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2007年1月24日 (水)

港町牛窓

播磨灘の西端、東に向かって突きでた半島の南岸に牛窓(うしまど)という町があります。
現在の行政区分では岡山県瀬戸内市に組み込まれ、全国的にはまったく知名度はありませんが、
往時は、備前の代表的な港である児島の下津井と並んで、西国通商の要として大変な賑わいを見せた町でした。

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【牛窓の町並み1】

牛窓という地名は難読地名の部類に入ると思いますが、その来歴は古い伝承説話に由来しています。
瀬戸内海沿岸には、神功皇后(仲哀天皇の皇后)にまつわる伝承が多く、
日本書紀の仲哀9年(320)、皇后の新羅出兵の際に、
この地にさしかかった時の伝承が、牛窓の地名の起源となっています。

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【牛窓の町並み2】

伝承を要約すると、以下の通り。
皇后の船が新羅に向かう途上、ちょうど牛窓沖にさしかかった時、
雷鳴とともに黒雲に乗った塵輪鬼(じんりんき)が突如現れ、皇后の船を襲いました。
塵輪鬼とは頭が八つある大牛でしたが、武勇に秀でた皇后は弓でたちまち射落としました。
その際に、塵輪鬼の首と胴が二つに分かれて海に落ち、首が黄島、胴が前島となりました。
その後、皇后軍が新羅での戦を終え、大和へ帰る途上で、再び牛窓沖にさしかかった時、
今度は塵輪鬼の霊魂が、牛鬼となって、海中から現れました。
この時には、海中から住吉明神が老翁の姿となって現れ、牛鬼の角をつかんで投げ倒しました。
以来この場所を、牛転(うしまろび)と呼ぶようになり、それが転じて牛窓になったといいます。

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【牛窓の町並み3】

地名の由来伝承にも新羅出兵が絡んでいますが、
その他にも牛窓には、朝鮮半島との深い縁があります。
朝鮮通信使の来港もそのうちの1つです。
朝鮮通信使の来日は、室町幕府以来のの国家的行事で、
時の将軍が交代する時などの慶事があった際に、手厚く招かれました。
永和元年(1375)に、足利義満によって始められた朝鮮通信使は、
豊臣秀吉の文禄・慶長の役によりしばらくの間中断しますが、
その後の慶長12年(1607)、江戸幕府と李氏朝鮮の間を対馬藩が取り持ち、再開されました。
鎖国時代に、朝鮮半島と日本の文化交流に大きな役割を果たしたのが朝鮮通信使でしたが、
牛窓には行き帰り併せて15回も寄港しています。
文化使節団としての役割が強く、通信使の滞在先の街には日本各地から人が集まり、
通商や技術、学術などの交流が盛んに行われたそうです。
牛窓には朝鮮使節団が残した足跡が、いまなお多く残されています。

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【唐子踊りの人形:海遊文化館】

朝鮮通信使の足跡のと言われているものに、「唐子踊り」があります。
毎年10月、牛窓の紺浦地区にある疫神社(おやくじんさま)の秋の祭礼に奉納される踊りで、
朝鮮風の衣装をまとった2人の男児が、肩車に乗って参詣し、その後に太鼓と笛の伴奏で踊ります。
独特なメークアップ、典雅な所作、奇妙な口上、囃し方など、他の日本の神事には無い不思議な雰囲気があり、
その掛け声は、朝鮮半島の踊りの掛け声そのものだと言われています。
実際には、10月にしか行われない神事を見る機会はなかなかありませんが、
牛窓港のメインストリートにある海遊文化館で、資料VTRならいつでも見学することが出来ます。
その他にも、朝鮮通信使節団が寄港した歴史を伝える使節団の衣装(レプリカ)や、
当時の町の様子を描いた絵画など、貴重な資料が多数展示されています。
鮮やかな極彩色の展示品の中に、当時の善隣友好の熱い絆を感じました。
この海遊文化館も印象的な建物でしたが、明治20年(1887)に建てられた牛窓警察署本館を再利用したものとの事。
推定樹齢150年の大蘇鉄と玄関のステンドグラス、洋館風の外観に明治浪漫が漂っていました。

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【海遊文化館入り口】

海遊文化館の裏手、メインの海岸通りから一つ奥に入った狭い路地を歩くと、
古い民家の間に見落としてしまいそうな石段があり、
そこを登ると法華宗の古刹、本蓮寺があります。
江戸時代、朝鮮使節団の寄港の折には、ここの客殿が接待処にあてられました。

