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2006年10月29日 (日)

士族の商い

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今週は仕事が忙しく、岡山・大阪・福岡と行ったりきたりしていました。

そのため、カメラをぶら下げ出歩く暇もなく、ブログの日記更新もサボりっぱなし。

岡山単身赴任以来最長の7日間のブランクとなってしまいました。

週に一度も更新しないのに、日記とは・・・と反省するに至り、

職場を一時離脱、大急ぎで写真を撮ってきました。

というわけで本日は、職場から程近い岡山駅周辺の話題、駅前商店街シリーズの第二弾です。

先日(10月16日)は、JR岡山駅東口のすぐ前にある岡山駅前商店街、通称「スカイモール21」を取り上げましたが、

駅を挟んで反対側の西口方面にも「奉還町」という歴史のある商店街があります。

江戸時代のこの付近は城下町の西のはずれ。

街道(山陽道)が通っているだけの寂しい場所でしたが、

そこに商店街が形成され始めたのは、明治維新の頃だそうです。

明治4年(1871)、廃藩置県が実施され、岡山藩は岡山県、岡山城下には区制が布かれ岡山区と改められました。

そして、その後の版籍奉還により、岡山藩の士族の大多数は藩⇒県の行政にかかわることが出来なくなり、

また、徴兵令により士族の専管事項であった兵役の義務も平民と同等となったため、

政府から特に秩禄を受け取る理由がなくなり、失業してしまいました。

しかしながら、士族の軍事力による抵抗は政府や県にとっては脅威であり、

士族の不満を穏便に抑え、生計を立てられるような対策が急務となりました。

そこで、明治6年(1873)に、秩禄の額を一定額減じて、

その6年分を、年利6%の秩禄公債と現金を半々で交付する家禄奉還が実施されるに至ります。

この「奉還金」を元手に士族たちが商売を始めたのが、現在の奉還町商店街の起源です。

奉還町は山陽道沿いにありましたが、城下町からははずれていたため、

江戸時代の記録では「往来に家なし」という状況でしたが、

明治9年(1876)の新聞には、「奉還士族の商店多く五六十軒もあり、俗に奉還町と唱え」とあり、

商店街が形成さつつあったこと、この頃から「奉還町」という地名で呼ばれていたことなどが伺い知れます。

しかし、不慣れなうえ、高飛車な「士族の商法」はそのほとんどが失敗し、

現在、奉還町で武士の子孫で商売を続けているお店は僅かに1店のみとなっています。

士族のお店はほとんどが姿を消してしまいましたが、商店街の起こりから100年以上経った今も、

日用品を扱う店を中心に、飲食店や食料品店など沢山の商店が軒を並べています。

往来数は週末より平日の方が多いそうで、

地域の人々の普段の生活にはなくてはならない商店街ではあるようです。

往時を知る人は、寂れたという印象であるかもしれませんが、

地域に密着した「頑張る商店街」の印象を受けました。

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2006年10月21日 (土)

近代の遺跡

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岡山市の東方の沖合、約2.2kmのところに犬島という島があります。

