。

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【水島コンビナート②】

昭和16年(1941)の航空機工場の建設に始まった水島コンビナートは、
以降、埋め立てによる工業用地造成と航路や停泊地の浚渫工事などの港湾整備を重ねながら、
しだいにその規模を拡大、今では総工業用地2,456haの全国有数の臨海工業地帯に成長しました。
その間、昭和35年(1960)には、旧玉島港が水島港に併合されると同時に、
国交省(当時、運輸省)から重要港湾の指定を受け、
下って平成15年(2003)には、全国で23港しかない特定重要港湾に指定されました。

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【巡視船】

現在、水島コンビナートを形成する主な企業は、以下の通り。

三菱自動車工業㈱水島製作所 /三菱化学㈱水島事業所/三菱ガス化学㈱水島工場
JFEスチール㈱西日本製鉄所/新日本石油精製㈱水島製油所 /㈱ジャパンエナジー水島製油所
㈱クラレ倉敷事業所/旭化成ケミカルズ㈱水島製造所/中国電力㈱水島発電所/中国電力㈱玉島発電所  等々。

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【釣り人】

これら、日本を代表する企業・工場群を背景に持つ水島港の港湾取扱貨物量は、平成16年(2005)現在で1億0,449万t。
全国の港湾の中では、堂々の4番目に当たる実績です。
ちなみに1位が千葉港で1億8,229万t、2位が名古屋港で1億6,925万t、3位が横浜港で1億2,960万tでした。
5位以下は、苫小牧港・北九州港・川崎港・大阪港・東京港・神戸港と続き、
港湾取扱貨物量だけで見れば、北九州港や大阪港、神戸港を押さえ、西日本No.1の港ということになります。

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【化粧直し】

このように、日本の産業の中心を支えてきた水島港&水島コンビナートですが、
その急速な発展の途上で、地元経済に眩い光をもたらした反面、
一方では、市民の生活に「公害」という大きな影を落としました。

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【点検作業】

水島コンビナートが本格稼働した昭和47年(1965)ごろから、呼吸器障害を訴える住民が増加。
昭和58年(1983)、患者と遺族は、主要企業8社を相手取り、
損害賠償と大気汚染物質排出差し止めを求める裁判を起こしました。
「倉敷公害訴訟」と呼ばれるこの裁判は、平成8年(1996)12月に和解、
被告企業は解決金約14億円の支払いなどに同意しました。
水島地域環境再生財団によると、認定患者は3,835人、うち1,571人が亡くなられています。

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【しばし休憩】

最近、このブログにおいては、自然の風景や歴史的建造物を取り上げる機会が多く、
今回のように海を除いては、近代以降の人工物ばかりの撮影というのは久しぶりです。
普段のブラブラとお散歩撮影は、自然の風景であれば、素直な気持ちで楽しみながら、
改めてその偉大さに感動を覚え、
歴史的な建造物であれば、知的好奇心と先人の営みにたいする敬意と感謝の気持ちが沸いてきます。

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【水島コンビナート③】

しかし、この日、水島港の風景を撮りながら浮かんできた言葉は、
繁栄、成長、挑戦、努力、誇り、傲慢、衰退、破壊、儚さ、愚かさなどなど。
複雑な感情が同時に沸き起こり、思考の収集がつかない中、帰路につく事となりました。

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2007年5月 9日 (水)

藤と英雄

岡山県の和気町には日本一(自称?)の藤公園があり、
毎年、藤の開花に合わせて5月の初旬に「藤まつり」が開催されています。
今年の開催日程は5月の1日~10日の予定で、
終了日は花の状況次第で変動するそうです。
私も「日本一」の藤を見ておこうと、7日に行ってきました。

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【和気町の藤①】

和気町の藤公園は総面積7000㎡の敷地に、
幅7m・総延長500m・面積にして3600㎡の藤棚が配置され、
小規模ながらステージや飲食スペースが整備された立派なものでした。

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【和気町の藤②】

普段は入場無料らしいのですが、藤まつり期間中は\300が必要。
しかしながら、駐車スペースは無料で台数も臨時を含めれば十分あり、
お安い値段設定ではないかと思いました。

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【和気町の藤③】

後で知った事ですが、「日本一」というのはその規模ではなく、藤の品種数だそうで、
北は北海道・函館の藤から、南は鹿児島・坊の津の藤まで、
その他にも、中国や韓国の著名品種が揃えられており、その数は約100種にのぼります。

