2008年5月 1日 (木)

中世の面影~上州白井宿

先月の28日(月)に、かつては白井城(しろいじょう)の城下町として栄え、
その後も市場町として賑わった白井宿(しろいじゅく:現・群馬県渋川市)を訪ねました。

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【白井宿】

白井宿は、利根川と吾妻川の合流点の河岸段丘上に発達した集落。

古くは、10世紀に成立した百科事典「和名類聚抄」にもその名が見え、
群馬郡13郷の1つ、群庁の所在地「白衣郷」として記録された歴史ある街です。

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【利根川・吾妻川合流点】

中世になると、関東管領の山内上杉氏の重臣、長尾景仲が西方の丘陵上に白井城を築城します。

吾妻川に面して城郭、その東に武家屋敷と職人街、
丘陵下には町人・農民が配置され、城下町としての形が整いました。

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【白井城跡】

白井城は他の北関東の城郭と同じように、
上杉・北条・武田各氏の抗争の波に揉まれた歴史を持っています。

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【白井城跡:石垣】

天文15年(1546)の河越の夜戦で北条氏康に敗れた上杉憲政は、
一旦平井城(現・群馬県藤岡市)に逃れますが、天文21年(1552)には越後に亡命。

北関東で勢力を拡大した北条氏は、近隣の厩橋城(前橋城)や沼田城(現・群馬県沼田市)を手中にします。

しかし、白井城と箕輪城(現・群馬県高崎市)は北条方に従はず、
その後、上杉憲政から家督を継いだ越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の関東侵攻への足がかりとなりました。

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【白井城跡:三日月堀】

謙信の死後、北条氏の再度の北進で白井城は一旦は北条方となりますが、
永禄13年(1570)の武田信玄の上州侵攻後は、真田幸隆の功により武田方の出城となります。

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【白井城跡:土塁1】

しかし、天正元年(1573)の信玄の死後には、北条方が再度奪回。

この間、城主である長尾氏は、上杉氏-武田氏-上杉氏-北条氏-滝川氏-北条氏と、
目まぐるしく主を変えました。

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【白井城跡:土塁2】

天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際には、北条方の北関東防衛の拠点に位置付けられましたが、
松井田城(現・群馬県安中市)を攻略した前田利家・上杉景勝から攻撃を受けると、
当時の城主・長尾政景はすぐに降伏を決断します。

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【白井城跡から赤城山を望む】

北条氏に心底服従していない長尾氏が、戦意なく開城するのは当然の成り行きで、
この時を以て、白井城は戦国の城としての役目を終えました。

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【源空寺:本田家墓所】

徳川家康が関東入りした後は、家康の命により徳川氏普代の本多氏が入城。

その後も、井伊氏や戸田氏、西尾氏など頻繁に城主が代わりましたが
元和9年(1623)、当時の城主・本多紀貞が後継ぎの無いまま病死したことにより廃城となりました。

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【白井堰】

廃城後、代官支配の地となった白井郷の住民は、
代官主導の下、中世の城下町の特色である短冊形の町割を活かし、半農・半商で経済を支えます。

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【井戸】

沼田・中之条・渋川・前橋のほぼ中間点に位置し、沼田街道・草津街道・三国街道への接続がよく、
利根・吾妻両河の渡河点でもあったことから市場町として発展。

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【商家】

上之町・中之町・下之町の900mにおよぶ町並みが形成され、
五・十日の六斉市(ろくさいいち)が各町間で交互に開かれるようになります。

元禄13年(1700)時点で、造り酒屋がすでに5軒。
この頃には、文人墨客をはじめ、多くの旅人が往来するまでになっていました。

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【石灯籠】

その他にも、露天の商いが中心ではありましたが、
市で取り扱われた商品は馬草・薪・材木をはじめ、
麻・繭糸・木綿・真綿・煙草・塩・茶・水油・米麦・豆など多岐にわたり、
その商圏は3郡24ヶ村に及んでいたそうです。

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【火の見櫓】

このように、成立過程を見てゆくと白井郷は宿場町ではありません。

しかし、街道の中央には白井堰と呼ばれる用水路が流れ、
両脇を通る街道沿いに商家が立ち並ぶ街並みは、宿場町の特徴と合致し、
その集落形態から「白井宿」と呼ばれるようになったのだそうです。

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【散歩】

江戸末期と明治に発生した大火により、古い建物の多くは消失していますが、
わずかに残る土蔵や点在する井戸などが、往時の面影を今に伝えています。

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【八重桜】

近年になって、街並みの保存と整備も進められているようで、
電線は全て地中化され、堰の両岸には約100本の八重桜が植えられています。

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【八重桜】

この日も散り始めではありましたが、見事な花を咲かせていました。

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【鯉のぼり】

この日は、平日の午前中ということもあってか訪れる人は疎ら。

聞けば、前日28日(日)は、この街のビックイベント「桜祭り」で、
武者行列が街を練り歩き、結構な賑わいであったとの事。

「武者行列」を見逃したのは残念ですが、落ち着いた佇まいを取り戻した白井宿で、
のんびりと良い時間が過ごせました。

<付記>

現在、白井城跡の二の丸・三の丸部分は殆ど農地化され、
本丸の一部も農地とし利用されていますが、
この日、たまたま本丸付近で農作業中の斉藤さんにお話をうかがうことが出来ました。