岡山市に属する島としては唯一の有人島で、現在約80名の島民が暮らしています。

記録に残っている限りでは、入植の始まりは元禄年間(1688~1704)とされていますが、

島内から旧石器時代の遺跡も発見されており、人の営みの歴史はそれ以来続いてきたと推測できます。

その長い歴史の中で、犬島が最も栄えた時期は、明治30年代の大阪湾構築に伴う採石業の繁栄期と、

それに続く明治40年代の銅の精錬業による繁栄期だと言われています。

犬島は、全島が「犬島みかげ」と呼ばれる良質の花崗岩からなっています。

そのため、石材は古くからこの島の特産品でした。

鎌倉の富岡八幡宮の大鳥居や岡山城、大阪城などの石垣にも犬島産の花崗岩が使われているそうです。

明治に入って行われた大阪築港の造営の際に、石材の供給を一手に引き受けたため、

石材の島として一躍クローズアップされるようになりました。

もう1つ、犬島の栄枯盛衰の歴史を象徴する産業としては、銅の精錬があります。

明治42年3月、倉敷市の帯江銅山から産出される銅鉱石を精錬する工場を、

岡山の実業家坂本金弥氏が開設・創業しました。

その後、藤田合名会社から住友金属へと、経営は移り変わっても活況は続き、

全国各地より従業員が集まり、島の人口は一挙に増加、最盛期で5000~6000人にも達しました。

精錬所周辺には社宅が設けられ、飲食店、料理屋、旅館なども建ち並ぶようになり、

三味線や太鼓の音が夜遅くまで聞こえたといわれています。

しかし大正時代に入ると、インフレで銅の価格が大暴落し、

大正8年3月には、現役期間たった10年間であえなく閉鎖されてしまいました。

閉鎖後は、企業の撤退や住民の減少が一気に進み、

現在の犬島の産業は、採石業と化学工業があるのみとなっています。

また、住民の高齢化の波はこの島にも押し寄せ、

平成3年には犬島にあった小中学校はすべて閉校となりました。

今日の写真は、閉鎖後90年近くが経過した犬島精錬所の姿です。

レンガ造りの工場跡やそそり立つ大煙突など、独特の風景が残されており、

映画「瀬戸内野球少年団」や「カンゾー先生」、テレビドラマ「西部警察」など、

多くの作品のロケ地としてこの跡地が利用されました。

それ以外にも、毎年多数のアマチュア写真家や絵描きさんたちが訪れます。

この日も私の他に、三脚を担いだ4名の撮影グループが来ていました。

拙い写真では感じていただけないかも知れませんが、

荒涼とした、ある種現実離れした独特の雰囲気があり、

瀬戸内に浮かぶ近代の遺跡として、大変見ごたえがありました。

※岡山市街から車で約40分の所にある、宝伝という港から定期船が出ており、
 そこから約10分(大人200円!)で犬島に渡ることが出来ます。

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2006年10月19日 (木)

奇祭の古刹

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本日は、「裸祭り」で有名な西大寺観音院に行って来ました。

JR西大寺駅から徒歩で約15分、吉井川に架かる永安橋の北に西大寺観音院はあります。

西大寺観音院というのは通称で、正式には金陵山西大寺といい、千手観音をご本尊とする高野山真言宗派の別格本山です。

関西出身者は、西大寺と聞けば奈良を思い浮かべてしまいますが、発音とイントネーションが微妙に違います。

もっとも、地元の人もあまり「西大寺」とは呼ばないようで、「観音院さん」と呼ぶのが一般的なようです。

寺に伝わる「金陵山古本縁起」によると、寺の創建は天平年間勝宝3年(751)に遡り、

周防国玖珂庄司の妻、藤原皆足姫がこの地に小堂を建て千手観音を安置したことに始まります。

その後、皆足姫の支援の下に紀伊国の人、安隆上人が伽藍を建て、中世には既に多くの塔頭を備えていました。

正安元年(1299)の堂宇焼失の記載によると、

当時は本堂・常行堂・三重堂・鐘楼・経蔵・左右の回廊・仁王堂・僧坊が存在していたと記されており、

13世紀末には一定の伽藍を備えた大寺院であったことが窺えます。

寺名の由来は、龍神が安隆上人に犀(サイ)の角を授け、

それを埋めて、その上に堂を建てるように命じたことから犀戴寺となりました。

その後、承久3年(1221)、後鳥羽上皇が北条氏調伏の祈願を込められたとき、

御宸筆によって西大寺と改められました。

有名な「裸祭り」は正式には「会陽(エヨウ)」といい、毎年2月の第3土曜日の深夜、境内で行われ、

毎年約9,000人もの参加者と数万人の参拝者で大変な賑わいだそうです。

岩手県黒石寺の「黒石裸祭(蘇民祭)」、大阪市四天王寺の「どやどや」と並び日本三大奇祭として知られており、

深夜零時に御福窓から住職によって投下される2本の宝木をめぐり数千人の裸の男たちが激しい争奪戦を繰り広げます。

深夜のスタートは辛いですが、今年の2月には是非、もう一度訪れたいと思っています。

参加条件は特に無く、申し込みさえすれば誰でも参加できるそうなので、

思い切って裸になろうかとも思いましたが、けが人が出るほどの激しさらしく、

おとなしく、見学と撮影だけにしておきます。

全国に其の名が知れた奇祭、まだ4ヶ月も先の話ですが今から楽しみです。

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2006年10月16日 (月)

