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2007年3月29日 (木)

春の海

瀬戸内海に面した岡山県には、「日本の渚100選」に選ばれている海岸が2箇所あります。
1つは玉野市にある渋川海岸、もう1つは倉敷市にある沙美(さみ)海岸です。
両海岸とも遠浅の砂浜で、夏には海水浴場として大変な賑わいを見せます。

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【沙美海岸:西浜】

本日紹介するのは、倉敷市の沙美海岸。
倉敷市南西部にあたる諏訪岬を挟んで、
東側には約700mの東浜、西側には約1kmの西浜があり、
2つの浜を総じて沙美海岸と呼ばれています。

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【波打ち際】

地名の由来は、多分「砂が美しい」から来ていると思われますが、
長年の海岸侵食や潮流の変化などの影響で、砂浜がやせてしまい、
平成元年(1989)に日本有数規模の人工砂浜として整備されたのが西浜です。
したがって、駐車場施設などが充実し、観光客が多いのも西浜。
東浜はもっぱら地元の方々の浜になっているようです。

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【ボードセイリング】

また、この日訪れて初めて知った事ですが、
この沙美海岸は日本の海水浴発祥の地だそうです。
明治13年(1880)に医師の坂田侍園氏の発案により、
黒崎村(当時の行政管轄)が協力して海浜病院を建設。
医療行為として、海水浴を日本に紹介しました。
よって、この地が日本海水浴場の先駆けと言われています。

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【ボードセイラー】

この日は、少し風があったものの気温は暖かく、春爛漫の陽気。
しかしながら海岸には、散歩を楽しむ人やボードセイラーがちらほら居るばかり。

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【セイルボード】

なんだかのんびりした気分になり、
小一時間ほど海を眺めて、ぼんやり過ごしました。

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2007年3月26日 (月)

陸続きの島

本日は、岡山県南西部のにある浅口市に行ってきました。
浅口市は平成18年(2006)3月21日に、金光町・鴨方町・寄島町の3町合併で誕生した新しい市で、
岡山県人でも、まだなじみが薄い、生まれたばかりの自治体です。

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【三郎島:南・四国側】

浅口市を訪れたお目当ては、寄島町の沖合いにある三郎島。
島といっても陸続きの島で、車で渡ることができます。
昭和58年(1983)に岡山県の農業干拓事業で、三郎島は本土と繋がってしまいました。
三郎島と本土の間にできた「寄島干拓地」は、現在では当初の農地拡張という目的が変更され、
商工業、教育・ポーツなど、幅広く地域振興に役立つ用途であれば利用が可能となっています。

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【三郎島:北・本土側】

しかしながら、現時点では有効に利用されているとは言いがたく、
私立高校の大きなグランドと町が造った公共施設や公園がパラパラあるだけ。
何のための干拓事業だったのか、計画として妥当であったのかは疑問です。
もっとも、多大な税金を使うこと自体が目的であったならば、納得の結果ですが。

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【東展望所付近よりの眺め】

陸続きになってしまった三郎島ですが、島自体は非常に美しい景勝地で、
全体が瀬戸内海国立公園に指定されています。

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【南海岸1】

島の南側には、北側の無残な状況とは異なり、
瀬戸内海ではほとんど見られなくなった自然海岸が残っています。

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【南側海岸2】

約1kmに渡って続く砂浜は、1人につき600円でキャンプ場としての利用も可能。
夏には海水浴や釣りを楽しむ人で賑わいます。

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【南側砂浜キャンプ場】

三郎島の沖には「三つ山」と呼ばれる小島があり、「寄島園地」のシンボルとされています。
高さ10m程の三つの小島が、互いに約6mの間隔をおいて規則正しく並んでいます。
干潮時には陸続きとなり、三郎島から歩いて渡れるそうです。

