2009年6月28日 (日)

紫陽花の苑

6月24日(水)に、大阪から家人やって来たので、
かねてから行きたいと思っていた「なばなの里」を訪ねてみました。

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【水辺のチャペル】

「なばなの里」は、「ナガシマスパーランド」を経営する長島観光開発㈱が手がけた、花と緑のテーマパーク。

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【あじさい・花しょうぶ園】

約230,000㎡の広大な敷地を活かして、花壇や大温室は勿論のこと、
展望台・飲食施設・花市場・温泉入浴場など、多彩な施設が設けられています。

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【足湯】

大変評判の良い施設なので行かれた方も多いと思いますが、我われ2人は初めての訪問。

平日ではありましたが結構な人出で、お年寄りや家族連れ、若いカップルから外国人観光客まで、
様々な人たちで賑っていました。

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【お二人で】

入場料は、園内で使えるクーポン券\1,000分が付いて\1,500ナリ。
このクーポン券は金券として、園内の各施設で使えます。

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【お独りで】

ちなみに私達はコレを使って、昼食を頂きました。
園内に飲食店は8店舗ありましたが、パスタ好きの私の希望でイタリアンレストラン「麦」をチョイス。

前菜とパスタのSETで\1,300だったので、2人分の現金支払いは\600のみ。

薄めの味付けで家庭料理の様な感じでしたが、結構イケました。

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【野菜たっぷりのパスタ】

5月下旬~6月下旬までは、「あじさい・花しょうぶ祭り」が開催中で、
花菖蒲は見ごろを過ぎていましたが、紫陽花はなんとかまだ綺麗。

間に合った~という感じでした。

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【アカタテハ】

ここの紫陽花園はおそらく日本最大であろうかと思われますが、敷地面積はなんと8,000坪!
その広大な敷地に50種70,000株の紫陽花が植えられています。

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【緑色の紫陽花】

また、全長200mの「あじさいロード」には70種300鉢の珍しい紫陽花が並んでいます。

いつもの事ながら、品種の名前を控えていないので、
どれが何やら、写真を見てもさっぱり思い出せませんが、とりあえず綺麗でした。

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【 Purple and Green】

広い園内ですが、何処に行っても清潔で快適。
園内の飲食施設なども本格的で充実していました。

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【ピンクの八重咲き?】

そして、何と言ってもメインテーマである花自体の手入れが素晴らしい。

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【シオカラトンボ】

以前の記事で、「ナガシマスパーランドは純国産レジャーランドの雄」と書いたことがありますが、
ここでも、「やりますなぁ~長島観光開発!」と改めて思った一日でした。

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2009年6月 7日 (日)

頑張る商店街

桑名市の中心市街地にある寺町通り商店街を訪ねてみました。

寺町通り商店街は、JR・近鉄桑名駅から東へ約800mのところにある歴史ある商店街。

中心市街地を南北に走る寺町通りに架けられた、
約200mのアーケードの下に48店舗が軒を並べています。

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【寺町通り商店街①】

16世紀後半に建てられたといわれる真宗大谷派別院(通称・桑名御坊)をはじめ、
近隣には10ヶ所以上の寺院があるところから、門前町商店街として発展してきました。

第2次世界大戦の空襲で一時は焼け野原となりましたが、
戦後急速に近代化が進み、昭和32年(1958)にはアーケードが完成。

その後は、桑名市の中心商店街としての役割を果たしてきました。

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【寺町通り商店街②】

時代が平成に入ると、他の都市の商店街同様、相次ぐ大型SCの出店や、
顧客の高齢化、消費ニーズの多様化などの波に呑まれ、集客減・空床増などの問題を抱えることに。

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【寺町通り商店街③】

しかし、此処の商店主さん達は様々な振興策を打ち出し、この難局を乗り切ることに成功しました。

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【寺町通り商店街④】

桑名の歴史的な町並みにマッチしたアーケードの整備などのハード面の整備、
チャレンジショップの展開や定期市の開催などのソフト面側の努力によって、
現在は地方の「元気のある商店街」「復興の好事例」として知られる程になっています。

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【寺町通り商店街⑤】

多くの地方商店街が苦悩する中、この商店街が復活できたのは、
商店主さんの熱意、振興組合の高い組織力、行政等による支援体制の充実は勿論のこと、
半径2Km以内といわれる足元のお客さんの「わが商店街」に対する思いがあってこそだと思います。

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【花菖蒲:九華公園】

最新のファッションや高級ブランドは揃っていません。
安さでも大手チェーン店には勝てないでしょう。
しかしながら、なじみのお店で話をしながら、ゆったり安心して買い物ができる。
そんな雰囲気に満ちた商店街でした。

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2009年6月 1日 (月)

西美濃の水都

5月29日に、岐阜県の大垣市を訪ねました。

大垣市が位置する西美濃地方は、都が置かれた京畿地方に近く、
岐阜県では最も古くから栄えた地域で、東海道・東山道の重要な回廊でもあり、
東西の文化の接触地帯となってきました。

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【船町港跡】

特に関ケ原付近は古くから東西交通の要衝で、軍事上からも重要な位置を占めており、
東山道方面に対する京畿の守りとして、古代律令制下の三関の一つ、不破関が設けられたことや、
天下を二分した壬申の乱や関ケ原の役が当地付近で戦われたことはよく知られています。

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【船町港の住吉灯台】

大垣の開発は奈良時代、東大寺領大井荘となったのが始まりとされています。
大垣の名が文献に登場するのは暦応3年(1340)の東大寺文書に「大柿」とあるのが初見で、
当初、漢字による表記は大垣と大柿が併用されていたようです。

