2009年11月 5日 (木)

昭和の残像~大阪市西成区山王

11月2日はお休みで、所用の為、大阪へ帰っていました。

所要と言っても夕方の1時間ほどで片付く用件で、朝からは全くのヒマ。

しかしながら、平日なので子供達は学校、嫁さんは何処かへお出かけで、相手をしてくれる家族はナシ。

コレでは桑名にいるのと同じではないかと思いつつ、
家でゴロゴロしていても仕方が無いので、大好きな街・天王寺に独りで出かけてみました。

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【新世界:街は俺のステージだ!!】

目的地は、長らく訪ねていない天王寺動物園。

最寄駅から、JR天王寺駅までは約40分。
JRを乗り継いで到着してみたら、なんと、月曜日は休園日。

計画性皆無、休園日があるなどと言うことすら考えていませんでした。

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【ジャンジャン横丁:「かずが娯楽場」(ゲームセンター)】

仕方が無いので、動物園のお隣にある新世界から、ジャンジャン横丁を抜けて南へ向い、
大阪の下町中の下町・山王(さんのう)方面に行ってみることにしました。

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【動物園前一番街(飛田本通商店街)】

西成区の北東部にあたる山王は、殆どが商業地で、
「動物園前一番街」「新開筋商店街」「山王市場商店街」などの多くの商店街があり、
アーケードが縦横無尽に張り巡らされています。

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【山王市場通商店街】

山王の西側には労働者の街である通称・愛隣地区(釜ヶ崎)が広がっている為か、
この商店街はすっかり観光地化した新世界界隈とはまったく趣が違います。

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【新開筋商店街:西成区に本拠がある激安の「スーパー玉出」】

たとえば、大抵の商店街では客と言えば「オバハン」が主流ですが、ここでは圧倒的に「オッサン」。

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【新開筋商店街】

ビールと日本酒の自販機もやたらとあります。

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【スーパーとよしまや】

アーケードもかなり年季が入っており、並んでいるお店もどこか懐かしい感じが漂っています。

まるで、「昭和」で時間の流れが止まってしまったような商店街でした。

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【大衆演劇「オーエス劇場」ポスター】

新開筋商店街を抜けると、そこには「飛田新地」が広がっています。

知る人ぞ知る、大正5年(1916)に築かれた日本最大級の遊廓街です。

昭和33年(1958)の売春防止法施行以後、遊郭は「料亭」に衣替えとなりました。

しかしながら、ほとんどの「料亭」の営業内容は、
ここでは多くは語れませんが、大正以来何ら変わっていない様子です。

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鯛よし百番

この街ではカメラは御法度。

もし見つかれば、その筋のお兄さんがダッシュでやって来るそうなので、残念ながら「料亭」の写真はナシ。

唯一コンデジで撮影出来たのが、「鯛よし百番」の外観です。

「鯛よし百番」は、大正初期に遊廓として建てられた建物を、現在も使用している料理店。
(ちなみに、ここは本当の料理店です。)

遊郭建築を今に伝える建物として、平成11年(2000)には文化庁登録有形文化財に指定されています。

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【路地】

たくさんの「お声がけ」をいただきながら、飛田新地を抜け阿倍野の再開発地区へ。

ここでは行政主導の巨大なビル群が建設中です。

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【山王を見下ろすビル群】

山王地区を威圧するように見下ろすビル群。
味気ないコンクリートの塊が、今後もどんどん広がるのかと思うと「なんだかなぁ」と思ってしまいます。

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【憩いの場「日の出温泉」】

大阪人の間でも、しばしば山王は危険な街だと言われることがありますが、
節度を守って歩いている分には何の問題もありません。

お世辞にも美しいとはいえませんが、過剰に恐れる必要もなく、
当たり前の話ですが、多くの普通の家族が普通に暮らし、普通に幼稚園や学校だってあるのです。

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【郷愁漂う山王の街】

難波利三氏の直木賞作品「てんのじ村」や、はるき悦巳氏の漫画「じゃりン子チエ」舞台であり、
ミヤコ蝶々さんや平和ラッパさん、人生幸朗さんなど、多くの芸人を育てた古い大阪の下町。

人情味あふれるこの地域が、様変わりしないように願うのは、部外者の無責任な感傷でしょうか。

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2009年10月31日 (土)

神の御座す山

ご無沙汰しています。

これが10月初めての更新になります。

元々が不定期更新で、誰からか咎められる訳でも無いのですが、
更新が月一度も無いのは宜しくないと思い、最終日の滑り込み更新となりました。

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今週の29日(木)、三重県と滋賀県の県境に位置する秀峰・御在所岳に行ってきました。

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【御在所ロープウェイ】

目的は今年初の紅葉見物。

御在所岳の紅葉は10月中旬から11月初旬にかけて、山頂付近から順に山麓に降りてくるのですが、
HPによると、山頂付近は終わりに近く、山腹は見頃となっていたので、手遅れにならないうちに出かけました。

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【車窓から見下ろす①:御在所中腹付近】

御在所岳は標高1,212m。

南北60kmにおよぶ鈴鹿山脈のほぼ中央に位置する主峰で、
山名の「御在所」とは、「神の御座(おわ)す所」という意味だそうです。

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【車窓から見下ろす②:御在所中腹付近】

その昔、記紀神話の時代に、垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が、
大和国笠縫邑に祀られていた天照大神の神霊を奉じ、新しい鎮座地を求めて伊賀~近江~美濃を巡行した際に、
桑名の野代から亀山へと向かわれる途中、菰野のあたりで仮の屯宮を設けられたました。

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【御在所ロープウェイ:山頂駅付近】

その後、倭姫命は天照大神の鎮座地を伊勢の五十鈴川の上流(現在の伊勢神宮)に定めますが、
この時の仮の屯宮が「御在所」と呼ばれたことが、山名の由来となりました。

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【三角点:御在所岳山頂】

現在の御在所岳は「神の御座す山」から、「観光の山」へと様変わりしています。

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【紅葉も終わり:山頂付近】

変化に富んだ登山道が4ルートあり、初心者から上級者まで、各人の技術と体力に応じて楽しむことができ、
巨岩・奇岩と新緑・紅葉・雪模様などの自然が織り成す、四季折々の景観が素晴らしく、多くの登山客を集めています。

