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2006年12月29日 (金)

再び岡山城から

いよいよ、今年も残すところあと3日。
公官庁をはじめ、多くの企業が仕事納めを迎えた中、
私が従事している流通業は、クリスマス~お正月にかけてが年間最大の繁忙期。
非常に忙しく、このブログも12月18日以来更新が途絶えています。
このまま、年を越すのもイヤなので年内最後のアップです。

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【岡山城天守1】

本日、仕事の方は久しぶりのお休み。
しかし、風邪気味で体調が良くないうえに、気温がめっきりと冷え込んできたので、
遠出は諦め、近くの岡山城周辺をカメラ片手に散歩してきました。

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【岡山城天守2】

岡山城については、以前もこのブログ(漆黒の城)で御紹介しましたが、
現在の天守は、戦後再建された鉄筋コンクリートのビルディング。
宇喜多直家が天正元年に創築した旧天守は、
アメリカ軍による岡山大空襲により焼失してしまいました。

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【岡山城天守3】

太平洋戦争末期の昭和20年(1945)6月29日、
岡山市は、B29爆撃機約70機の僅か90分程の焼夷弾攻撃で、
岡山城天守をはじめ、市街地の約8割を焼失しました。
約25,000戸が焼け落ち、1,700人以上の死者がでたと言われますが、
今現在でも正確な死者の把握はできていないそうです。
罹災者は104,606人に及び、全国で80ある罹災都市の中で、8番目にあたる深刻さでした。

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【水辺のモモちゃん像】

この岡山大空襲は、日本の物理的戦力に攻撃を加え、破壊することが目的の作戦ではありませんでした。
当時の米軍側の資料では、この作戦での焼夷弾攻撃地域で、標的となった施設の破壊率は、
岡山城や中学校校舎などは100%、反対に鉄道施設が3%となっています。
このことから、岡山大空襲の本質は、一般市民の戦意をそぐためになされた、
恐喝空襲(terror raids)であったことが見えてきます。
アメリカ軍は、軍港や軍需工場などの工業地帯の爆撃には破壊弾を使用しましたが、
木造の建物が多い住宅地域に対しては、焼夷弾を主とした爆撃を行いました。
都市火災を発生させ、非戦闘員を殺傷することが目的であったことは明らかで、
この方針は、そのまま広島・長崎への原子爆弾の投下につながっています。

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【学生さん:旭川河川敷】

日本は戦後60年で国を建て直し、岡山市でも空襲の爪あとを探すことさえ難くなりました。
昼時の岡山城周辺は、年の瀬の慌しさすら感じさせない長閑な時間が流れ、
平和がごく当たり前のように感じられます。

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【鷺:旭川河川敷】

しかし、いまなおイラクやレバノン、ソマリアなどの世界各地の軍事紛争では、
多くの民間人に犠牲を強いる「空からのテロル=空襲」が行われています。
殺す相手を視認しない空からの殺戮は、最も非人間的な行為であり、明らかな国際法違反です。
このような悲惨極まりない行為が、近い将来に地球上からなくなることを、
2006年の締めくくりに、岡山の地より、無力であると知りつつ、ただ祈ります。

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2006年12月18日 (月)

野に在りて輝く

大正ロマンを代表する、漂泊と叙情の詩画人竹久夢二(本名茂次郎)は、
明治17年(1884)に岡山県の東南部、現在の瀬戸内市邑久町に生まれました。
彼が16歳まで過ごした生家は当時のままに保存され、現在は夢二郷土美術館※となり、
展示室には素描、版画などの作品が展示されています。

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【夢二の生家】

生存中からそのロマンあふれる独特の芸術性で、一世を風靡したばかりではなく、
没後50年以上が経つ今も、彼の作品は高い評価を受けています。
その作品には市井のくらしに根付いた、喜びや悲しみが表現され、
よく知られた美人画の他にも、晩年には日本の山河や子供たちを主題としました。
また、木版画の制作、楽譜や表紙装幀にも携わり、
浴衣・半襟・手拭いなど日々の生活に用いるもののデザインにも情熱を注ぎ、
日本のグラフィックデザイナーの先駆者として多くの素晴らしい作品を残しました。