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【和気町の藤④】

しかしながら、色・形状とも桜ほどの明確な違いが認められず、
一部の八重咲きの品種や白藤以外は、パッと見では全部同じように見え、
同じような写真のオンパレードになってしまいました。

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【和気町の藤⑤】

和気町のこのあたり一帯は、古くから「藤野」と呼ばれており、
かつては、その名の通り藤が咲き乱れる原野であったと伝えられています。
また、この地は奈良朝~平安朝初期の大政治家・和気清麻呂の生誕地でもあり、
藤公園は、昭和60年(1985)、公生誕1250年を記念して造営されました。
隣接地には清麻呂公を祀る和気神社があります。

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【和気町の藤⑥】

和気清麻呂公は天平5年(733)、備前国藤野郡(現和気町)に生まれ。
若くして兵衛(とねり)として平城京へと上り、近畿地方の河川改修や開削を行い、
治水などの土木の分野で功績を残しました。
また、故郷の美作・備前では、国造として郡民の負担軽減を図るなど、
民生の安定と発展に努め、常に誠実な政を行った為政官でした。
しかし、なんといっても清麻呂公の業績の中で特筆すべきは、
神護景雲3年(769)の「道鏡事件」と延暦13年(794)の「平安遷都」ではないでしょうか。

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【和気清麻呂公像】

子のなかった女帝・称徳天皇(孝謙天皇が重祚)と、女帝が寵愛する法王・道鏡一派は、
皇統ではない道鏡自身への皇位継承を画策し、
「道鏡を皇位に就ければ、天下は太平になるであろう」との宇佐八幡宮の神託を上奏します。

清麻呂公は、神託の真偽を確かめる為に宇佐八幡へ赴くという大役を任ぜられますが、
もちろん、この上奏は道鏡一派の画策であり、出発前の清麻呂公に対しては、
道鏡派、反道鏡派、入り乱れての激しいアプローチ合戦が繰り広げられました。
結局、清麻呂公は「天つ日嗣には必ず皇統の人を立てよ、無道の人は早く払い除けよ」という神託を持ち帰り、
女帝の思いと道鏡の野望は泡と消える事となりました。

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【和気神社神殿】

しかし、その後の称徳天皇の怒りは凄まじく、清麻呂公は両足の腱を切られた上、
「別部穢麻呂」と改名され、大隅国(現鹿児島県)に流されてしまいます。

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【和気町の藤⑦】

その後、宝亀元年(770)に称徳天皇は崩御し、後ろ盾を失った道鏡は失脚。
下野国(現栃木県)薬師寺の別当に左遷され、3年後に他界します。
流刑の地で奇跡的に両足で立ち上がった清麻呂公は、光仁天皇即位とともに中央政界復帰を果たしますが、
その当時の都は旧態依然とした貴族勢力に加え、有力寺院が強い力を振るう混乱の極みにありました。
光仁天皇の後を受けた桓武天皇は、それらの勢力から決別すべく遷都を決意。
清麻呂公は造宮大夫として、その大事業の先頭に立って活躍しました。
長岡京の造営は志半ばで挫折しますが、延暦13年(794)には平安京遷都が実現しました。

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【和気町の藤⑧】

以前、このブログにも登場いただきました吉備真備公も、
同じ吉備地方出身で、清麻呂公とほぼ同時代に中央政界で活躍した政治家。
地方豪族出身ながら右大臣まで登り詰めた彼の評価が、後世の歴史家の間で分かれるのは、
称徳天皇と道鏡に対する態度であったと思われます。
称徳天皇が孝謙天皇であった時代に重用され、道鏡の勢力拡大とともに自身が出世したにもかかわらず、
恩ある女帝を「御神託」事件ではあっさり裏切ってしまいました。
その為、「風見鶏」のイメージが真備公にはつきまといます。

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【和気町の藤⑨】

しかしながら、道鏡一派の甘言や恫喝に屈せず、
至誠を貫き、皇統を守った清麻呂公に対する評価も郷土の誇りという程度。
吉備の英雄は、なかなか全国メジャーにはなりません。

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2007年5月 7日 (月)

なくてもある町

世間の大多数がお休みになるゴールデンウイークですが、私が禄を食む流通業にとっては稼ぎ時。
連日の働きづめで、PCに向かう気力も萎えていたので、10日ぶりの更新です。
本日は、ゴールデンウイーク期間中唯一の休日となった5月2日に帰阪した折の写真です。
所用で訪れた大阪市生野区のJR大阪環状線、桃谷駅付近を散歩してきました。