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【三つ山】

ひょうたん型の島には、標高100m前後の小山が二つ東西に並んでおり、そこからの眺めは絶景。
「寄島園地」として岡山県が公園整備しているので、道も歩きやすくのんびり散歩するにはぴったりの場所です。

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【西展望所付近よりの眺望】

桜の木が多く、犬の散歩の小母さんによると満開時には島全体がピンクになる程だそうです。

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【犬の散歩の小母さん】

この日は岡山にも桜の開花宣言が出された日でしたが、此処の木の殆どは未だ蕾。
4月上旬にもう一度来たいと思います。

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【桜・蕾】

三郎島の真向かいには、「寄島富士」と呼ばれる青佐山(標高249m)が聳えており、
その東中腹には、文久3年(1863)に鴨方藩が海防のために築いた台場跡があります。
幕末、攘夷論の隆盛に伴い、時の藩主池田政も海防の必要性を認め、
奉行岡本甚等に命じて外国軍艦の来襲に備え、沿岸各地に砲台を造らせました。
その一つが、青佐山のお台場です。
この台場からの砲弾は、試射の際の記録によると、三郎島付近に達した程度であったそうです。
明治4年(1871)の廃藩置県とともに廃棄され、現在では砲門を備えたくぼ地のみが残されているのみ。
しかし、さすが本土防衛の拠点に選ばれただけあって、
ここからは塩飽諸島や笠岡諸島の多島美が楽しめるほか、
天気がよければ、鷲羽山から連なる瀬戸大橋がほぼ真横から展望できます。

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【青佐山お台場より三郎島を望む】

いつものように、のんびり時間を気にせず、カメラを片手にブラブラと過ごしましたが、
いまひとつ、スッキリしない気分で帰路に着きました。
岡山市内に向けて車を運転しながらも、三郎島の北側と南側のあまりの違いが引っかかり、
なんとも複雑な気分でした。
自然環境を犠牲にしなければ、一分一秒とて成り立たない私達の生活ですが、
せめて、誰かの懐が潤うだけの無駄な犠牲は止めるべきだと思います。

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2007年3月11日 (日)

日生の島々

瀬戸内海に面した岡山県には、大小合わせて86の島があり、
香川県に属する島々と併せて、備讃瀬戸の美しい景観を創り出しています。
本日紹介する日生(ひなせ)諸島は、岡山県東端の備前市に属し、
県下最大の島である鹿久居島(かくいじま)をはじめ、
鶴島(つるしま)・大多府島(おおたぶじま)・頭島(かしらじま)
鴻島(こうじま)・曽島(そしま)の6島と、その他の小さな島々で構成されています。

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【日生諸島:鹿久居島】

諸島の総人口は648人で、そのうちの大半が頭島(451人)と大多府島(142人)に集中しています。
昨年の8月に、日生諸島の本土側対岸にあたる日生漁港の「五味の市」を訪れた際に、
有人の島には定期船が出ている事を知り、一度ゆっくり島巡りをしたいと思っていました。

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【頭島と鹿久居島を結ぶ頭島大橋】

しかし、定期船のダイヤを見ると、全部の島を観て廻るには、日帰りでは難しそう。
かといって、連休を待っていると何時の事になるかわからないので、
先日の休みの日に、どの島に渡るかを決めず、とりあえず出かけてみました。

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【日生諸島を結ぶ定期船】

定期船の乗り場で、切符売場のおじさんに見所を尋ねてみたところ、
のんびり散策するには大多府島が1番という事なので、ここで行き先が決定しました。

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【定期船】

定期船に乗り込むと、地元の人に混じって、私と同じような散策組が数人おられ、
この季節に、これといった観光資源の無い島に渡る人がいる事にビックリしました。
家族は、知らない土地をぶらぶら歩いて何が楽しいの!?と、私を変人扱いしますが、
世の中には、同好の志が結構いるもんだと自信がつきました。