スカイモール21

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本日の写真は、岡山駅前商店街、名前のとおりJR岡山駅のすぐ前にある商店街です。

物販店舗のみならず、サービス業・映画館・飲食店等多様な商店が集まっており、

往時は大変な賑わいで、平日でも人出でごった返していたそうです。

しかし、現在は市内でも有数の好立地にありながら、活気が全く在りません。

駅前地区が市街地となったのは明治時代の山陽鉄道開通以降のことで、江戸時代には城下町から外れた田地でした。

多くの商店が立ち並ぶようになったのは戦後のことで、日本各地の市街中心部の多くの商店街がそうであった様に、

ヤミ市が出発点となり、徐々に商店街としての体裁を整えていきました。

アーケードは昭和37年(1962)、カラー舗装は昭和53年の整備です。

しかし、バブル期以降は衰退が激しく、これまた、日本各地の市街中心部の多くの商店街がそうである様に、

シャッター商店街と化し、閑古鳥が鳴いています。

その象徴的存在が、商店街の入り口に建っている「岡山会館」です。(写真右手のビル)

現在の「岡山会館」ビルは、昭和36年(1961)の第17回岡山国体開催に合わせて建てられ、

以来、岡山のランドマーク的存在として地下2階地上9階建ての偉容を誇ってきました。

建物の所有者は、昭和29年(1954)に戦後復興事業の駅前開発の一環として、

岡山市・岡山県・地元企業が出資し設立した岡山会館㈱でした。

ホテルや店舗などが多数入居し、40余年間営業を続けてきましたが、

時代の波には勝てず、経営悪化で平成15年(2003)競売に付され、その歴史に幕を下ろしました。

現在の所有は、18億8千万円で落札した地元の某遊技場会社(パチンコチェーン)となっており、

建替えして大型家電専門店が出店するだとか、某ファッションビルが興味を示しているだとか、

再開発の話は幾通りも聞こえてきますが、現在のところどれも具体的にはなっていない様です。

建設する時は、官民挙げて取り組んだにもかかわらず、調子が悪くなれば売却して放ったらかし。

廃墟となったビルが玄関口にある商店街に、復活の日は来るのでしょうか?

<余談>
「岡山会館」ビルに最後まで入居していたのは「ホテルニュー岡山」で、
このホテルは、TVアニメ「タイガーマスク」にも登場した老舗です。
「タイガーマスク」に登場したときは、ジャイアント馬場が宿泊していました。
ホテルの部屋から、馬場さんがタイガーマスクに電話を掛けるシーンがありました。

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2006年10月 9日 (月)

漆黒の城

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最近は、仕事の忙しさに追われて、ブログの更新も停滞気味。

