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2006年9月27日 (水)

もののふの義

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岡山市の中西部、総社市との市境付近に、備中高松城の城址公園があります。

駐車場も設けられ、よく整備された公園ですが、訪れた日が平日(25日)という事もあり、

利用する人は少なく、私の他は近所の小学生が4~5人で虫取りをしているだけでした。

この備中高松城が歴史のスポットライトを浴びるのは、

天正10年(1582)の織田信長による中国地方への進攻、いわゆる「中国役」の時代です。

織田信長の命を受けた羽柴秀吉は3万の兵を率い、中国の雄・毛利氏を討つため備中に攻め込みました。

迎え撃つ毛利陣営は、備前と備中の国境沿いに、

宮地山、冠山、高松、加茂、日幡、松島、庭瀬の7つの属城を築き、秀吉勢の備中進攻に備えていました。

しかし、秀吉の軍勢の前に、毛利側の宮地山、冠山の属城は次々に攻め落とされ、次なる主戦場は高松城となりました。

高松城もたちまち秀吉の兵に包囲されてしまいますが、

時の城主、清水宗治率いる5千余りの城兵の士気は高く、激しい篭城戦を繰り広げ、容易には落ちませんでした。

高松城は、足守川流域の低湿地に築かれた平城で、

石垣を築かず土塁だけで築成された「土城」で、周囲の沼沢が天然の外堀となっていました。

城に入るための道は、細い道が三本通っているのみで、

数度にわたり秀吉の兵が沼沢の突破を試みますが、たちまち足を取られて射殺されてしまいました。

毛利本隊が合流する前に決着をつけたい秀吉は、信長に援軍を要請する一方で、

軍師・黒田官兵衛の策を聞き入れ、高松城を水攻めにします。

官兵衛の指揮の下、城の周りには下部幅20m・高さ7m・延長3kmの長大な堤が築かれ、

梅雨で増水した足守川の水が大量に堤の内部に流し込まれました。

結果、この水攻めは功を奏し、備中高松城は人工の湖水の中に孤立してしまいます。

高松城が水浸しになった直後、高松城を囲む山の一方に毛利側の総力を集めた、およそ3万の大軍が到着。

この数は秀吉の軍勢と同等の規模であり、地の利を活かせば決して負けることのない勢力でしたが、

秀吉と決戦を行うことで信長本軍を呼び寄せてしまうことは、

毛利勢にしてみれば何としてでも避けなければならない事態でした。

少しでも有利な条件で秀吉側と講和を結びたい毛利勢は、戦より外交に活路を見出そうとしていました。

そのため、高松城攻めの前に行われた宮地山城攻めや冠山城攻めの際にも、

毛利本隊は後詰に動いておきながら、一度たりとも直接に交戦はしてはいません。

一方、最前線の清水勢は、湖中に孤立し、兵糧も乏しく、日に日に衰弱してゆく中で、

毛利本隊が動いてくれれば、自分たちも城を打って出て、秀吉軍と一戦交えることが出来ると考えていました。

高松城内は、そぼ降る雨の中、「毛利、なぜ動かぬ!」という思いで満ちていました。

結局、この高松城の攻防でも毛利本隊は動かず、城は深い絶望に包まれてゆきました。

ところが、高松城の水攻めに成功し、毛利陣営との講和も有利に展開していた秀吉のもとに、

早馬の伝令により、驚愕の情報がもたらされました。

秀吉の要請に応じて中国に出陣しようとしていた信長が、本能寺に宿営中、

家臣の明智光秀の謀反にあい、志半ばで自害したという報告でした。

秀吉は、この情報が毛利側に漏れれば一大事と、いち早く毛利側の間者を探り出すことを全軍に下知し、

そのすべてを捕らえることに成功、とうとう毛利側には「信長死す」の情報は漏洩しませんでした。

その状況の中で秀吉は、毛利陣営との講和を急ぐと共に、その条件として備中高松城主の清水宗治の首を要求します。

毛利側の吉川元春や小早川隆景(毛利元就の次男、三男)は猛反発しますが、

兵糧も尽き、城兵の体力も限界に達していることを慮った清水宗治は、

自ら進んで講和の条件を飲み、自害を決意します。

本能寺の変の2日後、両陣営が見守る中、湖となった城堀に浮かべた小船の上で、

宗治は見事な舞を一指し舞った後、割腹して果てたました。

配下の忠義な武将を守りきれなかった毛利輝元(毛利元就の長男)は、どんな思いでこれを見たのでしょうか。

共に戦ってきた城兵たちは、自らの主の死に様に、一体何を見たのでしょうか。

宗治の辞世の句は、

「浮世をば 今こそ渡れ もののふの 名を高松の 苔に残して」

と伝えられています。

この句の中には、自分を自害に追い込んだ秀吉に対する恨み言や、

見殺しにした毛利輝元に対する非難などは一切ありません。

それどころか、この世への未練すらも感じられません。

清水宗治は、裏切りや姦計が横行した下克上の時代にあって、

最も潔く、武士道を貫いた清廉の武将であったと思います。

秀吉はこの後、光秀を打つため高松城から京へ取って返し、その後天下人となりますが、

その偉業の影にあった、悔いなく生き、誇り高く死んでいった武将の話に心を打たれました。

現在の備中高松城跡には建造物は何も無く、ただ蓮が生える沼と、

主家の安泰と家臣や城兵の命と引き換えに、自ら切腹して果てた宗治の首塚だけが残されています。

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