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【山頂付近から中腹を望む】

また、自力で登山せずとも、山上までロープウェイが開通しており、
麓の湯の山温泉駅から山頂駅まで約12分で登ることができます。

昭和39年(1964)のロープウェイの開業以来、山上一帯は公園化が進められ、
麓に湯の山温泉街を抱えていることも相乗して、毎年200万人近い観光客で賑わっています。

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【奇岩:左「天狗岩」と右「ゆるぎ岩」】

ちなみに、一般的には「御在所岳」と呼ばれることが多いので、
私もそれに習って書いていますが、実は「御在所山」が正式な名称だそう。

国土地理院はでは、山脈や連峰の主峰には「山」と付けるらしく、
実際に国土地理院発行の地図には「御在所山」となっているようです。

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【御在所中腹の巨岩「?」】

登山が全くダメな私は、この日もロープウェイを利用することに。

始発の湯の山温泉駅に到着したのは、AM10:00頃でした。

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【展望ズポット「望湖台」:晴れた日には琵琶湖が見える(らしい)】

終日\800の駐車場に車を入れ、往復\2,100のチケットを買って乗り場に向かうと、
そこには既に短い列が出来ていました。

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【奇岩「大黒岩」】

しかし、驚いたのはその後。

10分もしない内に私の後ろには大行列が!
観光バスがドンドコやってきて、団体さんが次々並ぶ並ぶ!

幸い待ち時間10分程でゴンドラに乗ることが出来ましたが、
あと少し遅れていたら、1時間は待たなければならないところでした。

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【一休み:山頂付近】

定員10名の小さなゴンドラで、山頂駅までの所要時間は約12分。

正直、乗る前は「\2,100は高いなぁ」と思っていましたが、
眼下に広がる紅葉の大パノラマを眼にしたとたん、
そんな思いは吹っ飛び、夢中でシャッターを押していました。

ガラス越しの撮影だったので、反射が写りこんでしまったモノが多く、
写真的には失敗作のオンパレードでしたが、御代の価値は十分にあったと思います。

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【湯の山温泉街を流れる三滝川】

その後、山頂付近に点在する展望スポットを数箇所回りましたが、
冒頭に書いたように、山上付近では紅葉も終わりに近く、
また、この日は遠景に靄がかかっていたこともあり、眺望は今ひとつでした。

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【色づく葉っぱ】

よって今回の御在所岳の紅葉のハイライトは、ロープウェイの車窓。

一般の観光パンフの写真も、殆どがロープウェイから撮ったもの。
自分の足は使わずに楽して登る限りは、これを越す眺めに出会うのは難しいかなぁ。

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2009年9月16日 (水)

港と偉人とコンビナート

本日ご紹介するのは、三重県随一の商工業都市として知られる四日市です。
訪問してから日が経ってしまい、少々季節外れな写真もありますが、宜しければお付き合い下さい。

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四日市市は、南北に長い三重県の中央よりやや北側に位置し、
北は桑名市、南は津市に接し、東は伊勢湾、西は鈴鹿山系を経て奈良県境に接しています。

総人口の307,486人は三重県最大で、県内初の中核市移行を目指し、準備を進めています。

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【四日市港第三埠頭付近】

当市の歴史は古く、すでに旧石器時代から人々が暮らしていたと見られており、
縄文~弥生期にかけての遺跡も数多く残っています。

「古事記」によると、日本武尊が東征の帰途、伊吹山の神との戦いの最中に負傷され、
四日市の足洗池(現:市内御館付近)に差し掛かったときに、
「吾が足三重の勾(まがり)の如くして、いと疲れたり」と嘆かれたとあります。

これが三重郡の名前の由来となり、後の県名となったと云われています。

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【太平洋セメントの埠頭(第三埠頭付近)】

このように歴史の早い段階から開けていた四日市ですが、
大きく発展するのは安土桃山期以降。

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【石油プラント(第三埠頭付近)】

元々、四日市沖の伊勢湾は水深があり、また、沿岸部には波静かな入り江があったので、
いわゆる「天然の良港」としての条件は揃っていました。

天然の良港に、15世紀中頃には商業港としての姿が整い始め、
その後の回船業の発展に伴って、全国各地の物資が集まるようになります。

港の近郊には大きな「市」が立ち始め、その「市」は「四」の付く日に開かれたため、
これが「四日市」という地名の由来となりました。

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【港務艇(第三埠頭付近)】

また、天正10年(1582)の本能寺の変の際には、
四日市の回船問屋達は、堺から苦難の末に当地に逃れてきた徳川家康を手助けし、
舟をしつらえて三河岡崎まで一行を送り届けました。

その後、天下を取った家康は、その時の恩に報いる為、
当地を幕府の天領としたと云われています。

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【重要文化財:末広橋梁(跳開式可動鉄道橋)】

天領となった四日市は、北勢地方の行政・商業の中心地となり、
また、東海道の43番目の主要宿場として、その名を全国に知られるようになってゆきました。

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【四日市旧港の灯台】

ところが、四日市が繁栄の極みに達した江戸末期、安政元年(1854)に巨大地震が発生します。
いわゆる「安政の大地震」です。

遠州灘を震源地としたこの地震で、四日市周辺で被災した家屋は2000軒以上にのぼり、
「人死凡そ七百人余,怪我人は数知れず」という甚大な被害がもたらされました。

その後も大地震による影響で、「天然の良港」に次第に土砂が流入。
港口が徐々に浅くなり、船の入港が困難な程になってしまいました。

その結果、廻船業は次第に衰退し、以降、幕末から明治にかけては、
港町から菜種油や肥料の町へと変遷してゆきました。

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【稲葉三右衛門顕彰碑(末広町)】

そんな時、或る人物が登場します。
港町四日市の現状を憂いていた、廻船問屋・稲葉三右衛門です。

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【稲葉三右衛門銅像(JR四日市駅前)】

彼は、四日市が更に発展するには、港の拡張・再整備が不可欠と考えていました。

そして、明治6年(1873)、三右衛門は私財を投じて港の改修工事に着手します。

工事は難航を極めたものの、11年後の明治17年(1884)、
波止場の長さ400m、造成地面積46,000㎡という港が完成しました。

三右衛門念願の港は、その後の四日市の商工業躍進の起爆剤となります。

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【旧港改築記念碑(末広町)】

明治32年(1899)、四日市港は政府指定の開港場(国際貿易港)となり、
大正時代には、後背地(岐阜県一宮・尾西)に毛織物業が発達したこともあり、
我が国の羊毛の代表的な輸入港となってゆきました。