これではイカンと、会社帰りに岡山城を訪ねてみました。

岡山城の起源は古く、最初に築かれたのは南北朝時代の事だったと考えられており、

後醍醐天皇派に立って戦った名和長年の一族・上神高直が、

現在のJR岡山駅近くに石山城を築いたのが始まりと言われています。

しかしながら、現在の岡山城とは位置がずいぶんと離れており、

これをもって起源とするのは無理があるのではと個人的には思います。

現在の岡山城に直接連なる城を整備したのは、豊臣五大老の一人・宇喜多直家で、

当時「岡山」と呼ばれていた小高い丘に城郭を築き始めました。

天守の完成は、慶長2年(1597)とも、天正17年(1589)とも言われています。

直家は、城郭の整備・拡張と平行して、寺社や市など昔からあった町の機能を移転・整理し、

本格的な城下町の造営を推し進めました。

この時より、城下の地名も岡山となったようです。

子の秀家の代に変わっても岡山の町づくりは続き、

豊臣秀吉の指導の下、城下を流れる旭川の流路付け替えなど、かなり大掛かりな土木工事も行なわれました。

さらには、岡山の町を通り抜けるように、古来からの山陽道の道筋を変更、

領内の有力商人を城下に集中させ、酒造に関しては城下以外の地域では禁止するなど

ソフト・ハードの両面から、城下の繁栄に結びつく政策を実施しました。

その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後には、小早川秀秋が入城しますが、

たった2年で改役となり、以降は池田家が明治維新まで領有することとなりました。

明治維新後は、5重の堀を擁した城の規模は大きく縮小されますが、

天守閣はそのままの姿で残され、明治政府より国宝の指定を受けています。

しかし、太平洋戦争の空襲で天守は焼失。

現在の天守は昭和41年(1966)に、岡山大学に残されていた設計図を基に、鉄筋コンクリート造りで再建されたものです。

城郭の形式は梯郭式平山城。

天守は黒漆の板張りで、その偉容から烏城と呼ばれ、隣県の白鷺城(姫路城)としばしば対比されます。

また、この天守は4重6階の複合形式で、安土城の天守を模したものともいわれています。

天守のすぐ後ろには、天然の堀として旭川が流れ、

さらに、対岸には日本三名園の一つ後楽園が背後を防衛する目的で築かれており、

美しいばかりではない、堅固さも兼ね備えています。

現在の岡山城~後楽園付近一帯は、美術館・博物館・シンフォニーホールなど文化施設が多数あり、

「岡山カルチャーゾーン」として観光の人気のスポットとなっています。

今日の写真の撮影時も、日が暮れて肌寒い中、沢山の人々が美しいお城の姿を眺めていました。

しかし、ライトアップされた岡山城の姿が美しく見えれば、見えるほど、

「でも、鉄筋コンクリートかぁ・・・」と思ってしまいます。

戦災での消失が、本当に悔やまれてなりません。

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2006年10月 1日 (日)

西の高野山

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備前市吉永町の北部、兵庫県との県境に位置する八塔寺山(標高539m)の南麓に、

「八塔寺ふるさと村」という所があります。

とはいっても、正式には「八塔寺ふるさと村」という地名は存在せず、

備前市吉永町加賀美(かがみ)というのが行政上の地名です。

では、「八塔寺ふるさと村」とは何なのか?

それは、岡山県が推進してきた「ふるさと村整備事業」によって付された地区名(通称)であります。

この「ふるさと村整備事業」の始まりは意外と古く、昭和49年(1974)。

当時の長野士郎知事の肝いりで始められ、県内の優れた農村の景観を保存・復元し、

次世代に継承することを目的として、7地区の「ふるさと村」が順次指定されてゆきました。

以来、県は「ふるさと村」のある市町村に対して、集落景観の保全・修復事業、

伝統文化の保存・伝承事業、都市との交流促進事業等、様々な施策を講じてきました。

そして、昭和49年に指定された第1号地区が「八塔寺ふるさと村」です。

この八塔寺の集落の歴史は古く、約1280年前にさかのぼります。

神亀5年(728)に聖武天皇の勅願によって、

弓削道鏡が照鏡山八塔寺を建立した事がその始まりといわれています。

八塔寺とほぼ同時期に建立された、恵日山高顕寺と併せ、

建立当初は、72もの僧坊が備わる山岳仏教のメッカとして、「西の高野山」と称される程でしたが、

幾多の戦火にまみれて衰退してしまいました。

江戸時代になり、岡山藩主池田光政の時代から復興が図られ、

天台宗八塔寺と真言宗高顕寺の2寺となり、現在に至っています。

これらの寺院を中心として、檀家信徒が農林業で生計をたててきたのが八塔寺の集落です。

わずか10数戸しかない小さい集落ですが、

茅葺きの民家が点在する昔ながらの山里の風景が色濃く残っており、

それを求めて、今村昌平監督・田中好子主演の映画「黒い雨」のほか、

稲垣吾郎が金田一耕介を演じたドラマ「八つ墓村」など、数々の映画やドラマのロケが行わました。

そのおかげで、観光シーズンには結構な人出になると聞いていましたが、

この日(9月29日)は平日ということもあり、村内にあるいくつかの観光施設も閑散としていました。

人出は全くというほど無く、写真には絶好に条件。気持ちのいい天気の下、存分に撮影を楽しみました。

豊かに実った稲の穂を眺めながら、茅葺きの民家の合間を歩いていると、

遠い昔にあった長閑な時代に、タイムスリップした様な気持ちになりました。

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