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2007年4月25日 (水)

「綺麗さび」の真髄

岡山県の中部の高梁川沿いにある高梁市は、歴史情緒があふれる魅力的な町です。
以前、このブログでも紹介した名城備中松山城をはじめとして、
武家屋敷や商家などが数多く保存され、当時の姿を今に伝えています。

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【石火矢町】

特に、武家屋敷が多く残る石火矢町(いしびやちょう)付近は、
近くを流れる紺屋川沿いの美観地区と併せて、
岡山県内で七ヶ所ある「ふるさと村」に指定されています。
石火矢町自体は、直線250m程の通り一本のみという大変狭い区画ですが、
屋敷を囲む土塀と長屋門が整然と立ち並ぶ姿は壮観で、
地元の方々の町並み保存に対する意識の高さを感じました。

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【安国頼久寺】

その石火矢町から程近いところに、備中松山城と並んで、
備中路の名所中の名所と称せられる天柱山安国頼久寺があります。

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【鐘楼と桜】

安国頼久寺は臨済宗永源寺派の古刹で、その草創は不詳ですが、
戦没将士の冥福を祈るために、足利尊氏が諸国に命じて造らせた安国寺の1つとして、
暦応2年(1339)に再興され、備中安国寺と号しました。
その際、当時中国から帰朝し備中備後路を巡錫中であった、
寂室元光(じゃくしつげんこう)禅師を開山第一祖として迎請しました。
その後、永正元年(1504)備中松山城主、上野頼久公が寺観を一新。
大永元年の頼久公の逝去に伴い、その子頼氏が寺名に頼久の二字を加え、
安国頼久寺と改称しました。

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【書院より見る庭園1】

安国頼久寺が備中路の名所とされる所以は、その見事な庭園にあります。
江戸初期の美の巨匠、小堀遠州が作庭した蓬莱式枯山水庭園で、
慶長8年頃(1603)に完成しました。

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【書院より見る庭園2】

小堀遠州は、茶の湯、建築、作庭、書、和歌など、多彩な分野に才能を発揮し、
江戸初期の文化をリードした美の巨匠です。

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【石灯籠1】

天正7年(1579)、近江小室藩主(1万2千石)小堀正次の子として生まれ、
幼少の頃より、英才教育を受けて育ちました。
茶人としては、千利休から古田織部と続いた茶道の本流を受け継ぎ、
寛永13年(1636)には徳川将軍家の茶道指南役となりました。

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【石灯籠2】

作事奉行としても天才的な感性を発揮し、
名古屋城本丸や伏見城本丸、大阪城本丸などを建築。
また、大徳寺孤篷庵や南禅寺金地院、二条城二の丸庭園など、
今日でも名園と呼ばれる庭園を数多く手掛けました。

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【サツキの大刈り込み】

遠州の美のキーワードは「綺麗さび」。
難しい事は分かりませんが、簡単に言うならば、
誰にでも解り易い、開放的な美を象徴する概念だそうです。

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【頼久寺】

愛宕山を借景として、白砂敷の中央に二つの低い築山(亀島・鶴島)を置いて石を組み、
書院左手の山畔に沿って、サツキの刈込みで大海原を表現。
愛宕山のふんわりと柔らかい形状に、計算し尽くされた庭木や岩の配置が本当に見事で、
お庭鑑賞については門外漢の私でも、「なんか良いな~♪」と素直に感じる美しさでした。

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2007年4月17日 (火)

鎮魂の桜

本日は今年最後の、岡山からの桜便り。
岡山県は赤磐郡宗堂にだけ咲く、「宗堂桜」を見に行ってきました。
訪れたのは、寛文6年(1666)に廃寺となった日蓮宗不受不施派の寺、妙泉寺の廃寺跡。
現在は公園として整備され、「宗堂桜の里」となっています。

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【宗堂桜1】

「宗堂桜」は八重桜の一種で、花は直径3cm位ですが、花弁は約60枚にも達するものもあり、
内側の20枚程度の花弁が屈曲反転して、二重の弁となるのがその特徴です。
このため、花は小ぶりながら花弁がふくらんで見え、非常に豪華な感じがします。
花弁が屈曲反転する特性は他に類がなく、岡山県の天然記念物に指定されており、
数ある八重桜の中でも、名花中の名花と言われています。

