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2006年9月29日 (金)

陣屋町・足守

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先日、このブログ日記で紹介した、備中高松城から西北におよそ1.5kmほど行った所、

秀吉の水攻めに利用された、あの足守川の西岸に「足守」という地区があります。

この地域は、現在は岡山市の一部に組み入れられていますが、江戸時代は独立した小藩でした。

足守の町の歴史は、豊臣秀吉の正室、北政所寧々の実兄木下家定が、

慶長6年(1601)に播磨国・姫路藩2万5千石より転封し、

足守に同じ石高の2万5千石で立藩した際、陣屋を構えたことにより始まります。

慶長13年(1608)には、家定の死去に伴い、幕府が遺領を子の勝俊・利房に分与。

しかし、勝俊がこれを独占したことを理由に、慶長14年(1609年)藩領を没収されます。

その後の、慶長15年(1610)には、浅野長政の3男・長晟が2万4千石で入封し、

慶長18年(1613)には、兄・幸長の死去に伴い、長晟が紀伊国・和歌山藩37万6千石を相続したことにより転出し、

その後は、幕府直轄の天領となります。

そして、元和元年(1615)、木下利房が大阪の陣の功績により2万5千石で封入して以降は、

明治維新までの256年間、木下家が11代にわたり在封しました。

武士の世が終わり、明治4年(1871)の廃藩置県では、足守県・深津県・小田県を経て岡山県に編入され、

最後の13代目藩主・木下利恭は子爵として華族に列せられました。

利恭の死後、養嗣子として家督を継いだのが木下利玄で、

彼は、佐々木信綱に師事し、雑誌「白樺」によって歌壇に不朽の名声を残しました。

また、この地からは、幕末に蘭学医として天下に名をはせた緒方洪庵を輩出しています。

洪庵は、足守藩医の緒方惟因の末子で、大坂に適塾を開き、福沢諭吉など多くの弟子を育てたことでも有名です。

木下利玄や緒方洪庵の生家が、今なお当時の姿のまま残されている他、

足守地区にある約300戸のうち、約100戸が漆喰壁・虫籠窓などをもつ江戸時代の伝統的家屋の姿をとどめており、

岡山県の町並み保存地区の指定をうけています。

町並は北側の陣屋町(武家町)と南側の町人町に分かれていて、

北の陣屋町地区には、木下家の長屋門などの遺構が見られますが、

武家屋敷等は残っておらず、現存度はそれほど高くありません。

南の町人町地区には、間口の広い、平入りの民家や商家が並ぶ静かな落ち着いた景観が続いており、

千本格子や切子格子など、端正な格子が取り付けられた家々は、

生活の中から生み出された、伝統建築の美しさを今に伝えています。

吉備路の北端にあり、岡山・倉敷市街から距離があるため、近年の都市化の影響が少なかったとはいえ、

これほどの町並みが保てているのは、何より住民の方々の見識の高さゆえではないかと思います。

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2006年9月27日 (水)

もののふの義

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岡山市の中西部、総社市との市境付近に、備中高松城の城址公園があります。

