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2006年11月15日 (水)

吉備の母なる川

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本日は、吉井川、旭川とともに岡山三大河川と並び称される高梁川のお話です。

高梁川は中国山地の花見山(標高1,188m)に水源を発し、広島・岡山県内を流れ水島灘に注ぐ、

流域面積2,670k㎡、流路延長111km、流域平均降水量約1,370mmの河川です。

この川の本流を指す呼称は、古くは日本書紀に記されている川島川から、川辺川、松山川など、

その時代で最も栄えていた流域の町の名前が採られてきました。

高梁川という名称も明治以降のもので、備中松山が高梁と改称されたため、河川名も松山川から高梁川となりました。

かつての備中は、備前(現岡山県)・備後(現広島県)と合わせて吉備の国と呼ばれ、

古来より政治・経済・文化の面で重要な地域であり、その繁栄を支えたのは高梁川をはじめとする河川群でした。

上流域の阿哲郡、支流の成羽川上流、広島県比婆郡や神石郡等、

中国山地脊梁に近い花崗岩帯は、中世よりタタラ製鉄のメッカでした。

山を掘り崩した土砂の中から、河川の流水を利用した鉄穴流(かんななが)しという比重選別法によって砂鉄を採集。

その砂鉄をタタラと呼ばれ精錬所で溶解させ、鉄材を精製していました。

この鉄材を原料とした農器具は、下流域の農業生産効率を飛躍的に向上させました。

また、鉄穴流しの過程で発生する莫大な土砂が濁水となり、中~下流域で堆積して河床上昇の一因となりました。

中世から明治時代の中期まで行われた鉄穴流しと、16世紀頃から始まった河口域の干拓により、

現在の倉敷市の平野部の殆どが形成されました。

中流域にある城下町、備中松山では16世紀より高瀬舟による船運が始まり、大いに賑わいを見せました。

高瀬舟の航路は、江戸時代の最盛期には上流の新見、支流域では成羽川上流の東城や、

小田川上流の井原のあたりまで整備され、交通・運輸の重要な動脈となっていました。

江戸~明治期まで成羽川上流の吹屋で盛んに生産されていたベンガラも、高瀬舟を利用し全国に運ばれてゆきました。

治水・改修の歴史は岡山3大河川の中では最も古く、

明治25・26年の大洪水が契機となって、工期20年にも及ぶ大改修が実施されました。

この内務省による第1期改修(明治43年~大正14年)によって、それまで倉敷市内で東西の派川に分岐していた流れのうち、

東の派川を締切って廃川とし、西の派川を本流としました。

その後、廃川となった東派川の敷地約450haの造成、水島の工業用地造成などが行われ、高梁川は今の姿になりました。

現在の高梁川流域は、美しい自然環境が今なお残る地域として、県下でも人気の観光スポットとなっています。

上流域は比婆道後帝釈国定公園と備作山地県立自然公園に、中流域は高梁川上流県立自然公園と山野峡県立自然公園に、

下流域は吉備史跡県立自然公園に指定されています。

支流域でも、井倉峡、阿哲峡、豪渓、天神峡など、高梁川水系特有の奇岩・奇鋒の景勝地があり、

四季折々に、周辺の山々と一体となった美しい自然景観を見せてくれます。

今日の写真は、総社市と高梁市の市境付近から高梁川を撮ったものです。

抜けるような青空と、水量豊かに悠々と流れる川面を眺めていると、

ゆったりとした気持ちになり、しばし時間が経つのも忘れてしまいました。

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