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【斎藤氏】

斉藤さんは、白井城城主・長尾氏につかえた斉藤氏の子孫。
(美濃の戦国大名斉藤道三の系譜だそう)

斉藤さんが子供の頃(60年前)には、本丸一帯は鬱蒼とした木々に覆われ、
近寄るのも不気味な城山であったとの事。

しかし、土塁や空堀はもっと良い状態で残っていたそうで、
大雨の度に坂東太郎が暴れだし、ずいぶんと崩れてしまったようです。

その他にも、大地主だった斉藤家が遭遇したGHQによる農地解放のお話や、
名産品のこんにゃく芋の相場や群馬の揚水力発電の事情など、
ここには記していませんが、興味深いお話を沢山聞かせていただきました。

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【いただいた長ネギと菜の花】

おまけに、私の単身赴任を聞くと「野菜を食べにゃイカン」と、
畑から長ネギを引っこ抜き、菜の花を摘んで帰り際に持たせてくれました。

普段はあまり自炊はしないのですが、
この日の夕飯は長ネギたっぷりの味噌汁と菜の花の御浸しを自作。

おいしく頂きました。

斉藤さん、有難うございました。

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2008年4月18日 (金)

赤城の大明神

(前回よりつづく)

赤城山南面千本桜を堪能して、次に向かったのが赤城神社。

赤城山上の大沼の畔にある元宮・赤城神社と区別する為、
当地の地名を冠して三夜沢赤城神社とも称される古社で、
全国に多くの分社をもつ赤城信仰の中心地として知られています。

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【一の鳥居】

ちなみに、赤城神社の分社は群馬県内に118社。
全国では334社に及びます。

祭神は赤城明神と大己貴(おおなむち=大国主)命で、
赤城明神とは赤城山が神格化した神様です。

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【参道】

室町時代中期に書かれた縁起物語「日光山縁起」には、
赤城明神と日光の二荒山大神にまつわる伝説が記されています。

大昔、赤城明神と二荒山大神の間に、
中の湖(中禅寺湖)の領有をめぐる争いが勃発。

赤城明神は大百足(むかで)の姿となり、二荒山大神は大蛇となって死闘を繰り広げ、
やがて、敗色が濃くなった二荒山大神は、弓の名手の小野猿麻呂に助っ人を依頼します。

猿麻呂は見事に赤城明神の左の目を射抜き、この戦いは二荒山大神の勝利で終わります。

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【拝殿】

この伝承が面白いのは、双方が百足と大蛇に、わざわざ姿を変えて戦ったこと。

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【拝殿正面】

百足を眷属(けんぞく:神の使者)としている神社は、佐渡の戸河神社や秩父の聖神社など、
全国にも数例があり、百足=鉱山神の使いとされています。

口伝に基づく話なので、論拠ははっきりとはしませんが、
その昔、鉱夫の間では「百足」という単語そのものが、鉱石・鉱物・採掘道具・衣裳など、
鉱山関連の一切のものを表現するときに用いられていたようです。

代表的なものとしては、「黒百足=鉄」「赤百足=金、銅」「白百足=銀」「縞百足=その他の鉱石」など。

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【たわら杉~伝:俵藤太(藤原秀郷)の献木】

また、鉱石を運ぶ牛馬も「百足ベコ」「百足ウマ」と呼ばれていたり、
百足が単に虫の名のみに使用されるようになったのは後世のことで、
上古には、鉱物そのものが百足という語であったといわれています。

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【中門と神殿】

一方、大蛇も鉱山とは関連が深い眷属。

その赤い舌が古代の製鉄プラント「たたら」の炎、
また、その姿形が砂鉄の採集地である河川の蛇行を連想させることから、
産鉄神の使いとされています。

よって、赤城山の神との二荒山の神の争いは、鉱脈を巡っての金属精錬集団同士の、
生存権を掛けた争いを伝えるものだったのではと考えられます。

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【神殿裏手】

ここで、興味深いのは二荒山神社の副祭神にも大己貴命の名が見られること。

赤城山の神との二荒山の神の争いに乗じて、出雲系の神である大己貴命を信仰する一族が、
一旦、この地を支配下に治めたことを暗示しているのではないかとも考えられます。

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【神楽殿】

そして、今の赤城神社の格付けは上野国二之宮。

かつては上野国一之宮でしたが、その座を貫前神社(群馬県富岡市)に譲り、
二之宮になったという伝承も残っています。

貫前神社の祭神は経津主(ふつぬし)命で、この神は天孫族系の産鉄神とされています。

赤城神社が二之宮となったということは、
一旦、上野国一帯の鉱山を手中にした出雲系の一族が、
経津主命を仰ぐ天孫族に支配権を明け渡した事を伝えているのではないでしょうか。