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【万博から移設したオーストラリアパビリオン(霞ヶ浦地区)】

ちなみに、昭和43年(1968)以来、四日市港とシドニー港は姉妹港の関係にあります。

シドニー港は世界的な羊毛の輸出港であり、四日市港はその羊毛の主要な輸入港で、
羊毛の輸入は年々減少傾向にありますが、現在も対豪貿易高は四日市港が日本一です。

その縁で、四日市市は官民一体となってオーストラリアとの親善交流活動を続けています。

そのシンボルとして、四日市港の霞ヶ浦緑地公園には、
日本万国博覧会のオーストラリア・パビリオンが移設され、現在も当時のまま保存されています。

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【かもめ】

現在の四日市港は、霞ヶ浦地区の埠頭が中心拠点となっていますが、
稲葉三右衛門によって基礎が作られた旧港には、彼の業績を称える「稲葉翁記念公園」が整備されています。

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【煙突(霞ヶ浦地区)】

この公園からは、全国的にも例を見ない「潮吹き防波堤」(※1)を見ることができます。

国の重要文化財に指定されているこの堤防、波が当ると潮吹き穴から海水が吹き出ることから、
このような名前で呼ばれるようになりました。

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【旧港に残る潮吹き防波堤の跡】

四日市港の改修後は、紡績を中心とした繊維工業、さらに機械や化学工業の工場進出が相次ぎ、
日本の近代工業化への歩みを踏襲するかのように四日市地域は発展してゆきました。

戦後になると四日市港の重要性は更に増し、政府から特定重要港湾に指定され、
工業港としての性格を強めながらその規模を拡大してゆきます。

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【石油プラント(霞ヶ浦地区)】

昭和32年~35年(1957~1960)にかけては、塩浜地区に三菱化成・日本合成ゴム・味の素・松下電工など、
昭和36年(1961)には、午起地区に大協石油・中部電力火力発電所・協和油化などが相次いで進出し、
いわゆる石油コンビナートが形成され、わが国屈指の石油化学工業都市に躍進しました。

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【ガスタンク(霞ヶ浦地区)】

昭和40年代に入ると、霞ヶ浦沖の広大な海面を埋め立てた霞ヶ浦埠頭が誕生し、
ここを拠点として本格的なコンテナ貨物の取り扱いが可能となりました。

これによって、国際海上輸送のコンテナ化に対応するとともに、
現在の四日市港の輸出の主力となっている自動車輸出も始まりました。

しかし、コンビナートの本格的操業と同時に、負の影響も深刻化してゆきます。
大気汚染その他の公害の発生が大きな社会問題になりました。

私をはじめ、多くの同世代の人が当地を知ったきっかけは、
「四日市ぜんそく」ではなかったでしょうか。

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【煙突(末広町付近)】

昭和40年代には「四日市=公害の街」として全国にその名を馳せましたが、
その後、法整備や汚染防止技術向上などの対策が格段に進み、
現在では「公害を克服した街」という評価を得つつあるようです。

今回、稲葉三右衛門の功績を追って、四日市周辺をうろうろしましたが、
少し郊外に車を走らせれば、田んぼや茶畑が広がる豊かな自然がいっぱいで、
都市機能と田舎の長所を併せ持った住み易い街という印象を持ちました。

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【四日市ドーム(霞ヶ浦地区)】

平成11年(1999)8月に開港100年を迎えた近代四日市港は、
名古屋港と同様に、日本最大のモノづくり圏を後背地に抱えています。

しかし、伊勢湾岸2港のライバルは、日本国内の港湾だけではありません。
世界中の港湾を相手にしなければならない「港湾大競争時代」が到来しています。

アジア諸国の近年の港湾機能の巨大化や、日本の港湾の国際競争力の低下、
さらには、将来的な港湾ニーズの世界的な高まりもあって、国内港湾の機能充実が急務となっています。

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【マリーナ(霞ヶ浦地区)】

平成16年(2004)、政府はその対応策として、国内に23港ある特定重要港湾のうち、
国際競争力の強化が特に重要な6港湾をスーパー中枢港湾(指定特定重要港湾)に指定しました。

指定を受けたのは京浜港(東京港・横浜港)、阪神港(大阪港・神戸港)、
伊勢湾(名古屋港・四日市港)の3港湾。

四日市港も生き残りを賭けて、アジアの主要港を凌ぐ「港湾コスト・サービス水準の実現」を目指し、
スーパー中枢港湾への国の重点的予算配分を受けながら、官民協働で港湾機能充実に取り組んでいます。

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【HONDAの貨物船】

私達が学んだ頃の小学校の教科書では、中京地区は何でも国内3位。
しかし、今や商工業のあらゆる分野で国内1位となり、国内最大の工業地帯となりました。

トヨタやホンダ、三菱やシャープなどの主力工場が地域を活性化、
昨秋のリーマンショックまでは空前の好景気でした。

日本が元気になるには、中京地区の復活が不可欠。
四日市の港に活気が戻ると、未曾有の大不況の出口も見えてくるのですが・・・

※1「潮吹き防波堤」

この防波堤の構造は、大堤・小堤の二重の堤防から成っており、
2つの堤防の間には溝が作られ、溝から港内へ抜ける排水口が大堤に作られています。

港外から来た波を、まず小堤で受けて勢いを弱め、
それを大堤で受け止め、海水を中間にある溝に貯めます。
その海水は、排水口を通って港内に吐き出される仕組みになっています。

昭和30年(1955)には埋立てられ、現在ではコスモ石油のタンクが写真のように建っており、
「潮吹き防波堤」は単なる岸になっております。

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2009年8月21日 (金)

桑名の山林王 その2

(前回より続き・・・)