駐車場も設けられ、よく整備された公園ですが、訪れた日が平日(25日)という事もあり、

利用する人は少なく、私の他は近所の小学生が4~5人で虫取りをしているだけでした。

この備中高松城が歴史のスポットライトを浴びるのは、

天正10年(1582)の織田信長による中国地方への進攻、いわゆる「中国役」の時代です。

織田信長の命を受けた羽柴秀吉は3万の兵を率い、中国の雄・毛利氏を討つため備中に攻め込みました。

迎え撃つ毛利陣営は、備前と備中の国境沿いに、

宮地山、冠山、高松、加茂、日幡、松島、庭瀬の7つの属城を築き、秀吉勢の備中進攻に備えていました。

しかし、秀吉の軍勢の前に、毛利側の宮地山、冠山の属城は次々に攻め落とされ、次なる主戦場は高松城となりました。

高松城もたちまち秀吉の兵に包囲されてしまいますが、

時の城主、清水宗治率いる5千余りの城兵の士気は高く、激しい篭城戦を繰り広げ、容易には落ちませんでした。

高松城は、足守川流域の低湿地に築かれた平城で、

石垣を築かず土塁だけで築成された「土城」で、周囲の沼沢が天然の外堀となっていました。

城に入るための道は、細い道が三本通っているのみで、

数度にわたり秀吉の兵が沼沢の突破を試みますが、たちまち足を取られて射殺されてしまいました。

毛利本隊が合流する前に決着をつけたい秀吉は、信長に援軍を要請する一方で、

軍師・黒田官兵衛の策を聞き入れ、高松城を水攻めにします。

官兵衛の指揮の下、城の周りには下部幅20m・高さ7m・延長3kmの長大な堤が築かれ、

梅雨で増水した足守川の水が大量に堤の内部に流し込まれました。

結果、この水攻めは功を奏し、備中高松城は人工の湖水の中に孤立してしまいます。

高松城が水浸しになった直後、高松城を囲む山の一方に毛利側の総力を集めた、およそ3万の大軍が到着。

この数は秀吉の軍勢と同等の規模であり、地の利を活かせば決して負けることのない勢力でしたが、

秀吉と決戦を行うことで信長本軍を呼び寄せてしまうことは、

毛利勢にしてみれば何としてでも避けなければならない事態でした。

少しでも有利な条件で秀吉側と講和を結びたい毛利勢は、戦より外交に活路を見出そうとしていました。

そのため、高松城攻めの前に行われた宮地山城攻めや冠山城攻めの際にも、

毛利本隊は後詰に動いておきながら、一度たりとも直接に交戦はしてはいません。

一方、最前線の清水勢は、湖中に孤立し、兵糧も乏しく、日に日に衰弱してゆく中で、

毛利本隊が動いてくれれば、自分たちも城を打って出て、秀吉軍と一戦交えることが出来ると考えていました。

高松城内は、そぼ降る雨の中、「毛利、なぜ動かぬ!」という思いで満ちていました。

結局、この高松城の攻防でも毛利本隊は動かず、城は深い絶望に包まれてゆきました。

ところが、高松城の水攻めに成功し、毛利陣営との講和も有利に展開していた秀吉のもとに、

早馬の伝令により、驚愕の情報がもたらされました。

秀吉の要請に応じて中国に出陣しようとしていた信長が、本能寺に宿営中、

家臣の明智光秀の謀反にあい、志半ばで自害したという報告でした。

秀吉は、この情報が毛利側に漏れれば一大事と、いち早く毛利側の間者を探り出すことを全軍に下知し、

そのすべてを捕らえることに成功、とうとう毛利側には「信長死す」の情報は漏洩しませんでした。

その状況の中で秀吉は、毛利陣営との講和を急ぐと共に、その条件として備中高松城主の清水宗治の首を要求します。

毛利側の吉川元春や小早川隆景(毛利元就の次男、三男)は猛反発しますが、

兵糧も尽き、城兵の体力も限界に達していることを慮った清水宗治は、

自ら進んで講和の条件を飲み、自害を決意します。

本能寺の変の2日後、両陣営が見守る中、湖となった城堀に浮かべた小船の上で、

宗治は見事な舞を一指し舞った後、割腹して果てたました。

配下の忠義な武将を守りきれなかった毛利輝元(毛利元就の長男)は、どんな思いでこれを見たのでしょうか。

共に戦ってきた城兵たちは、自らの主の死に様に、一体何を見たのでしょうか。

宗治の辞世の句は、

「浮世をば 今こそ渡れ もののふの 名を高松の 苔に残して」

と伝えられています。

この句の中には、自分を自害に追い込んだ秀吉に対する恨み言や、

見殺しにした毛利輝元に対する非難などは一切ありません。

それどころか、この世への未練すらも感じられません。

清水宗治は、裏切りや姦計が横行した下克上の時代にあって、

最も潔く、武士道を貫いた清廉の武将であったと思います。

秀吉はこの後、光秀を打つため高松城から京へ取って返し、その後天下人となりますが、

その偉業の影にあった、悔いなく生き、誇り高く死んでいった武将の話に心を打たれました。

現在の備中高松城跡には建造物は何も無く、ただ蓮が生える沼と、

主家の安泰と家臣や城兵の命と引き換えに、自ら切腹して果てた宗治の首塚だけが残されています。

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2006年9月25日 (月)