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【水門川】

文安の頃(1444~49)、大垣氏が砦を構えて東大寺城と称しましたが、
後に大垣城と呼ばれるようになりました。

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【大垣城天守①】

天文4年(1535)、美濃の守護土岐氏が城郭を増強。

永禄6年(1563)には、氏家直元がそれまで本の丸と二の丸だけであった城郭を拡張し、
その後、池田恒興・羽柴秀次・羽柴秀長・加藤光泰・一柳直末・羽柴秀勝らが相次いで入城しました。

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【大垣城天守②】

慶長元年(1596)に城主となった伊藤祐盛が天守を造営、
当地が城下町としての形を整え始めたのも、この頃からだと思われます。

慶長5年(1600)の関ヶ原の役では、石田三成率いる西軍の拠点となりましたが、
東軍が当城を無視して進軍したことにより、
急遽、戦場が北方の関ヶ原へと移ったため、城郭は無傷で残ることに。

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【大垣城内柳口門】

関ヶ原以後も、石川氏・松平氏・岡部氏・再び松平氏と、
大垣城には徳川譜代の大名が相次いで入城しました。

寛永12年(1635)、戸田氏鉄が攝津尼崎から10万石で移封してからは、
幕末までの約200年間、戸田氏が11代続けて城主となりました。

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【戸田氏鉄騎馬像】

明治6年(1873)に発布された廃城令により廃城となりましたが、
天守などの城郭群は解体を免れ、昭和11年(1936)には旧国宝の指定を受けます。

しかしながら、昭和20年(1945)の7月29日、米軍による空襲で焼失。

現在の天守は昭和34年(1959)、乾櫓は昭和42年(1967)に鉄筋コンクリートによって復元されたものです。

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【大垣城西門】

江戸期の大垣は、戸田氏の安定した治世の下で、
美濃国最大の城下町に発展してゆきます。

もともと大垣城下は水陸の交通の便がよい土地柄。

中山道・垂井宿と東海道・熱田宿を結ぶ美濃路の宿場町、
また、揖斐川水運の湊町としての機能を併せ持っていました。

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【水門川】

美濃路の終点となる大垣宿は、天保期の「宿村大概帳」によれば、
戸数903、人口5,136、旅籠11、本陣1、脇本陣2、問屋場1、助郷村22を擁する大宿場町。

また、戸田氏鉄により大垣城の外堀として築かれた水門川は、
揖斐川を介して大垣船町と桑名宿を結ぶ船運の運河の役割も持っていました。

松尾芭蕉の奥の細道のむすびの地は大垣船町にあり、
芭蕉は船町から水門川を船で下り、桑名宿経由で江戸に戻っています。

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【奥の細道結びの地案内板】

現在でも水門川の一部を大垣運河と呼ぶ場合があり、
川湊であった船町港には住吉灯台が今も残っています。

大垣市船町と桑名市を結ぶ水運は明治以降も盛んで、
明治16年(1883)には蒸気船による定期航路も開設され、
名古屋(熱田)~桑名~大垣が結ばれていました。

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【大垣市郷土館】

大正8年(1919)4月27日、養老鉄道(現在の養老鉄道とは別会社)により、
この航路に並行して桑名駅~揖斐駅(現在の養老鉄道養老線)が開通すると、
蒸気船の利用客は激減しますが、それ以外の川舟の利用はまだ多く、
昭和初期には年間1万隻の川舟が行き来していました。

蒸気船の定期航路は昭和26年(1951)頃で廃止となり、
盛んだった川舟もモータリゼーションの波に呑まれ、やがて廃れてゆきました。

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【郷土館の庭園】

明治期になると、県庁誘致の失敗、度重なる大水害や濃尾大震災により人口は激減。

大垣にとっては低迷の時期とななりましたが、
明治33年(1900)の木曽三川分流工事以降は水害も減り、
紡績会社が進出するなど近代工業都市へと変貌。

大正7年(1918)には市制が施行されるに至りました。

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【大垣城二の丸跡に鎮座する濃飛護国神社】

太平洋戦争末期の昭和20年(1945)7月29日の空襲で、
大垣城天守とともに市街地の大半を焼失しますが、
戦後も、主な産業を軽工業から重工業、情報産業へと移行させながらも、
引き続き工業都市として発展、現在に至っています。

平成21年(2009)現在では、人口は16.5万人。
岐阜県下第2の都市となっています。

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【郭町自噴水公園「大手いこいの泉」】

近年は、揖斐川の豊富な伏流水がもたらす自噴水がマスコミ等で紹介されるようになり、
大垣が「水の都」であることが全国的に知られるようになりました。

大垣市内には10ヶ所程に自噴水井戸が設けられており、
おいしい水を求めて岐阜県内は勿論、名古屋や遠く関西方面から、
沢山の人々が水を汲みに来られるそうです。

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【大垣駅郭町商店街】

大垣市。

正直言うと、こちらに転勤してくる前は、全く印象の薄い街でした。
今回訪れて、水と緑が豊富な美しい街だということが解り、
「日本には良い所が沢山あるなぁ」と改めて実感した次第です。

長い歴史に培われた街並みや文化財、豊富な水資源など、
観光資源には恵まれているので、もっと行政が広報に力を入れれば、
閑古鳥鳴く市内中心部も活性化するのではと思いました。

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2009年5月18日 (月)

天まで駆けよ!