清六の篤志家としての業績の一つに、桑名の私設上水道事業があります。

もともと桑名一帯の井戸水は混入物が多く、飲用には適さなかったことから、
清六は上水道施設を私費で設置し、一般には無償で開放。

それとともに30ヵ所以上に消火栓を設けました。

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【「六華苑」:円筒塔屋内部】

このような設備は、当時の大都市を除いては稀なものであり、
全国で7番目の早さであったと云われています。

清六の死後、水道設備は遺志により桑名町(当時)に寄附され、
現在も煉瓦造の小野山貯水池などが、市指定文化財の指定を受け保存されています。

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【「六華苑」:洋館内部①】

また、清六は木曽三川河口地域の排水事業にも大きく貢献しました。

清六の生まれ故郷・加路戸新田は木曽三川の最下流部にあり、大河の寄洲を開発した農村地帯でした。

当時の加路戸新田は、農業用水を木曽川やその支流から引き込み、排水は自然排水に頼ってていましたが、
明治24年(1981)の濃尾大地震により地盤が陥没したため、自然排水が著しく困難となってしまいました。

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【「六華苑」:洋館内部②】

こうした窮状を打開するために、排水機の導入を提唱したのが清六です。

地震の影響で良田は冠水田と化し、そこで悪水を人力でかい出している村人達の苦労を見て、
清六は排水対策が急務であると感じとっていました。

そんな時、動力ポンプが用水にも悪水排除にも同じ効果を発揮するのだと聞き、
明治36年(1903)、早速、伊曽島村(現・長島町)に遠心動力の排水機を設置します。

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【「六華苑」:洋館内部③】

そこで動力ポンプの効果を実感した清六は、翌年から次々と排水機を導入。

明治37年(1904)には、木曽岬村(現・木曽岬町)・長島村(現・長島町)・七取村(現・多度町)
明治38年(1905)には、城南村(現・桑名市城南)に、2年間で4ヶ村が救われました。

明治38年(1905)の明治天皇行幸の際の桑名郡役所による調査報告「諸戸清六ノ経歴並びに事業譚」を見ると、
清六の地域貢献の第一には排水事業が挙げられ、それに続いて上水道事業、植林事業が挙げられています。

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【「六華苑」:洋館バルコニー】

この報告書を見れば、排水機導入による効果は甚大であったことが解ります。

排水機導入により二毛作が可能になったことから、収穫高は飛躍的な向上を遂げた記されており、
導入前は一反あたり60kg程度であった収穫高は、導入後はなんと5倍の300Kgに増加しています。

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【「六華苑」:和館座敷①】

明治天皇行幸の翌年、明治39年(1906)の11月、桑名の巨星・諸戸清六はこの世を去ります。

清六には四男六女の子供がいましたが、長男と三男がともに早世したため、
清六の没後、次男・精太が初代の家屋敷を継承し、清六の名は四男・清吾が襲名します。

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【「六華苑」:和館廊下】

現在、次男・精太の係累は諸戸宗家(西諸戸家)、四男・清吾改め清六の係累は諸戸本家(東諸戸家)と称され、
宗家は諸戸林業・諸戸商会・諸戸タオル・諸戸土地・日本みどり開発など、
本家は諸戸林産・諸戸緑化産業・諸戸産業・諸戸造林などの企業群を運営し、
林業や不動産業を中心とする「諸戸グループ」を形成しています。

諸戸宗家・本家の両家を合わせると、諸戸一族が所有する山林は今でも巻間一万町歩といわれ、
その財力や資産は数えることができない程の山持ちであります。

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【「六華苑」:和館座敷②】

平成19年(2007)、諸戸林産は、所有の森林約1600haをトヨタ自動車に売却しました。
トヨタ自動車の購入目的は、「社会貢献活動ならびに林業事業を通じた国内の森林再生モデルの構築」。

トヨタ自動車は日本の国益を守る日本の企業であると信じていますが、
水源地である日本の森林が外国資本に買い占められてしまうようなことがないよう、
偉人・諸戸清六の御子孫にはお願いしたいと思います。

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【「六華苑」:和館の壁面燈】

本日の写真の「六華苑」は二代目清六の別邸跡、「諸戸氏庭園」は次男・精太が受け継い初代清六の本宅跡。
敷地は隣接していますが施設の運営は別個で、入場料も別個に要ります(笑)

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【「六華苑」:表門】

まず、「六華苑」のほうですが、平成2年(1990)に諸戸家より桑名市が建物の寄贈を受けた後、
旧自治省の「地域づくり推進事業」によって修復・整備が施され、平成5年(1993)から一般公開されています。

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【「六華苑」:本邸】

本館建築物は、和洋の様式が調和した瀟洒な建物。
明治・大正期を代表する貴重な文化遺産であり、桑名市指定文化財となっています。

当時の洋風住宅に和館が併設される例は全国に数多く残っていますが、
和館と洋館は別棟として建てられるか、洋館の一部を和室とする場合が一般的です。

これに対して「六華苑」の旧諸戸邸は、広い敷地が有るにもかかわらず、
洋館と和館とが棟続きで併設されているという特徴をもっています。

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【「六華苑」:洋館円筒塔屋】

設計は鹿鳴館やニコライ堂で名高い英国人建築家ジョサイア・コンドル。

洋館部分は北東隅の四層の円筒状の塔屋と南側の庭園に面した大きなベランダが特徴。

明るく軽快なコロニアルスタイルのいかにも洋館らしい洋館に、
瓦葺の入母屋が続く姿は、他の和洋折衷建築とは一味違った美しさが感じられました。

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【「諸戸氏庭園」:庭園池からみた本邸】

もう一方の「諸戸氏庭園」は、平成14年(2002)に設立された財団法人諸戸会が修復・整備、
翌、平成15年(2003)春より一般公開されています。

「諸戸氏庭園」の歴史は古く、元々は尾張織田家の家臣だった矢部家の館跡。
室町時代には「江の奥殿」と呼ばれていました。

当時の様子は魯縞庵義道の「久波奈(くわな)名所絵図」 に詳しく描かれており、
書院や推敲亭がその当時からあった事が窺えます。

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【「諸戸氏庭園」:庭園の燈篭】

江戸中期、貞享3年(1686)には、桑名藩御用商人・山田彦左衛門が下屋敷としてこれを購入。
その後、明治17年(1884)になって、初代諸戸清六の手に移り、御殿と池庭が付け加えられました。