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【宗堂桜2】

この華やかな花には、その姿とは裏腹に、悲しい伝説があります。
その昔、妙泉寺の八世住職は、日蓮宗不受不施派の祖・日奥聖人の直弟子で、
若僧ながら名僧の誉れ高い雲哲日鏡が務めていました。
雲哲は大変な花好きで、自分の寺から大門に至る約200mの参道の両側に、
数十本の八重桜を植えていました。

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【宗堂桜3】

当時、不受不施派は「備前法華」として大変栄え、
その勢力が藩政の障害にならぬかと恐れた藩主池田光政から、
厳しい弾圧を受けるようになっていました。
しかし、これには目もくれず、若い雲哲は師・日奥から伝えられた宗儀を、
土地の農家に広めようと、布教活動を続けていました。
なにものも恐れず、常に百姓の味方であった雲哲のたくましさに、村人達は尊敬の念を抱き、
年は若いが、かけがえの無い住職として慕うようになっていました。
こうした評判は藩主の耳にも達し、また、弾圧は一層厳しくなってゆきました。

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【宗堂桜4】

そんな4月のある日に、雲哲は藩主から後楽園での会食に招かれる事となりました。
「殿様と普通に会食するだけでは済まないだろう」と、自らの死を覚悟して会食の席に臨みました。
予想どおり、雲哲は食事の最中に毒を盛られます。
瀕死の状態で早籠を飛ばし、宗堂山に戻りましたが、
妙泉寺の参道、雲哲手植えの桜並木までたどりついて、息切れてしまいました。
ちょうど桜は花をつけ、やがて咲き揃おうとしているところでしたが、
雲哲の死を嘆いたためか、花びらを開ききらず萎んでしまいました。

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【雲哲日鏡上人墓所】

それ以来、当地の桜は主の死を悼み、花弁の一部を内にまきこみ、
結実しなくなったと言われています。

残念ながら参道の桜並木は、約280年前妙泉寺廃寺となって以来、
一時は大変荒廃し、現在はその面影をみることは出来ません。
しかし、昭和40年(1965)頃、地元の篤志家が、当時現存していた数株の桜を母樹として保護し、
母樹苗木から、接木による育成を成功させました。
その後は、保存会や地区老人クラブの会員さんが懸命に育てられ、
「宗堂桜」は絶滅から救われました。

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【桜散る道】

不思議なことに、この桜は、他の土地に移植しても育たないし、
もし育っても、花の色が変化して宗堂桜の特徴を現わさないそうです。
やはり、主の土地でしか咲かない花なのかもしれません。

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2007年4月11日 (水)

絶えて桜のなかりせば・・・

桜の季節も、残りあと僅か。
咲いたと思ったら、すぐにパッと散ってしまう。
その潔さが、桜が日本人に愛される理由だとは思いますが、この季節はどうも落ち着きません。
その昔、在原業平が「世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」
と詠んだ気持ちが分るような気がします。

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【桜:三休公園】

岡山県内に数ある桜スポットを、端から順番に回りたい気持ちでですが、
私の休日状況からして、この春に行けるところは限られています。
あと残すところ僅かの機会に、どこを観たいかと考えた末、
岡山県の中北部、美咲町にある三休(みやすみ)公園に行ってきました。

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【旭川ダム湖~三休公園より】

三休公園は標高270mの高台にある公園で、昭和41年(1966)の開設。
ソメイヨシノがおよそ5000本植えられており、公園全体をピンクに染めていました。

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【三休公園の眺望】

眼下には旭川ダム湖が広がっており、その湖岸に植えられた桜も一望できます。

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【麓から見た三休公園】

県下に数ある桜の名所の中で私がここに惹かれた理由は、
5000本の桜と共に、1000本のミツバツツジが植えられている事であります。

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【ツツジと桜の共演】

桜のピンクに混じって、さらに濃い色ピンクを添えるツツジの共演は本当に見事でした。
ツツジの見頃はもう少し先ですが、桜との共演は今が盛り。

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【ミツバツツジ】

写真はともかく、心に残る景色でありました。

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【お花見風景】

三休公園で桜とツツジを堪能したあと、
国道429号線を南下、吉備中央町の円城寺まで足を伸ばしました。

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【円城寺山門】

円城寺は霊亀元年(715)、行基上人により創建された古刹。
創建当初は現在地より6kmほど東北の本宮山の中腹にあり、正法寺といいましたが、
弘安5年(1282)の大火で消失、翌年に蓮信が現在地に再建し、名も円城寺と改めました。