少々古いお話になりますが、どうか御容赦を。

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5月5日はGW中唯一のお休みの日だったので、
毎年4・5日の両日に行われている多度大社の例祭に行ってきました。

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【御厨「小山」地区の方々】

期間中、大社の内外で数々の神事がとり行われますが、
中でも「上げ馬神事」は祭りの花形。

全国から多数の観光客と報道陣が押し寄せ、
境内は人で埋め尽くされると聞き、
人ごみは苦手なのですが、観覧場所を確保すべく、
養老鉄道に揺られて早めに現地入りしました。

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【花武者姿の乗り子】

桑名市の北西、多度町に鎮座する多度大社は、
五世紀後半、雄略天皇の御代に社殿が創建されたと伝えられる古社で、
「延喜式」神名帳にも、桑名郡十五座の中に「多度神社名神大」とあり、
いわゆる延喜名神大社の社格を誇る神社です。

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【弓取りの少年】

奈良時代末期の天平宝字7年(763)には、多度の神のご託宣を受けた満願禅師が、
多度菩薩を中心とした三重塔二基・法堂・僧房からなる神宮寺を建立、
後に国分寺に準ずる扱いをうけ、寺院70房・僧侶300余を数える大寺院となりました。

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【道化役】

しかし、元亀2年(1571)に織田信長の兵火により、
社殿・宝物殿をはじめ神宮寺の伽藍も焼失。

一時は荒れるに任せた状態となっていました。

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【境内に向う】

南北朝時代の暦応年間に始まったと伝えられる「上げ馬神事」も、
これ以降、約30年余り中断されることに。

その後、徳川家が天下を取り、太平の世を迎えると、
桑名藩主本多忠勝・忠政の支援により社殿も徐々に復興され、
中断されていた「上げ馬神事」も、この頃再開となったようです。

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【酒で馬具を清める馬喰役】

桑名藩主が松平家に替わった後も、多度大社は桑名の守護神として厚く崇敬され、
社殿の造営・社領の寄進が度々行なわれました。

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【緊張:馬場乗り(試走)前】

また、伊勢参宮の人々が、併せて此処にも参詣したために、
別名を北伊勢大神宮とも呼ばれるようになり、
「お伊勢参らば お多度もかけよ お多度かけねば片参り」と、
俗謡に歌われるほどに賑わったようです

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【精悍】

そもそも「上げ馬神事」は、武家・豪族が取り仕切る祭事でしたが、
信長の兵火による中断以降は、御厨(神饌を供える地区)の人々が奉納する行事となり、
以来、今日に至るまで連綿と続けられています。

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【多度大社境内】

現在、神事を奉納する御厨は7地区で、、
占いによって各地区から、神児1名・乗り子(騎手)6名が選ばれます。

騎手を出す6地区からは、祭馬が各地区3頭、合計18頭が準備され、
毎年入れ替わる花馬(その年最初に上げ馬を行う地区)の指示により、
祭りが進められて行きます。

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【馬場乗り①】

今年の花馬は戸津で、
その後は北猪飼・猪飼・力尾・多度・小山の順に上げ馬が行われました。

ちなみに、乗り子の衣裳は4日が陣笠裃姿、5日は花笠武者姿でした。

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【馬場乗り②】

「上げ馬神事」は、人馬が一体となって3mあまりの絶壁を駆け上がる勇壮な神事。

大変な危険を伴うことから、祭の奉仕者は神の御加護が得られるように、
昔ながらの精進・潔斎に努めなければならないのだそうです。

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【馬場乗り③】

乗り子を努めるのは16歳前後の少年達。

毎年、4月1日に神占いが行われ、
その結果選ばれた6名の乗り子は、すぐさま乗馬の練習を開始します。

たった3週間で馬を全力疾走させれるように乗りこなさなければならず、
朝の4時には起きて、毎日1時間以上の練習を続けるそうです。

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【神馬と神児】

その後、4月26日からは更に厳しい精進が待っています。

肉や加工した食べ物は駄目、そもそも、他人が作った物は駄目。

その為、食事は家族とは別に自分で作らなければならず、
米、魚、野菜が中心の食事で、学生の場合は弁当も自作です。

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【急勾配の果てに待ち構える絶壁】

寝具まで新調され、一切の穢れがつかないようにと精進しながら、
上げ馬までの約一ヶ月を過ごし、気持ちを高めてゆきます。

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【本番前①】

そして迎えた本番。

前日4日は、6地区が各2回、計12回上げ馬を行い、
その結果は、成功が力尾の2回と多度・小山の各1回。

成功の確立は4/12でありました。

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【本番前②】

そして、この日は6地区が各1回のみの挑戦となります。

乗り子と馬は一体となり、100m余りの馬場(助走路)を猛烈な勢いで駆け抜け、
境内に作られた急勾配を駆け上がり、最後は絶壁の上めがけてジャンプ!!

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【上げ馬①:えいっ!!】

花馬の戸津、見事成功しました。

境内は割れんばかりの拍手と喝采。

私はその雄姿を間近に見て、思わず泣きそうになってしまいました。

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【上げ馬②:失敗!!】

その後の4地区は続けて失敗。

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【上げ馬④:大丈夫か!?】

そして、最後の小山が成功し、今年の上げ馬が全て終了しました。

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【上げ馬⑤:どうか!?】

余りの迫力に、手ぶれ、ピンボケを連発。

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【上げ馬⑥:成功!!】

写真の成果はイマイチでしたが、
祭りの熱気で、心地よい高揚感に浸ることが出来ました。

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【神輿①】

上げ馬が終わると、境内では「楠廻り」という行事が執り行われ、
その後、神社より担ぎ出された神輿とともに、
乗り子と馬、御厨の人々は須賀の馬場(2.5km南東の御旅所)向かいます。

