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2007年2月27日 (火)

絶景、光と影

岡山県玉野市の南西端、瀬戸内海に面した所に王子が岳という景勝地があります。
山頂からは瀬戸大橋の全景、瀬戸内海の多島美、対岸の四国連山までが一望でき、
巨岩・奇岩が重なり合う雄大な景観は見る人を圧倒します。
岡山に赴任後、数々の景勝地を訪れましたが、中でもここは最もお気に入りの場所の1つです。

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【王子が岳展望台より瀬戸大橋】

王子が岳という名称は、渋川海岸に隣接した新割山(234.4m)と矢出山(159.0m)一帯の総称で、
由来は、百済の8人の王子がここに住んでいたという伝説によるものだそうです。
現地案内板によると、伝説の内容は以下のようなもの。
「むかしここに王子がいました。王子は百済姫の子供であるとも言われています。
柴坂(しばさか)の王子、坂手(さかて)の王子、筈割(はずわり)の王子、峰の王子、
日の王子、錫投げ王子、谷の王子、瓶割王子の八人です。
それでここを王子が岳と呼ぶようになったのです。」

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【奇岩:にこにこ岩】

王子が岳の1番の見所は、海にせり出した奇岩群。
写真の「にこにこ岩」の他にも、「おじさん岩」「ひつじ岩」など面白い名前がつけられた岩が沢山あり、
それらを見て回るだけで、十分楽しめます。

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【フライトポイント】

海に面した急峻な地形は、パラグライダーのフライトポイントとしては絶好で、
大勢の愛好家がここから空の散歩を楽しんでいます。
また、春には山頂展望台からすぐのところにある桜園が見事だそうで、
3月下旬には、瀬戸内海をバックにした桜を撮りに行きたいと思っています。

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【王子が岳桜園地】

この日の天気は晴れ。
しかしながら、海上の見通しは悪く、瀬戸大橋や瀬戸内海の島々は遠く霞んで見えました。
最高のコンディションではありませんでしたが、海にせり出した巨岩の上で食べる弁当は格別。
コンビ二の弁当も、ここではご馳走に生まれ変わります。
駐車場から新割山頂までは、たいした距離もなく簡単に登れる所も、私のようなものぐさ者には嬉しい限り。
もっと歩きたい方には、麓の渋川港近くから遊歩道が整備されており、そちらがお勧めです。

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【王子が岳より海岸線を見下ろす】

しかし、そんな良い事尽くめの景勝地にも、バブルの傷跡がくっきりと残っています。

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【王子が岳上空を舞う鳶】

今回は写真に収めていませんが、山頂付近には地上7階・地下2階の巨大な廃墟が残されています。
その名は「王子アルカディアリゾートホテル」。
1993年に環境庁(当時)所管の特殊法人公害防止事業団※が約40億円かけて建設しました。
計画では、建物完成後に玉野市出資の第3セクター「王子リゾート」が購入し、運営にあたる予定でしたが、
バブル崩壊の影響で出資企業が撤退、内装未完成のまま、開業される事無く放置されています。

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【弁当を狙うカラス】

2003年9月には当時の環境保全事業団が、延滞利息を含め約60億円に上る債権回収のため、
岡山地裁にホテルの競売を申し立て。
岡山地裁は2004年11月から合計3回の競売を行いましたが、1人の応札者もなく、
昨年の2月からは最初の希望者に売却する「特別売却」で買い手が現れるのを待っていました。
そして、1ヶ月後の3月に入ってやっと買い手が現れ、地元の不動産会社社長に売却許可したと公告されました。
ちなみに土地・建物を含めた売却価格は1億899万2800円で、介護施設の研修センターとして利用されるようです。

