« 日本最古の湯 | トップページ | 河内國一ノ宮 »

2007年2月 6日 (火)

伊予の要塞

先日訪れた道後温泉がある松山市には、名城として名高い伊予松山城があります。
市街中心部を見下ろす勝山(海抜132m)の頂上に聳え立つその姿は雄雄しく、
姫路城、和歌山城と並んで日本三大連立式平山城に数えらています。
この日は終日曇り空で、時折激しく雪が舞う生憎のお天気でしたが、
こんなに近くまで来て、登らずじまいでは後悔が残るので、
寒がる嫁さんをなだめすかして、天守閣に登城してきました。

T_imgp99051

松山城の築城者は加藤嘉明(よしあき)で、永禄6年(1563)三河国永良郷の生まれ。
父・岸教明(きしたかあき)は家康の家臣でしたが、
永禄5年(1562)の三河一向一揆で一揆側に与して、
敗北後には流浪の身となってしまいました。
その為、嘉明の少年期は辛苦の連続で、馬喰などをして日々をしのぎました。
天正6年(1578)15歳の時、豊臣秀吉の家臣・加藤景泰に見出され、
小姓として秀吉に仕えることとなり、そのときから嘉明は加藤姓を名乗るようになりました。

T_imgp99061_1

天正11年(1583)20歳の時、賤ヶ嶽の戦いで武勲を立て、賤ヶ嶽七本槍の一人として頭角を現し、
天正13年(1585)には淡路志知城1万5千石を与えられます。
文禄4年(1595)の文禄の役では、九鬼・脇坂らの諸将とともに水軍を率いて活躍し、
その功績が認められ、福島正則と交代して正木6万石の城主となりました。
正木城は現在の松山城の西南・伊予郡松前(まさき)町にあり、海岸に面したお城。
公領4万石の管理も任された嘉明は、正木10万石の城主となりました。

T_imgp00941 

しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは家康側に。
そこでも武勲をあげ、20万石を与えられた嘉明は、正木城が手狭という理由で新城建設を願い出て、
それが許可された慶長7年(1602年)、松山城の築城を開始しました。
嘉明が築城を企図した勝山は、道後平野のほぼ中心に位置し、
南北朝時代には南朝側が砦を築いた戦略上の要所。
山頂への築城には多大の労力が必要とされましたが、
普請奉行に任じられた足立重信と山下豊前の名采配で工事は着実に進行し、
嘉明は翌慶長8年(1603)には入城を果たします。
この時、勝山に数多く見られた赤松にちなみ、この地の名称を「松山」に変えました。

T_imgp01131

嘉明の壮大な築城計画はその後も24年間継続され、
山頂部分に本丸、中腹に二ノ丸、山麓に三ノ丸(城の内)を置き、
北側に北郭、東側に東郭を設けた広大な規模の連立式平山城となりました。
本丸と二の丸の標高差は90m。
その間にも山の稜線沿いに渡塀・石垣が構築されています。

T_imgp01191

本丸の全長は300mにも及び、巧みに地形を利用して櫓・門を配置し、
壮大な石垣で防御を固め、真ん中に聳える5層の天守閣は偉観を誇りました。
しかし、寛永4年(1627)、嘉明は城の完成を見ることなく松山を去ることに。
家康の命で、伊予15万石から会津40万石に転封となってしまいます。

T_imgp01231

松山城は本丸を山頂に、平時の屋形城を山麓に設けた実戦向きの城。
出丸の北郭・東郭も出城に近いもので、徹底的に戦闘を意識した築城となっています。
表向き、15万石から40万石への転封は出世と言えますが、
徳川幕府の本音は、戦闘能力に優れ、機を見るに敏なこの知将が、
難攻不落の要塞に留まることを恐れたのではないでしょうか。

T_imgp98051

嘉明の会津転封後は、蒲生氏郷(うじさと)の孫忠知(ただちか)が出羽国上山城から入封してきました。
忠知は、二ノ丸の造築を完成させましたが、寛永11年(1634)参勤交代の途中、在城7年目で京都で病没。
忠知に嗣子が無かった為、蒲生家は断絶してしまいます。
翌、寛永12年(1635)には、家康の甥にあたる伊勢国桑名城主松平定行が松山藩主15万石に入封。
その後は松平家14代が世襲し、松山藩は徳川親藩として明治維新を迎えました。
入封後間もなく定行は、加藤嘉明が心血を注いだ5層の天守閣を三層に改築してしまいます。
その理由は諸説ありますが、天守閣があまりに見事であった為、公儀に配慮したのではと言われています。

T_imgp01321

しかし、安永8年(1779)、その天守閣も9代藩主久松定国の時、落雷で焼失。
文化6年(1809)、11代藩主定通の時に再建に取り掛かり、
天保6年(1835)、12代藩主勝喜の時に完成し、今日に至っています。
今から約170年前に再建された天守閣は、現存天守閣の中で一番若いお城だそうです。

T_imgp01361

松山城の魅力は、なんといっても豊富に残る城郭群で、
実に21棟が国の重要文化財に指定されています。
広い城内には、天守閣をはじめ、連立小天守、隅櫓など数多くの建築物があり、
かなり見ごたえがありました。
しかしながら、姫路城のような華麗さはなく、
無骨で、ただ戦の為だけに建てられた質実剛健な城といった印象でした。

T_imgp0130_1

「まだかな~!早よ温泉行こ~!」
棘のある嫁さんの声を小耳で聞きながらではありましたが、
天守閣から見た、小雪舞う松山市内の眺めは素晴らしく、
忘れられない景色となりました。

最後までお付き合いいただき、有り難うございます。
宜しければ、クリックください。
にほんブログ村 写真ブログへ ブログランキング・にほんブログ村へ
励みになります。

|

« 日本最古の湯 | トップページ | 河内國一ノ宮 »

コメント

こんにちは!先日、“内沼の夕陽”にコメント頂いたkazuoです。yufukiさんの写真をじっくり拝見させていただきました。どれも素晴らしく、見とれてしまいました。これからも楽しみにしております。
それはそうと、この松山城と会津の鶴ヶ城がこんなにも深い関係だったとは…。
蒲生氏郷は1590年(天正18年)に会津藩主として当時の黒川城に入城、1593年(文禄2年)に黒川から若松に改め、町割りを行なっていますし、加藤喜明は1627年(寛永4年)に会津へ転封、さらに1639年(寛永16年)には、天守閣を5層にし、西出丸と北出丸とを増築、鶴ヶ城の現在となったようです。

投稿: kazuo | 2007年2月18日 (日) 11時26分

お立ち寄り、有り難うございます。

会津鶴ヶ城と松山城、深い因縁で繫がっていますね。
5年ほど前に会津若松を訪れ、鶴ヶ城にも登城しましたが、
まだカメラに嵌っていなかったので、ろくな写真が残っていません。
もう一度、行きたい場所の一つです。
それでも、季節がちょうど今頃だったので、降りしきる雪の中、
天守が非常に美しく見えたのを覚えています。
明治政府によって取り壊されたことが惜しまれますね。
その帰りには、福島空港が雪で閉鎖。
新幹線でやっとこさ帰阪したことも、
今は良い思い出になっています。

また、kazuoさんのところへもお邪魔させていただきます。

投稿: yufuki | 2007年2月18日 (日) 23時46分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 日本最古の湯 | トップページ | 河内國一ノ宮 »