運動会を憂う

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秋といえば、”食欲の秋”、”読書の秋”、そして”スポーツの秋”。

さらに、”スポーツの秋”と聞いて、真っ先に思い浮かぶのが「運動会」ではではないでしょうか。

という訳で、今日は先日23日に行われた、長女(小6)と次女(小4)が通う小学校の運動会でのお話です。

今年は、長女の小学校最後の運動会ということもあり、単身赴任で岡山に移って以来、

一度も休んだことが無い週末、それも祝日に、会社から休日を貰い駆けつけました。

幸い天気にも恵まれ、秋晴れの空の下、子供たちは運動会を思い切り楽しんだ様子でした。

しかし、帰り道、親たちは一様に疲れきった様子で、かくいう私もフラフラになってしまいました。

疲労困憊の1番の原因は、PTA参加の競技ではなく、あまりの人の多さと観覧環境の悪さにありました。

私の子供たちが通う小学校は、東大阪市内でも比較的規模の小さい小学校なのですが、

倒産や移転等で売却された工場の跡地や、虫食い状に残っていた農地に、

大小のマンションが何棟も建てられため、ここ数年は児童数が増え続けています。

現在、この小学校のクラス数は、6年生・5年生3クラス、4年生・3年生4クラス、2年生・1年生5クラスの構成ですが、

長男(高2)が通っていた頃は、全学年3クラスでした。

もともとが、小規模校で校庭が狭く、全学年3クラスの時代でも保護者の席は十分確保されていませんでしたが、

その頃より児童数で200人以上は増えているので、運動会に来場する保護者の増加数はその数倍になっています。

単純に増えた児童数を200人として、児童1人に対して両親と片側の祖父母で計4名が来場すると仮定すれば、

200×4で800人が増えている計算です。

もちろん、増えた児童200人全部の家から4人が来場するわけではありませんが、

中には親戚一同が大人数で繰り出す家もあると思うのでので、平均すればそのぐらいの数にはなると思います。

その上、児童数が増えた為に、今年からは狭い校庭に特設のプレハブ校舎が建っており、

保護者席は昨年に比べ、さらに狭くなった状態になっています。

さらに悪いことに、保護者席は公園のお花見同様、先着順の場所取り制になっており、ビニールシートを広げた者勝ち。

生まれ育った街を悪くは言いたくないですが、東大阪という土地柄なのか、

「何や?公共マナー?そんなもんより、我がの快適さが優先や!」という方もいて、

「その人数でそれだけのスペースをとるか~?!」と呆れてしまうような光景が多々見られました。

最近は、運動会の日にお弁当を家族と校庭で食べる小学校は減る傾向にあって、

この小学校も、もう4年ほど前から昼食は生徒と家族は別々になっています。 

子供たちは、持参のお弁当を教室で先生と一緒に食べ、

家族は、特別開放の体育館でお弁当を食べたり、近くのファミレス等で食べたり、一旦帰宅したりしています。

そのような状況で、なぜシートを必要以上に広げるのか、まったく理解に苦しみます。

あろうことか、ゆったりスペースに肘掛つきの大型キャンピングチェアを出して、

ビール片手にくつろぐ若夫婦までいました。(ちなみに、校内での飲酒は禁止されています。)

