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2006年10月 9日 (月)

漆黒の城

061009cocolog

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最近は、仕事の忙しさに追われて、ブログの更新も停滞気味。

これではイカンと、会社帰りに岡山城を訪ねてみました。

岡山城の起源は古く、最初に築かれたのは南北朝時代の事だったと考えられており、

後醍醐天皇派に立って戦った名和長年の一族・上神高直が、

現在のJR岡山駅近くに石山城を築いたのが始まりと言われています。

しかしながら、現在の岡山城とは位置がずいぶんと離れており、

これをもって起源とするのは無理があるのではと個人的には思います。

現在の岡山城に直接連なる城を整備したのは、豊臣五大老の一人・宇喜多直家で、

当時「岡山」と呼ばれていた小高い丘に城郭を築き始めました。

天守の完成は、慶長2年(1597)とも、天正17年(1589)とも言われています。

直家は、城郭の整備・拡張と平行して、寺社や市など昔からあった町の機能を移転・整理し、

本格的な城下町の造営を推し進めました。

この時より、城下の地名も岡山となったようです。

子の秀家の代に変わっても岡山の町づくりは続き、

豊臣秀吉の指導の下、城下を流れる旭川の流路付け替えなど、かなり大掛かりな土木工事も行なわれました。

さらには、岡山の町を通り抜けるように、古来からの山陽道の道筋を変更、

領内の有力商人を城下に集中させ、酒造に関しては城下以外の地域では禁止するなど

ソフト・ハードの両面から、城下の繁栄に結びつく政策を実施しました。

その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後には、小早川秀秋が入城しますが、

たった2年で改役となり、以降は池田家が明治維新まで領有することとなりました。

明治維新後は、5重の堀を擁した城の規模は大きく縮小されますが、

天守閣はそのままの姿で残され、明治政府より国宝の指定を受けています。

しかし、太平洋戦争の空襲で天守は焼失。

現在の天守は昭和41年(1966)に、岡山大学に残されていた設計図を基に、鉄筋コンクリート造りで再建されたものです。

城郭の形式は梯郭式平山城。

天守は黒漆の板張りで、その偉容から烏城と呼ばれ、隣県の白鷺城(姫路城)としばしば対比されます。

また、この天守は4重6階の複合形式で、安土城の天守を模したものともいわれています。

天守のすぐ後ろには、天然の堀として旭川が流れ、

さらに、対岸には日本三名園の一つ後楽園が背後を防衛する目的で築かれており、

美しいばかりではない、堅固さも兼ね備えています。

現在の岡山城~後楽園付近一帯は、美術館・博物館・シンフォニーホールなど文化施設が多数あり、

「岡山カルチャーゾーン」として観光の人気のスポットとなっています。

今日の写真の撮影時も、日が暮れて肌寒い中、沢山の人々が美しいお城の姿を眺めていました。

しかし、ライトアップされた岡山城の姿が美しく見えれば、見えるほど、

「でも、鉄筋コンクリートかぁ・・・」と思ってしまいます。

戦災での消失が、本当に悔やまれてなりません。

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コメント

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投稿: maksimonetwothree | 2007年6月10日 (日) 05時30分

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