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2007年1月15日 (月)

吉備の英傑

奈良時代に活躍した、大政治家であり大学者であった吉備真備(きびのまきび)は、
吉備地方の豪族の中でも名族中の名族、下道氏(しもつみちし)の出身でありました。
岡山県倉敷市真備町の町名は、この真備公にちなんでつけらています。

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【吉備真備公の銅像:吉備真備公園】

幼少の頃から、天才と謳われた真備公は、霊亀2年(716)22才の時、第8次遣唐使の留学生に選ばれ、
阿部仲麻呂らとともに中国の唐の都長安に赴きました。
唐にとどまること都合19年、儒学・歴史学・政治学・経済学・法律学・数学・天文学・暦学・兵学・音楽など、
当時の世界最高水準の学問や技術を多方面にわたって学び、天平8年(735)に帰朝しました。
19年も唐に留め置かれたのは、玄宗皇帝がその才を惜しみ、帰国させなかったためといわれています。
真備公の帰国によって我が国へもたらされた学問や技術の数々は、
奈良時代の諸制度、文化の繁栄に計り知れない貢献をいたしました。
現在ではあまり語られませんが、囲碁の伝来やカタカナの発明も真備公によるものです。

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【囲碁発祥の地記念碑】

帰国後は聖武天皇の寵愛を受け、天平9年(737)には従五位上に列せられます。
天平13年(741)には東宮学士に任命され、皇嗣阿倍内親王(後の孝謙女帝)に典籍を講説。
阿倍内親王の信頼をえた吉備公は、天平18年(746)に朝臣の姓を賜わり、
順調に中央政界で出世を重ねて行きました。
しかし、天平勝宝2年(750)、突然筑前守に左遷され大宰府へ。
これは、真備公の勢力伸長を恐れた藤原仲麻呂が、
真備公を孝謙天皇から遠ざけるために策略したといわれています。
天平勝宝3年(751)、17年ぶりに遣唐副使として再度唐に渡り、
天平勝宝5年(753)、鑑真を伴い帰国。
その後も、西海道節度使など、九州防衛の職を務めることとなります。

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【菩提寺「吉備寺」】

天平宝字8年(764)、造東大寺長官に遷任され、14年ぶりに都の重職に。
同年、政敵藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱に際し、中衛大将として追討軍を指揮。
乱鎮圧に功績をあげ、再び、中央政界で出世街道を登り始め、
天平神護2年(766)、道鏡の法王就任に伴いついに右大臣に昇進。
宝亀6年(775)、81歳でその生涯を閉じました。

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【真備公墓所】

現在の真備町には、真備公にまつわる旧跡や公園が残されています。
そのひとつに、真備公産湯の井戸があります。
星にまつわる偉人の誕生説話は、よく耳にしますが真備公もその一人。
ここは、その昔天原と呼ばれた地で、吉備公の御館があった所です。
真備公が生まれる前夜、この井戸へ星が落ちたので、星の井と言われるようになったそうです。
この井戸の水が真備公の産湯に使われことから、子洒川(しさいかわ)、
またの名を子洗川と名付けられました。(建立碑より)

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【真備公産湯の井戸】

産湯の井戸のすぐ西側には、まきび公園があります。
昭和61年(1983)、中国西安市(長安)に真備公の記念碑が建立されたのを記念して、同年にに造られました。
中国風の庭園で、よく言えば異国情緒がある、悪く言えば薄っぺらな印象の公園です。
まきび公園のすぐ脇には、真備公の菩提寺、吉備寺があります。
近くには、真備公の墳墓もあり入学、就職祈願で多くの人が訪れているそうです。

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【まきび公園】

真備公は、地方出身の下級役人から、自らの才能で官位を登り、
留学生として渡った唐の最新の知識を得て学問を究め、
度重なる政変劇を、自らの学問を生かし乗り切ることで、遂に右大臣にまで登りつめました。

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【八田神社】

地方豪族出身者が右大臣になったのは、真備公と昌泰2年(899)任官の菅原道真の二人しかいません。
道真公は、左遷地大宰府で志半ばににして、都を恋慕したまま他界されますが、
真備公は左遷後、奇跡ともいえる中央政界復帰を果たされました。
そんな、郷土の英傑をもっとクローズアップし、全国にアピールしておれば、
太宰府天満宮とまではゆかないまでも、
全国から合格祈願の学生さんが、真備町を訪れることになったかもしれません。

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