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【JR桃谷駅前】

大阪市の東辺にあたる生野区の北半分~東成区の南半分、
JR桃谷駅と隣駅・鶴橋駅を含む一帯は、かつては猪飼野と呼ばれていました。
しかし、現在は地図上の何所を探しても猪飼野という地名は見当たりません。
昭和48年(1973)の行政による町名変更によって、猪飼野の名は公式には消えてしまったからです。

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【桃谷本通東商店街】

いにしえの昔より、猪飼野は日本の中の「朝鮮」と言われるほど、
朝鮮半島と深い関わりを持ってきた場所です。
古代においては、日本に文化の黎明を持たらした渡来人の住んだところであり、
近代においては、祖国を離れざるを得なかった人々が着の身着のままで住み着き、
蔑視と差別、貧困の中でたくましく生きてきたところであります。

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【鶴橋本通商店街】

在日コリアンのアイデンティティーを支えた故地であり、
猪飼野の地名を愛し、誇りを感じている人々が多数いる中で、
行政が一方的にその名を消し去ってしまった事は、極めて問題であると思います。

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【平野川】

猪飼野の歴史は古く、日本書紀仁徳天皇14年の条にはすでに「猪甘(いかい)の津に橋わたす」と記されており、
半島からの渡来民族である「猪甘部」(いかいべ)が集住したことに由来する地名であると思われます。
仁徳天皇の頃(5世紀)、当地の北側は「小橋の江」と呼ばれた入江で、そこに百済川(現在の平野川)が注いでおり、
河口付近は、人や物資を運ぶ船の盛んに出入りする津(港)として栄えていました。
その津に、文献上では最も古い橋が架けられ、「津の橋」と呼ばれるようになり、
後に「つのはし」が訛り、全国に“コリアタウン”として有名な「鶴橋」の地名となったようです。

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【つるのはし碑】

この由緒ある橋の名を後の世に伝えるため、昭和27年(1952)に記念碑が建てられ、小さな公園として整備されました。
この「つるのはし跡公園」は百済川の旧流路の上に位置しており、公園入口前の道路上に「つるのはし」が在りました。

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【御幸通り商店街】

鶴橋の「国際マーケット」は、戦後の早い時期より、猪飼野地域の外からも多くの客を集めていましたが、
猪飼野のほぼ中央に位置する「御幸通り商店街」は、長らく地域に住む在日コリアンの為の市場でした。
15年ほど前までは、地元の人しか来ないような鄙びた通りで、
店主と客の会話は朝鮮語、看板やPOPの表記もほとんどがハングルであったと記憶しています。

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【案内板の木像】

しかし、平成5年(1993)に李朝風のゲートとカラー煉瓦による舗装が整備された頃から状況は一変。
その後の韓流ブームも手伝って、現在では全国各地から団体客が訪れる人気スポットとなっています。

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【食料品店】

約300m続く通りの両側には、食料品店や飲食店が軒を並べ、
チヂミを焼く美味しそうな匂いが漂います。

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【準備中:蒸し豚&豚足専門店】

この日訪れたのは午前9:30頃で、まだ多くの店が開店準備中でしたが、
すでに多数のお客さんが通りを歩いていました。

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【キムチの作業場】

そんな活気あふれる「御幸通り商店街」を一歩入れば、
狭い路地が入り組んだ昔ながらの町並みが広がります。

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【路地にて①】

ある意味では道頓堀や通天閣と並び、最も大阪らしい場所の一つと言えるかもしれません。

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【路地にて②】

生野区の総人口は平成18年(2006)の6月末時点で138,550人。
そのうち外国人登録者数は33,177人。
そのうち韓国・朝鮮系が31,011人で、約4人に1人が在日コリアンという事になり、
帰化したコリア系日本人と併せれば、コリア系住民の割合はもっと高くなります。

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【路地にて③】

そして、当たり前の事ですが、沢山の日本人もこの地で暮らしています。

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【路地にて④】

ここ猪飼野は、1500年もの昔から今日に至るまで、数多くの問題を抱えながらも、
コリア系住民が民族のアイデンティティーを失わず、日本人と共に生活してきた唯一の町です。
「猪飼野」という地名は、長い歴史を背負い、その中で多くの人々に愛されて来たが故に、
行政上の町名からは消えても、忘れ去られる日は来ないだろうと思います。

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【路地にて⑤】

現在、新天地を求めてアジアや南米からやって来た人たちが、
日本の各地で新たなコミュニティーを作りつつあります。
ここ猪飼野は、今後訪れるであろう他民族との共生社会を考えていく上で、
非常に良い参考となる地域であると思います。

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