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【通学路:赤城神社からの帰路撮影】

古代の覇権を裏打ちするものは、高い金属精錬技術。

上野国の一之宮の変遷は、より高い技術をもった集団(天孫族)が周辺の集団を屈服させ、
わが国の基礎を築いていった経緯を表しているように思えます。

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【赤城山】

古社特有ののしっとりとした、まさに「神域」を感じさせる空気に包まれ、
遥か古代に思いを馳せると、想いは広がるばかりで時間が経つのを忘れてしまうほど。

三夜沢の杜は、神社好きには堪らない空間でした。

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2008年4月15日 (火)

赤城の千本桜

群馬に来て初めての桜のシーズン。

先日出かけた妙義山麓では時期がまだ早く、蕾だけしか見られなかったので、
今度は確実に桜を見られるように、ネットで開花情報を確認。

4月11日(金)に「見頃cherryblossom」のマークがついていた、赤城山南麓の千本桜を見に行って来ました。

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【桜と赤城】

群馬県内には、(財)日本さくらの会により「日本さくらの名所100選」に選定されている場所が2箇所あります。

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【桜の天井】

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【町を見下ろす(前橋方面)】

1つは、昨年の12月にこのブログでも紹介した「冬桜」の里、桜山公園
もう一箇所が、ここ、前橋市苗ヶ島町の赤城山南面千本桜です。

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【並木道①】

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【並木道②】

千本桜の起源は意外と浅く、昭和31年(1956)頃。

裾野の長い赤城山の南腹の登山道脇に、
地域の有志がソメイヨシノの苗約1,000本を植えたのが始まりです。

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【空に映える】

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【花盛り】

今では、高崎や前橋の市街地から数日遅れる花期が人気で、
多くの観光客を集めるスポットとなっています。

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【競演】

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【ひと休み】

また、始点の標高が430m、終点が標高700mと高低差があるため、
長い期間桜を楽しめるのもここのよい所。

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【初めての春】

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【花のアーケード】

この日も、裾にある駐車場付近は満開でしたが、
約2kmにわたる桜のトンネルも、終点近くは3分咲き程度でした。

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【謳歌①】

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【謳歌②】

平日にもかかわらず大盛況。

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【散歩日和】

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【掻き入れ時】

今後、GW前までは開花が続きそうなので、
立ち並ぶ出店もまだまだ稼ぎが見込めそうでした。

桜写真を堪能した後は、隣の三夜沢町にある赤城神社に向いました。

(次回に続く)

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2008年4月11日 (金)

日本最古の駅弁屋

(前回よりつづく)

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「碓氷峠鉄道文化むら」は、信越線の横川~軽井沢の廃線区間跡に作られた施設。
隣接地には区間廃線の後、始発着駅となった横川駅があります。

この横川駅の名を全国に知らしめたのが駅弁「峠の釜めし」で、
製造・販売元「おぎのや」の本店が、改札口を出て直ぐのところにあります。

駅前通りを挟み、本店の向かい側には、私設の資料館があり、
「おぎのや」や横川駅周辺の歴史が紹介されており、無料で見学することが出来ます。

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【JR横川駅】

「おぎのや」の創業は明治18年(1885)で、横川駅と同時期の開業。

以来、120年以上も当地で駅弁を販売し続けている老舗で、
現存する全国の駅弁製造会社のなかでも、最も古い歴史を誇っています。

大ヒット商品、「峠の釜めし」の販売開始は昭和33年(1958)。

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【おぎのや横川本店】

当時、アプト式はすでに廃止となっていましたが、
信越線横川~軽井沢は日本有数の鉄道の難所でありました。

急峻な碓氷峠を越えるためには、全ての列車が群馬側の横川駅に必ず停車し、
電気機関車(“峠のシェルパ”EF63形)を補助機関車として連結しなければなりませんでした。

平坦地では100㎞/h以上で走る特急列車が、横川~軽井沢間は機関車2両連結で20㎞/h程度の速度となり、
わずか10数㎞の区間を20分以上もかけて走行していました。

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【“峠のシェルパ”EF63形】

停車時間としては、下り列車(横川→軽井沢)で機関車連結作業のために7~8分、
上り列車(軽井沢→横川)で切り離し作業のために5分程度を要しました。

この停車時間の長さは駅弁販売には適していましたが、
業績は必ずしも好調ではありませんでした。

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【おぎのや資料館】

「おぎのや」が大きく発展するのは、
四代目高見澤みねじ氏が「峠の釜めし」を発売した昭和33年(1958)以降のこと。

商才に長けたみねじ氏は、巧みな広告・PR戦略を繰り広げ、
有名百貨店の駅弁大会などにも積極的に出品をしました。

昭和42年(1967)には、みねじ氏自らをモデルにしたテレビドラマ「釜めし夫婦」(フジ)が放映され、
全国的な知名度を獲得するに至ります。

また、昭和37年(1962)には、世のモータリゼーション化を見越して、
いち早く国道18号脇に工場兼ドライブインを建設。

その後、上信越自動車道開通により車の流れは横川をスルーすることになりますが、
高速のサービスエリアや軽井沢各所への出店することにより難局を乗り切っています。

平成9年(1997)の長野新幹線の開業に伴い、信越線横川駅~軽井沢駅間が廃線となっても、
横川駅での販売額は全体の3割程度となっていたため、経営への影響は最小限にとどまりました。

現在は、長野新幹線の高崎・軽井沢間でも釜めし車内販売が行なわれています。

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【峠の釜めし】

この日のお昼は、「おぎのや」の本店で「峠の釜めし」を初めていただきました。

正直、\900の釜めしの味に大した期待はしていませんでしたが、食べてビックリ。
なんとまぁ、美味しいこと!