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【本蓮寺番神堂】

貞和3年(1347)の建立で、寄棟造本瓦葺の本堂や、四脚が珍しい中門(四脚門)、
海辺に立てられた全国で唯一の塔といわれる番神堂(三重塔)などは、
揃って国の重要文化財にに指定されています。
古朝鮮様式の建物で、屋根の勾配、柱の造りなどに異国の香りを感じます。
牛窓の町とともに長い歴史を刻んできた風格が、その渋みを帯びた建物の色調から滲み出ており、
小堀遠州作の見事な庭園や多くの文化遺産と併せて、名刹と呼ぶにふさわしい佇まいでした。

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【本蓮寺伽藍】

境内から南方に目をやれば、瀬戸内海のすばらしい眺望が見渡せます。
玄界灘の荒波を越えて遥々やってきた異国の使徒が、
この穏やかな内海を眺め何を思ったのかなどと、歴史のロマンに思いをはせながら写真をパチリ。
とても楽しいひと時を過ごすことが出来ました。

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【牛窓の海1】

牛窓の町は、古い日本の面影が今なお色濃く残る歴史の町。
しかし、その他にも、また別の一面があります。
それは、近代的なリゾート地としてのアクティブな一面であります。
瀬戸内の「美しの窓」とも讃えられ、その昔、この地を訪れたギリシア人が、
故郷のエーゲ海と似ていて感動したことから、牛窓は「日本のエーゲ海」と呼ばれるようになりました。
クルージングやフィッシング、シャーカヤックなどが楽しめるマリンスポーツの楽園となっています。

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【牛窓の海2】

出ていく漁船、帰る漁船、近隣の島々への定期船。
それらに混じって、豪華なやクルーザーやヨットなどがひっきりなしに行き交う天然の良港。
港町牛窓は、今も昔も海に支えられ、その歴史と文化を育んでいます。

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2007年1月21日 (日)

人と土と炎の邂逅

岡山県備前市の伊部(いんべ)付近は、備前焼の里として広く知られています。
JR赤穂線伊部駅を出ると、あちこちに窯の煙突が見え、すぐに陶器の街を感じることができます。

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【JR伊部駅前】

備前焼の歴史は古く、信楽・丹波・越前・瀬戸・常滑と並んで日本六古窯の一つに数えられており、
備前国邑久郡(現在の岡山県瀬戸内市)一帯で、古墳時代より須恵器の生産を営んでいた陶工達が、
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、伊部の北方にあたる熊山のふもとに集住し、
より実用的で耐久性を持つ日用雑器の生産を始めたのが起源だと言われています。

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【伊部の町並み1】

平安時代以前については、備前焼は伊部焼と呼ばれと呼ばれていた事から、
中臣氏とならぶ大和朝廷中央の祭祀氏族である忌部(いんべ)氏系の地方豪族で、
阿波国麻殖郡忌部郷(現在の徳島県吉野川市)を故地とする、
阿波忌部氏がその成立に深く関与しているのではという説があります。
伊部の地名も忌部が転じたものだと推測でき、現在も陶工の神として忌部神社が祭られいることなど、
忌部氏関与は間違いないように思いますが、阿波忌部氏の分布地として、この地は一切の文献に出てきていません。
古代史ファンとしては、その辺りについても非常に興味深いところではあります。

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【摂社に忌部神社が祀られる天津神社】

須恵器に直接の系譜をもつことから、初期の備前焼は須恵器と区別が困難であり、
古代の須恵器生産と同様に、椀、小皿、鉢、甕、壺など小型・中型の日常生活用の器種を生産していました。
鎌倉時代から室町時代にかけては、山土を使用した壷・擂鉢等が多く作られるようになり、
またこの頃から、備前焼特有の赤褐色の焼肌が出るようになります。

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【備前焼の瓦】

室町時代後期になると、山土に変わって田土が使用されるようになり、
ロクロの使用を契機に量産が図られ、半地上式の穴窯が作られました。
その後、各地の窯は統合され、南・北・西に大規模な共同窯(大釜)が築かれ、
窯元六姓(村・森・頓宮・寺見・大饗・金重)による独占的生産体制が出来上がりました。
一方器種においても、日常雑器の他に、茶道の流行による茶道器が作られるようになって行きます。