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【渋川海岸の青鷺】

県下NO.1海水浴場の渋川海岸と併せ、王子が岳の素晴らしい自然景観を巧くアピールすれば、
馬鹿げた額のコストをかけずとも、市外・県外からの観光客も呼べたはず。
それを、安易に利権セットの箱物に走ったつけは重く、市の財政を圧迫し続けています。
事の成り行きを全て見守ってきた「にこにこ岩」の微笑みが、消えずに残った事が唯一の救いです。

※現・独立行政法人環境再生保全機構

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2007年2月23日 (金)

河内國一ノ宮

先日(2月20日)、帰阪した折りに東大阪市の枚岡神社に行ってきました。
枚岡神社は大阪府東大阪市の東端、生駒山の裾野を少し登った辺り、
近鉄奈良線の枚岡駅の東側に鎮座しています。

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古来より、大和と難波を結ぶ主要な道の1つに、
生駒山脈の鞍部を通る暗峠(くらがりとうげ)越えの道、暗街道がありました。
枚岡神社はその途上に位置し、古代には延喜式名神大社、河内の国一ノ宮として、
また明治以降、戦前までは官幣大社として格式を誇ってきました。

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社伝によれば、神武天皇紀元前3年(神武天皇即位の3年前)、
神武天皇の侍臣で、中臣氏の祖にあたる天種子命(あめのたねこのみこと)が、
勅命により、生駒山系の神津岳の山頂に、
天児屋根命(あめのこやめみこと)と比売命(ひめのみこと)の二神を祀った事が起源とされています。
神津岳の頂が平らな丘であったことから「平岡(枚岡)」の社名が生まれ、
中臣氏の支流の平岡連(むらじ)の氏神として信仰されました。
白雉2年(650)には、その平岡連によって山頂から現在の場所に移されましたが、
現在も神津岳の山頂には奥宮が祀られています。

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宝亀九年(778)には、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が常陸の鹿島神宮から、
経津主命(ふつぬしのみこと)が下総の香取神宮から増祀され、祭神は四座となりました。
延喜式の神名帳にも「枚岡神社四座」とあり、四座とも名神大社とされ、
祈年・月次・相嘗・新嘗および祈雨の奉幣に預っています。
和銅3年(710)の平城京の春日大社創建の際には、
天児屋根命と比売命の二神が、この枚岡神社から分祀された事から「元春日」とも呼ばれおり、
この付近一帯が中臣氏の重要な拠点であったことをうかがい知る事が出来ます。

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中臣氏が宮廷で地位を築くのは6世紀前後ですが、鎌足の系譜は藤原氏として後世まで勢力を維持し、
それに伴って、この枚岡神社も隆盛を極めました。
大同元年(806)、60戸の神封が寄せられ、貞観元年(859)には正一位の神階が贈られます。
さらに同7年(865)には春・秋の枚岡祭に奉幣の制も定められるようになりました。
本殿は、拝殿の背後に一間社春日造りの神殿を四殿並列に並べた「枚岡造り」。
文政9年(1826)に建立されたこの様式は、枚岡神社独特のもので、桧皮葺き・極彩色の美しい建築です。

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また、本殿南側の斜面は梅の名所で、現在約2haの敷地には約500本の梅の樹が植えられています。
この梅林は、明治9年(1876)に枚岡神社の氏子有志らが、『枚岡教会講社』という頼母子講を組織し、
神社の整備に協力するとともに土地を寄付し、梅の樹を植えたのが始まりだそうです。

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この日はいいお天気で、遠足の小学生達をはじめ、多くの人々が梅の香を楽しんでいました。

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梅林の最上部は細い山道へと繋がっており、それを少し登ったところには枚岡展望台があります。
展望台からは、ひしめくように住宅や町工場が立ち並ぶ河内平野が一望できます。
枚岡神社が現在の場所に祀られた当時は、まだ水をたたえた大きな湖(河内湖)であった所です。
それが今では、日本有数の人口過密地帯。
枚岡の杜に鎮座まします神々は、この変遷をどのような御心で見守っておられるのでしょうか。

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2007年2月 6日 (火)