「おぎのや」さん、評判をこれまで疑っていたこと、お詫び申し上げます。

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【JR磯部温泉駅前】

お昼を済ませた後は、碓氷第三橋梁(めがね橋)や碓氷湖(桜は蕾のみ!!)を回り、
午後4時ごろに家人のお目当てである磯部温泉街に到着しました。

いつもの事ながら、私の趣味に引っ張りまわされた家人は爆発寸前でしたが、
ギリギリ、何とか事なきを得ました。

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【磯部温泉街】

磯部温泉は歴史ある温泉郷ですが、その規模は草津温泉や伊香保温泉と比べると格段に小さく、
町の中心を流れる碓氷川の両岸に、現在11件の温泉旅館が営業しています。

当日の宿の若女将(別嬪さん!)に、「この内陸部の地名が、何故に磯部?」と尋ねたところ、
大昔、このあたりは海底で、今も断層から貝の化石が多数発見されるそうで、
磯部という地名もそのあたりに由来するらしいと教えていただきました。

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【足湯】

そのためかどうか、磯部温泉は塩分が大変強く、
鎌倉時代に成立した歴史書「吾妻鏡」の中には、
「磯部村此所に塩の湧き出る所あり」とう記述があります。

この記述から、鎌倉時代にはすでに温泉が湧出していたものと推測されています。

その後、天明3年(1783)の浅間山の大噴火により湧出量が急増。

江戸時代後期には本格的に湯治場となり、
明治時代になるとpH8.0のアルカリ性鉱泉は、
ベルツ博士をはじめ、多くの医学博士に効能を評価されました。

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【桜:磯部温泉赤城神社】

信越線が碓氷峠を越えて開通し、軽井沢にその地位を取って代られるまでは、
日本を代表する避暑地であり、多くの外国人別荘地が立ち並ぶリゾートの草分け的存在でありました。

以前は泉温が24℃と低く、「磯部鉱泉」と呼ばれていた時期もありましたが、
平成8年(1996)には、新源泉(52℃)が掘削により湧出。

現在は、主としてこの源泉が各旅館で利用されています。

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【温泉記号の碑】

全国的にはあまり知られていない磯部温泉ですが、
この地が発祥とされているもので、日本人の誰もが知っているものがあります。

それは、温泉マーク。

万治4年(1661)、この地で起こった草刈場の入会権に絡む農民同士の争いに決着を付けるため、
江戸幕府は「上野国碓氷郡上磯部村と中野谷村就野論裁断之覚」という評決文を出しました。

その中の地図には、温泉マークが二箇所はっきりと記されており、
2008年現在、これより古い資料が見つかっていないことから、
磯部温泉が温泉記号発祥の地とされています。

温泉街にある赤城神社の境内には、「日本最古の温泉記号の碑」がありました。

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【当日のお宿】

この日のお宿は、客室数11のこじんまりした旅館。

先述の若女将をはじめ、女将(またまた別嬪さん!)や従業員の皆様には、
とても明るく感じのよい対応をしていただきました。

また、お部屋や建物も隅々まで清掃が行き届いており、もちろんお風呂も綺麗!
随所に気遣いが感じられるお宿でした。

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【露天風呂】

宿泊日は4月2日でしたが、「エイプリルフール特別企画・嘘のようなホントの価格」で御世話になりました。

食事も美味しく、お安い料金で申し訳ないくらい。

とても気持ちのよい休日を過ごさせていただきました。

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2008年4月 8日 (火)

鉄路の街

またまた、ご無沙汰いたしております。

今回が4月最初の更新です。

なんだかんだと雑事が重なり、最近は更新頻度が非常に悪く、
最近ではあわや月刊というペースに陥っております。

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先週の4月2日~3日にかけて、群馬県安中市にある磯部温泉に行ってきました。

昨年9月の群馬転勤時に、家人と「二ヶ月に一度の温泉めぐり」という約束を交わしており、
これまでは、11月の草津温泉、1月の伊香保温泉と順調にノルマを達成してきました。