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【史跡:南大窯跡】

江戸時代の中期になると、備前焼は藩の保護もあって全国に普及し、
共同の大窯による生産も江戸時代末期まで続きました。
しかし、江戸末期には唐津や瀬戸において陶磁器の生産が活発になり、
次第に備前焼は圧迫され、明治から昭和初期に至る時期は備前焼昏迷の時代でありました。

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【桃跳堂煙突】

このころになると、生産の中心は共同窯から個人窯に移り、
備前焼だけでは生計が成り立たないため、
かつて「備前すり鉢落としても割れぬ」と言われた耐久性の特徴を生かし、
土管や耐火煉瓦の生産が行われるようになりました。

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【伊部の町並み2】

この衰退した備前焼を現在の繁栄に導くきっかけを作ったのが、
昭和の初期に「備前焼の中興の祖」と言われた金重陶陽や藤原啓、山本陶秀、藤原雄といった、
のちに人間国宝の指定をうけた作家達です。

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【備前焼工房:窯口と作業場】

JR伊部駅のすぐ前には陶芸美術館があり、古美術の名品から現代作家の代表作品まで多数展示されています。
正直、陶芸作品については何の造詣も無い私としては、名だたる作家諸氏の作品を見比べても、
鑑賞の視点が皆目解からないというのが本音です。
しかしながら、独特の土味で落ち着いた風格のある作品群を見ていると、
備前焼の魅力の一端には触れる事が出来たような気がします。

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【備前焼の人形】

備前焼は釉薬を一切かけず、絵付けもせず、ただ陶土そのままを形を作り、窯に入れて焼いただけの素朴な焼物。
土の味が直接現れるのが大きな魅力になっており、粗目の肌は温かく深みがあり、おおらかな感じがしました。

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【備前焼工房:薪と煙突】

しかし、それは単に偶然に出来上がったものではありません。
一塊の土から幾多の手順を経て、丹念に形作られた陶土が、
約1300℃の炎で2週間も焚き続けられる過程の中で、自然に変化を遂げた姿であります。
言うなれば、備前焼は自然と陶工の技が織り成す芸術品、火の神と人間の共同作業の産物です。
千年以上窯の煙が絶えることなく、多くの名品を生み続けてきた備前伊部の地は、
今もなお休日となると、全国からやって来る愛好者で賑わいを見せています。

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2007年1月18日 (木)

トリックの鬼

日本を代表する推理作家、横溝正史(1902~1981)は、
第二次大戦の戦火を避けるため住まいのある東京を離れ、
義理の姉を頼って、岡山県吉備郡岡田村字桜(現倉敷市真備町岡田字桜)に疎開していました。
当時の疎開先の住宅がいまも残っており、横溝正史生誕100周年を期に、記念館として公開されています。

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【横溝正史疎開宅:玄関】

昭和20年(1945)4月から約3年半、横溝正史は、岡山県西部のこの農村で慣れない農作業を手伝いながら、
読書と執筆の日々を送りました。
彼の作品は、大きく初期・中期・後期の3期に分けられます。
初期は雑誌の編集者だった時代、中期は信州上諏訪で療養生活をしていた頃、
そして後期は戦後になって発表されたものです。
初期の作品は、最後にどんでん返しが待っている意外性を狙った短編が多く、
作中に特定の探偵は登場しません。
中期になると、私立探偵の由利麟太郎と新日報社記者の三ツ木俊介の名コンビが登場。
子供向けのジュビナイルでは、新日報社に入社したばかりの給仕、御子柴進少年も加わります。
戦後になり、軍部の圧力で出版が禁じられていた探偵小説が解禁になるやいなや、
本格的な長編推理小説を書き始め、探偵役に新しく金田一耕助を登場させます。
戦時中、疎開先の岡田村で、当時は読むことさえ禁じられていた海外の探偵小説の原典を研究し、
いつか日本でも本格的な探偵小説を発表したいと構想を練り、温め続けていたのです。