しかし、その場で下手に注意して、他の児童の保護者とモメたとあっては、

以降、娘から口を利いてもらえないという事態になりかねず、

そのストレスで疲れが倍増したのではないかと思います。

かつては、地域のご長老、ご意見番のような方がおられ、そのような振る舞いは一喝されたように記憶しますが、

今は、そんな時代ではないのかも知れません。

戦後、地方自治制度の整備や産業化の進展により、伝統的地域コミュニティが崩壊し、

新たなコミュニティの再編成が進む中で、運動会はその形成過程で大きな役割を果たしてきました。

在校生だけではなく、子供を学校に通わせていない大人たちをも含めて、

その地域の大人たちが、運動会に積極的に参加することで、

学校を中心とする地域コミュニティの連帯を再確認することが出来ました。

昨今の運動会は、私たち親の世代の頃から比べても、その内容は随分様変わりしていますが、

運動会が地域コミュニティに対して担うべき役割は、昔も今も変わらないように思います。

その運動会が果たしてきた最大の役割が、一部の心得違いをした保護者の為に機能不全になってはなりません。

今年の状況は余りにひどすぎるので、さすがに黙ってはおれず、

次年度以降の運動会運営に関して、学校に状況改善の申し入れをしたいと思っています。

※今日の写真は、その運動会に来ていた、次女の友人のおじいさんの「後姿」です。

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2006年9月21日 (木)

桃の称号

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岡山市内では、南北の路は「筋」、東西の路は「通り」とされており、

「筋」は東から「西口筋」、「市役所筋」、「西川筋」、「柳川筋」、

「通り」は北から「桃太郎大通り」、「県庁通り」、「あくら通り」と呼ばれています。

今日の写真は、その中の「桃太郎大通り」を東側から撮影したものです。

「桃太郎大通り」は、正式にはJR岡山駅東口から柳川交差点までの区間を「県道42号線岡山停車場線」、

そして、柳川交差点から城下までの区間を「県道27号岡山吉井線」と言います。

この路線は全線6車線の道幅の広い道路で、県庁所在地の駅前県道だけあって、交通量はかなりあります。

しかも、岡山電気軌道の路面電車が道路の真ん中を走っているので、右折の際には注意が必要で、

平日の朝夕の通勤時間帯には毎日渋滞がおきています。

しかしながら、大阪市内の中心部などと比べれば渋滞の程度は軽く、

ラッシュ時を除けば、車の流れが止まるようなことはほとんどありません。

岡山市内随一の目抜き通りではありますが、

バブル期当時、この地でも吹き荒れたであろう地上げの嵐を乗り越えた、昭和の匂い残る民家や個人商店などが、

近代的なビルの狭間に残っており、全体としてはのんびりとした雰囲気の大通りです。

この通りがなぜ、「桃太郎大通り」と呼ばれるようになったのか、

少し調べてみましたが、解りませんでした。(調査不足!)

ただ、言えるのは、岡山には安易過ぎると思えるほど、「桃」系のネーミングが多いという事です。

岡山の陸の玄関口、JR岡山駅東口を出ればすぐ「桃太郎大通り」に行き当たるように、

岡山の街なかは「人も歩けば桃にあたる」で、それこそ「桃」「もも」、「モモ」にあふれています。

「桃太郎大通り」に始まり、「桃太郎スタジアム(陸上競技場)」に「桃太郎アリーナ(体育館)」、

2005年に開催された国体のキャラクターマークの愛称も「ももっち」でした。

コミュニティFMは「レディオ・モモ」、岡山電気軌道の最新鋭車両は「MOMO」と呼ばれ、

「桃娘(昔、岡山駅のホームで桃を売っていたらしい)」や「桃太郎温泉(市内山間地の温泉)」なんていうのもあります。

ご存知のように、岡山といえば、おいしい桃の一大産地。

そして、日本の昔話で最も有名な正義のヒーロー、「桃太郎」の生まれ故郷であります。

そのことをアピールしたい気持ちは解らなくはないですが、

あまりの氾濫ぶりに、県外者は唖然としてしまいます。

地元の、特に若い人たちも「桃」系のネーミングを気恥ずかしく思っているらしく、

評判はあまりよろしくありません。

「桃」の多用はイメージアップにはつながらず、逆に、印象を悪くしてしまっているのでは?