しかし、3月はスケジュールが非常にタイトで、何処へ行くことも出来ず、少し遅れての約束履行となりました。

高崎市街地から磯辺温泉へは、国道18号線を西へ真っ直ぐ約20Kmの一本道。
また、信越本線を利用すれば、高崎-磯部間はたったの15分。

日帰りでも十分な一番近場の温泉ですが、
今回は、その先にある妙義山方面の桜を期待して一泊の予定を組みました。

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【妙義山】

しかしながら、当日、現地へ行ってみてがっくり。

やはり早すぎたようで、妙義山腹の桜はつぼみが膨らんだ程度で、
ひょっとしたら、ちらほら咲きぐらいは見られるかもという淡い期待は霧散してしまいました。

そこで、まだ蕾ばかりの妙義山を長い間眺めていても仕方が無いので、
磯部温泉に引き返す前に、安中市松井田町にある「碓氷峠鉄道文化むら」という施設に立ち寄りました。

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【中仙道:坂本宿】

「碓氷峠鉄道文化むら」のある松井田町は、群馬県の最西端に位置し、
隣県長野の軽井沢町と碓氷峠を挟んで接しています。

江戸時代以前には東山道や中山道が通り、碓氷峠には関所が置かれ、
松井田、坂本の二つの宿場を中心に、交通の要衝として発展してきました。

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【アプト式機関車:ED42型】

その後、明治の世になると全国の鉄道網が急速に発達。

信越本線も順調に伸延され、明治26年(1897)には難所・碓氷峠区間(約12km)を最後に全線が開通しました。

この区間は群馬側の横川駅が海抜387m、長野側の軽井沢駅が海抜939mと約500mの標高差があり、
最大で66.7‰(水平距離100m先で6.67mの高低差)という国内路線最大の急勾配が立ちはだかっていました。

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【ED42型プレート】

そのため、開通後も急勾配対策として、各時代における最高水準の鉄道技術が注ぎこまれてゆくことになります。

明治年(1897)、アプト式機関車(※1)の導入。
明治年(1897)、レンガ作りのアーチ式橋としては国内最古の碓氷第三橋梁(めがね橋)の整備。
大正年(1912)、丸山変電所の整備による国内最初の電化。
大正年(1919)、国産第一号の電気機関車の配置。 等々。

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【アプト式機関車底部の歯車動輪】

このように上越本線横川駅-軽井沢駅区間は、日本の鉄道技術史において特別な位置を占めてきましたが、
時代は流れ、平成9年(1997)には長野新幹線の供用開始に伴って、廃線となることが決定されました。

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【トンネル:アプト式鉄道廃線跡】

この決定を受け、地元町民の間には過疎化への危惧が急速に高まり、
行政でも、地域活性化に向けての方策が検討されることに。

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【めがね橋:アプト式鉄道廃線跡】

町民参加で地域懇談会などが開かれ、具体的なアイデアを公募したところ、
町特有の地域資源である鉄道を活用した意見が数多く寄せられ、
「鉄道文化・街道文化をまちづくりに」が地域活性化のテーマの一つとなりました。

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【特急あさま】

そして平成11年(1999)、横川駅周辺整備の一環として、
鉄道テーマパーク「碓氷峠鉄道文化むら」がオープンするに至ります.。

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【EF62型】

横川-軽井沢間の本線敷の一部と横川運転区の跡地、旧国鉄の宿舎跡などを用いた4.5haの敷地に、
車両展示や資料館、ミニSLやトロッコ列車、シュミレーターなどの体験施設が数多く盛り込まれ、
とりたてて鉄道ファンではない私や家人も十分に楽しめました。

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【3等寝台車オハネ12-29】

車両の展示は一部を除いては野ざらしで、少々可愛そうな気もしましたが、
広大な敷地に気動車、客車、貨車、蒸気機関車やディーゼル機関車が並ぶ姿は壮観でした。

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【3等客車ナハフ11-1】

そして、何といってもこの施設の最大の目玉は、
碓氷峠専用のEF63型電気機関車の実車運転体験ができること。

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【運転台】

EF63型機関車はアプト式から粘着式(※2)に移行した昭和38年(1963)以降、廃線に至るまで、
横川-軽井沢間の急峻な峠越えに備えて補助車両として連結されていた名物車両だそうです。

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【峠のシェルパ:EF63】

半日かけて学科実技講習を受けて、その日に行なわれる修了試験に合格すれば、
翌日以降に、晴れて本物を運転することができるのです。

学科実技受講料が\30,000、300mの区間を往復する体験運転が一回あたり\5,000という価格設定は、
一般観光客向けとはいえませんが、本物の機関車の体験運転が出来る施設は全国的にも例がないようです。

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【「グリーンブリーズ」号】

今回は時間とお金が無く体験は出来ませんでしたが、
鉄道ファンでなくとも心動かされるものがありました。

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【動輪:蒸気機関車D51】

「碓氷峠鉄道文化むら」の入場者数は開園以来9年で180万人を突破。
年間平均で20万人の動員は立派なものではないでしょうか。

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【ミニSL】

この日も春休み期間中ということもあり、沢山の家族連れやカップル(熟年多し)で賑わっていました。

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【トロッコ列車「シェルパ君」】

開園当初は、心無い鉄道マニアによる部品やプレートの盗難・破損事件が頻発し、
車両の扉をバーナーで焼ききって、運転台ごと持ち去る等の過激な犯行も見られたようですが、
国鉄OBのボランティアや全国の善良な鉄道ファンに支えられて、
行政主導のテーマパークによる地域振興の優良事例となっているようです。

