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2007年2月23日 (金)

河内國一ノ宮

先日(2月20日)、帰阪した折りに東大阪市の枚岡神社に行ってきました。
枚岡神社は大阪府東大阪市の東端、生駒山の裾野を少し登った辺り、
近鉄奈良線の枚岡駅の東側に鎮座しています。

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古来より、大和と難波を結ぶ主要な道の1つに、
生駒山脈の鞍部を通る暗峠(くらがりとうげ)越えの道、暗街道がありました。
枚岡神社はその途上に位置し、古代には延喜式名神大社、河内の国一ノ宮として、
また明治以降、戦前までは官幣大社として格式を誇ってきました。

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社伝によれば、神武天皇紀元前3年(神武天皇即位の3年前)、
神武天皇の侍臣で、中臣氏の祖にあたる天種子命(あめのたねこのみこと)が、
勅命により、生駒山系の神津岳の山頂に、
天児屋根命(あめのこやめみこと)と比売命(ひめのみこと)の二神を祀った事が起源とされています。
神津岳の頂が平らな丘であったことから「平岡(枚岡)」の社名が生まれ、
中臣氏の支流の平岡連(むらじ)の氏神として信仰されました。
白雉2年(650)には、その平岡連によって山頂から現在の場所に移されましたが、
現在も神津岳の山頂には奥宮が祀られています。

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宝亀九年(778)には、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が常陸の鹿島神宮から、
経津主命(ふつぬしのみこと)が下総の香取神宮から増祀され、祭神は四座となりました。
延喜式の神名帳にも「枚岡神社四座」とあり、四座とも名神大社とされ、
祈年・月次・相嘗・新嘗および祈雨の奉幣に預っています。
和銅3年(710)の平城京の春日大社創建の際には、
天児屋根命と比売命の二神が、この枚岡神社から分祀された事から「元春日」とも呼ばれおり、
この付近一帯が中臣氏の重要な拠点であったことをうかがい知る事が出来ます。

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中臣氏が宮廷で地位を築くのは6世紀前後ですが、鎌足の系譜は藤原氏として後世まで勢力を維持し、
それに伴って、この枚岡神社も隆盛を極めました。
大同元年(806)、60戸の神封が寄せられ、貞観元年(859)には正一位の神階が贈られます。
さらに同7年(865)には春・秋の枚岡祭に奉幣の制も定められるようになりました。
本殿は、拝殿の背後に一間社春日造りの神殿を四殿並列に並べた「枚岡造り」。
文政9年(1826)に建立されたこの様式は、枚岡神社独特のもので、桧皮葺き・極彩色の美しい建築です。

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また、本殿南側の斜面は梅の名所で、現在約2haの敷地には約500本の梅の樹が植えられています。
この梅林は、明治9年(1876)に枚岡神社の氏子有志らが、『枚岡教会講社』という頼母子講を組織し、
神社の整備に協力するとともに土地を寄付し、梅の樹を植えたのが始まりだそうです。

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この日はいいお天気で、遠足の小学生達をはじめ、多くの人々が梅の香を楽しんでいました。

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梅林の最上部は細い山道へと繋がっており、それを少し登ったところには枚岡展望台があります。
展望台からは、ひしめくように住宅や町工場が立ち並ぶ河内平野が一望できます。
枚岡神社が現在の場所に祀られた当時は、まだ水をたたえた大きな湖(河内湖)であった所です。
それが今では、日本有数の人口過密地帯。
枚岡の杜に鎮座まします神々は、この変遷をどのような御心で見守っておられるのでしょうか。

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コメント

いつものことながら、今回も又いい写真ですね。感服です。梅の花越しにベンチに座っている人物を写し込んでいるショットは、一段高い位置から狙われたものと思われますが、脚立でも使われたのでしょうか?

投稿: kazuo | 2007年2月26日 (月) 18時52分

kazuoさん
有り難うございます。

ベンチの写真は、三脚なし手持ちです。
梅林自体が傾斜地なので、上に回りこみました(^△^)

投稿: yufuki | 2007年2月26日 (月) 23時17分

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