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【円城寺境内】

その後、一時は塔中14ヵ坊、末寺6ヵ寺を数えるほど隆盛を極めましたが、
天保4年(1833)に門前町とともに再び焼失、現在の本堂は弘化3年(1846)に再建されたものです。

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【阿弥陀堂】

本堂の脇には、基礎石に延文2年1357)と刻まれた宝篋印塔が端整な姿のままで残っています。
昭和43年(1968)の解体時には、塔下の地中石室から約5,000体もの千手観音像や地蔵菩薩が発見され、
当時は、大きな話題となったそうです。

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【宝篋印塔】

円城寺の周辺には鎌倉時代中期より門前町が形成され、お寺の隆盛と共に繁栄しました。
江戸時代には、酒屋などの商店や宿屋が軒を連ねる近郷の商業の中心地となり、
明治の頃には登記所、銀行支店等も設けられ、行政の中心地にまで発展しました。

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【円城寺門前町】

現在は吉備高原の典型的な農村風景が残る集落として、岡山県下に7ヶ所ある「ふるさと村」に指定されています。
しかしながら、かつて訪れた「吹屋」や「ハ塔寺」とは違い、観光資源として活用しようという意図は殆ど見えません。

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【円城寺小学校の生徒】

国道沿いに大きな案内標識が出ていましたが、
私の様なブラブラ散歩の人間でも、これはちょっとイカンのでは?と思いました。
観光案内板には無料休憩所があるとの事で立ち寄ってみましたが、実態は写真の通り。
私としては、古い農具や生活用品が乱雑に置いてあり、結構楽しめましたが、
普通、ここでゆっくりする気になる人は少ないと思います。

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【無料休憩所】

「ふるさと村」に指定されていなかったら、ただの長閑な山間の村。
外部の人間からとやかく言われることも無かったと思うので、
地元の人には少々気の毒なような気がします。
地元にとっての指定の恩恵は、道路が整備された事ぐらいでしょうか。
なんだか、騙されたような気分になったのは、私だけではないような気がします。

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2007年4月 6日 (金)

再訪~三郎島・王子が岳

4月5日に、先日このブログで紹介した三郎島に、再度桜を見に行ってきました。
前回の訪問の際、地元の小母さんに聞いた話によると、
満開時には全島がピンクに染まるという事だったので、期待一杯での再訪でした。

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【三郎島】

しかし、残念なことに桜は満開には程遠く、島の一部は見頃を迎えていましたが、
全島では4~5分咲き程度でした。

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【三郎島の桜1】

数日前からの冷え込みで、開花が足踏みしてしまったようです。

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【三郎島の桜2】

仕方が無いのでもう一ヶ所、桜の季節にぜひとも再訪したいと思っていた、
王子が岳の桜園に向かうことにしました。

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【王子が岳から見る瀬戸大橋】

こちらは8~9分咲き程度で、ほぼ見頃を迎えていました。
人出もそこそこあり、桜園の狭い駐車場は満車状態。
順番待ちして駐車後、いざ園内へ。

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【王子が岳から見る児島市街】

そこには、なんとも言い得ない美しい景色が広がっていました。
瀬戸内海をバックに咲き誇る桜は本当に見事で、歓声を上げたくなるほど。

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【桜と瀬戸内海】

しかし、絶景を前にしていざ撮影となると、どう切り取っていいのやら。
スケールが大きすぎて、太刀打ちできませんでした。

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【花と鳥】

同じような写真ばかりになってしまい、少々落ち込み気味。
部屋に帰ってのRAW現像作業は、余りのふがいなさに遅々として進みませんでした。

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【花と子ら】

自分が美しいと思った感動を、そのまま写真で表現する事の難しさを、
改めて思い知らされた1日でした。

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2007年4月 2日 (月)