以降、次男精太の代に更に手が加えられ、今日に至っています。

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【「諸戸氏庭園」:煉瓦倉庫】

敷地内には、国の名勝に指定された庭園をはじめ、本邸・大門・御殿前玄関・御殿・洋館・玉突場など、
国の重要文化財6棟をはじめとする貴重な建築群が保存されています。

公開は春と秋の年2回。

平成21年(2009)春の一般公開は、6月30日で終了していますが、
秋には紅葉が見事だそうで、今から再訪が楽しみです。

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2009年8月19日 (水)

桑名の山林王 その1

急速に近代化・西洋化が進んだ明治~大正期には、
日本各地で時代をリードする多くの実業家達が活躍しました。

当地・三重でも地元の発展に貢献し、その歴史に名を刻んだ人物が数々います。
本日ご紹介する初代・諸戸清六(もろとせいろく)も、そんな地域の偉人の一人です。

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諸戸清六は江戸末期から徐々に頭角を現し、全国の田畑・山林を積極的に購入し始め、
明治中頃には日本一の土地面積を所有する「山林王」として、その名を全国に知らしめました。

また、実業家として巨万の富を得る一方で、
公共事業に私財を投じ、木曽三川の河口地帯の人々の生活改善に大きく貢献し、
今なお、地域の恩人として語り継がれています。

私の居室のすぐ近くには、諸戸清六とゆかりが深い旧跡「六華苑」と「諸戸氏庭園」があり、
諸戸家の栄華を今に伝える資料館として保存されています。

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【旧諸戸家邸「六華苑」】

諸戸家の祖は、長島の一向一揆の際に織田信長と激しく戦った一向宗門徒・丹羽定直(にわさだなお)。

定直は織田軍との交戦中、戸板を集めて矢や投石を防ぎながら縦横無尽の活躍をしたため、
証意上人より「諸戸」の姓と違鷹の羽紋とを賜わり、以降、諸戸定直と称したと伝えられています。

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【「六華苑」:庭園から見た本邸】

一向一揆が信長によって駆逐されると、定直は郷里の西外面村(現・長島町)に帰り、
それ以降、諸戸家は自ら開墾した加路戸新田(現・木曽岬町)で代々庄屋を勤めながら幕末を迎えます。

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【「六華苑」:本邸】

ところが、維新の世を迎える前に、時の当主・諸戸清九郎が塩の売買で大失敗。
2,000両もの負債を抱えて身代を潰してしまう事態に。

その諸戸家苦難の真っ只中の弘化3年(1846)の正月、
清六は清九郎の長子としてこの世に生を受けることとなります。

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【「六華苑」:本邸の洋館・和館の接合部】

借金苦にあった父・清九郎は、西外面村の土地家屋を全て手放し、
弘化4年(1847)に桑名へと移住しますが、この後、相次いで諸戸家を不幸が襲います。

安政7年(1860)に清九郎が、文久3年(1863)に後見人の義兄・清助が相次いで他界。

その後、家督を継ぐことになったのが、当時まだ18歳であった清六でした。
家財といえば僅かな布団と衣類、他には二十石積の船一隻のみが残るだけだったそうです。

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【「六華苑」:洋館】

ここで、清六が普通の若者なら、破綻寸前の家を継いでも持ちこたえられずに潰れてしまう処ですが、
彼には類稀なる商売の才能が備わっていました。

驚くべきことに、この若き当主は、ほんの短期間で諸戸家を見事に復興させて見せます。

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【「六華苑」:洋館の塔屋窓】

清六の母方の実家は、船宿と米の兼売で生計を立てていたのですが、
僅か80両の手元資金で、小さな家業を米問屋や廻船業と呼べるまでに育て上げ、
わずか3年で2,000両以上の負債を完済。

その当時の桑名は、陸運・海運・川運の要衝で、
中部・東海地方の物資を大阪や東京へ輸送する港湾・交易都市として栄えていました。

清六はこの地の利を生かし、時流にもうまく乗ったのです。

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【「六華苑」:洋館外灯】

維新後も、大隈重信・松方正義らの新政府高官の知遇を得て、
西南の役後の米相場で利潤を上げるなど、瞬く間に30万円を蓄財。

明治19年(1886)には海防費2万円を政府に献上し、
翌年には政府の特別な計らいにより従6位に叙せられています。

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【「六華苑」:和館屋根】

20才そこそこの清六が、短期間で巨額の富を得たのには2つの理由があると云われています。

1つ目は、清六はこの地方の翌年の天候をほぼ間違いなく予想できたということです。

清六は、ベテランの船頭から鳥羽への帆船の入港情報を入手。

また老農からは、寒中の琵琶湖の水量の増減情報を得て、
伊勢・美濃・尾張地の長期天候を高い精度で予測していました。

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【「六華苑」:庭園池】

2つ目は、大物政治家・大隈重信との蜜月関係です。

大隈重信側の文書によると、明治9年(1876)に初めて諸戸清六に会ったと記録されており、
それ以降、少なくとも二度、大隈は招かれて桑名の諸戸邸を訪ねています。

清六は、国家機密ともいうべき紙幣と正貨の等価通用法が発令される直前に、
それを察知して巨利を得ましたが、裏には大隈の影があったと云われています。

また、後に、鈴鹿山脈や丹沢山地の山林を数千町歩を購入しますが、
これも清六が大隈の勧めに応じたものでありました。

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【「諸戸氏庭園」:楓】

次々と廻船業で稼いだ富を田畑・山林に投資した清六は、いつしか「山林王」と呼ばれるようになり、
その晩年には、東京の恵比寿・渋谷・駒場などにも宅地30万坪を有する大地主となりました。

稀代の政商として、一代で富と名声を手に入れた清六。
しかし、その一方では公共事業に私財を注ぐことを惜しみませんでした。

(・・・・次回に続きます)

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2009年8月10日 (月)

Long time no see!