そんな感じがします。

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2006年9月17日 (日)

山頂の要塞

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岡山県高梁市には、名城として名高い備中松山城が、建築された当時の姿のままで残っています。

天守が現存する城郭としては、「日本一高い場所(標高430m)にあるお城」としても有名です。

高梁市の北端には、臥牛山(標高480m)が市街地を見下ろすようにそびえており、

この山は、北から「大松山」「天神の丸」「小松山」「前山」の四つの峰からなっています。

南から見た山容が、草の上に伏した老牛の姿に似ていることから臥牛山と呼ばれ、

備中松山城の領域は、その頂を中心に全域に及んでいます。

この城の歴史は古く、鎌倉時代の延応2年(1240)までさかのぼり、

有漢郷(現:高梁市有漢町)の地頭に任ぜられた秋葉重信が、

臥牛山のうちの「大松山」に砦を築いたことが始まりとされています。

その後、城の中心は「小松山」に移り、城の領域は時代と共に変化しますが、

なかでも、天正2年(1574)に起こった「備中兵乱」の時には、

「砦二十一丸」と呼ばれる出丸が築かれていたことが記録として残っており、

臥牛山は一大要塞となっていたことがうかがえます。

「備中兵乱」とは戦国時代末期に、当時の備中松山城主であった三村氏と、

備前の宇喜多氏との間に勃発した争いで、この地方で起こった最大の戦として語り継がれています。

表面的には三村対宇喜多の争いですが、実質は毛利と織田の勢力衝地点で起こった代理戦争でした。

永禄4年(1561)に、毛利氏の後ろ盾を受けた三村家親がこの城に入城。

しかし、その5年後の永禄9年(1566)には、家親は宇喜多直家によって暗殺されてしまいます。

三村家親の子・元親は父の敵を討つべく、2万騎の軍勢を率い備前に進攻し、宇喜多直家に挑みますが、

わずか5千騎の宇喜多軍勢の前にあえなく敗退(明禅寺合戦)、備中における三村氏の威信は失墜しました。

しかし、またもや毛利氏の支援を受け、元親は元亀(1571)に悲願の再入城を果たします。

その後天正2年(1574)に、その毛利氏が不倶戴天の敵である宇喜多氏と手を組んだため、

元親は家臣の反対を押し切り、織田信長と同盟を結び、毛利氏・宇喜多氏と備中各地で戦うこととなります。

しかし、戦局は次第に不利となり、周囲の端城を次々と落とされ、追い詰められた織田・三村軍勢は、

毛利・宇喜多の連合軍八万余騎を相手取り、備中松山城で籠城戦を展開するに至ります。

天正3年(1575)、多勢に無勢の持久戦に耐え切れず、ついに難攻不落の要塞も落城。

『人といふ 名をかる程や 末の露 きえてぞかへる もとの雫に』

という辞世の句を残して元親は自刃し、短い生涯を終えました。

三村氏が滅んだ後も、毛利氏の東方進出の拠点として、また、毛利氏が防長二国に退いてからも、

備中国奉行として赴任してきた小堀正次・正一父子により修改築がなされるなど、

備中の要衝としての役割を担っていたようです。

この地は山陰と山陽を結び、東西の主要街道も交差する要地であるためか、

その後も激しい争奪戦が絶えず、以降、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と、

目まぐるしく城主が交代し、明治維新を迎えます。

現存する天守などの建造物は、天和3年(1683)に水谷勝宗により修築されたものと伝えられています。

城内には天守の他、二重櫓、土塀の一部が現存しており、昭和16年(1941)には国宝に、

昭和25年(1950)の文化財保護法制定以降は、重要文化財の指定を受けています。

平成6年(1994)からは、これら重要文化財を中心に本丸の復元整備が行われており、

本丸の正面玄関ともいえる本丸南御門をはじめ、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、土塀などが、

史実にもとづいて、忠実に復元されています。

登城坂の周囲は、高さ10m以上もある巨大で切り立った岩壁がそびえ、

昔日のつわものたちが舌を巻いた、難攻不落の名城の面影をうかがい知ることができます。

この日は、久しぶりの秋晴れ。

白い漆喰塗りの壁と黒い腰板のコントラスト、空の青に映える天守は荘厳で力強く、

また、天守から一望できる城下町高梁は、なんともいえない美しさでした。

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2006年9月15日 (金)