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【横溝正史疎開宅:執筆の間】

そして、終戦直後の昭和21年(1946)、記念すべき金田一シリーズ第一作『本陣殺人事件』の連載を開始し、
日本の本格長編推理小説に大きな活力を与えました。
これに続く『獄門島』『八つ墓村』のいわゆる「岡山もの」で、
主人公・金田一耕助は、江戸川乱歩の明智小五郎と並ぶ探偵界の大スターとなりました。
横溝正史は神戸生まれの東京育ちで、根っからの都会っ子。
岡田村では、地元の人々と交流のなかで、農村の因習、古くから守られている伝統や風習などを見聞きし、
今なお、こんなに封建的な風土が残る地域があるのかと驚きます。
そしてこの体験から、農村に色濃く残る血縁、地縁的な風習などを題材にして「岡山もの」を執筆しました。
言うなれば、金田一耕助はこの真備町岡田村で生まれたことになります。

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【横溝正史疎開宅:金田一耕助影絵】

横溝正史が後に、岡田村での疎開生活の様子を綴った『桜日記』では、
「食糧難時の時代に親切にされ、多くの話しを仕入れることが出来た。
ここへの疎開がなければ金田一は生まれなかった」と記しています。

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【川辺宿本陣跡】

『本陣殺人事件』は、先にも書いたように金田一シリーズの第一作で、彼の代表作でもある傑作です。
私が、この作品を初めて読んだのは中学一年生の時。
昭和51年(1976)映画化の『犬神家の一族』を皮切りに、
角川書店とのタイアップ映画が連続して大ヒットし、横溝正史の大ブームが到来していました。
この作品の「本陣」のモデルとなったのは、疎開先の岡田村から程近い、
西国街道(旧山陽道)の川辺宿にあった難波家。
本陣とは、参勤交代の大名や幕府の使節が宿泊しいた指定宿のことで、
かつては「本陣職」を勤めた、由緒ある旧家で惨劇が起こるという舞台設定です。
新婚初夜の夜、密室の中で新婦が何者かによって殺されているのが発見される・・・
どのようにして密室を構築したのか、またその動機は?
密室トリックと殺人の動機解き明かしながら、真犯人を追い詰めてゆくストーリー構成ですが、
トリックもさることながら、そのなんとも言えないおどろおどろしい描写に嵌ってしまい、
横溝ワールドの虜になってしまいした。
以来、文庫化されている金田一シリーズは全作読むこととなりました。
横溝作品には、金田一シリーズの他にも、先述の由利麟太郎シリーズや、
捕物帳では人形佐七シリーズなどがありますが、
私にとっては金田一耕助こそが横溝正史でした。

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【西国街道(旧山陽道)】

今回、横溝正史疎開宅を訪れた1月15日は、月曜日で休館日。
あきらめて車をUターンさせていた時、館の世話係をしておられる地元の有志の方々が通りかかられ、
休館日にもかかわらず開錠して見学せてくださいました。
私の車のナンバーを見て、「遠方の大阪からやってきて休館では気の毒」と思って頂いた様で、
結局、最後まで「現在は岡山市内在住です」とは言えませんでした。
ゴメンナサイ。
おまけに、熱いコーヒーまでご馳走になりながら、
SMAPの稲垣吾郎さんが、金田一耕助に扮したドラマ『八つ墓村』(フジTV)の撮影で、
稲垣さん本人とロケ隊がやって来たときの様子など、面白いお話を聞かせていただきました。
横溝正史自身が疎開時代の思い出として語っているように、この地の人たちは非常に親切でした。
おかげ様で、中学生時代に横溝ワールドに浸っていた自分を思い出しながら、楽しい時間を過ごすことが出来ました。

※横溝正史疎開宅
入館料      一般\100
開館日      毎週 火・水・土・日
開館時間   10:00~16:00

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2007年1月15日 (月)

吉備の英傑

奈良時代に活躍した、大政治家であり大学者であった吉備真備(きびのまきび)は、
吉備地方の豪族の中でも名族中の名族、下道氏(しもつみちし)の出身でありました。
岡山県倉敷市真備町の町名は、この真備公にちなんでつけらています。

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【吉備真備公の銅像:吉備真備公園】

幼少の頃から、天才と謳われた真備公は、霊亀2年(716)22才の時、第8次遣唐使の留学生に選ばれ、
阿部仲麻呂らとともに中国の唐の都長安に赴きました。
唐にとどまること都合19年、儒学・歴史学・政治学・経済学・法律学・数学・天文学・暦学・兵学・音楽など、
当時の世界最高水準の学問や技術を多方面にわたって学び、天平8年(735)に帰朝しました。
19年も唐に留め置かれたのは、玄宗皇帝がその才を惜しみ、帰国させなかったためといわれています。
真備公の帰国によって我が国へもたらされた学問や技術の数々は、
奈良時代の諸制度、文化の繁栄に計り知れない貢献をいたしました。
現在ではあまり語られませんが、囲碁の伝来やカタカナの発明も真備公によるものです。