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【夢二のアトリエ「少年山荘」】

3歳の頃からすでに画才の片鱗を覗かせていたといわれる夢二は、
明治32年(1889)、16歳で故郷邑久を離れ、叔父を頼って名門神戸中学に入学します。
しかし、入学後8ヶ月目、造り酒屋であった家業の失敗により、一家は官営八幡製鐵所につてを求めて北九州へ。
夢二もまた神戸中学を中退、製鐵所で図面引きなどをして家計を助けました。

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【「少年山荘」の窓から】

しかし、その傍らでは独学を続け、明治34年(1901)、19歳の年に上京を決意。
家出同然で九州を離れ、早稲田実業に入学、苦学することになります。
明治38年(1905)に本科を終え、専科に進みますが、当時の新思潮であった社会主義運動に感化され、
「平民新聞」の荒畑寒村の勧めで、日露戦争反戦の風刺画を雑誌「直言」に掲載します。
そして同年、"夢二"のペンネームで雑誌「中学世界」に投書した伊勢物語のコマ絵「筒井筒」が第一賞に入選。
入選を期に学校を中退、本格的にコマ画家としてスタートを切りました。
明治42年(1909)、 最初の著作「夢二画集 春の巻」を刊行しますが、それが一躍ベストセラーに。
以降、夢二の抒情画は人気を博すことになります。
大正4年(1915)「絵入小唄三味線草」を発表、独特の叙情性の高い女性像を確立。
大正7年(1918)「宵待草」に多田亮が曲をつけセノオ楽譜から発表。

 『宵待草』 

 まてどくらせどこぬひとを
 宵待草のやるせなさ。
 
 こよひは月もでぬさうな。

流行歌として大流行したこの詩は、「婦人グラフ」の挿絵と並び夢二の大衆的人気を決定付ける事となります。
昭和6年(1931)アメリカで個展。
昭和9年(1934)信州富士見高原療養所で、満50歳に半月少ない生涯を閉しました。

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【夢二の遺品の蓄音機】

夢二の次男竹久不二彦氏が語るエピソードの1つに、
「パパさん(夢二)の一番嫌いな言葉」というものがあります。
それは意外にも「芸術家」という言葉です。
時代を超越して多くの人から愛され、今や世界のオークション市場でも大人気の夢二ですが、
その実、いまだ権威的な絵画の世界からは逸脱したままの稀有な存在です。
それは、夢二自身が望んでいたことであると思われます。
彼は官尊民卑の当時において、官展であった文展を無視した生き方を貫きました。
それが芸術家の証明であり、巨匠への道であったにもかかわらず、
金銭的に苦しい時代でさえも、権威にすがることなく一貫して世俗的な絵描きの道を進みました。
彼の絵は商品として需要と人気があり、東京美術学校や白馬会とも係わりが深く、
望めば十分に権威ある画壇の仲間入りが出来たはすですが、
敢えて「芸術家」とは呼ばれない位置に留まり続けました。
彼には、画伯とか先生といった称号は必要がなかったのです。

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【「少年山荘」入り口】

東京世田谷にあった夢二自らの設計によるアトリエが、昭和45年(1970)に夢二生誕95年を記念して、
生家近くの公園内に復元されています。
中国宗代の詩人、唐庚酔眠の詩の一節「山静かにして太古に似たり 日の長きこと少年の如し」から、
このアトリエは「少年山荘」と名づけられました。
館内には、絵の具やパイプなどの、夢二が愛用した遺品の他、数多くの写真が展示されています。