備中まほろば

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岡山県高梁市成羽町の標高550mの山嶺に、吹屋(ふきや)と呼ばれる地区があります。

ここは、江戸時代から昭和の初期にかけて、中国地方随一の「銅」の街として、大変栄えたところです。

天和元年(1681)、大坂の有力商人泉屋(後の住友)が、天領であった吹屋の銅山、吉岡銅山の採掘を請け負いました。

このときから幕末までの約100年間で、吹屋はその繁栄の礎を築きました。

それまでは、地元の「村稼ぎ」程度の採掘でしたが、泉屋は鉱山の最大難事である排水工事に着手し、

貞享3年(1686)には疎水大坑道を完成させました。

これにより吉岡銅山の産出量は飛躍的に増加、銅山で働く人は1000人を越え、

賑やかな鉱山町が形成されてゆくことになります。

明治6年(1873)には、岩崎弥太郎(後の三菱)が吉岡銅山の経営に進出し、

巨大な資金力で先進技術を導入し、難事の排水問題を解決するとともに、

水力自家発電による選鉱・精錬をはじめ、運搬専用のトロッコ軌道を敷設するなど、鉱山の近代化を図りました。

更なる発展をとげた吉岡銅山は、最盛期の大正時代初期には従業員数1200人の大鉱山となり、

吹屋の街にも、社宅や病院をはじめ劇場までが設けられ、大いに賑わいをみせました。

また、江戸時代末期からは弁柄(ベンガラ)という特産品の生産が重なり、

吹屋は「弁柄の街」としても全国に知られることとなりました。

弁柄とは、九谷焼や伊万里焼などの陶磁器の顔料や、弁柄格子に代表される建築の防腐塗料として、

幅広い用途に使われる赤色顔料で、その昔は中国から輸入された弁柄が使われていました。

弁柄の大元は、銅山からでる硫化鉄鉱ですが、宝暦元年(1751)に、この硫化鉄鉱から、

弁柄の直接の原料となるローハ(結晶硫酸鉄)の凝結に全国で始めて成功したのが吹屋でした。

以後、このローハを原料に、高品質の弁柄を大量に生産することが可能になり、

吹屋は、全国でただ1ヶ所の弁柄製造・販売の街としても栄えることになりました。

しかし、最盛期の大正時代から程なく、第一次大戦後の不況、それに続く世界大恐慌を契機に、

吉岡銅山は昭和6年(1931)に一旦は閉山となります。

第二次大戦後、細々と操業が再開されましたが、昭和47年(1972)には永遠に閉山となりました。

また、昭和30年代には、ローハの代わりに化学肥料生産の副産物を原料にした新製法が開発されると、

これまでの伝統的製法による吹屋の弁柄は衰退し、製造業者の多くは廃業に追いやられました。

昭和49年(1974)、最後の製造業業者である田村家(福岡屋)の廃業により、吹屋の弁柄生産は幕を閉じました。

旧街道沿いには、弁柄格子に赤銅色の石州瓦、

入母屋妻入り型や切妻妻入り型の印象的な商家が立ち並び、往事の繁栄が偲ばれます。

これらの街並みは、文部省選定の重要伝統的建造物保存地区に指定され、保全・保存が図られています。

その結果として、歴史的な建物や街並みは後代に残るでしょうが、人々の暮らしは果たしてどうでしょうか。

銅山と弁柄製造の街・吹屋は、昭和40年代に入ると激しい過疎化にみまわれ、

その建物の多くは空き家となっています。

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2006年9月11日 (月)

鬼の正体は?