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【囲碁発祥の地記念碑】

帰国後は聖武天皇の寵愛を受け、天平9年(737)には従五位上に列せられます。
天平13年(741)には東宮学士に任命され、皇嗣阿倍内親王(後の孝謙女帝)に典籍を講説。
阿倍内親王の信頼をえた吉備公は、天平18年(746)に朝臣の姓を賜わり、
順調に中央政界で出世を重ねて行きました。
しかし、天平勝宝2年(750)、突然筑前守に左遷され大宰府へ。
これは、真備公の勢力伸長を恐れた藤原仲麻呂が、
真備公を孝謙天皇から遠ざけるために策略したといわれています。
天平勝宝3年(751)、17年ぶりに遣唐副使として再度唐に渡り、
天平勝宝5年(753)、鑑真を伴い帰国。
その後も、西海道節度使など、九州防衛の職を務めることとなります。

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【菩提寺「吉備寺」】

天平宝字8年(764)、造東大寺長官に遷任され、14年ぶりに都の重職に。
同年、政敵藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱に際し、中衛大将として追討軍を指揮。
乱鎮圧に功績をあげ、再び、中央政界で出世街道を登り始め、
天平神護2年(766)、道鏡の法王就任に伴いついに右大臣に昇進。
宝亀6年(775)、81歳でその生涯を閉じました。

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【真備公墓所】

現在の真備町には、真備公にまつわる旧跡や公園が残されています。
そのひとつに、真備公産湯の井戸があります。
星にまつわる偉人の誕生説話は、よく耳にしますが真備公もその一人。
ここは、その昔天原と呼ばれた地で、吉備公の御館があった所です。
真備公が生まれる前夜、この井戸へ星が落ちたので、星の井と言われるようになったそうです。
この井戸の水が真備公の産湯に使われことから、子洒川(しさいかわ)、
またの名を子洗川と名付けられました。(建立碑より)

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【真備公産湯の井戸】

産湯の井戸のすぐ西側には、まきび公園があります。
昭和61年(1983)、中国西安市(長安)に真備公の記念碑が建立されたのを記念して、同年にに造られました。
中国風の庭園で、よく言えば異国情緒がある、悪く言えば薄っぺらな印象の公園です。
まきび公園のすぐ脇には、真備公の菩提寺、吉備寺があります。
近くには、真備公の墳墓もあり入学、就職祈願で多くの人が訪れているそうです。

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【まきび公園】

真備公は、地方出身の下級役人から、自らの才能で官位を登り、
留学生として渡った唐の最新の知識を得て学問を究め、
度重なる政変劇を、自らの学問を生かし乗り切ることで、遂に右大臣にまで登りつめました。

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【八田神社】

地方豪族出身者が右大臣になったのは、真備公と昌泰2年(899)任官の菅原道真の二人しかいません。
道真公は、左遷地大宰府で志半ばににして、都を恋慕したまま他界されますが、
真備公は左遷後、奇跡ともいえる中央政界復帰を果たされました。
そんな、郷土の英傑をもっとクローズアップし、全国にアピールしておれば、
太宰府天満宮とまではゆかないまでも、
全国から合格祈願の学生さんが、真備町を訪れることになったかもしれません。

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2007年1月11日 (木)

浪速の神様

年末年始も仕事に追われ、バタバタと過ごしているうちに、
早いもので、正月ももう十日以上過ぎてしまい、今日が今年の「更新初め」です。

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やっとこ休みを取り、帰阪した際に今宮戎神社にお参りに行ってきました。
大阪人は「十日戎」の祭礼を、親しみを込めて「えべっさん」と呼び、商売繁盛の神様として篤く信仰しています。
大阪市内には、今宮戎神社と堀川戎神社の2社が祀られていますが、
「十日戎」の祭礼としては今宮戎神社の方が祭礼が華やかで、
宵えびす(9日)、本えびす(10日)、残りえびす(11日)の3日間に約100万人の参詣者が訪れるそうです。
私が今年訪れたのは、9日の宵えびすです。