伊予の要塞

先日訪れた道後温泉がある松山市には、名城として名高い伊予松山城があります。
市街中心部を見下ろす勝山(海抜132m)の頂上に聳え立つその姿は雄雄しく、
姫路城、和歌山城と並んで日本三大連立式平山城に数えらています。
この日は終日曇り空で、時折激しく雪が舞う生憎のお天気でしたが、
こんなに近くまで来て、登らずじまいでは後悔が残るので、
寒がる嫁さんをなだめすかして、天守閣に登城してきました。

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松山城の築城者は加藤嘉明(よしあき)で、永禄6年(1563)三河国永良郷の生まれ。
父・岸教明(きしたかあき)は家康の家臣でしたが、
永禄5年(1562)の三河一向一揆で一揆側に与して、
敗北後には流浪の身となってしまいました。
その為、嘉明の少年期は辛苦の連続で、馬喰などをして日々をしのぎました。
天正6年(1578)15歳の時、豊臣秀吉の家臣・加藤景泰に見出され、
小姓として秀吉に仕えることとなり、そのときから嘉明は加藤姓を名乗るようになりました。

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天正11年(1583)20歳の時、賤ヶ嶽の戦いで武勲を立て、賤ヶ嶽七本槍の一人として頭角を現し、
天正13年(1585)には淡路志知城1万5千石を与えられます。
文禄4年(1595)の文禄の役では、九鬼・脇坂らの諸将とともに水軍を率いて活躍し、
その功績が認められ、福島正則と交代して正木6万石の城主となりました。
正木城は現在の松山城の西南・伊予郡松前(まさき)町にあり、海岸に面したお城。
公領4万石の管理も任された嘉明は、正木10万石の城主となりました。

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しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは家康側に。
そこでも武勲をあげ、20万石を与えられた嘉明は、正木城が手狭という理由で新城建設を願い出て、
それが許可された慶長7年(1602年)、松山城の築城を開始しました。
嘉明が築城を企図した勝山は、道後平野のほぼ中心に位置し、
南北朝時代には南朝側が砦を築いた戦略上の要所。
山頂への築城には多大の労力が必要とされましたが、
普請奉行に任じられた足立重信と山下豊前の名采配で工事は着実に進行し、
嘉明は翌慶長8年(1603)には入城を果たします。
この時、勝山に数多く見られた赤松にちなみ、この地の名称を「松山」に変えました。

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嘉明の壮大な築城計画はその後も24年間継続され、
山頂部分に本丸、中腹に二ノ丸、山麓に三ノ丸(城の内)を置き、
北側に北郭、東側に東郭を設けた広大な規模の連立式平山城となりました。
本丸と二の丸の標高差は90m。
その間にも山の稜線沿いに渡塀・石垣が構築されています。

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本丸の全長は300mにも及び、巧みに地形を利用して櫓・門を配置し、
壮大な石垣で防御を固め、真ん中に聳える5層の天守閣は偉観を誇りました。
しかし、寛永4年(1627)、嘉明は城の完成を見ることなく松山を去ることに。
家康の命で、伊予15万石から会津40万石に転封となってしまいます。

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松山城は本丸を山頂に、平時の屋形城を山麓に設けた実戦向きの城。
出丸の北郭・東郭も出城に近いもので、徹底的に戦闘を意識した築城となっています。
表向き、15万石から40万石への転封は出世と言えますが、
徳川幕府の本音は、戦闘能力に優れ、機を見るに敏なこの知将が、
難攻不落の要塞に留まることを恐れたのではないでしょうか。