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【神輿②】

行列が須賀の馬場に到着後、そこで流鏑馬等の神事が行なわれ、
終了後、再び神輿が神社に戻れば例祭は全て終了となります。

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【結束】

残念ながらタイムリミットで須賀の馬場までは行けず、
途中の多度駅から帰路に着きました。

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【神輿渡御の稚児行列】

多度の「上げ馬神事」では、古くは農作の時期や豊凶、
最近では景気の好不況などが占われています。

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【馬を労う:多度大社宮司】

馬が上がるか、上がらないか。
それは、きっと時の運。

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【ご苦労さん♪】

そんな事より、御厨の人々が大変な労力でこの祭りを支え、
地域が一丸となり伝統を守っていることこそ、
価値ある事なのだと思いました。

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2009年5月 8日 (金)

勢州の城下町

今回は松阪のお話。

松阪市は三重県のほぼ中央に位置し、
東は伊勢湾、西は台高山脈と高見山地を境に奈良県に、
南は多気郡、北は雲出川を隔てて津市に接しています。

平成17年の国勢調査によると、松阪市の総人口は168,973人で、
県下では4番目の人口規模。

特産品の松阪牛は、日本国内は勿論、世界中にその名が知られています。

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【創業明治35年・松阪牛の「牛銀」本店】

しかし、なにぶん単独でのブラブラ散歩。

下戸のおっさんが一人ぽつんと、
ビールも飲まず、すき焼きを黙々と食っている図は、
なんだか格好悪くて気が引けたので、今回は体験記はナシ。

松坂牛は又の機会、家族と来たときにでもレポートしたいと思います。

ということで、今回も相変わらずの歴史散策にお付き合い下さい。

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【松阪城址石垣①】

松阪市の中心市街の歴史は400年以上前の、
蒲生氏郷(がもううじさと)による松阪城築城に始まります。

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【松阪城址石垣②】

天正12年(1584)、氏郷が豊臣秀吉の命を受け最初に入城したのは、
現在の市街地の北方にあった平城・松ヶ島城でした。

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【松阪城址石垣③】

しかし、城下が手狭だった松ヶ島城を嫌った氏郷は、
飯高郡矢川庄(当時)にあった独立丘陵に目をつけ、その地に新城の建設を計画。

突貫工事で天正16年(1588)に完成させた平山城が現在の松阪城です。

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【松阪城址石垣④】

本丸、二の丸、三の丸、きたい丸、隠居丸、出丸といった郭の構成で、
本丸、二の丸、きたい丸、隠居丸は高い石垣、三の丸には土塁が築かれました。

天守台は中央よりやや西寄りあり、此処に三層の天守がそびえ、
それをとり巻いてそれぞれの郭に敵見、金の間、月見等の櫓が配されていました。

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【石垣上の緑】

氏郷が会津若松に移封になった後は、
天正19年(1591)に服部一忠、文禄4年(1595)には古田重勝が城主となりました。

その後、元和5年(1619)に松阪藩は廃藩となり、
以降、領地は紀州藩領に組み入れられ、
松阪城には勢州領18万5千石を統轄する城代が置かれました。

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【天守閣跡】

紀州藩領下の松阪城に関しては、江戸時代前期の史料に、
正保元年(1644)の台風のため、天守が倒壊という記述が残っています。

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【武家長屋「御城番屋敷」】

高い石垣と三層の天守を持つ築城当時の姿は、
さぞ壮観であっただろうと思われますが、
台風で天守は崩れ、その後の失火で郭群が消失、
残った城門なども明治初めに取り壊されてしまいました。

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【松阪城址の藤】

そして、明治14年(1881)には、現在へとつながる城跡公園として整備され、
往時の姿を留めるのは、壮大な石垣のみとなっています。

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【松阪城址より市内を望む】

その城址公園の一角にあるのが、松阪出身の偉大なる学者・本居宣長の記念館。

隣地には旧宅も移築され、一般に公開されています。

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【本居宣長旧宅】

本居宣長(幼名・小津富之助)は享保15年(1730)、
父・小津三四右衛門定利と母・勝の間に生まれました。

小津家は宣長から4代前の七右衛門の頃に江戸店もちの木綿商となった、
松阪・小津党の中でも最も有力な商家の一つでした。

松阪は江戸時代、「松阪商人」を輩出した商業の町でもあったのです。

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【土間:本居宣長旧宅】

しかし、宣長が家督を継ぐころには店も窮地に陥り破産寸前。
このため、宣長の将来を案じた母・勝は宣長を医師にする決心をします。

母の志を受けた宣長は23歳のとき京都へ上り、
28歳までの5年半の間に医学を修めるかたわら、
日本の古典文学についても勉強しました。

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【座敷:本居宣長旧宅】

姓を本居、名を宣長、字を春庵と改めたのもこのころで、
後年の業績の基礎はこの時期に築かれたといわれています。

宣長の業績については、「古事記伝」に代表される古事記研究や、
「源氏物語玉の小櫛」などの古典文学研究が有名ですが、
かく云う私自身は、敷居が高過ぎて解説書すら読んだ事がありません・・・。

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【「鈴屋」(2F書斎):本居宣長旧宅】

本居宣長旧宅は、彼が12歳から72歳で没するまで60年間を暮らした屋敷で、
明治42年(1909)に魚町(松阪市内中心部)から、保存のため現在地に移築されました。

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【魚町の本居宣長宅跡】

宣長が生まれ育った小津家のような「松阪商人」の始まりも、
蒲生氏郷の松阪城築城に遡る事が出来ます。

氏郷は築城と同時進行で、城下町の建設も積極的に取り組み、
城付近の大手町には松ヶ島城下の家蔵方を移住させ、
町の中央には近江日野の商人を、湊町には伊勢大湊の豪商を呼び寄せました。