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岡山県総社市には、鬼ノ城(きのじょう)と呼ばれている古代朝鮮式の山城があります。

この山城は、標高400mの吉備高原の最南端に築かれていて、

ここからは、総社平野や足守川流域の平野、吉備の津(港)など、古代吉備地方の中心地を眼下に一望できます。

鬼ノ城は、『日本書紀』や『続日本紀』などの官選史書には一切記録のない謎の古代山城です。

したがって、築城時期についても諸説あり、鬼ノ城に置いてあったレジュメ(発行所不明)には、

663年の白村江の戦いに倭国が敗れた後、唐・新羅の侵攻に備えて大和朝廷が築城した、

全国に16あると言われている城の1つではないかと書かれています。

しかしながら、私としては、大和朝廷による7世紀築城というのは矛盾が多いと考えています。

古代の官製の歴史書には登場しませんが、後世の文献である鬼ノ城縁起などによると、

当時、この地方の人々から「鬼」と恐れられていた温羅(うら)の居城と言われていています。

温羅が活躍(?)した時代は、5世紀ごろで時代が全く合いません。

現在、私が最も支持しているのが高見茂氏(『吉備王国残照―古代の十字路からの発信』)の説で、

おそらく鬼ノ城は、温羅や彼を退治した吉備津彦命の時代(5世紀ごろか)に築かれ、

7世紀の白村江の敗戦後に再構築されたものではないか、

しかも、大和朝廷の命令ではなく、吉備にあった王国が独自に再構築したものではないかというものです。

吉備は稲作のための温暖な気候に恵まれていて、岡山市にある津島遺跡は、

北九州の板付遺跡とともに、日本でもっとも早く稲作がはじまったことを示す遺跡とされています。

弥生時代中期には、吉備の各地に稲作が急激に拡大し、

吉井川、旭川、高梁川、芦田川の下流デルタ地帯に稲作が中心の村々が形成されました。

稲作農耕を支えるもう一つの要素が鉄資源ですが、吉備地方の風化した花崗岩地帯は、多くの砂鉄を含んでおり、

当時の「たたら製鉄」の生産量では、吉備は出雲をしのぐ一大産地だったと推測されています。

効率の悪い石器に代わって、鉄製の鎌や鍬、鋤といった農業土木用具を、

いち早く普及させたこの地方の農耕は、飛躍的に効率を増加させました。

古墳時代の吉備は、こうして得た豊かな経済力で多くの人口を支え、やがて畿内の大和に対抗しうる吉備王国となりました。

「たたら製鉄」に関しては、今では悪役の温羅一族などの朝鮮半島からの渡来者が、

実際は技術革新に大きな役割を果たし、吉備地方を治めていたのではないかと想像します。

朝廷からの視点では見えない温羅像に魅力を感じ、今後も探ってゆきたいと思っています。

畿内から吉備に来て3カ月、すっかり吉備ファンになってしまいました。

※「温羅伝説」については、当ブログ日記2006.7.7の「鬼伝説」の項で以前に触れていますので、ご参照いただければと思います。

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2006年9月10日 (日)

暮らしの代償

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日本列島各地には上質の石灰岩が豊富に埋蔵されており、

国内で自給できる数少ない資源の1つとなっていますが、

広島県の北東部より岡山県南東部にかけてはほぼ全体が石灰岩地帯で、

「三群帯」と呼ばれる地質構造帯に属し、

日本国内でも最も純度の高い石灰岩を産出する地域の一つとしてあげられています。

先日訪れた、美しい棚田が広がる美咲町や久米南町はこの石灰岩地帯にあります。

石灰のもとをたどれば、遥か3億年前に海で生きていたサンゴなどに行きつきます。

サンゴは海中の二酸化炭素を体の中に取り込み、石灰質のカラを作ります。

これが積もり積もって大きなサンゴ礁となり、

そのサンゴ礁が地殻変動によって隆起し、やがて陸地化した後、

長い年月を経て、今日の石灰岩に生まれ変わりました。

この付近の山の頂から貝の化石が発見されていることから、

太古の昔は海であったことは容易に推測できます。

写真は、岡山市内から美咲町に向かう国道53号線沿いにある、

石灰岩の切り出し鉱山を撮ったものです。

豊かな田圃の向こうに、無残に切り取られた山を見たときは、

なんだか腹立たしいような気持ちになりました。

しかし、古来より石灰岩は、古墳や石棺、お城や土蔵の壁などに使用され、

日本人と共に時代を造り上げてきました。

そして、現代でもセメントの原料として、近代建築物にはなくてはならない物に違いいりません。

そのことを考えれば、日本人の暮らしの代償が、この山の姿なのかもしれません。

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2006年9月 4日 (月)