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【夢二の遺品の天使木像】

終生師をもたず、生涯如何なる賞も手にしなかった夢二。
権威にたよらず、大衆のなかに生きた夢二でしたが、
その裏では、美術学校で基礎を学ばなかった自分の絵にコンプレックスを抱き、
海外の有名作家の画集を取り寄せ、個人的に研究を重ねていたといいます。
天才でありながら、心の葛藤を隠さない。
そんな人間味が、彼の作品をより豊かなものにし、
今も庶民に親しまれ、愛され続ける由縁となっているのではないでしょうか。

※夢二郷土美術館(本館)は岡山市内中心地、後楽園の付近にあります。
※生家の内部は残念ながら館内撮影禁止。
   「少年山荘」の入館料も込みで、\500也。

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2006年12月15日 (金)

舟運と刀剣の里

岡山県の南東部、北を瀬戸町、東を備前市、南を瀬戸内市邑久、東を岡山市に接して、
瀬戸内市長船(おさふね)町福岡という小さな集落があります。
ここは、ちょうど山陽道と吉井川の舟運(高瀬舟)が交わる十字路にあたるため、
鎌倉時代以降、中国地方随一の商業都市として栄えました。

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【福岡の町屋】

正安元年(1299)の作で、一遍上人の布教行脚の様子を伝えた国宝の絵巻「一遍聖(ひじり)絵」にも、
すでに「福岡の市」の繁栄ぶりが描かれています。
現在の福岡は、かつての繁栄ぶりが全く想像できないような非常に静かな集落ですが、
幅員が8mもある2筋の広い幹線路と碁盤状に通った7つの小路、
虫篭窓になまこ壁の立派な町屋などに、かすかに往時の名残りを感じることができます。

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【「福岡の市」の碑】

また、備前福岡は豊臣秀吉の軍師として有名な、黒田官兵衛孝高の先祖発祥の地であり、
日蓮宗教意山「妙興寺」には、官兵衛の曽祖父・高政と祖父・重隆の墓塔が残っています。
黒田家は関が原の合戦後、九州の福崎に国替えになりましたが、官兵衛の息子である黒田長政が博多の西に築いた城を、
祖先に縁の深い備前福岡にちなんで「福岡城」としたことから、「福岡」の地名の発祥となったと言われています。
この小さな街が、大都市福岡の名前の由来になっているとは、この地を訪ねるまで全く知りませんでした。

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【日蓮宗教意山「妙興寺」】

「長船」(おさふね)の名が全国に知られているのは刀剣の分野で、
「西の長船、東の美濃(関)」と言われています。
「真金吹く」は吉備の枕詞であり、吉備地方は古くから知られた鉄の産地。
備前鍛冶の起こりは、吉備国制圧の為に崇神天皇が派遣した吉備津彦命に随行してきた鍛冶集団が、
刀製造に適した「赤目(あこめ)」と呼ばれる砂鉄が豊富な吉備国にとどまって、土着したというのが定説ですが、
遺跡や古墳などから判るように、古くから朝鮮半島との交流があった長船には、
もっと早い時期から鍛冶技術が伝わっていたと推測できます。
個人的には、吉備津彦軍の鍛冶集団と先住の鍛冶集団との技術交流が、備前鍛冶の基底になったのだろうと思います。

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【長船鍛冶の菩提寺、真言宗宝城山「慈眼院」】

備前国の中でも、長船一帯に、古備前や福岡一文字と呼ばれる鍛冶集団が集住した背景には吉井川の存在があります。
刀の原料の砂鉄は花崗岩地帯に多く、比重が重い為、大雨や洪水で土砂が流れ出た後に地表に表れます。
川の近くまで山が迫り、土砂の流出が多い場所では砂鉄の採取が容易になります。
また、刀の鍛錬工程で、最も重要な焼き入れでは、真っ赤に熱した鉄を冷やす為、良質の水が不可欠です。
刀の質を安定させるには、一定の水温が必要で、春分と秋分の日前後の温度が最適とされますが、
気候が温暖で安定している地方では、その最適期間が長くなるのです。
さらに、鍛錬に必要な松炭は山中の炭焼窯で生産されますが、陸上交通が発達していなかった昔は舟運が唯一の輸送手段。
原材料をつくることから手掛けた古代の刀匠は、舟運を利用しやすい土地を選びました。
これらの条件をどれも十分に満たしているのが、吉井川であり長船の地だったのです。