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【資料館「松阪商人の館」】

これらの商人が商ったのが「松阪木綿」と呼ばれる綿織物。

松阪近郊を流れる櫛田川下流のデルタ地帯では、
古代より伊勢神宮奉納の神御衣を織る技術が伝承されており、
その織物技術の基盤の上に中世末以降はに綿花栽培が普及し、
当地は綿布の産地となっていました。

色褪せせず丈夫であった松阪木綿は、伊勢神宮参宮客によって全国に宣伝され、
また紀州藩の財源として保護奨励を受け、大ヒット商品となりました。

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【縁側:松阪商人の館】

その松阪木綿を江戸で売りさばいていたのが「松阪商人」です。

宣長の小津家や長谷川家など数々の豪商がいましたが、
その出世頭といえるのは、丸に井桁の三井家ではないでしょうか。

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【土間:松阪商人の館】

創業者・三井高利は寛文13年(1673)に江戸に初進出。(屋号は越後屋、現在の三越)

現金掛け値なし、反物切り売りなど、当時としてはモダンな商い手法を導入して繁盛し、
その資金で京都で両替商も開業、これが後世の三井家の事業の柱となってゆきます。

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【箱階段:松阪商人の館】

初代高利の死後、その遺産は子供たちの共有とされ、
三井一族の統括機関である「三井大元方」が設立されます。

三井家は「三井家憲」の下に固い結束を誇り、
この体制は幕末の激流をも乗り越え明治以降も連綿と続いてゆきます。

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【座敷:松阪商人の館】

太平洋戦争後の昭和22年(1947)の財閥解体を契機に、
同族支配による多角経営を特徴とする形態は解消となり、
現在の企業連合体としての三井グループが形作られました。

松阪城の東、市内中心部を流れる阪内川の南方に「三井家発祥の地」が今も残っていますが、
残念ながら内部は公開されていませんでした。

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【庭:松阪商人の館】

その代わりという訳ではないのでしょうが、「三井家発祥の地」から100m程のところに、
資料館「松阪商人の館」として、小津清左衛門の屋敷が公開されています。

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【凧:資料館「まどいのやかた見庵」】

太い柱と梁に支えられた広大な屋敷は風格十分。

三井家と当時の富豪番付で争ったと云われる小津家の繁栄を、
肌で感じられる施設でした。

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【資料館「まどいのやかた見庵」】

初めて訪れた松阪。

今でも城下町の面影を色濃く残した街並みは風情たっぷりで、
一人ブラブラ散歩しているだけで、本当に落ち着いた気分になれました。

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【松阪市内・松名瀬海岸付近】

また、街ぐるみで観光には力を入れているようで、
近鉄松阪駅前にある観光案内所には、市内マップや資料が充実していて、
訪れる人に大変親切な街であるという印象を受けました。

歴史があり、見所がいっぱいの松阪。
また、ふらっと行きたくなる、そんな街でした。

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2009年5月 3日 (日)

47番目の宿場

ご無沙汰しています。

更新の頻度が月イチと悪くなっておりますが、
よろしければお付き合い下さい。

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先月28日のお話。
三重県亀山市に行ってきました。

現在の亀山市は、某家電メーカーの「亀山モデル」が全国に知られているように、
どちらかというと新興工業地域というイメージですが、
元来は宿場町として大いに栄えた地域でした。

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【東海道47番目の宿駅「関宿」】

江戸期、現在の亀山市域には東海道46番目の宿場・亀山宿と、
47番目の宿場・関宿が置かれていました。

中でも関宿は東海道と伊勢別街道の分岐点にあたり、
参勤交代の大名行列やお伊勢参りの旅人で大変賑わいました。

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【関宿:中町付近】

東海道の宿場町の殆どが旧態をとどめていない中にあって、
関宿は江戸時代から明治初期に建てられた古い町屋が200軒以上現存しており、
往時の姿を色濃く残す地域として、毎年多くの歴史ファンが訪れています。

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【関宿:「旅人宿 石垣屋」】

関宿の範囲は東追分(ひがしのおいわけ)から西追分(にしのおいわけ)までの約1.8kmの区間。

この区間は、昭和59年(1984)には旧文部省から「重要伝統的建造物群保存地域」に、
また、昭和61年(1986)には旧建設省から「日本の道百選」にそれぞれ選定されており、
歴史的景観保護に力点を置いた町づくりが官民一体となって行われています。

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【関宿:木崎の町並み】

鈴鹿山脈の南山麓に位置する「関」が歴史に登場するのは、
7世紀に「鈴鹿の関」がこの地に置かれて以来のことです。

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【関宿:中町付近】

「鈴鹿の関」は、岐阜県の「不破関」(ふわのせき)、
福井県の「愛発関」(あらちのせき)とともに、
古代律令制で定められた「律令三関」(りつりょうさんげん)の1つで、
「関」という地名もそこから来たものだと思われます。

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【関まちなみ資料館】

「鈴鹿関」の設置年代は不明ですが、「日本書紀」にもその記述が認められ、
古代から畿内防衛の要衝として、重要な地域であったようです。

その後、慶長6年(1601)に徳川幕府が宿駅の制度を定めてからは、
先述したように、東海道屈指の宿場として大いに賑わいました。

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【関まちなみ資料館:土間】

天保14年(1843)の記録には、屋敷が632軒、本陣2軒、脇本陣2軒、
その他にも、旅籠が42軒、酒食店は99軒あったと記されています。

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【関まちなみ資料館:明治初期の自転車】

関宿の東口は東追分と呼ばれ、ここから東海道と伊勢別街道が分岐していました。

写真の鳥居は伊勢神宮を遙拝するためのもので、
20年に1度の伊勢神宮式年遷宮の際には、
内宮の宇治橋南詰の鳥居を移設するのが習わしとなっています。

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【東追分の鳥居】

鳥居の近くには、「これよりいせへ」「外宮まで15里」と刻まれた石の道標、
また、その脇にはお伊勢参りの旅人や大名行列を照らした常夜灯があり、
当時のままの姿で現代の旅人を迎えてくれます。