港町玉島

先日紹介した沙美海岸から県道47号線を西へ進むと、程なく玉島の町に至ります。
その昔、海に浮かぶ島々が、まるで玉を散りばめたような美しさであったため、
当地の沖合いは「玉の浦」と呼ばれていました。
玉島や隣接する玉野市など、「玉」地名の由来はその辺りにあるようです。

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【玉島の町並み:紙問屋】

江戸時代になると、備中松山藩によって、その玉のごとき海は次々と埋め立てられ、
高梁川の河口にあたる玉島の地には、交易基地として港が造営されました。
元禄の頃には、玉島港は北前船と高瀬舟が行き交う商港として繁栄しました。

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【玉島の町並み:造り酒屋】

北前船とは、北海道から日本海沿岸を経由し、
下関から瀬戸内海を経て大阪へと至る北廻りの商船団のことで、
港から港へ、諸国の物産を交易しながら航海しました。

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【玉島の町並み:肥料問屋】

一方、高瀬舟とは、河川による内陸交易を支えた運搬船。
この地では、米、鉄、薪炭などの内陸部の物資を乗せて高梁川を下り、
帰りには北前船が運んできた物資や、沿岸部産の塩や綿織物を積み、
川岸から人が引っ張って高梁川を上っていきました。

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【玉島の町並み:畳屋】

玉島の町には、かつての繁栄の名残を留めたナマコ壁の家屋があちこちに見られ、
特に旧市街地の西側には、豪壮な回船問屋の土蔵や造り酒屋をはじめ、
江戸の姿そのままの見事な商家が建ち並んでいます。

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【玉島の町並み:土蔵】

この貴重な景観を後世に伝えるため、
岡山県はこの周辺一体を「町並み保存地区」に指定しています。
同じ倉敷市内にある美観地区などとは違い、全く観光地化されておらず、
華やかさこそありませんが、歴史的景観と現在の人々の暮らしが一体となり、
「町」として「現役」という感じがしました。

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【円通寺参道】

「高瀬通し」と呼ばれる運河に架かる橋を渡り、「町並み保存地区」を抜けると、
良寛が修業した寺として有名な円通寺の参道に至ります。

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【円通寺1】

円通寺は、奈良時代に行基上人が開いたといわれる曹洞宗の古刹。
中世の戦乱で焼失し、一時は荒れ果てていましたが、
元禄11年(1698)、曹洞宗の高僧、徳翁良高(とくおうりょうこう)が住職となり、
堂塔を再建、その際に寺名も円通寺と改られました。
以来、曹洞宗の高僧が相次いで住職になり、
備中の永平寺派の中心道場として今日まで栄えて来ました。

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【円通寺2】

良寛は安永8年(1779)、時の住職大忍国仙(たいにんこくせん)を慕って、
越後から円通寺にやってきました。
以来20年に近い歳月をこの寺で過ごし、
衆寮(現在の良寛堂)で20~30人の雲水達と寝起きを共にし、
厳しい禅宗の修行を重ねました。

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【良寛像】

書聖と謳われ、詩歌の道にも精通した良寛の大成には、
青年期から壮年期にかけての円通寺での修業、
特に国仙和尚の教えが大きく影響したといわれています。
さらに、当時の玉島は商港として繁栄の極みにあり、諸国の文人墨客の往来も多く、
先進的な文化風土の影響も、少なからずあったのではないか思います。

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【円通寺公園の桜】

円通寺がある白樺山(標高100メートル)周辺は、
円通寺公園(県指定名勝)として整備されており、
頂上からは、瀬戸内海の島々や四国連山を眺望する事が出来ます。
また、周辺には多くの文豪や歌人の詩碑や歌碑が残されており、
それを観て回るのも面白いと思います。

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【山頭火歌碑】

今はひっそり、歴史の表舞台からは姿を消した玉島~円通寺界隈ですが、
静かな佇まいの中に、豊穣な時間が流れていました。

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