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嘉明の会津転封後は、蒲生氏郷(うじさと)の孫忠知(ただちか)が出羽国上山城から入封してきました。
忠知は、二ノ丸の造築を完成させましたが、寛永11年(1634)参勤交代の途中、在城7年目で京都で病没。
忠知に嗣子が無かった為、蒲生家は断絶してしまいます。
翌、寛永12年(1635)には、家康の甥にあたる伊勢国桑名城主松平定行が松山藩主15万石に入封。
その後は松平家14代が世襲し、松山藩は徳川親藩として明治維新を迎えました。
入封後間もなく定行は、加藤嘉明が心血を注いだ5層の天守閣を三層に改築してしまいます。
その理由は諸説ありますが、天守閣があまりに見事であった為、公儀に配慮したのではと言われています。

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しかし、安永8年(1779)、その天守閣も9代藩主久松定国の時、落雷で焼失。
文化6年(1809)、11代藩主定通の時に再建に取り掛かり、
天保6年(1835)、12代藩主勝喜の時に完成し、今日に至っています。
今から約170年前に再建された天守閣は、現存天守閣の中で一番若いお城だそうです。

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松山城の魅力は、なんといっても豊富に残る城郭群で、
実に21棟が国の重要文化財に指定されています。
広い城内には、天守閣をはじめ、連立小天守、隅櫓など数多くの建築物があり、
かなり見ごたえがありました。
しかしながら、姫路城のような華麗さはなく、
無骨で、ただ戦の為だけに建てられた質実剛健な城といった印象でした。

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「まだかな~!早よ温泉行こ~!」
棘のある嫁さんの声を小耳で聞きながらではありましたが、
天守閣から見た、小雪舞う松山市内の眺めは素晴らしく、
忘れられない景色となりました。

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2007年2月 4日 (日)

日本最古の湯

先日(2/1~2)は久しぶりに連休が取れたので、大阪から家族を呼び、愛媛県松山市に行ってきました。
松山といえば、お目当てはやはり温泉。
かねてから見てみたいと思っていた、道後温泉本館を旅のメインに出かけました。
「どうせ、写真が撮りたいだけとちがうん?」という嫁さんの冷ややかな視線があったので、
「今回は、嫁さん孝行が最優先!」と断言した手前、遠慮しながらの撮影でした。

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【道後温泉本館1】

日本三古湯といえば、兵庫県の有馬温泉、和歌山県の白浜温泉、そして愛媛県の道後温泉を指しますが、
中でも道後温泉は日本書紀にも登場し、文献的には我が国最古の温泉であるといわれています。
日本書紀や道後温泉街に現在も残る伊佐爾波八幡宮の社伝は、
景行天皇・仲哀天皇・神功皇后・舒明天皇・斉明天皇・中大兄皇子・大海人王子など多くの皇族が行幸したと伝えています。

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【道後温泉本館2】

3000年以上の歴史が在るこの地の温泉は、古代は塾田津(にきたつ)の湯と呼ばれていました。
それが、「道後」と呼ばれるようになったのは、大化の改新(645)による国府の設置に由来します。
大化の改新によって、各国に国府が置かれるようになりますが、
この国府を中心として、都からの道程に従って、道前・道中・道後の名称が生まれました。
「道中」は国府のある地域を称し、京に向かって国府の前部が「道前」、後部にあたる地域を「道後」と呼んでいました。
従って、中世までの「道後」は、現在の今治市より南を総称しましたが、
近世に入ってからは、温泉の湧く現在の「道後」に限定するようになりました。

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【道後温泉本館3】

温泉の開湯の伝説としては、有名な「白鷺伝説」があります。
ある時、脛に傷を負い苦しんでいた一羽の白鷺が、岩場から噴出する温泉を見つけ足を浸していたところ、
傷は完全に癒え、元気に飛び去ってゆきました。
それを見ていた村人たちは大変不思議に思い、ためしに入浴してみると、暖かく爽快で疲労もたちまち回復。
また、病人もいつの間にか全快したことから、その後盛んに利用されるようになりました。
これが道後温泉の始まりと伝えられており、白鷲が舞い降りた時の足跡が残ったとされる石(鷺石)が、
伊予電鉄「道後温泉」駅前の放生園(ほうじょうえん)という小公園の一角に据えられています。