ご無沙汰しています。

前回の更新から約1ヶ半月が過ぎてしまいました。

従来から更新頻度はのらりくらりでありましたが、
今回は最長のブランクではなかろうかと思います。

ブランクの理由は、自室のPCが不調に陥り、
メーカーの修理センター行きになっていた為なのですが、
この程、ようやく復活を果たしました。

えらく長い時間が掛かってしまいましたが、
本日より再開致しますので、宜しくお願いします。

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【近所の公園に居た雀】

今回のPCの病状は、起動後数分で突然プッツンと電源が落ち、
その後しばらくは作動しないというものでした。

メーカーの修理センターに電話で相談してみると、
『HDの不調かと思われますので、とりあえず本体を預かります』とのこと。

ならばと本体のみをメーカーの修理センターに送り、その後約2週間が経過。
あげくは『色々調べましたが、問題が見つからない』とそのまま帰ってきました。

なんかおかしいなとは思いつつ起動してみると、すぐに同じ症状が・・・・

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【花博記念公園の青サギ】

『どういうことや~!!』と怒り心頭で修理センターに電話すると、
『ひょっとしたら、電源アダプターが悪いかも?』ということになり、
再び、今度は本体とアダプターを一緒に修理センターへ。

結果はやはり、アダプターがアウト。

当初の症状でアダプター不良の可能性に気づいていたら、
このような二度手間にならずに済んだのですが、
当方の電気関係の知識は小学校低学年レベルなのでムリな相談。

最初に電話相談した修理センターの担当者が、その症状から推察してくれていたら・・・
と恨み節が出てしまいました。

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【ショッピングセンターで見かけたワンコ】

その上、当該のアダプターが欠品しており、新品の再入荷は8月末見通しとのこと。

『そんなには待てない!!』と少々ゴネて、
現在は、「部品貸し出し」という形で修理センターからアダプターを借りている状況です。

とまれ、PCが使えるというのは嬉しいこと。

この間塩漬け状態になっているネタを記事して、
これからボチボチUPしてゆきますので、よろしければまたお立ち寄り下さい。

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2009年6月28日 (日)

紫陽花の苑

6月24日(水)に、大阪から家人やって来たので、
かねてから行きたいと思っていた「なばなの里」を訪ねてみました。

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【水辺のチャペル】

「なばなの里」は、「ナガシマスパーランド」を経営する長島観光開発㈱が手がけた、花と緑のテーマパーク。

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【あじさい・花しょうぶ園】

約230,000㎡の広大な敷地を活かして、花壇や大温室は勿論のこと、
展望台・飲食施設・花市場・温泉入浴場など、多彩な施設が設けられています。

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【足湯】

大変評判の良い施設なので行かれた方も多いと思いますが、我われ2人は初めての訪問。

平日ではありましたが結構な人出で、お年寄りや家族連れ、若いカップルから外国人観光客まで、
様々な人たちで賑っていました。

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【お二人で】

入場料は、園内で使えるクーポン券\1,000分が付いて\1,500ナリ。
このクーポン券は金券として、園内の各施設で使えます。

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【お独りで】

ちなみに私達はコレを使って、昼食を頂きました。
園内に飲食店は8店舗ありましたが、パスタ好きの私の希望でイタリアンレストラン「麦」をチョイス。

前菜とパスタのSETで\1,300だったので、2人分の現金支払いは\600のみ。

薄めの味付けで家庭料理の様な感じでしたが、結構イケました。

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【野菜たっぷりのパスタ】

5月下旬~6月下旬までは、「あじさい・花しょうぶ祭り」が開催中で、
花菖蒲は見ごろを過ぎていましたが、紫陽花はなんとかまだ綺麗。

間に合った~という感じでした。

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【アカタテハ】

ここの紫陽花園はおそらく日本最大であろうかと思われますが、敷地面積はなんと8,000坪!
その広大な敷地に50種70,000株の紫陽花が植えられています。

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【緑色の紫陽花】

また、全長200mの「あじさいロード」には70種300鉢の珍しい紫陽花が並んでいます。

いつもの事ながら、品種の名前を控えていないので、
どれが何やら、写真を見てもさっぱり思い出せませんが、とりあえず綺麗でした。

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【 Purple and Green】

広い園内ですが、何処に行っても清潔で快適。
園内の飲食施設なども本格的で充実していました。

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【ピンクの八重咲き?】

そして、何と言ってもメインテーマである花自体の手入れが素晴らしい。

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【シオカラトンボ】

以前の記事で、「ナガシマスパーランドは純国産レジャーランドの雄」と書いたことがありますが、
ここでも、「やりますなぁ~長島観光開発!」と改めて思った一日でした。

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2009年6月 7日 (日)

頑張る商店街

桑名市の中心市街地にある寺町通り商店街を訪ねてみました。

寺町通り商店街は、JR・近鉄桑名駅から東へ約800mのところにある歴史ある商店街。

中心市街地を南北に走る寺町通りに架けられた、
約200mのアーケードの下に48店舗が軒を並べています。

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【寺町通り商店街①】

16世紀後半に建てられたといわれる真宗大谷派別院(通称・桑名御坊)をはじめ、
近隣には10ヶ所以上の寺院があるところから、門前町商店街として発展してきました。

第2次世界大戦の空襲で一時は焼け野原となりましたが、
戦後急速に近代化が進み、昭和32年(1958)にはアーケードが完成。

その後は、桑名市の中心商店街としての役割を果たしてきました。

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【寺町通り商店街②】

時代が平成に入ると、他の都市の商店街同様、相次ぐ大型SCの出店や、
顧客の高齢化、消費ニーズの多様化などの波に呑まれ、集客減・空床増などの問題を抱えることに。

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【寺町通り商店街③】

しかし、此処の商店主さん達は様々な振興策を打ち出し、この難局を乗り切ることに成功しました。

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【寺町通り商店街④】

桑名の歴史的な町並みにマッチしたアーケードの整備などのハード面の整備、
チャレンジショップの展開や定期市の開催などのソフト面側の努力によって、
現在は地方の「元気のある商店街」「復興の好事例」として知られる程になっています。

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【寺町通り商店街⑤】

多くの地方商店街が苦悩する中、この商店街が復活できたのは、
商店主さんの熱意、振興組合の高い組織力、行政等による支援体制の充実は勿論のこと、
半径2Km以内といわれる足元のお客さんの「わが商店街」に対する思いがあってこそだと思います。

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【花菖蒲:九華公園】

最新のファッションや高級ブランドは揃っていません。
安さでも大手チェーン店には勝てないでしょう。
しかしながら、なじみのお店で話をしながら、ゆったり安心して買い物ができる。
そんな雰囲気に満ちた商店街でした。

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2009年6月 1日 (月)

西美濃の水都

5月29日に、岐阜県の大垣市を訪ねました。

大垣市が位置する西美濃地方は、都が置かれた京畿地方に近く、
岐阜県では最も古くから栄えた地域で、東海道・東山道の重要な回廊でもあり、
東西の文化の接触地帯となってきました。

