中世の面影~上州白井宿
先月の28日(月)に、かつては白井城(しろいじょう)の城下町として栄え、
その後も市場町として賑わった白井宿(しろいじゅく:現・群馬県渋川市)を訪ねました。
白井宿は、利根川と吾妻川の合流点の河岸段丘上に発達した集落。
古くは、10世紀に成立した百科事典「和名類聚抄」にもその名が見え、
群馬郡13郷の1つ、群庁の所在地「白衣郷」として記録された歴史ある街です。
中世になると、関東管領の山内上杉氏の重臣、長尾景仲が西方の丘陵上に白井城を築城します。
吾妻川に面して城郭、その東に武家屋敷と職人街、
丘陵下には町人・農民が配置され、城下町としての形が整いました。
白井城は他の北関東の城郭と同じように、
上杉・北条・武田各氏の抗争の波に揉まれた歴史を持っています。
天文15年(1546)の河越の夜戦で北条氏康に敗れた上杉憲政は、
一旦平井城(現・群馬県藤岡市)に逃れますが、天文21年(1552)には越後に亡命。
北関東で勢力を拡大した北条氏は、近隣の厩橋城(前橋城)や沼田城(現・群馬県沼田市)を手中にします。
しかし、白井城と箕輪城(現・群馬県高崎市)は北条方に従はず、
その後、上杉憲政から家督を継いだ越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の関東侵攻への足がかりとなりました。
謙信の死後、北条氏の再度の北進で白井城は一旦は北条方となりますが、
永禄13年(1570)の武田信玄の上州侵攻後は、真田幸隆の功により武田方の出城となります。
しかし、天正元年(1573)の信玄の死後には、北条方が再度奪回。
この間、城主である長尾氏は、上杉氏-武田氏-上杉氏-北条氏-滝川氏-北条氏と、
目まぐるしく主を変えました。
天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際には、北条方の北関東防衛の拠点に位置付けられましたが、
松井田城(現・群馬県安中市)を攻略した前田利家・上杉景勝から攻撃を受けると、
当時の城主・長尾政景はすぐに降伏を決断します。
北条氏に心底服従していない長尾氏が、戦意なく開城するのは当然の成り行きで、
この時を以て、白井城は戦国の城としての役目を終えました。
徳川家康が関東入りした後は、家康の命により徳川氏普代の本多氏が入城。
その後も、井伊氏や戸田氏、西尾氏など頻繁に城主が代わりましたが
元和9年(1623)、当時の城主・本多紀貞が後継ぎの無いまま病死したことにより廃城となりました。
廃城後、代官支配の地となった白井郷の住民は、
代官主導の下、中世の城下町の特色である短冊形の町割を活かし、半農・半商で経済を支えます。
沼田・中之条・渋川・前橋のほぼ中間点に位置し、沼田街道・草津街道・三国街道への接続がよく、
利根・吾妻両河の渡河点でもあったことから市場町として発展。
上之町・中之町・下之町の900mにおよぶ町並みが形成され、
五・十日の六斉市(ろくさいいち)が各町間で交互に開かれるようになります。
元禄13年(1700)時点で、造り酒屋がすでに5軒。
この頃には、文人墨客をはじめ、多くの旅人が往来するまでになっていました。
その他にも、露天の商いが中心ではありましたが、
市で取り扱われた商品は馬草・薪・材木をはじめ、
麻・繭糸・木綿・真綿・煙草・塩・茶・水油・米麦・豆など多岐にわたり、
その商圏は3郡24ヶ村に及んでいたそうです。
このように、成立過程を見てゆくと白井郷は宿場町ではありません。
しかし、街道の中央には白井堰と呼ばれる用水路が流れ、
両脇を通る街道沿いに商家が立ち並ぶ街並みは、宿場町の特徴と合致し、
その集落形態から「白井宿」と呼ばれるようになったのだそうです。
江戸末期と明治に発生した大火により、古い建物の多くは消失していますが、
わずかに残る土蔵や点在する井戸などが、往時の面影を今に伝えています。
近年になって、街並みの保存と整備も進められているようで、
電線は全て地中化され、堰の両岸には約100本の八重桜が植えられています。
この日も散り始めではありましたが、見事な花を咲かせていました。
この日は、平日の午前中ということもあってか訪れる人は疎ら。
聞けば、前日28日(日)は、この街のビックイベント「桜祭り」で、
武者行列が街を練り歩き、結構な賑わいであったとの事。
「武者行列」を見逃したのは残念ですが、落ち着いた佇まいを取り戻した白井宿で、
のんびりと良い時間が過ごせました。
<付記>
現在、白井城跡の二の丸・三の丸部分は殆ど農地化され、
本丸の一部も農地とし利用されていますが、
この日、たまたま本丸付近で農作業中の斉藤さんにお話をうかがうことが出来ました。
斉藤さんは、白井城城主・長尾氏につかえた斉藤氏の子孫。
(美濃の戦国大名斉藤道三の系譜だそう)
斉藤さんが子供の頃(60年前)には、本丸一帯は鬱蒼とした木々に覆われ、
近寄るのも不気味な城山であったとの事。
しかし、土塁や空堀はもっと良い状態で残っていたそうで、
大雨の度に坂東太郎が暴れだし、ずいぶんと崩れてしまったようです。
その他にも、大地主だった斉藤家が遭遇したGHQによる農地解放のお話や、
名産品のこんにゃく芋の相場や群馬の揚水力発電の事情など、
ここには記していませんが、興味深いお話を沢山聞かせていただきました。
おまけに、私の単身赴任を聞くと「野菜を食べにゃイカン」と、
畑から長ネギを引っこ抜き、菜の花を摘んで帰り際に持たせてくれました。
普段はあまり自炊はしないのですが、
この日の夕飯は長ネギたっぷりの味噌汁と菜の花の御浸しを自作。
おいしく頂きました。
斉藤さん、有難うございました。
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