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【道後温泉本館4】

また、「伊予国風土記」には、出雲の国の大国主命と小彦名命が伊予の国を旅した時の逸話が残っています。
逸話を要約すると以下の通り。
神話の時代、大国主命と少彦名命が出雲の国から伊予の国へと旅していたところ、
長旅の疲れからか、少彦名命が急病に罹り苦しみだしました。
それを見た大国主命は、小彦名命を手のひらに載せて温泉に浸し温めたところ、
たちまち元気を取り戻し、喜んだ少彦名命は石の上で踊りだしました。
少彦名命がその上で舞ったという石は、道後温泉本館の北側に「玉の石」として奉られています。
しかし、不思議なことに、この「白鷺伝説」や「小彦名命の足跡」と類似した伝説が、
兵庫県の有馬温泉や玉造温泉など、全国の各地の温泉地にも伝えられています。

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【道後温泉本館5】

これまで掲載した写真は、現在でも道後温泉のシンボルとなっている道後温泉本館を写したものです。
この、道後温泉本館は1人の政治家の先見の明によって生れました。
道後湯之町(当時)の初代町長・伊佐庭如矢氏。
彼が温泉施設近代化を進め、現在の道後温泉本館を造りあげました。
激しい反対運動に合い、自らの命も狙われたりもしましたが、信念を貫き約20ヵ月の歳月をかけ、
明治27年(1894)ついに道後温泉本館を造りあげました。

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【伊佐爾波八幡宮】

伊佐庭氏の願ったとおり、道後温泉本館は開業から110年以上経った現在でも、
道後温泉のシンボルとしての輝きを失わず、多くの地元・観光客に愛されています。
道後温泉本館が完成した翌年、旧制松山中学の英語教師として赴任した夏目漱石が、
その斬新なデザインの近代和風建築に感嘆し、後の彼の作品「坊ちゃん」の中でも絶賛しています。

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【高島屋ローズちゃん:坊ちゃん仕様】

「坊ちゃん」には道後温泉本館は「住田の温泉」として登場。
 
『おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極めている。
ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ。
せっかく来た者だから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛る。』
 
坊ちゃんが通ったころは、きっと未だ木の香りが残る新築だったと思われます。

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【街角案内人の皆さん】

平成6年(1994)、道後温泉本館が国の重要文化財に指定され、
同年に本館建設百周年記念事業の一環として、「坊っちゃん列車」が空き地で復元運行されました。
「坊ちゃん列車」とは、夏目漱石が「坊ちゃん」を執筆していた頃、市内を走っていた伊予鉄道の路面電車の愛称。
当時は未だ電化はされておらず、小さな蒸気機関車が客車を牽引して走っていました。
「坊ちゃん」の作中では、次のように記されています。

『停車場はすぐに知れた。切符も訳なく買った。乗り込んで見るとマッチ箱のような汽車だ。
ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。
たった三銭である。』

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【伊予鉄:松山市駅前】

現在の伊予鉄道は、松山市を中心とした市内線(路面電車)と郊外線で構成される鉄道会社。
平成13年(2001)からは、「坊ちゃん列車」のレプリカが市内線に本格投入され、人気を集めています。
通常の路面電車の車両は初乗り\150ですが、「坊ちゃん列車」は同区間でも\300なのは御愛嬌です。

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【伊予鉄:路面電車】

この坊ちゃん列車の復元運行の他にも、「道後温泉誇れるまちづくり協議会」が中心となって、
ボランティアによる無料の観光案内、足湯施設の設置、商店街の新アーケード建設、道後公園(湯築城跡)の整備など、
観光振興に対する様々な取り組みがなされていました。

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【道後湯の町商店街】

昭和のピーク時から比べると、たぶん観光客数は激減していると思われます。
しかし、この日本最古の温泉街を守ってゆこうとする地元の方々の熱意は、
たった一泊二日の松山滞在でしたが、随所に感じらました。

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