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【船町港跡】

特に関ケ原付近は古くから東西交通の要衝で、軍事上からも重要な位置を占めており、
東山道方面に対する京畿の守りとして、古代律令制下の三関の一つ、不破関が設けられたことや、
天下を二分した壬申の乱や関ケ原の役が当地付近で戦われたことはよく知られています。

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【船町港の住吉灯台】

大垣の開発は奈良時代、東大寺領大井荘となったのが始まりとされています。
大垣の名が文献に登場するのは暦応3年(1340)の東大寺文書に「大柿」とあるのが初見で、
当初、漢字による表記は大垣と大柿が併用されていたようです。

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【水門川】

文安の頃(1444~49)、大垣氏が砦を構えて東大寺城と称しましたが、
後に大垣城と呼ばれるようになりました。

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【大垣城天守①】

天文4年(1535)、美濃の守護土岐氏が城郭を増強。

永禄6年(1563)には、氏家直元がそれまで本の丸と二の丸だけであった城郭を拡張し、
その後、池田恒興・羽柴秀次・羽柴秀長・加藤光泰・一柳直末・羽柴秀勝らが相次いで入城しました。

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【大垣城天守②】

慶長元年(1596)に城主となった伊藤祐盛が天守を造営、
当地が城下町としての形を整え始めたのも、この頃からだと思われます。

慶長5年(1600)の関ヶ原の役では、石田三成率いる西軍の拠点となりましたが、
東軍が当城を無視して進軍したことにより、
急遽、戦場が北方の関ヶ原へと移ったため、城郭は無傷で残ることに。

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【大垣城内柳口門】

関ヶ原以後も、石川氏・松平氏・岡部氏・再び松平氏と、
大垣城には徳川譜代の大名が相次いで入城しました。

寛永12年(1635)、戸田氏鉄が攝津尼崎から10万石で移封してからは、
幕末までの約200年間、戸田氏が11代続けて城主となりました。

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【戸田氏鉄騎馬像】

明治6年(1873)に発布された廃城令により廃城となりましたが、
天守などの城郭群は解体を免れ、昭和11年(1936)には旧国宝の指定を受けます。

しかしながら、昭和20年(1945)の7月29日、米軍による空襲で焼失。

現在の天守は昭和34年(1959)、乾櫓は昭和42年(1967)に鉄筋コンクリートによって復元されたものです。

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【大垣城西門】

江戸期の大垣は、戸田氏の安定した治世の下で、
美濃国最大の城下町に発展してゆきます。

もともと大垣城下は水陸の交通の便がよい土地柄。

中山道・垂井宿と東海道・熱田宿を結ぶ美濃路の宿場町、
また、揖斐川水運の湊町としての機能を併せ持っていました。

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【水門川】

美濃路の終点となる大垣宿は、天保期の「宿村大概帳」によれば、
戸数903、人口5,136、旅籠11、本陣1、脇本陣2、問屋場1、助郷村22を擁する大宿場町。

また、戸田氏鉄により大垣城の外堀として築かれた水門川は、
揖斐川を介して大垣船町と桑名宿を結ぶ船運の運河の役割も持っていました。

松尾芭蕉の奥の細道のむすびの地は大垣船町にあり、
芭蕉は船町から水門川を船で下り、桑名宿経由で江戸に戻っています。

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【奥の細道結びの地案内板】

現在でも水門川の一部を大垣運河と呼ぶ場合があり、
川湊であった船町港には住吉灯台が今も残っています。

大垣市船町と桑名市を結ぶ水運は明治以降も盛んで、
明治16年(1883)には蒸気船による定期航路も開設され、
名古屋(熱田)~桑名~大垣が結ばれていました。

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【大垣市郷土館】

大正8年(1919)4月27日、養老鉄道(現在の養老鉄道とは別会社)により、
この航路に並行して桑名駅~揖斐駅(現在の養老鉄道養老線)が開通すると、
蒸気船の利用客は激減しますが、それ以外の川舟の利用はまだ多く、
昭和初期には年間1万隻の川舟が行き来していました。

蒸気船の定期航路は昭和26年(1951)頃で廃止となり、
盛んだった川舟もモータリゼーションの波に呑まれ、やがて廃れてゆきました。

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【郷土館の庭園】

明治期になると、県庁誘致の失敗、度重なる大水害や濃尾大震災により人口は激減。

大垣にとっては低迷の時期とななりましたが、
明治33年(1900)の木曽三川分流工事以降は水害も減り、
紡績会社が進出するなど近代工業都市へと変貌。

大正7年(1918)には市制が施行されるに至りました。

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【大垣城二の丸跡に鎮座する濃飛護国神社】

太平洋戦争末期の昭和20年(1945)7月29日の空襲で、
大垣城天守とともに市街地の大半を焼失しますが、
戦後も、主な産業を軽工業から重工業、情報産業へと移行させながらも、
引き続き工業都市として発展、現在に至っています。

平成21年(2009)現在では、人口は16.5万人。
岐阜県下第2の都市となっています。

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【郭町自噴水公園「大手いこいの泉」】

近年は、揖斐川の豊富な伏流水がもたらす自噴水がマスコミ等で紹介されるようになり、
大垣が「水の都」であることが全国的に知られるようになりました。

大垣市内には10ヶ所程に自噴水井戸が設けられており、
おいしい水を求めて岐阜県内は勿論、名古屋や遠く関西方面から、
沢山の人々が水を汲みに来られるそうです。

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【大垣駅郭町商店街】

大垣市。

正直言うと、こちらに転勤してくる前は、全く印象の薄い街でした。
今回訪れて、水と緑が豊富な美しい街だということが解り、
「日本には良い所が沢山あるなぁ」と改めて実感した次第です。

長い歴史に培われた街並みや文化財、豊富な水資源など、
観光資源には恵まれているので、もっと行政が広報に力を入れれば、
閑古鳥鳴く市内中心部も活性化するのではと思いました。

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2009年5月18日 (月)

天まで駆けよ!