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【吉井川】 

今日まで現存している刀剣の多くが備前刀であり、
国宝や重要文化財に指定されているものの約半数がこの地で生産されたものだそうで、
そのことからも、「備前長船」の生産量と質の高さを知ることができます。

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犬養木堂の書による「造剣之碑」】

武器として栄えた日本刀は、戦乱の世が終わりを告げると共に徐々に衰退してゆきます。
秀吉の刀狩り、徳川幕府の泰平、明治の廃刀令。
長船の刀匠も一人また一人といなくなり、千年の歴史を誇る備前鍛冶の歴史は幕を閉しるかに見えました。
しかし、武士にとっては、日本刀は単なる刃物ではなく、心の支えであり、神聖なもの。
その精神は受け継がれ、日本刀は優れた文化財、美術工芸品として蘇りました。
攻撃的な殺傷の武器であった刀を、芸術に昇華させたのは刀匠の気高い精神でありました。

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【備前おさふね刀剣の里】

現在、長船では再び刀づくりが行われています。
「備前おさふね刀剣の里」という、国内でも珍しい日本刀専門の博物館が建てられ、
そこに隣接する鍛錬場で、古式ゆかしい日本刀の公開鍛錬が行われています。
この日は残念ながら観る事は出来ませんでしたが、伝統を継承する輝かしい炎が再び燃え上がったことは、
大変意味深く、素晴らしいことだと思いました。

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2006年12月11日 (月)

聖地誕生寺

岡山県久米南町には、浄土宗の開祖法然上人の生誕地、栃杜山誕生寺があります。
建久4年(1193)、源平一の谷合戦で平敦盛を切った熊谷直実が出家、
法然上人の門下に入って法力房蓮生となり、この地にやって来てました。
そして、法然上人の命を奉じて、上人の生家、
久米郡押領使、漆間時国(うるまのときくに)の屋敷を寺院に改めました。

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【山門】

このお寺には、法然上人の生いたちと、出家にまつわる説話が伝えられています。
漆間時国と夫人の秦氏(はたうじ)との間には長らく子がなく、
信仰深い二人は、岩間山本山寺にどうか子を授かるようにと、一心に願をかけていました。
やがて、長承2年(1133)に男の子を授かり、名を勢至丸(後の法然上人)としました。
保延7年(1141)、勢至丸9歳の時、漆間家の屋敷が明石定明(あかしさだあきら)によって突如夜襲を受けます。
明石定明は久米南条稲岡荘の荘官でしたが、押領使・時国の人望をね妬み夜討ちをかけたのです。
まだ幼い勢至丸でしたが、小弓で果敢に立ち向かい、敵将定明の右眼を射抜きました。
傷を受けた定明がその眼を洗ったため、屋敷脇の小川には以来、片目の魚が現れるようになったと言われ、
その小川は、今も片目川と呼ばれています。

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【片目川】

勢至丸の矢で眼に傷を負った定明は、配下共々引き上げましたが、
父時国もまた致命傷を負っていました。
臨終に際して、勢至丸に向かい、親の仇として定明を討つことを戒め、復讐の無益さを諭し、
「仏道を歩み、安らぎの世を求めよ」と遺言したといわれています。
当時としては、卓然とした人生の指針を子に遺して、時国は44歳の生涯を閉じました。
父の死後、勢至丸は菩提寺の住職で、母の弟である観覚上人の下に引き取られることになります。
観覚上人は勢至丸の偉才を認め、一日も早く比叡山に登って修業を積むようにと勧めました。