(次回に続く。)

※1 通常の2本レールの間に、ラックレールという鋸状のレールを敷き、
    機関車底部の歯車(動輪)をかみ合わせて勾配を上る方式。
    現在、国内では大井川鉄道のみで採用されています。

※2   車両とレールの摩擦だけで運転する、一般的な鉄道方式。

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2008年3月 7日 (金)

お城に咲く梅

3月4日(火)に、お休みで帰阪した折に、
大阪を代表する早春の風物詩の一つ、大阪城公園の梅林に行ってきました。

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【大阪城公園の梅①】

現在大阪城梅林は、本丸内堀の東側の二の丸付近にありますが、
徳川時代には、城の警備役である大阪加番大名とその家来の長屋が建ち並ぶ場所でした。

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【大阪城公園の梅②】

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【大阪城公園の梅③】

その後、維新の世になっても、明治政府が大阪城内一帯を軍用地として転用したため、
太平洋戦争が終結するまでは、長らく一般市民は立ち入りが出来ませんでした。

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【大阪城公園の梅④】

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【大阪城公園の梅⑤】

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【大阪城公園の梅⑥】

その後、GHQによる接収の時代を経て、
昭和23年(1948)、外堀を含む広域が公園として整備され「大阪城公園」が誕生。

広く一般市民に開放されるようになりました。

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【大阪城公園の梅⑦】

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【大阪城公園の梅⑧】

梅林の起源は意外と新しく、昭和47年(1972)。

現在の大阪府知事・橋本氏の出身校、府立北野高校の同窓会が、
開校100周年事業の一環として22種・880本の梅を大阪市に寄贈したことに始まります。

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【大阪城公園の梅⑨】

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【大阪城公園の梅⑩】

その後、昭和49年(1974)には「大阪城梅林」として開園。
今では梅の木も93種・1250本に達し、西日本随一の梅林に成長しました。

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【大阪城公園の梅⑪】

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【大阪城公園の梅⑫】

この日は平日でしたが、天気も良く大変な人出でした。

寒暖が目まぐるしい今年は、木によって開花にばらつきこそありましたが、
ちょうど見頃だったのかなと思います。

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【大阪城公園の梅⑬】

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【大阪城公園の梅⑭】

豊臣秀吉による築城以来約360年の間、
ほんの60年前までは一貫して軍事施設であった大阪城。

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【大阪城公園のメジロ①】

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【大阪城公園のメジロ②】

その同じ場所で、うららかな早春の陽を浴びながら、のんびり写真撮影できるこの時代は、
なんだかんだ言っても、いい時代なんだろうなと思いました。

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2008年3月 2日 (日)

もののふ達は語らず

高崎市のシンボル「白衣大観音」は、以前にこのブログで紹介しましたが、
そこから車で3分の所、高崎観音山の南麓に清水寺というお寺があります。

大同3年(808)、坂上田村麿が東国蝦夷征討の際に戦死した将兵の冥福を祈り、
京都の清水寺から千手観音を勧請し、開基したと伝えられている真言宗の古刹です。

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【清水寺】

全国的な知名度はありませんが、近在の人々からは養蚕にご利益があるお寺として信仰を集めています。

高崎観音山の地名も、創建の新しい「白衣大観音」から来ているのではなく、
1200年の歴史を誇るこの清水寺が、千手観音を本尊としていることから由来しているそうです。

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【石段】

麓から約550段の石段の途中には真っ赤に塗られた仁王門があり、
登りつめたところには、これまた真っ赤な楼門風の舞台と観音堂(本堂)。

そして、その本堂の脇には田村堂というお堂があり、中には36体もの木像が奉納されていました。

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【観音堂(本堂)①】

堂内の額によりますと、元治元年(1864)、下仁田(群馬県廿楽群下仁田町)において、
水戸天狗党と戦って戦死した高崎藩士36名の木像ということでした。

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【観音堂(本堂)②】

水戸天狗党とは、言わずと知れた幕末の水戸藩における尊王攘夷急進派。

文政12年(1829)に水戸藩9代目藩主となった徳川斉昭(なりあき)は、学者の藤田東湖ら下級の武士を登用し、
質素倹約・海防と軍備の充実・藩校弘道館の設置・全領の検地を柱とした積極的な藩政の改革を行いました。