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【関神社】

東追分から街道を西へ進み、北へ少し入ったところには関神社があります。

7月下旬の二日間に執り行われる関神社の祭礼では、
絢爛豪華な曳山が町内を練り歩きます。

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【関まちなみ資料館:関神社曳山の見送り幕】

曳山は江戸期には16台あったそうですが、今でも4台が現役で活躍しています。

現在使われている「これ以上望めない」という意味の「関の山」という言葉は、
当地の曳山が余りに立派であったことから生まれた言葉だそうです。

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【関宿旅籠玉屋歴史資料館:講札】

関神社から街道へ戻り西へ進むと、
関宿屈指の旅籠であった「玉屋」の建物があります。

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【関宿旅籠玉屋歴史資料館:離れの座敷】

建物自体は亀山市の重要文化財として修復・保存され、
内部は日本初の旅籠資料館「関宿旅籠玉屋歴史資料館」として公開されています。

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【関宿旅籠玉屋歴史資料館:客室】

旅籠で使われていた調度品や道具の数々、庶民の旅に関係する歴史資料、
歌川広重の浮世絵などが豊富に展示されていました。

当時のままの貴重な資料から、江戸期の旅の様子を覗い知る事が出来ました。

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【関宿旅籠玉屋歴史資料館:店の間から見た旧東海道】

宿場のほぼ中央には、親しみを込めて「関の地蔵さん」と呼ばれる、
西国愛染十七霊場第10番札所「地蔵院」があります。

行基上人が、天平13年(741)に諸国に流行した天然痘から人々を救うため、
当地にお地蔵様を刻んで安置されたのが開基だと伝えられています。

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【地蔵院本堂】

日本最古と言われる地蔵菩薩坐像は、
「関の地蔵に振袖着せて 奈良の大仏婿に取ろ」
と歌われたほど、地元の人々から愛されているお地藏様です。

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【地蔵院本堂の額】

東追分から入ると、宿場の終点は西追分。
ここからは、東海道と大和・伊賀街道が分岐していました。

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【西追分】

大和・伊賀街道は鈴鹿峠を越え、伊賀上野を通り奈良に至る道。
奈良に向かう旅人は、西追分から鈴鹿峠を見上げ、
この先の道の険しさを想い、当地で身体を休めたことでしょう。

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【燕】

今回紹介したスポットの他にも、宿場内には見所がいっぱい。

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【和菓子の老舗「深川屋」】

資料好きの方には、先程紹介した「関宿旅籠玉屋歴史資料館」の他にも、
伝統的な町屋を保存公開している「関まちなみ資料館」があります。

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【ナガオ薬局跡「ギャラリー綾羽」】

また、その他にも創業370年を数える和菓子の老舗「深川屋」や、
築195年の薬局を改造したカフェ&アンティークの「ギャラリー綾羽」など、
女性に人気のスポットも多数。

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【関のお婆さん】

テーマパーク的な「町並み保存」ではなく、そこに人の暮らしを残しながら、
歴史的景観を維持してゆくのは、さぞや大変だろうと思います。

地元の方々の見識とご苦労に敬意を表したいと思います。

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2009年4月 6日 (月)

新天地より

ご無沙汰しております。

今春の人事異動でまたまた転勤になり、
旧任地高崎から、3月21日より新たな任地に移り住んでおります。

いつもの事ながら、自室のネット環境を整えるのに時間を要し、
引越し後15日目にして、やっと更新が出来るようになりました。

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【揖斐川河口付近】

今回の任地は桑名市。

中京地方の中心地・名古屋市から25km圏に位置し、
近年はベッドタウンとして宅地開発が進められている三重県北部の都市です。

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【揖斐長良大橋】

明治22年(1890)の市町村制導入以降、
三重県北部の幾多の町村の合併を経て、桑名市・多度町・長島町が成立。

現在の桑名市は、平成16年(2004)にはこの1市2町が合併し誕生しました。

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【ナガシマスパーランド】

世帯数53,423、総人口142,157は三重県下では5番目の規模(※1)。

金属・機械工業が盛んで、古くからの鋳物の産地として知られているほか、
純国産レジャーランドの雄「ナガシマスパーランド」や「なばなの里」など、
優れた観光資源を擁する観光都市の側面も併せ持っています。