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【鐘楼】

久安3年(1147)、比叡山での修業を決意した勢至丸は、母秦氏に別れを告げる為に6年ぶりに生家に戻ります。
秦氏は、夫時国を失い、今また一粒種の勢至丸を、遠い比叡山に送ることは忍び難いと言いましたが、
勢至丸は悲しむ母を慰めながらも、比叡山行きへの強い決意を示しました。
その強い求道の姿勢に、秦氏は涙ながらにも、わが息子に敬服し、
「かたみとて はかなき親のとどめてし この別れさへ またいかにせん」
と詠んだと伝えられています。
その年の11月12日、秦氏は遠隔のひとり子、勢至丸を思いつつ、37歳で病没しました。
時に勢至丸15歳でした。

0612115cocolog_2 【方丈と庭園】

その後、修業を重ねた勢至丸は、万民救済の念仏門の元祖、法然上人となりました。
法然上人が、承安5年(1175)に開いた浄土宗は、阿弥陀仏の平等のお慈悲を信じ、
「南無阿弥陀仏」と御名を唱えて、自身の人格を高め、社会のために尽くし、
明るい安らかな毎日を送りながら「往生(西方極楽浄土に生まれること)」を願う信仰です。
その「他力」の新しい考え方は、たちまち日本中の庶民の共感を得ることになりました。
法然上人はその教えを、広く人々に伝える為に自分がいるのだと考え、
強い信念を変えることなく生涯を過ごされました。

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【大仏】

約900年の昔、法然上人が父母の慈愛を受けて育った場所がこの誕生寺だと思うと、
なんだか身が引き締まるような思いでした。
決して信心深い方ではない私ですが、法然上人の偉大さがそんな気持ちにさせるのか、
深々と御本尊に手を合わせ「南無阿弥陀仏」と唱えていました。

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2006年12月 6日 (水)

湖東に集う

今週(12月3日)の日曜日に、所属するカメラサークルの撮影会があり、久しぶりの参加。
岡山に赴任して以来、土日に休みが取りにくくなり、しばらくの間参加できずにいましたが、
年内最後のチャンスということで、虚実織り交ぜた口実で休みを取り、カメラを担いで出かけました。
撮影地は琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西麓にある通称「湖東三山」。
湖東地方の彦根から八日市の間に、南北3~5kmの間隔で千年以上の歴史を誇る3つの名刹が並んでおり、
これを総称して「湖東三山」と言います。
いずれも広大な境内をもち、その昔、多数の僧兵を擁し、自衛の為に武力をもって闘った天台寺院であります。
今回は、紅葉(の名残り?)を狙って、北から順番に三山を回りました。

T_imgp9117_2 【西明寺三重塔】

湖東三山、一番北のお寺は、龍応山西明寺。
平安時代の初期、承和元年(834)に仁明天皇の勅願により 三修上人が創建した古刹です。
平安、鎌倉、室町の各時代を通じて祈願道場、修行道場として栄えました。
往時は、17のお堂、僧坊があり数百人の修行僧が居住した大寺院であったと言われています。
戦国時代、織田信長に抗したため、比叡山焼き討ち直後、ここも焼き討ちにあいましたが、
本堂、三重塔、二天門は火災を免れ現存しています。
中でも本堂は、釘を一切使わない鎌倉時代の代表的な純和様建造物で、国宝第一号に指定されています。
上の写真の3重塔も同じく、鎌倉時代後期の純和様建築。
屋根は檜皮葺き、総檜造りで、国宝に指定されています。 
今回は拝観できませんでしたが、鎌倉期のものとしては国内唯一の極彩色の壁画が塔内壁に描かれています。