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【田村堂】

やがて、ペリーの来航で対外危機が高まると、斉昭は幕府の政治にも関わるようになり、
斉昭とその側近の東湖は全国の尊王攘夷派のシンボル的存在となってゆきました。

その斉昭のお膝元で、尊皇攘夷運動を急進的に行なおうとしたのが水戸天狗党でした。

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【木造由来の額】

開国論と尊皇攘夷論は国内を2分しますが、結局幕府は開国を実施。
嘉永7年(1854)1月16日に、アメリカと日米和親条約締結に踏み切りました。

そして、開国派の大老井伊直弼(いいなおすけ)と対立した斉昭は、
安政5年(1858)の大獄で永蟄居の処分を受けます。

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【高崎藩士木像①】

それを受け、斉昭を支持する天狗党も、諸生党とよばれる保守派との藩内抗争に敗北。
これ以降、天狗党の浪士は、日本国中で過激な行動をとるようになります。

万延元年(1860)の桜田門外の変や文久2年(1862)の坂下門外の変等の事件は、
水戸浪士によって引き起こされた事件です。

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【高崎藩士木像②】

過激な行動の結果、徐々に追い詰められた天狗党は、元治元年(1864)3月、
武田耕雲斎(たけだこううんさい)を総大将として筑波山で挙兵するに至り、
1,000名にのぼる軍勢が水戸藩領を脱出。

当時、京に在った斉昭の子、徳川慶喜に尊王攘夷を説くために西を目指しました。

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【高崎藩士木像③】

当初から、天狗党は西に進軍する際に、高崎藩と正面から衝突しないようにと、
高崎城下を迂回して間道を通り、藤岡から下仁田に抜けるルートを選択していました。

しかし、高崎藩側は「おめおめと天狗党に素通りされたら武門の名折れ」とばかりに追撃を開始。

同年の11月16日、高崎軍と天狗党は下仁田で交戦することとなりました。
高崎藩士300余名と水戸浪士1,000余名とがあいま見えたこの戦闘は、下仁田戦争と呼ばれています。

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【高崎藩士木像④】

大砲15門を備えた近代装備の天狗党に対して、
鎧兜の高崎藩士は善戦しますが、いかんせん多勢に無勢。

天狗党の戦死者は4名であったのに対し、
高崎軍は36名の戦死者を出し、大敗を喫してしまいました。

この戦は、武士が甲冑に身を包んだ最後の戦と云われており、
この後、慶応2年(1866)には高崎藩もフランス式兵制を取り入れ近代化に踏み切っています。

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【高崎藩士木像⑤】

田村堂に奉納されている木像は、殆どが甲冑に身を包んだ若武者。

木像は黙して語りませんが、武士の時代の最後に、
武士として散っていった彼らの心中はいかがなものだったのでしょうか。

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【高崎藩士木像⑥】

一方、高崎軍を打ち破り美濃に至った一行は、中山道を通って真っ直ぐ京都を目指そうとしましたが、
道中には追討の諸藩の軍勢が集結しており、やむなく越前・若狭ルートを採ることに。

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【高崎藩士木像⑦】

すでに暦は12月。
降り積もる雪の中を重い大砲を引いた馬が、峠を越えることは不可能かと思われましたが、
一行は奇跡的に峠越えに成功、越前入りを果たしました。

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【高崎藩士木像⑧】

しかしながら、越前に入ってからも雪の山道は続き、
周囲には計1万数千人ともいわれる諸藩の軍勢がせまっていました。

一行が新保(しんぼ:現在敦賀市内)にたどり着いた頃にはすっかり包囲され、
しかも、頼みにしていた徳川慶喜がその追討軍の指揮を執っていることを知ります。

ここで、遂に天狗党の首脳は進軍を断念し、新保のすぐ近くに陣取っていた加賀藩に投降。
京へ向け水戸を出発してから50日余りで、一行の長い旅も終わりを告げることになりました。

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【高崎藩士木像⑨】

捕らわれた天狗党に対する処分は非常に厳しいもので、総大将の耕雲斎は一族根絶やし、
その他にも死罪が352名にものぼり、日本の長い歴史上でも類を見ない大量の処刑が行われました。

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【高崎藩士木像⑩】

天狗党事件以降、時代は大きく動き、薩摩藩・長州藩は討幕への動きを強め、ついに幕府は滅亡。
武士の時代が名実ともに終わりを告げました。

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【高崎藩士木像⑪】

天狗党の人々が敦賀で処刑されてから100年後の昭和40年(1965)、水戸市と敦賀市は姉妹都市となり、
それ以降、毎年両市の小学生の交流会が行われており、天狗党の悲劇を今に伝えています。

しかしながら、高崎藩士36名の奮闘については、語られることも少なく、
地元の方でも知る人が少ないのは、なんとも悲しい気がします。

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【碓氷川から榛名山を望む】

武士として戦場に散った36名の高崎藩士と、
維新を待ちきれず蜂起し、罪人として刑死した352名の水戸浪士。

彼らは間違いなく、この国の礎となったと思います。

140年前の幕末の動乱期から、この国の形が出来上がるまでに、
多くの方々の血が流されたことを再認識できた日でした。

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2008年2月 2日 (土)

石段と湯の街

先月の28日に、家人を伴って伊香保温泉街に一泊の小旅行に行ってきました。

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群馬県は那須火山帯と富士火山帯が交差する火山のメッカ。
したがって、あちらこちらから温泉が湧出し、多くの温泉街が形成されています。