実りの秋

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本日は「実りの秋」を撮影しようと、岡山県の中北部の久米郡美咲町に行って来ました。

美咲町の標高400mの山間地には、大きな谷全体にぐるっと360度、

すり鉢状に850枚の棚田(42.2ha)が広がっています。

棚田の織りなす、独特の曲線をもった鎬模様が描き出す景観は見事で、

「日本の棚田百選」にも選ばれています。

また、棚田の保全にも熱心らしく、棚田保存地区設置条例や棚田保存地区連絡協議会を設置するなど、

官民あげて取り組んでいるそうです。

美咲町のお隣の久米郡久米南(くめなん)町にも、

北庄地区(棚田面積88ha)・上籾地区(棚田面積22ha)という棚田で有名な地区があり、

岡山の中北部は棚田の宝庫となっています。

目的の写真のほうは、今回が棚田撮影初挑戦でしたが、見事に玉砕。

棚田の曲線美や、豊穣な稲の実りの様子を写し撮ることが出来ず、

ただの「田圃写真」のオンンパレードで、棚田撮影の難しさを痛感しました。

おまけに、美咲町から久米南町の山道を車でグルグル走り回ったため、

自分が今どこにいるのかさえわからなくなる始末。

市街地のように、其処此処に地番表示があるわけではないので、

今回撮った写真一枚一枚が、何処の地区の棚田なのかも怪しくなってしまいました。

しかし、写真の方の収穫は余りありませんでしたが、今日、棚田の数々を見て良かったなぁと思いました。

この年になるまで、田圃を見てこんなに気持ちが良くなったことはありませんでした。

田植えから100日余りの苦労が報いられて、黄金色になった稲がたわわに頭を垂れ、

微風にサワサワと豊かな波を立たせている様子は、何ともいえず美しいものでした。

※そういうわけで、今日の写真は棚田ではありません。

   また、何処の地区の写真かもわかりません。(情けない!)

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2006年9月 2日 (土)

戒めの高い空

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今朝、空を見上げた時にふと、「ああ、天が高くなったなぁ~馬も太るなぁ~」と思いました。

どうして、そう思ったのかは判りませんが、そこには夏の空もうなく、ただ抜けるような蒼く高い空がありました。

去年の秋は、そんな事など思いもしなかったし、空の色などに全く興味もありませんでした。

カメラを始めた今年は、四季の遷り変わりに反応する感覚が、少し身についたように思います。

秋の空が高いと言われる理由は、諸説あるようですが、

対流圏の中・上層を流れる空気の帯、偏西風と関係があるという説が一般的です。

つまり、偏西風の周辺では大気中の塵や煤煙が拡散されるため、空気が澄んできれいになるという説です。

この偏西風は、地球の周りをぐるっと一周、ベルトのように流れていますが、、

秋から冬に向かっては、風速が100メートルを超えることも珍しくないそうです。

また、季節によってベルトの位置が北に上がったり、南に下がったりと絶えず変化しており、

秋には、北から南下してきた偏西風のベルトが、ちょうど日本の上空付近にあります。

ということは、同じ緯度付近の中国大陸上空にも偏西風のベルトがあり、

この季節の空の青さは、日本も中国大陸も同じだということになります。

中国の故事、「天高く馬肥ゆる秋」の「天高く」は、こうした季節を表しています。

実を言うと、この故事がもつ本当の意味を今朝の時点では知りませんでした。

「秋には農産物が豊富になるので、馬が太る」→「それがどうしたの?」と思っていました。

本来の意味は、中国では秋になると、北西方の草原から騎馬の異民族(匈奴)が侵入し、

農作物を略奪して行くことが度々あったので、

「秋になって天が高くなったぞ」

「北西方の異民族の馬たちは餌を沢山食べて太って元気になっている頃だ」

「そろそろ侵入してくるかも知れないから、国境の防備を固めよう」という戒めの言葉だそうです。

のんびりと窓から空を見上げて、頭に浮かんだ言葉の本当の意味は、

そなに、のんびりとしたお話ではなかったようです。

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