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【金剛輪寺石地蔵】

湖東三山真中のお寺、金剛輪寺は、秦川山(469m)の西腹にあり、寺域が17,000k㎡にも及ぶという巨刹です。
天平13年(741)、聖武天皇の詔勅で行基菩薩が開山したと伝えられおり、
以来、天下泰平の祈願寺として栄え、延暦寺の慈覚大師によって、西方阿弥陀仏の信仰が教化され、
学問僧が集まる天台の大寺院となりました。
拝観料(500円)の支払いを済ませ、石畳の道を進み総門をくぐると、休憩所(食堂?)があり、そこで昼食タイム。
とろろ御飯とおそば、こんにゃくの味噌田楽のセットを食して、御代は1050円也。
味は兎も角として、観光地にしては良心価格ではないかと思いました。
そこを出るとすぐに、三重塔へ通じる石段があり、その両脇には風車が供えられた無数の石地蔵が並んでいました。
長い石段を登り、二天門(国重文)をくぐると、国宝の本堂が「大悲閣」の額を掲げ、どっしりした姿を現します。
幾多の戦火をくぐってきた凄みを感じさせる、実に立派な本堂でした。
総門まで戻ると、左手に「本坊明寿院」の門と庭園入口の案内があり、
門をくぐると見事な池泉回遊式庭園が広がっています。
桃山(南庭)、江戸初期(東庭)、江戸中期(北庭)の三庭からなり、
園内の紅葉は、血のように赤く染まることから「血染めのもみじ」といわれています。
当日は見ごろも過ぎ、残念ながら「血染め」が「かさぶた」の様になっていました。

T_imgp9248_1  【喜見院の庭園】

一番南に位置する釈迦山百済寺(ひゃくさいじ)は、 三山の中で最古のお寺。
推古朝の西暦606年、聖徳太子によって創建された古刹で、
渡来人のためのお寺として始まったとも言われ、「百済寺」の寺号もその名残といわれています。
塔坊は、百済の梵閣「龍雲寺」を模して建てられたと言われており、
開闢の法要は高句麗の高僧恵慈によって行われ、その後の供養は百済の高僧道欣が任ぜられました。
やがて比叡山に天台宗が開創されると、天台の寺院となり寺域も拡大。
塔頭300余坊を擁する荘厳な大寺院となり、「湖東の小叡山」と称されるようになりました。
しかし、自火を含め3回の火災に遭い、天正元年(1573)の信長による焼き討ちでは全山が灰となってしまいました。
江戸時代に入り、天海僧正の高弟により塔坊の復興が進み、領主井伊直孝の援助もあって、
現在の本堂、仁王門、山門などが再建されました。
本坊喜見院の庭園では、東方の山々を借景に、湖東平野や湖西の山並みが眼下に展望できます。
本坊庭園から出て荒い石段を登ると仁王門、さらに登ると、
檜皮葺きの入母屋造りで、正面に軒唐破風がついた落ち着いた本堂に辿り着きます。 
本堂脇には、鐘楼があり、誰でも鐘が撞けるようになっています。
私も撞かせていただきましたが、見事な余韻が全山に、また自身の煩悩だらけの心の底にも響き渡りました。

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【西明寺境内の落ち葉】

撮影会全行程を終え、最後の仕上げはJR草津駅近くの焼肉屋で懇親会。
参加者8名の内訳は、地元滋賀より1名、大阪より2名、兵庫より1名、名古屋より3名、そして岡山から参加の私。
普段はそれぞれの地元で、それぞれの日常を抱えた人たちが、
ただ写真を撮るという事だけで集まり、その後は写真やカメラ談義で杯を交わす。
誰に何の得があるのかといえば、全く無し。
冷静に考えれば、変わった人たちだなぁと思います。
しかしながら、なんとも言えない楽しさで宴は過ぎてゆくのです。
全行程どんより曇り、ときおり小雨がぱらつく生憎のお天気でしたが、
私の写真の出来以外は、大いに収穫ありの一日でした。

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