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【絶叫マシン「ホワイトサイクロン」】

「くわな」の呼称は古く、漢字以前に遡ると言われており、
仮名では「久波奈」の字が当てられていました。

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【長島沖干潟】

由来は諸説あるようですが、
この地の開発の祖・桑名首(くわなのおびと)から来ているという説が有力です。

ちなみに、桑名首の祖神である天津彦根命は、
今でも桑名の鎮守として春日神社に祭られています。

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【蛤捕り】

「桑名」の文字が見られる1番古い文献は「日本書紀」。

天武元年(672)に起こった壬申の乱の際に、
大海人皇子が吉野から不破の関に向かう途上、
桑名郡に立ち寄ったと記されています。

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【長島沖を行く漁船】

その際、同行していた妃の菟野皇女は、
乱が終わるまでの約1月間を桑名で過ごしました。

そして、乱は終結。

勝利した大海人皇子は即位して天武天皇、
菟野皇女は皇后となります。

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【揖斐川岸:浜地蔵堂の常燈明台】

天武天皇は、壬申の乱で功績を上げた地方に寺院建立の許可を出したので、
桑名にも浄蓮寺(現在は廃寺:桑名市額田笹貝)が建てられました。

また、天平12年(740)には、聖武天皇が藤原広嗣の乱から逃れる途上で桑名に入り、
「石占の頓宮(いしうらのとんぐう)」に滞在されたという記録も残っています。

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【長良川河口堰】

室町期になると、桑名神社(現:春日神社)を中心に「十楽の津」と呼ばれる楽市が開かれるようになり、
桑名は堺・博多・大湊と並ぶ日本屈指の貿易都市として賑わいます。

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【九華公園(桑名城跡)の本多忠勝像】

その後、江戸期の慶長6年(1601)には、
57度もの合戦に出陣し、一度も傷を受けることなく戦い抜き、
後に徳川四天王と称されることになる本多忠勝が桑名城に入城。

桑名藩11万石の城下町としても更に発展してゆきます。

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【桑名城堀跡:06年5月撮影】

この当時桑名は、木曾・揖斐・長良の三川が合流する水運の要衝、
また、陸運では東海道42番目の宿駅として、
全国から物資が集まる流通の一大拠点となり、繁栄の極に達しました。

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【桑名城堀跡】

しかし、その後の桑名は度重なる不幸により、歴史の表舞台から姿を消します。

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【鈴鹿山脈に沈む夕日】

まずは、元禄14年(1701)と享保4年(1719)の2度の大火で城下町の殆どを消失。

更に幕末には、佐幕派一会桑体制(一橋慶喜・会津藩・桑名藩)の拠点と見なされ、
桑名城は明治政府によって徹底的に破壊されてしまいます。

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【揖斐川岸:住吉神社】

維新後は、廃藩置県によって桑名藩は桑名県となりましたが、
その後、近隣の県との合併によって安濃津県(現:三重県)となり、
桑名の町はその一部に加えられます。

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【揖斐川岸:ジョギングの女性】

その後、近代に入っても、昭和20年(1945)の太平洋戦争の戦火、
昭和34年(1959)の伊勢湾台風などで大被害を受け、
現在の桑名市街には昔日の面影はありません。

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【JR揖斐長良鉄橋】

この様に、近世以降の桑名の歴史は決して平穏なものではありませんでしたが、
前述のように、近年は名古屋のベットタウンとして賑わいを取り戻しつつあるようです。

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【揖斐川岸:桜】

今回は、桑名の町の成り立ちをざっと紹介しましたが、
着任して約2週間、ちょっと調べただけでも訪れたいスポットが目白押し。

近県の愛知や岐阜を併せると、何ぼ時間があっても足りまへん。
今回の転勤生活も退屈しないで済みそうです。

(※1) 三重県下で人口が最大の都市は四日市市で約30万人。
    続いて津市約29万人、鈴鹿市約19万人、松坂市約17万人となっています。

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2009年3月16日 (月)

さらば、上毛の国!

息子の大学合格発表があった10日に、実はもう一つ大きな事件がありました。

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【草津白根山・湯釜】

嫁さんと息子と私、3人で肩叩き合って、
「やったね!」「良かったね~」と喜び合っているところへ、
私の携帯に一本の電話がかかってきました。

液晶を見ると、勤める会社の人事部から。

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【草津温泉・湯棚】

「何やろ?休みの日に・・・」と思いながら電話に出ると、

担当者:「yufukiさん、今、大阪ですよね? 明日本社に来てもらえますか?」
私:「何で? 明日も休みを取ってるので、用件を言ってよ。」
担当者:「電話ではお伝えできないことです・・・」
私:「エーッ!それってひょっとして~~て・ん・き・ん~~」

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【八幡塚古墳】

次の日、本社に行ってみると、案の定、転勤の内示がありました。

前任地の岡山から、現任地の群馬に来てまだ1年半。
我が社の転勤サイクルの標準は2~3年。

あと半年は無いと思っていたので、不意を突かれてしまいました。

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【白衣大観音】

もうすぐ、春の真っ盛り。

昨春行けなかった、北関東の桜の名所をリストアップして、
「春よ来い♪早く来い♪」と、心待ちにしていたのに。

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【伊香保神社】

とはいえ、社命には逆らえないのがサラリーマンでございます。

少々心残りではありますが、次なる任地でも桜の名所は必ずあるはず。
そこで、撮りまくるしかありません。

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【雪を戴く浅間山】

これから少しの間は、転勤・転居のドタバタが続きますが、
単身赴任にも馴れましたので、早く落ち着けると思います。

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【桜咲く赤城山】

また、新天地で撮った写真は追々アップしてゆきますので、
その時はよろしくお願いします。

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【青葉繁る妙義山】

本当に短い間でしたが、群馬でもイイ思い出が沢山できました。

雄々しく聳える赤城・榛名・妙義の上毛三山。
滾々と湧き続ける草津・伊香保・四万のお湯。
古の暮らしを今に伝える旧跡・遺跡・古墳の数々。

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【紅葉の榛名湖】

岡山を去るときも、同じように思いましたが、
住めば都とはよく言ったもので、来る前の印象以上に素晴らしい所でした。

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【晩秋の四万川】

お仕舞に、当地に来て出逢った沢山の方々に感謝の意を表して、
次なる任地へ向いたいと思います。

さらば上毛の国!思い出を有り難う!