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今宮戎神社は大阪市内のど真ん中に鎮座し、
JR環状線新今宮駅から徒歩8分、南海電鉄今宮戎駅からは徒歩5分と、
電車で行くには非常に便利な立地にあり、
到着はお昼前でしたが、すでに沢山の人で賑わっていました。

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創建は推古8年(600)にまで遡り、聖徳太子が四天王寺を建立された時、
同寺の西方守護神としてお祀りされたのが始めと伝えられています。
「戎大神」は、左脇に鯛、右手に釣竿を持った姿で知られているように、
元々は海から幸をもたらす漁業の守り神。
漁業の神様が大阪の街の発展とともに、商売の神様として祀られるようになりました。

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浪速区今宮一帯は、かつては海に面した漁村で、
今宮戎神社も平安中期より、南北朝の戦乱の時期に一時中断はあるものの、
継続して宮中に鮮魚を献進しており、これが明治初年まで続いたと伝えられています。
海運の便利な沿岸部では、海産物と里の産物とを物々交換する「市」が開かれるようになります。
この地でも、平安後期には四天王寺の西門に「浜の市」が開かれるようになり、
その「市」の守り神として、今宮戎神社の「戎大神」が祀られるようになります。
「市」の隆盛が商業の発達につながり、「戎大神」はいつしか福徳を授ける神、
商業の繁栄を祈念する神様として信仰されるようになりました。
室町時代以降庶民の信仰はますます厚くなり、また商売の世界では大阪町人の活躍が始まります。
江戸期になると、大阪は商業の町としてより一層の繁栄を遂げ、「天下の台所」と称されるほどの隆盛をみせ、
それとともに、今宮戎神社は広く大阪の商業の護り神として信仰を集めるようになってゆきました。

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兵庫県西宮市にある西宮戎神社は、開門と同時に境内を走り抜ける「福男」が有名ですが、
今宮戎神社は、公募で選ばれた美しい「福娘」さん達で全国的に有名。

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毎年3,000人以上の応募の中から、「健康で笑顔の美しい女性」40名が当年の福娘として選ばれます。
福娘から、後に芸能界入りを果たしたり、就職でアナウンサーに採用されたりする例も少なくありません。
今宮戎の福娘OGは、藤原紀香さん(タレント)、福元英恵さん(元フジTV)、進藤晶子さん(元TVS)、
角田華子さん(フジ「めざましTV」初代お天気キャスター)など。

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また、TVの世界や芸能界に進まずとも、「福娘」の看板は関西では縁談に有利と言われています。
神事に関する事なので、「ミス」や「グランプリ」などの名称はつけられず「代表」という名で表彰しています。

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「年の初めのえべっさん~商売繁盛で笹もって来い♪」
これは、「十日戎」にはつき物の囃子言葉。
境内では、絶えずに賑やかにこのお囃子が流れ、福笹が拝殿前で配られます。
その笹につける吉兆が、境内のあちこち、参道のあちこちで売られています。
境内で売られている吉兆は授かるもの。
したがって値切ってはいけません。(定価表示がされています)

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しかし、参道の屋台では定価はありません。
丁々発止の駆け引きで、吉兆を安く買うのも大阪人のたしなみ。
ここで値切らなければ、「えべっさん」の福が逃げてしまいます。
屋台の場所にもよりますが、最初の言い値の半額くらいにはなります。
商売はまず安く買う事(仕入れる)から始まります。
面倒な値引き交渉が成功するか否かが、今年の商売の行方を左右するかもしれません。

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この福笹は一年間家の中にお飾りし、翌年の十日戎に返納。
そして、また新たな福笹を授かって帰ります。

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福飾りの屋台の混じって、どて焼き(牛筋煮込み)や焼き鳥、サザエのつぼ焼きなど、
おいしそうな匂いの、様々な飲食屋台が軒を並べています。

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お参りの後、ちょっと一杯。
これが楽しみでやって来る人も、多いように思われます。

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今宮戎神社の「十日戎」は不思議なお祭りです。
霊験あらたかな雰囲気も厳かな雰囲気はなく、きわめて雑然と賑やか。
そんな「えべっさん」は、大阪で一番親近感のある神様。

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それでも毎年、御利益があると信じて沢山の人々がお参りにやってきます。
何万人もの福を求めてやってきた人たちの中で、
普段は最も苦手とする人ごみも、苦にはなりませんでした。
来年もこの時期が来れば、「商売繁盛で笹もって来い♪」が聞きたくなるに違いありません。

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