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【定期船で談笑】

日生港から大多府島までは、途中、頭島と鴻島を経由して約40分。
この日は気温が低く、霞んだような曇り空でしたが、
その間は甲板席から日生の島々を眺めて過ごしました。
どの島も白っぽい石英粗面岩から成っており、
沿岸部の殆どが斜面が海から突き出た様な急峻な地形になっています。
時折、大きな洞窟なども見られ、粗い岩肌と海面が織り成す景観は見ていて飽きないものでした。

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【鴻島の洞窟】

大多府島は周囲5kmの日生諸島最南端の島で、江戸時代には池田藩の番所が置かれていました。
南岸は奇岩に富んだ地形で、海岸線に沿って「自然研究路」と名づけられた遊歩道が整備されており、
切符売場のおじさんが言っていたように、ぶらり散策には丁度いい道でした。

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【大多府島からの眺望】

「自然研究路」の途中には、灯台「燈篭堂」があります。
正徳4年(1714)、藩主池田綱政により建立され、以降明治初年までの150年間、
日生の海の標となってきました。
現在の建物は、昭和61(1986)に元の石組みの上に復元されたものです。

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【燈篭堂】

北岸にある大多府港は元禄11年(1698)に開かれた古い港で、当時の防波堤が今も残っています。
普通の石組みの堤防なので、敢えて写真は撮りませんでしたが、
この防波堤になんとも怖い言い伝えがある事を、帰ってきてから知りました。
港が建設された当時、工事中に防波堤の石組みが何度も波に流され、やり直しが続くので、
子供を2人、堤防の中に埋めて人柱としたというような・・・。
伝説が事実かどうかはわかりませんが、この堤防の別名は「夜泣き波止め」と言うそうです。

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【小豆島に向かうフェリー】

大多府島でのんびり過ごした後は、再び定期船で本土側に戻り、
日生漁港の「五味の市」を覗いてみました。
今の時期はまだ牡蠣一色。

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【五味の市の牡蠣】

時間が遅かった事もあり、売り尽くすために叩き売りに近い状態でした。
写真のタルいっぱいの牡蠣も、値札は4000円ですが、叩き売り掛け声価格は2000円でした。

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【五味の市の牡蠣】

あまり知られていませんが、岡山県の牡蠣出荷量は、広島県・宮城県についで全国第3位を誇ります。
その中にあって、日生漁港は岡山県NO.1の取扱高。
日生諸島の主な産業も漁業で、島々の合間に作られた筏(いかだ)から水揚げされた牡蠣が、
日生漁港に運ばれ出荷されてゆきます。

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【牡蠣の殻の掃除】

日生漁港を後にして岡山市内に帰る途中、夕立受山(ゆうだちうけやま)にも立ち寄ってみました。
変わった名前の山ですが、由来は、その昔、山頂で乾田降雨の祈りをこめて千貫焚きを行うと、
必ず夕立があったという伝説から来ています。

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【夕立受山頂から見た日生諸島】

この日はあいにくの空模様でしたが、山頂から眺める備前日生の海は絶景の一語。
ゆったりと穏やかな瀬戸内海に、点々と浮かぶ島々。

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【片上大橋と片上湾】

その合間に沢山の牡蠣筏が設えられ、時折小船が行き交う様は、
自然と人々の暮らしが一体となった、本当に素晴らしい光景でした。

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2007年3月 2日 (金)

庶民の学舎

本日は、岡山県備前市閑谷(しずたに)にある、国の特別史跡・旧閑谷学校に行って来ました。
閑谷学校は、寛文10年(1670)に備前藩主池田光政が庶民教育を目的に開いた学校です。
厳しい身分制度が存在した江戸時代中期において、士農工商を問わず、
自藩の者だけではなく他藩の者にも門戸を開いていた、当時としては先進的な教育機関でした。