少々古いお話になりますが、どうか御容赦を。

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5月5日はGW中唯一のお休みの日だったので、
毎年4・5日の両日に行われている多度大社の例祭に行ってきました。

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【御厨「小山」地区の方々】

期間中、大社の内外で数々の神事がとり行われますが、
中でも「上げ馬神事」は祭りの花形。

全国から多数の観光客と報道陣が押し寄せ、
境内は人で埋め尽くされると聞き、
人ごみは苦手なのですが、観覧場所を確保すべく、
養老鉄道に揺られて早めに現地入りしました。

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【花武者姿の乗り子】

桑名市の北西、多度町に鎮座する多度大社は、
五世紀後半、雄略天皇の御代に社殿が創建されたと伝えられる古社で、
「延喜式」神名帳にも、桑名郡十五座の中に「多度神社名神大」とあり、
いわゆる延喜名神大社の社格を誇る神社です。

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【弓取りの少年】

奈良時代末期の天平宝字7年(763)には、多度の神のご託宣を受けた満願禅師が、
多度菩薩を中心とした三重塔二基・法堂・僧房からなる神宮寺を建立、
後に国分寺に準ずる扱いをうけ、寺院70房・僧侶300余を数える大寺院となりました。

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【道化役】

しかし、元亀2年(1571)に織田信長の兵火により、
社殿・宝物殿をはじめ神宮寺の伽藍も焼失。

一時は荒れるに任せた状態となっていました。

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【境内に向う】

南北朝時代の暦応年間に始まったと伝えられる「上げ馬神事」も、
これ以降、約30年余り中断されることに。

その後、徳川家が天下を取り、太平の世を迎えると、
桑名藩主本多忠勝・忠政の支援により社殿も徐々に復興され、
中断されていた「上げ馬神事」も、この頃再開となったようです。

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【酒で馬具を清める馬喰役】

桑名藩主が松平家に替わった後も、多度大社は桑名の守護神として厚く崇敬され、
社殿の造営・社領の寄進が度々行なわれました。

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【緊張:馬場乗り(試走)前】

また、伊勢参宮の人々が、併せて此処にも参詣したために、
別名を北伊勢大神宮とも呼ばれるようになり、
「お伊勢参らば お多度もかけよ お多度かけねば片参り」と、
俗謡に歌われるほどに賑わったようです

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【精悍】

そもそも「上げ馬神事」は、武家・豪族が取り仕切る祭事でしたが、
信長の兵火による中断以降は、御厨(神饌を供える地区)の人々が奉納する行事となり、
以来、今日に至るまで連綿と続けられています。

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【多度大社境内】

現在、神事を奉納する御厨は7地区で、、
占いによって各地区から、神児1名・乗り子(騎手)6名が選ばれます。

騎手を出す6地区からは、祭馬が各地区3頭、合計18頭が準備され、
毎年入れ替わる花馬(その年最初に上げ馬を行う地区)の指示により、
祭りが進められて行きます。

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【馬場乗り①】

今年の花馬は戸津で、
その後は北猪飼・猪飼・力尾・多度・小山の順に上げ馬が行われました。

ちなみに、乗り子の衣裳は4日が陣笠裃姿、5日は花笠武者姿でした。

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【馬場乗り②】

「上げ馬神事」は、人馬が一体となって3mあまりの絶壁を駆け上がる勇壮な神事。

大変な危険を伴うことから、祭の奉仕者は神の御加護が得られるように、
昔ながらの精進・潔斎に努めなければならないのだそうです。

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【馬場乗り③】

乗り子を努めるのは16歳前後の少年達。

毎年、4月1日に神占いが行われ、
その結果選ばれた6名の乗り子は、すぐさま乗馬の練習を開始します。

たった3週間で馬を全力疾走させれるように乗りこなさなければならず、
朝の4時には起きて、毎日1時間以上の練習を続けるそうです。

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【神馬と神児】

その後、4月26日からは更に厳しい精進が待っています。

肉や加工した食べ物は駄目、そもそも、他人が作った物は駄目。

その為、食事は家族とは別に自分で作らなければならず、
米、魚、野菜が中心の食事で、学生の場合は弁当も自作です。

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【急勾配の果てに待ち構える絶壁】

寝具まで新調され、一切の穢れがつかないようにと精進しながら、
上げ馬までの約一ヶ月を過ごし、気持ちを高めてゆきます。

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【本番前①】

そして迎えた本番。

前日4日は、6地区が各2回、計12回上げ馬を行い、
その結果は、成功が力尾の2回と多度・小山の各1回。

成功の確立は4/12でありました。

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【本番前②】

そして、この日は6地区が各1回のみの挑戦となります。

乗り子と馬は一体となり、100m余りの馬場(助走路)を猛烈な勢いで駆け抜け、
境内に作られた急勾配を駆け上がり、最後は絶壁の上めがけてジャンプ!!

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【上げ馬①:えいっ!!】

花馬の戸津、見事成功しました。

境内は割れんばかりの拍手と喝采。

私はその雄姿を間近に見て、思わず泣きそうになってしまいました。

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【上げ馬②:失敗!!】

その後の4地区は続けて失敗。

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【上げ馬④:大丈夫か!?】

そして、最後の小山が成功し、今年の上げ馬が全て終了しました。

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【上げ馬⑤:どうか!?】

余りの迫力に、手ぶれ、ピンボケを連発。

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【上げ馬⑥:成功!!】

写真の成果はイマイチでしたが、
祭りの熱気で、心地よい高揚感に浸ることが出来ました。

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【神輿①】

上げ馬が終わると、境内では「楠廻り」という行事が執り行われ、
その後、神社より担ぎ出された神輿とともに、
乗り子と馬、御厨の人々は須賀の馬場(2.5km南東の御旅所)向かいます。

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【神輿②】

行列が須賀の馬場に到着後、そこで流鏑馬等の神事が行なわれ、
終了後、再び神輿が神社に戻れば例祭は全て終了となります。

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【結束】

残念ながらタイムリミットで須賀の馬場までは行けず、
途中の多度駅から帰路に着きました。

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【神輿渡御の稚児行列】

多度の「上げ馬神事」では、古くは農作の時期や豊凶、
最近では景気の好不況などが占われています。

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【馬を労う:多度大社宮司】

馬が上がるか、上がらないか。
それは、きっと時の運。

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【ご苦労さん♪】

そんな事より、御厨の人々が大変な労力でこの祭りを支え、
地域が一丸となり伝統を守っていることこそ、
価値ある事なのだと思いました。

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