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2006年12月11日 (月)

聖地誕生寺

岡山県久米南町には、浄土宗の開祖法然上人の生誕地、栃杜山誕生寺があります。
建久4年(1193)、源平一の谷合戦で平敦盛を切った熊谷直実が出家、
法然上人の門下に入って法力房蓮生となり、この地にやって来てました。
そして、法然上人の命を奉じて、上人の生家、
久米郡押領使、漆間時国(うるまのときくに)の屋敷を寺院に改めました。

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【山門】

このお寺には、法然上人の生いたちと、出家にまつわる説話が伝えられています。
漆間時国と夫人の秦氏(はたうじ)との間には長らく子がなく、
信仰深い二人は、岩間山本山寺にどうか子を授かるようにと、一心に願をかけていました。
やがて、長承2年(1133)に男の子を授かり、名を勢至丸(後の法然上人)としました。
保延7年(1141)、勢至丸9歳の時、漆間家の屋敷が明石定明(あかしさだあきら)によって突如夜襲を受けます。
明石定明は久米南条稲岡荘の荘官でしたが、押領使・時国の人望をね妬み夜討ちをかけたのです。
まだ幼い勢至丸でしたが、小弓で果敢に立ち向かい、敵将定明の右眼を射抜きました。
傷を受けた定明がその眼を洗ったため、屋敷脇の小川には以来、片目の魚が現れるようになったと言われ、
その小川は、今も片目川と呼ばれています。

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【片目川】

勢至丸の矢で眼に傷を負った定明は、配下共々引き上げましたが、
父時国もまた致命傷を負っていました。
臨終に際して、勢至丸に向かい、親の仇として定明を討つことを戒め、復讐の無益さを諭し、
「仏道を歩み、安らぎの世を求めよ」と遺言したといわれています。
当時としては、卓然とした人生の指針を子に遺して、時国は44歳の生涯を閉じました。
父の死後、勢至丸は菩提寺の住職で、母の弟である観覚上人の下に引き取られることになります。
観覚上人は勢至丸の偉才を認め、一日も早く比叡山に登って修業を積むようにと勧めました。

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【鐘楼】

久安3年(1147)、比叡山での修業を決意した勢至丸は、母秦氏に別れを告げる為に6年ぶりに生家に戻ります。
秦氏は、夫時国を失い、今また一粒種の勢至丸を、遠い比叡山に送ることは忍び難いと言いましたが、
勢至丸は悲しむ母を慰めながらも、比叡山行きへの強い決意を示しました。
その強い求道の姿勢に、秦氏は涙ながらにも、わが息子に敬服し、
「かたみとて はかなき親のとどめてし この別れさへ またいかにせん」
と詠んだと伝えられています。
その年の11月12日、秦氏は遠隔のひとり子、勢至丸を思いつつ、37歳で病没しました。
時に勢至丸15歳でした。

0612115cocolog_2 【方丈と庭園】

その後、修業を重ねた勢至丸は、万民救済の念仏門の元祖、法然上人となりました。
法然上人が、承安5年(1175)に開いた浄土宗は、阿弥陀仏の平等のお慈悲を信じ、
「南無阿弥陀仏」と御名を唱えて、自身の人格を高め、社会のために尽くし、
明るい安らかな毎日を送りながら「往生(西方極楽浄土に生まれること)」を願う信仰です。
その「他力」の新しい考え方は、たちまち日本中の庶民の共感を得ることになりました。
法然上人はその教えを、広く人々に伝える為に自分がいるのだと考え、
強い信念を変えることなく生涯を過ごされました。

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【大仏】

約900年の昔、法然上人が父母の慈愛を受けて育った場所がこの誕生寺だと思うと、
なんだか身が引き締まるような思いでした。
決して信心深い方ではない私ですが、法然上人の偉大さがそんな気持ちにさせるのか、
深々と御本尊に手を合わせ「南無阿弥陀仏」と唱えていました。

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