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【梅と鶴鳴門】

寛文6年(1666)のある日、領内を巡視をしていた光政公が、和気郡木谷村の北端・延原の地を訪れました。
この時脳裏に浮かんだのが、学問の理想郷、庶民のための一大道場の建築でした。
「この地は読書、学問するによし」として、重臣津田永忠に学校の建設を命じ、
地名も延原から閑谷に改められました。
武士の子弟が学ぶ藩校はすでに、2ヶ所岡山城下にありましたが、
閑谷学校は、当初から庶民の学校、地方のリーダーを育てる学校として創建されました。
この学校建設にあたっての光政公の情熱は熱く、学校所有の田として279石余りを確保し、
たとえ池田家が転封となっても自立経営できるような処置がとられていました。

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【鶴鳴門から】

国宝の講堂をはじめ、現存の建築物が完成したのは元禄14年(1701)頃。
光政公の死後、遺志を継いだ2代目藩主綱政公の時世になってからの事で、
現存する庶民を対象とした学校建築としては、世界でも最も古いもとされています。

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【閑谷神社の梅】

明治以降は閑谷精舎、閑谷黌、私立閑谷中学を経て、
県立閑谷中学校、県立閑谷高校、県立和気高校閑谷校舎へと変遷しました。
現在は、隣接地に県青少年教育センターがあり、
また教学の精神は県立和気閑谷高校へと受け継がれています。
建学以来300有余年の間、優秀な人材を送り続けており、
大実業家であり社会事業家の大原孫三郎氏(大原美術館の創設者)も、ここで学んだ中の一人。
他にも、小説家正宗白鳥氏や赤とんぼの作詩者三木露風氏、
備前焼の人間国宝藤原啓氏などもここで学びました。

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【閑谷神社】

備前焼の紅い屋根瓦で覆われた壮麗な建物群や、その周囲を取り囲む石塀までもが、
国宝や重要文化財に指定されています。

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【鶴鳴門】

写真の門は、閑谷学校の正門で、元禄14年(1701)の建築。
扉を開閉するときの音が鶴の鳴き声に似ていたため鶴鳴門とも呼ばれています。
両袖に付属屋があり、いわゆる唐様の建築です。

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【石塀】

校門から続く石塀は、学校の敷地を1周しており、長さは765mにも及びます。
形の異なった石を巧みに剥ぎあわせた「切り込み剥ぎ式」の石築きで、
校門と同じく元禄14年(1701)に完成しました。
カマボコ型の石塀は日本では珍しく、ここにも中国建築の影響が感じられます。
中には洗浄した割栗石をつめ、雑草木を生やさぬように築造されており、
300年以上を経た今日でも、端然と美しい姿を保っています。

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【講堂】

国宝の講堂は閑谷学校の学問の中心をなす最大の建物で、ケヤキ・ヒノキ・クスなどの良材を選び、
風雨に傷みやすい部分は黒漆で仕上げられています。

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【講堂の回廊】

基礎から入母屋造り・錣葺きの大屋根まで、周到に設計され完璧なまでに施工されており、
歴代の学生達によって拭き込まれた床板は、現在でも鏡のように光っています。
凛とした空気がたち込め、今にも論語朗誦の声が聞こえてくるようでした。

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【講堂内部】

庶民の子弟は1年で読み書きを学び終え、故郷に帰った後は、
農業の傍ら、近在の村人達に、ここで習った読み書きを教えたそうです。

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【飲室より講堂】

その他にも孔子像が奉られている聖廟(この日は改修工事中)や、創始者光政公を祀る閑谷神社、
黄葉亭(茶室)など、重要文化財が盛りだくさんで見ごたえ十分です。

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【黄葉亭】

この人里離れた山間の地に、300年もの昔、学問の聖地があったことは驚きに値します。
そして、現在も県青少年教育センターの研修生が、国宝講堂に正座して、
論語の一章を誦んじあい講釈を受けるという、「講堂学習」が行われています。
光政公の、「この谷に朗誦の声が絶えないように」の思いは、今も連綿と受け継がれています。

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