その中でも、先日このブログでも紹介した草津温泉街と並んで、
県下で最もメジャーな温泉地に挙げられるのが伊香保温泉街です。

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【物聞山山頂より伊香保温泉街を望む】

伊香保温泉街は、上州三名山の一つ、榛名山の北東の中腹(標高700m)に位置し、
その歴史は、約1900年前の第11代垂仁天皇の時代にまで遡ると伝えられています。

また、万葉集に収められた東歌は25首ありますが、
そのうち9首は伊香保を詠んだ歌(※1)であり、
このことからも、その歴史の古さを窺い知ることができます。

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【川床が赤く染まる湯川】

伊香保温泉街の原型は、古くは湯川の沢筋に湧出する源泉付近にあったようですが、
天正3年(1575)の長篠の合戦の後、多数の武田方戦傷者を収容するために、
より広い現在の場所に移されたようです。

現在、伊香保の象徴として独特の温泉情緒をただよわせている「石段街」が形成されたのも、
長篠の合戦の翌年、天正4年(1576)頃だといわれています。

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【湯川】

源泉から360段ある石段の下までは約860m。

この石段の地下に木製の導管を通し、
決められた量の湯を各旅館や温泉施設に分湯する方式が採られています。

伊香保独自のこのシステムは「小間口」制度と呼ばれており、現在も現役で稼動しています。

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【伊香保2号源泉噴出口】

430年以上も前に、遠くの源泉からお湯を引っ張り、各戸に分湯するには、
高い導管技術と統率力が不可欠であったと思われますが、
それを担ったのが、伊香保土着の14家の武士集団でした。

これら土豪達の子孫は「大家」と呼ばれ、代々引湯権を継承してゆくことになります。

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【温泉飲泉所】

現在、石段には十二支のプレートが埋め込まれており、
それは、かつてあった12軒の「大家」の屋敷跡を示しています。

「子」小暮武太夫  「丑」小暮八左衛門 「寅」小暮金太夫  
「卯」島田平左衛門 「辰」岸権三衛門  「巳」岸六左衛門  
「午」永井喜左衛門 「未」大島勘左衛門 「申」岸又左衛門  
「酉」千明三右衛門 「戌」後閑弥右衛門 「亥」島田治左衛門

あとの2軒には干支が足りなくなった為か、別の二字が与えられました。

「乾」福田金左衛門 「坤」島田権右衛門

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【飲泉口】

温泉開発当時の功労によって、十二支が割り振られており、
主席の「子」を継承する「ホテル小暮」は、今も「子の湯」を名乗り、
伊香保の石段下に流れるお湯の25%の引湯権を所有しています。

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【石段街から続く伊香保神社参道】

しかしながら、長い時間の流れの中で14軒の「大家」も様変わりし、
大半が温泉・旅館業から離れており、先述の主席「子」の「ホテル小暮」をはじめ 、
「寅」の「金太夫」 、「辰」の「岸権」、「酉」の「千明仁泉亭」の4軒を残すのみとなっています。

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【大吉?:伊香保神社】

現在、多数の温泉施設が伊香保温泉街に立ち並んでいますが、
この4軒以外は、「大家」からお湯を買っての営業ということになります。

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【金太夫玄関口】

この日お世話になったのは、「寅」の「金太夫」 。
現在の当主金太夫氏は20代目となり、伊香保の歴史と共に歩んできた老舗旅館です。

しかし、伊香保屈指の老舗「金太夫」も、
平成16年(2004)の温泉偽装事件の打撃から立ち直れず、
平成18年(2006)の4月からは、㈱伊東園ホテルに経営権は移っているそうです。

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【足湯:金太夫敷地内】

温泉偽装事件とは、源泉かけ流しなどと謳っていた温泉施設の一部が、
実は水道水を使用していたという事件。

マスコミに大々的に報道され、伊香保温泉街から客足が遠のき、
多くの温泉施設が経営の危機に晒されました。

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【伊香保温泉露天風呂入り口】

この事件の根源は、需給バランスの崩壊。

伊香保では開湯以来、源泉の所有権は「小間口」権者にあります。

源泉を利用できるのは「小間口」権者と、
彼らからお湯を購入した者のみであるにもかかわらず、
戦後、急激に旅館が乱立、温泉街が肥大化してしまったため、
源泉が不足する事態になりました。

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【伊香保温泉露天風呂】

その結果、一部の旅館経営者のモラルが低下。

この伊香保の街を切り開いた土豪たちが、後世に伝えた分湯システムは、
仁義無き顧客獲得競争の中で踏みにじられてしまいました。

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【伊香保温泉露天風呂】

江戸時代には、滝沢馬琴や十返舎一九などの文人墨客が訪れ、
明治以降も幸田露伴、萩原朔太郎、与謝野晶子、島崎藤村、芥川龍之介、
徳富蘆花、林芙美子などなど、名だたる文豪たちが愛した伊香保の街。

彼らはそれぞれの作品の中で、
温泉情緒が漂う中にも歓楽街として活気に溢れていた、
当時の伊香保の姿を生き生きと描いています。