※ちなみに、次に赴く先は中京地方で、今月の末には着任します。
 ホームタウン大阪に少しは近づきますが、単身赴任は継続です。

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2009年3月13日 (金)

親バカの記

本日は親バカ日記です。

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【長男1歳半頃(と思う):大阪市旭区の淀川河川敷で。】

3月10日(火)は、国立大学の合格発表の日。

我が家の長男が、昨年は涙を飲んだ京都大学の入試に再挑戦していたので、
この日は仕事はお休みして、帰阪しておりました。

結果は見事に合格!

京都の発表会場には行かず、自宅PCでのネット確認であったのですが、
息子の番号を発見した瞬間は、モニターの前で奇声をあげて喜びに浸りました。

思えば、学習塾に通う事もなく、小・中・高と公立学校で過ごした息子に、
親が掛けた教育投資といえば、一年の浪人期間に払った予備校費用ぐらいのもの。

また、全くと言って良いほどの病気知らずで、
小学校6年間の欠席日数は1日だけで、中・高は皆勤賞、
歯医者にすら通った事がない程の健康体でありました。

何とも安上がりで、手のかからなかった息子に、
親バカとは思いますが、「よくやった!」と目一杯の称賛を送り、
今後の彼の大学生活が実りあるものとなるよう、心から祈りたいと思います。

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2009年3月 6日 (金)

花三昧

先月の27日(金)の事。
写真サークル「お散歩ネット」のお仲間のT氏から、
突然、携帯にメールがありました。

内容は「節分草を撮りに行きませんか?」とのお誘いで、
予定日は4日後の3月2日(月)。

幸いにも仕事の方は大した予定が無かったので、
急遽お休みを振り替えて御一緒させていただきました。

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【春の妖精・節分草②】

JR八高線の寄居駅までT氏に迎えに来ていただき、
向った先は埼玉県秩父郡小鹿野町両神の堂上地区。

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【春の妖精・節分草②】

節分草なるものの知識が全く無かったのですが、
ネットの植物図鑑で調べたところ、

『キンポウゲ科の球根植物で、本州の関東地方以西に分布。
高さ10センチほどの小さな多年生草本で、
2月から3月初ごろ直径1cmほどの花を咲かせる。
山地のブナ林など、落葉広葉樹林の林床に生え、
石灰岩地を好む傾向がある。』

とあり、図鑑の写真を見てみると、なんとも愛くるしい白い花。

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【春の妖精・節分草③】

小鹿野町は「町の花」として節分草の自生保護に力を入れているらしく、
堂上地区の自生地は日本一の規模だそうで、初めて見る「春の妖精」に期待は膨らむばかりでした。

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【春の妖精・節分草④】

寄居駅から1時間弱、9:30過ぎに堂上地区自生地「節分草園地」に到着しましたが、
もう、駐車スペースには車がイッパイ。

入園料300円を支払って園地の中に入ると、多くの方々が既に撮影をされていました。

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【春の妖精・節分草⑤】

結構な人出で、「世はやはり、写真ブームやなぁ」と妙に納得してしまいました。

節分草の方はというとほぼ満開状態で、ちょうど見頃の時期だったと思います。
お天気もよく、2時間程の間、たっぷり春の妖精と遊んでいただきました。

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【宝登山ロープウエイ山頂駅】

次なる目的地は、長瀞町の宝登山(標高497m)にある梅園「梅百花園」。

途中、道の駅「龍勢会館」で食事を済ませた後、
13:00前に宝登山ロープウエィの山麓駅に到着しました。

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【宝登山頂付近からの眺望】

秩父鉄道㈱が運営するこのロープウエイは、山頂駅までの距離832m(標高差236m)を約5分で結んでおり、
「もんきー号」と「ばんび号」という2台のゴンドラが、つるべ式に山麓駅と山頂駅を交互に行き交っています。

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【梅百花園の梅①】

「梅百花園」は、山頂駅のすぐ目の前。

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【梅百花園の梅②】

ここには、約170種・約470本の梅の木が植えられていて、
日本一品種数が多い梅園だそうです。

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【梅百花園の梅③】

梅の木のそれぞれには、品種の名前が書かれた札が下げられていましたが、
いつながら、写真を撮りながら品種名を控えておくということが出来ないので、
どの写真が何という品種かはサッパリわかりません。

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【梅百花園の梅④】

ここでは、約1半時間ほど撮影。
見頃というには少し早すぎたようですが、山頂からの眺望と早春の陽光を十分楽しみました。

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【梅百花園の梅⑤】

ロープウエイを降りT氏の車に戻ったのが、未だ14:00を回ったところ。

まだ時間があるということで、
皆野町にあるムクゲ自然公園に連れて行って頂く事になりました。

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【秩父紅①】

ムクゲ自然公園は、一つの小山をすっぽりと植物園にしたような自然公園で、
その名のとおり、夏には10万本のムクゲの花が咲くことで知られているとの事。

また、ムクゲの他にもツツジやアジサイ、
南山スミレなどが四季折々に楽しめるそうです。

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【秩父紅②】

この日のお目当ては、幻の福寿草といわれる「秩父紅(ちちぶべに)」。

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【秩父紅③】

従来種よりも赤みが強いこの品種は秩父地方の特産で、
約100年前に発見された突然変異株を増やしていったものだそうです。

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【福寿草・在来種①】

入園料500円はちょいと高めですが、帰りにはお茶や甘酒のサービスもあり、
これからの季節、また訪れたい公園でありました。

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【福寿草・在来種②】

撮影終了後、T氏に寄居駅まで送っていただき、
帰路に着いたのが17:00頃。

花撮り三昧の一日でした。

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【JR寄居駅】

丸一日、運転と案内役をしていただいたT氏、本当に有り難うございました。
また、誘っていただければ嬉しいです。

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