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2006年9月29日 (金)

陣屋町・足守

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先日、このブログ日記で紹介した、備中高松城から西北におよそ1.5kmほど行った所、

秀吉の水攻めに利用された、あの足守川の西岸に「足守」という地区があります。

この地域は、現在は岡山市の一部に組み入れられていますが、江戸時代は独立した小藩でした。

足守の町の歴史は、豊臣秀吉の正室、北政所寧々の実兄木下家定が、

慶長6年(1601)に播磨国・姫路藩2万5千石より転封し、

足守に同じ石高の2万5千石で立藩した際、陣屋を構えたことにより始まります。

慶長13年(1608)には、家定の死去に伴い、幕府が遺領を子の勝俊・利房に分与。

しかし、勝俊がこれを独占したことを理由に、慶長14年(1609年)藩領を没収されます。

その後の、慶長15年(1610)には、浅野長政の3男・長晟が2万4千石で入封し、

慶長18年(1613)には、兄・幸長の死去に伴い、長晟が紀伊国・和歌山藩37万6千石を相続したことにより転出し、

その後は、幕府直轄の天領となります。

そして、元和元年(1615)、木下利房が大阪の陣の功績により2万5千石で封入して以降は、

明治維新までの256年間、木下家が11代にわたり在封しました。

武士の世が終わり、明治4年(1871)の廃藩置県では、足守県・深津県・小田県を経て岡山県に編入され、

最後の13代目藩主・木下利恭は子爵として華族に列せられました。

利恭の死後、養嗣子として家督を継いだのが木下利玄で、

彼は、佐々木信綱に師事し、雑誌「白樺」によって歌壇に不朽の名声を残しました。

また、この地からは、幕末に蘭学医として天下に名をはせた緒方洪庵を輩出しています。

洪庵は、足守藩医の緒方惟因の末子で、大坂に適塾を開き、福沢諭吉など多くの弟子を育てたことでも有名です。

木下利玄や緒方洪庵の生家が、今なお当時の姿のまま残されている他、

足守地区にある約300戸のうち、約100戸が漆喰壁・虫籠窓などをもつ江戸時代の伝統的家屋の姿をとどめており、

岡山県の町並み保存地区の指定をうけています。

町並は北側の陣屋町(武家町)と南側の町人町に分かれていて、

北の陣屋町地区には、木下家の長屋門などの遺構が見られますが、

武家屋敷等は残っておらず、現存度はそれほど高くありません。

南の町人町地区には、間口の広い、平入りの民家や商家が並ぶ静かな落ち着いた景観が続いており、

千本格子や切子格子など、端正な格子が取り付けられた家々は、

生活の中から生み出された、伝統建築の美しさを今に伝えています。

吉備路の北端にあり、岡山・倉敷市街から距離があるため、近年の都市化の影響が少なかったとはいえ、

これほどの町並みが保てているのは、何より住民の方々の見識の高さゆえではないかと思います。

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